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【エデルガルトSide】
「エディ、起きろ。エディ」
「…ん、」
肩を揺すられて、少し重たい瞼を上げると好みの顔—もといメルキゼデク様が私を見下ろしていました。近かったこともありギョッとして、何度か口を開閉させているとメルキゼデク様は、私の髪を手櫛で整え始めたのです。
「お、お待ちになってくださいませ。何を、何をなさって」
「何って髪が絡まってたから。手櫛で悪いが」
「あわ…」
「あわって…。まあ、あれだ。馬車を手配したから、城を出るぞ」
「ばしゃ?あぁ、でしたら明日は何処の集合に?」
私の言葉に、メルキゼデク様は少しだけ首を傾けて『何言ってんだこいつ』と言わんばかりの表情を浮かべました。私の霞がかった寝ぼけた頭は漸く澄んできて、どうやら気絶した後しっかりとお昼寝をしたということを理解しました。それで、馬車をメルキゼデク様が起こしてくださった。で、この表情とはこれ如何に。
「な、なんですかその顔は…」
「俺はこの離宮に来て一泊する予定だったのは、覚えてるか?」
「…承諾した覚えはございませんが、覚えてます」
「君の承諾は得れなくても、マリウスと宰相の許可は出たぞ?」
「はっ!?」
ほら、とメルキゼデク様に指さされた鞄を見ました。着替えと装飾品がいくつか入っています。
「だ、誰がこれを」
「君が気を失った後に、結婚の書類と一緒にマリウスが持って来た。つまり、ご家族の同意は得たということだな」
「お、お兄様…お父様まで」
「離宮の使える部屋は此処だけだからな、俺は君を持ち帰ることにして馬車を用意したわけだ」
「持ち帰、る…?私の家に帰すのではなくて、」
「そう。俺の屋敷に君を連れて帰る」
だめです、これ以上口を開いても堂々巡りをしてしまうだけです。メルキゼデク様は頑として譲る気はないと見ましたし、ここは私の妥協しかないのでしょうが。未婚ですよ?今日結婚するって決めたばっかりの相手ですよ?そんな、駆け足あります?
「エディ。どうか“うん”と頷いてくれないか?」
「…ひぇぇ」
メルキゼデク様の形の良い耳に掛けられていた黒髪がさらりと落ちて、蒼の目と黒髪の神がかりな美しさが私の目を焼いたかと思いました。両手で目を覆い隠して、私は考えます。茹りつつある頭で何を考えるというのか、いえいえ考えなければならないのです。此処で、甘んじて連れ帰られた場合の私の使命とは…?
「エディ。エデルガルト。俺はこのグリモワールを読んだから、今度は君が俺の屋敷で俺のことを知ってくれ」
「はわわわわ」
本当に『はわわわ』という言葉しか出ません。人間、誰しも推しに弱いのです。私の好みドンピシャリなメルキゼデク様のお言葉を、どうして否定できましょうか。否定したところで言い包められそうな気もしますが。それはさておき、私は目から手を離して今度は耳を塞いでみます。
エ デ ル ガ ル ト?
形のいい唇から紡がれる私の名前が、なんと淫靡なことか。うっわ、無理です。これは、耳を塞いでも無理です。目を閉じて情報すべてを除外してみますが、メルキゼデク様の魔力が私の肌を舐め上げるというか、まとわりついて来るのです。
「エディ、俺を無視しないで」
耳を塞いでいた私の手を取られたことに驚いて目を開けると、メルキゼデク様は下から私を覗き込んできていました。強面のガタイのいい男性が、なんとまあ。無理です。顔が良すぎる。
もう一回来とく?と言わんばかりに遠方から暗闇が手招きしていますが、さすがに此処で再度気絶をした場合、とんでもなくメルキゼデク様に失礼なので私はしっかりと意識をもってメルキゼデク様の綺麗なお顔を見ました。
「メ、メルキゼデク様」
「やっと俺を見たな。口づけしても?」
「…は?」
どんどん近づいて来るメルキゼデク様の綺麗なご尊顔。ご尊顔です。綺麗な顔過ぎて私は身じろぎひとつできないまま、唇に当たった冷たい感触に思考すべてが停止しました。触れ合うだけの口づけ、だと思っていたのですが。離れる様子がありません。何がメルキゼデク様の琴線に触れたのでしょうか。
「エディ、くちあけて」
「え…?」
一瞬だけ唇が離れ、私が問い直そうとした瞬間を狙って、またメルキゼデク様の唇が押し付けられました。な、なんて?え?
ぬるりとした熱くて肉厚なメルキゼデク様の舌が、私の唇を撫で、口の中に入り込んできました。え、初めてなんですけど。初めてがこれって普通なんですか?過去をあさっても、こんなのは記憶にありません。良い歳した大人が何を、と思われそうですが普通の恋愛に縁がなかった私からすれば未知の世界です。
「…っふぁ、」
歯列をなぞり、上あごを擽るように撫で上げられ、メルキゼデク様は舌を操り好き放題に荒らしていきます。ぐちゅ、と水気の音が響いて背中がぞわぞわしました。だめです。むりです。意識飛ばしたい。
「は、」
「んっっ」
メルキゼデク様は時折私の舌を噛み、唇さえも甘噛みしてきました。これは、とんでもねぇ男です。感じたこともない何かが下腹部を渦巻き、その表現し難い気持ち悪さを開放することもできず、力の入らない手を伸ばして、私はメルキゼデク様に縋るように肩口を掴みました。
「エディ、鼻で息して」
「…ひぅ、」
メルキゼデク様の大きな掌が腰を撫で、メルキゼデク様の形のいい通った鼻と私の鼻がちょんと重なります。瞼を持ち上げれば、熱を帯びた蒼い目が私を見据えていました。ひぇぇぇ。
「気ぃ失うなよ」
なら、もうやめてくださいませ。そう止めようと開いた口は、またメルキゼデク様に食べられてしまいました。完敗です。白旗を振ります。ですから、止めてくださいませ。
「ンッ」
私の舌を吸い、ねっとりと口内を舐め尽くすメルキゼデク様の唇を噛むことで、どうにか暴挙を止めることができました。離れ際、メルキゼデク様は私の唇を舐めて、そのあとご自分の唇を舐めて。ああ、代わりに何かを失った気がしますが、それは追及しないでおきましょう。
「め、メルキゼデク様!わ、わたくし、初めてでこんなっ」
「初めて」
「繰り返さないでくださいませ!こんなっ、恥ずかしい…」
乱れた呼吸も、顎を伝うどちらかともつかない唾液も、すべてが私の羞恥を煽ってきます。本当に、もう無理です。恥ずかしさで憤死します。
「エディのはじめてか。名誉なことだな」
「なっ、何が名誉ですか!!」
「好いた女の初めてをもらう男はみんな名誉だと思ってるぞ」
本当にもう何も言うことができませんでした。魔導書の魔女として、幾たびの記憶を持ちますがこれはさすがに初めての体験です。今生は一体どうしたというのでしょうか。徳でも積んだんですっけ?
「そろそろ行くか。立てるか?」
「た、立てます!」
「…立ててるが、随分と足元ふらついてるな」
意地で立った私ですが、一歩踏み出せば上半身がふらついてしまいます。なんということでしょうか。見かねたのでしょう、苦笑いするメルキゼデク様が私の腰に腕を回し支えてくれました。嗚呼、羞恥で足元が覚束ない私が転ばないようにしてくださっている、ということにしておきましょう。
誰ともすれ違うことなく、門の前に用意されていたフォークナー家の紋章が入った馬車に乗り込みました。流石、公爵家。いえ、うちの馬車と乗り心地は大差ないのでしょうが余りにも内装にまで意匠が凝っています。派手、華美というわけではないのですが、すごいです。語彙力がなくなりました。
私の向かいに座ったメルキゼデク様の手には、当然のようにグリモワールがあります。良いんですけど。良いんですけど、なんで手放さないのでしょうか。国立図書館に戻してもいいのですが、まだ読むつもりあるんですかね…。
そういえば、フォークナー家はメルキゼデク様の母君様の実家だったでしょうか。いえ、外から嫁いできたような気がします。フォークナー家なら王族と結婚しても、身分差が生まれないということで養女に入られたんでしたっけ?いやですねぇ、覚えが薄い。私が貴族社会に馴染もうとしなかった結果なので仕方ないですが、メルキゼデク様と結婚するなら一から覚え直さなければなりません。
記憶を掘り起こそうと頑張ってみますが今生の歴史よりも、過去のフォークナー家が出てくるので、この辺りで考えるのはやめておきましょう。フォークナー家、そうフォークナー家。かつて、鎧の子との婚姻を望み、竜族の国と一悶着を起こしかけたバカ息子が居た一族です。
ベールマー家よりも家の歴史は古いので、王族とは建国前からのお付き合いがあったんですよね。鎧の子を望んだのは驕った結果です。没落することなく、今代まで築いているのはバカ息子以外が優秀だったからに違いありません。もちろん、魔導書の魔女とも関係がありましたが。あの男は、本当にいい男だったと思います。
養子に入ったというメルキゼデク様は、どちらかと言うと王族の血が濃そうです。顔の造形にしても、代々本当に私の心臓を射抜いてきます。ソリが合わなかったギルトロメアも、好みの顔ではありました。顔だけですが。
「エディ、そんなに俺の顔を見てどうした?」
「えっ」
「無意識か?」
くつりと笑うメルキゼデク様に、私はメルキゼデク様をガン見していたことに気付きました。顔が好みなんです。物陰から隠れて眺めたいほどに。直で眺めると目が焼けます。つまり、今の私の目は焼けているんですね。何を言ってるんでしょう、私は。
「全部ではないが最初の数代分のグリモワールを読んだんだが、この国に生まれる確率が高いんだな」
「え、あぁ、そうです。その時の運と言ってしまえばあれなのですが、そうですね、比較的この国によく生れ落ち、外に出て、生涯を終える感じでした。ギルトロメアの時代は、飛ばされた先の辺境で当時の騎士団と国防を張ってましたが」
「運か。理由もないのか?」
「魔導書の魔女は、血の継承を行わず魂で記憶や能力を継承します。どんなに魔導書の魔女の血を取り込もうとしても、それは無駄な足掻きです。この国に生れ落ちることが多かったのは、恐らく偶然で、理由をつけるとするなら――この国は最期まで魔女を生かそうとしてくれたから、ですかね」
「生かす?」
「歴代の魔女たちはみな、他者によって殺されています。中には拷問の末に死んだ時代もあります。けれど、この国は異端であった魔女に寛容だったのです。ギルトロメアにしろ、その前の王にしろ。口先はどんなに魔女を突き離そうとしても、生きることを許し、それを願ってくれた」
がたごとがたごと。揺れる馬車の中で、私は目を閉じながら言葉を紡いでいきました。私にとっては、この国がもっとも生きやすい国なのです。隣国に生まれ落ちた時は、国防の結界の礎として磔になり、血を望んだ男とまぐわい、更にその先の隣国では何人もの男に囲われ薬を使われ死んだことも。
「ギルトロメアの時代の魔女は、東の国に連れ去られ投獄されました。謂れもない罪だとあのギルトロメアが嘆願を出し、魔女の救出に人員を裂いてくださったのです。しかし、ギルトロメアの言葉が届かないうちに魔女は斬首刑となり死んだのです」
「なんてことを」
「平民の生まれであった魔女は、本来ならギルトロメアの御前に出ることは許されていませんでした。しかし、盾の子が魔女を願ったことから、魔女と秘宝と国王という関係が生まれました。それ以前に魔女は平民だったので、あの嘆願は本当にありえないことだった。魔女になぞ心を裂く必要などなかったというのに」
冷え切った指先を絡めながら、私は当時のことを思い出します。最期、駆けつけてきてくれた騎士団の方々はよく知る面々で。辺境で共に酒を酌み交わした彼らの、目を見張り上げられた怒号を私は昨日のように思い出せるのです。他の時代でも、この国の顔見知りたちがが他者に殺される魔女を見て咆哮を上げていたこともありました。
「エディ」
「その時の魔女の唯一の後悔は、ギルトロメアの賢王と呼ばれてきた功績に傷をつけてしまったことだけで」
「…エディはギルトロメア王を好いていたのか?」
「いいえ。それはないですわ。ソリが合わなかったので、顔を合わすたびに盾の子を挟んで喧嘩ばかりしていました。今でも王城の東棟三階に大きな抉れた傷が残っているかと思いますが、あれはギルトロメアがつけたやつで。あの馬鹿王は修繕しなかったのだなあ、と今でも東棟を見るたびに思います」
「三階のあれは、ギルトロメア王が?」
「盾の子が身籠ったと聞いて、ブチ切れた私がギルトロメアの顔に思いっきり平手打ちをかましたんですの。それにブチ切れたギルトロメアが。記念か何かと勘違いして残したんでしょうか」
「ギルトロメア王に平手打ち」
「とどのつまりこの国だけは私を異端として扱うことがなく、そして血を求めることがなかった。だから、私はよくこの国に生れ落ちるのでしょう。生きて秘宝に巡り合うために。ま、こればかりは神の思し召しですけどね」
目を閉じているのでメルキゼデク様の表情をお伺いすることはできません。ですが、今はそれが良かったとさえ思います。
「怒らなくてもいいのです、メルキゼデク様」
「…なぜ、怒りすらも持たせてくれん」
「それが魔導書の魔女が紡いできた歴史ですから。何時の時代のフォークナー家も、変わりませんね。魔導書の魔女の歴史に怒りを抱いて、嘆いてくれる」
「フォークナー家は、君と共にあったことが?」
「いつも平民で生まれる魔女の後見人をフォークナー公爵家がしてくださっていて。『国王のためだ』と言いながら、私の背を守ってくださっていた。そしてフォークナー家の男たちは、いつも外に連れ出され殺された魔女の亡骸をこの国に連れ戻してくださった。そして、喪に服してくれたのです」
ギルトロメアの時も、当時のフォークナー家当主が東の国まで私を迎えに来てくれた。物言わぬ、首と身体が離れた魔女を抱きしめたあと棺に納め、辺境の騎士団と共に帰途に就いたという。その時は、辺境の騎士団も魔女の喪に服し――いつの間にか、辺境の騎士団だけ黒い騎士服を身に纏うようになったという。鎧ですら黒に染めたものを使うのだとか。喪に服し過ぎではないの?
「…その、連れ戻したという魔女の亡骸は屋敷の裏にある森の奥の礼拝堂にある」
「あら。ずっと受け継いでくださってるのね。燃やし尽くしてくださっていいのに」
「はじめて、森の奥の礼拝堂について聞かされた時馬鹿げていると思ったんだ。そんなものを、と」
「ええ」
「だが、君から話を聞いて、あの愚かな俺を殴りたくなった。歴代のフォークナー家当主は、ずっと魔導書の魔女に恋焦がれていたから」
「…え?ちょっとお待ちになって、メルキゼデク様。話が逸れてますわ。グリモワールにも書いてあったでしょう?」
「逸れとらんし、そこまで読み込んでない。魔導書の魔女に関わって来たフォークナー家の当主の日記はずっと残っていて、俺が養子に入った時に読まされたことがある。馬鹿げてると思っていたから、あんまり読んでなかったが、ただひとつ覚えていることがある。魔女は愛を知らないから、愛を受け取らないと。——あれは、君のことだったのか」
そんなこと、語り継がなくてもいいのに。悲痛な声音で、今にも泣き始めそうな子供の用な声音でメルキゼデク様は言った。
「エディ、起きろ。エディ」
「…ん、」
肩を揺すられて、少し重たい瞼を上げると好みの顔—もといメルキゼデク様が私を見下ろしていました。近かったこともありギョッとして、何度か口を開閉させているとメルキゼデク様は、私の髪を手櫛で整え始めたのです。
「お、お待ちになってくださいませ。何を、何をなさって」
「何って髪が絡まってたから。手櫛で悪いが」
「あわ…」
「あわって…。まあ、あれだ。馬車を手配したから、城を出るぞ」
「ばしゃ?あぁ、でしたら明日は何処の集合に?」
私の言葉に、メルキゼデク様は少しだけ首を傾けて『何言ってんだこいつ』と言わんばかりの表情を浮かべました。私の霞がかった寝ぼけた頭は漸く澄んできて、どうやら気絶した後しっかりとお昼寝をしたということを理解しました。それで、馬車をメルキゼデク様が起こしてくださった。で、この表情とはこれ如何に。
「な、なんですかその顔は…」
「俺はこの離宮に来て一泊する予定だったのは、覚えてるか?」
「…承諾した覚えはございませんが、覚えてます」
「君の承諾は得れなくても、マリウスと宰相の許可は出たぞ?」
「はっ!?」
ほら、とメルキゼデク様に指さされた鞄を見ました。着替えと装飾品がいくつか入っています。
「だ、誰がこれを」
「君が気を失った後に、結婚の書類と一緒にマリウスが持って来た。つまり、ご家族の同意は得たということだな」
「お、お兄様…お父様まで」
「離宮の使える部屋は此処だけだからな、俺は君を持ち帰ることにして馬車を用意したわけだ」
「持ち帰、る…?私の家に帰すのではなくて、」
「そう。俺の屋敷に君を連れて帰る」
だめです、これ以上口を開いても堂々巡りをしてしまうだけです。メルキゼデク様は頑として譲る気はないと見ましたし、ここは私の妥協しかないのでしょうが。未婚ですよ?今日結婚するって決めたばっかりの相手ですよ?そんな、駆け足あります?
「エディ。どうか“うん”と頷いてくれないか?」
「…ひぇぇ」
メルキゼデク様の形の良い耳に掛けられていた黒髪がさらりと落ちて、蒼の目と黒髪の神がかりな美しさが私の目を焼いたかと思いました。両手で目を覆い隠して、私は考えます。茹りつつある頭で何を考えるというのか、いえいえ考えなければならないのです。此処で、甘んじて連れ帰られた場合の私の使命とは…?
「エディ。エデルガルト。俺はこのグリモワールを読んだから、今度は君が俺の屋敷で俺のことを知ってくれ」
「はわわわわ」
本当に『はわわわ』という言葉しか出ません。人間、誰しも推しに弱いのです。私の好みドンピシャリなメルキゼデク様のお言葉を、どうして否定できましょうか。否定したところで言い包められそうな気もしますが。それはさておき、私は目から手を離して今度は耳を塞いでみます。
エ デ ル ガ ル ト?
形のいい唇から紡がれる私の名前が、なんと淫靡なことか。うっわ、無理です。これは、耳を塞いでも無理です。目を閉じて情報すべてを除外してみますが、メルキゼデク様の魔力が私の肌を舐め上げるというか、まとわりついて来るのです。
「エディ、俺を無視しないで」
耳を塞いでいた私の手を取られたことに驚いて目を開けると、メルキゼデク様は下から私を覗き込んできていました。強面のガタイのいい男性が、なんとまあ。無理です。顔が良すぎる。
もう一回来とく?と言わんばかりに遠方から暗闇が手招きしていますが、さすがに此処で再度気絶をした場合、とんでもなくメルキゼデク様に失礼なので私はしっかりと意識をもってメルキゼデク様の綺麗なお顔を見ました。
「メ、メルキゼデク様」
「やっと俺を見たな。口づけしても?」
「…は?」
どんどん近づいて来るメルキゼデク様の綺麗なご尊顔。ご尊顔です。綺麗な顔過ぎて私は身じろぎひとつできないまま、唇に当たった冷たい感触に思考すべてが停止しました。触れ合うだけの口づけ、だと思っていたのですが。離れる様子がありません。何がメルキゼデク様の琴線に触れたのでしょうか。
「エディ、くちあけて」
「え…?」
一瞬だけ唇が離れ、私が問い直そうとした瞬間を狙って、またメルキゼデク様の唇が押し付けられました。な、なんて?え?
ぬるりとした熱くて肉厚なメルキゼデク様の舌が、私の唇を撫で、口の中に入り込んできました。え、初めてなんですけど。初めてがこれって普通なんですか?過去をあさっても、こんなのは記憶にありません。良い歳した大人が何を、と思われそうですが普通の恋愛に縁がなかった私からすれば未知の世界です。
「…っふぁ、」
歯列をなぞり、上あごを擽るように撫で上げられ、メルキゼデク様は舌を操り好き放題に荒らしていきます。ぐちゅ、と水気の音が響いて背中がぞわぞわしました。だめです。むりです。意識飛ばしたい。
「は、」
「んっっ」
メルキゼデク様は時折私の舌を噛み、唇さえも甘噛みしてきました。これは、とんでもねぇ男です。感じたこともない何かが下腹部を渦巻き、その表現し難い気持ち悪さを開放することもできず、力の入らない手を伸ばして、私はメルキゼデク様に縋るように肩口を掴みました。
「エディ、鼻で息して」
「…ひぅ、」
メルキゼデク様の大きな掌が腰を撫で、メルキゼデク様の形のいい通った鼻と私の鼻がちょんと重なります。瞼を持ち上げれば、熱を帯びた蒼い目が私を見据えていました。ひぇぇぇ。
「気ぃ失うなよ」
なら、もうやめてくださいませ。そう止めようと開いた口は、またメルキゼデク様に食べられてしまいました。完敗です。白旗を振ります。ですから、止めてくださいませ。
「ンッ」
私の舌を吸い、ねっとりと口内を舐め尽くすメルキゼデク様の唇を噛むことで、どうにか暴挙を止めることができました。離れ際、メルキゼデク様は私の唇を舐めて、そのあとご自分の唇を舐めて。ああ、代わりに何かを失った気がしますが、それは追及しないでおきましょう。
「め、メルキゼデク様!わ、わたくし、初めてでこんなっ」
「初めて」
「繰り返さないでくださいませ!こんなっ、恥ずかしい…」
乱れた呼吸も、顎を伝うどちらかともつかない唾液も、すべてが私の羞恥を煽ってきます。本当に、もう無理です。恥ずかしさで憤死します。
「エディのはじめてか。名誉なことだな」
「なっ、何が名誉ですか!!」
「好いた女の初めてをもらう男はみんな名誉だと思ってるぞ」
本当にもう何も言うことができませんでした。魔導書の魔女として、幾たびの記憶を持ちますがこれはさすがに初めての体験です。今生は一体どうしたというのでしょうか。徳でも積んだんですっけ?
「そろそろ行くか。立てるか?」
「た、立てます!」
「…立ててるが、随分と足元ふらついてるな」
意地で立った私ですが、一歩踏み出せば上半身がふらついてしまいます。なんということでしょうか。見かねたのでしょう、苦笑いするメルキゼデク様が私の腰に腕を回し支えてくれました。嗚呼、羞恥で足元が覚束ない私が転ばないようにしてくださっている、ということにしておきましょう。
誰ともすれ違うことなく、門の前に用意されていたフォークナー家の紋章が入った馬車に乗り込みました。流石、公爵家。いえ、うちの馬車と乗り心地は大差ないのでしょうが余りにも内装にまで意匠が凝っています。派手、華美というわけではないのですが、すごいです。語彙力がなくなりました。
私の向かいに座ったメルキゼデク様の手には、当然のようにグリモワールがあります。良いんですけど。良いんですけど、なんで手放さないのでしょうか。国立図書館に戻してもいいのですが、まだ読むつもりあるんですかね…。
そういえば、フォークナー家はメルキゼデク様の母君様の実家だったでしょうか。いえ、外から嫁いできたような気がします。フォークナー家なら王族と結婚しても、身分差が生まれないということで養女に入られたんでしたっけ?いやですねぇ、覚えが薄い。私が貴族社会に馴染もうとしなかった結果なので仕方ないですが、メルキゼデク様と結婚するなら一から覚え直さなければなりません。
記憶を掘り起こそうと頑張ってみますが今生の歴史よりも、過去のフォークナー家が出てくるので、この辺りで考えるのはやめておきましょう。フォークナー家、そうフォークナー家。かつて、鎧の子との婚姻を望み、竜族の国と一悶着を起こしかけたバカ息子が居た一族です。
ベールマー家よりも家の歴史は古いので、王族とは建国前からのお付き合いがあったんですよね。鎧の子を望んだのは驕った結果です。没落することなく、今代まで築いているのはバカ息子以外が優秀だったからに違いありません。もちろん、魔導書の魔女とも関係がありましたが。あの男は、本当にいい男だったと思います。
養子に入ったというメルキゼデク様は、どちらかと言うと王族の血が濃そうです。顔の造形にしても、代々本当に私の心臓を射抜いてきます。ソリが合わなかったギルトロメアも、好みの顔ではありました。顔だけですが。
「エディ、そんなに俺の顔を見てどうした?」
「えっ」
「無意識か?」
くつりと笑うメルキゼデク様に、私はメルキゼデク様をガン見していたことに気付きました。顔が好みなんです。物陰から隠れて眺めたいほどに。直で眺めると目が焼けます。つまり、今の私の目は焼けているんですね。何を言ってるんでしょう、私は。
「全部ではないが最初の数代分のグリモワールを読んだんだが、この国に生まれる確率が高いんだな」
「え、あぁ、そうです。その時の運と言ってしまえばあれなのですが、そうですね、比較的この国によく生れ落ち、外に出て、生涯を終える感じでした。ギルトロメアの時代は、飛ばされた先の辺境で当時の騎士団と国防を張ってましたが」
「運か。理由もないのか?」
「魔導書の魔女は、血の継承を行わず魂で記憶や能力を継承します。どんなに魔導書の魔女の血を取り込もうとしても、それは無駄な足掻きです。この国に生れ落ちることが多かったのは、恐らく偶然で、理由をつけるとするなら――この国は最期まで魔女を生かそうとしてくれたから、ですかね」
「生かす?」
「歴代の魔女たちはみな、他者によって殺されています。中には拷問の末に死んだ時代もあります。けれど、この国は異端であった魔女に寛容だったのです。ギルトロメアにしろ、その前の王にしろ。口先はどんなに魔女を突き離そうとしても、生きることを許し、それを願ってくれた」
がたごとがたごと。揺れる馬車の中で、私は目を閉じながら言葉を紡いでいきました。私にとっては、この国がもっとも生きやすい国なのです。隣国に生まれ落ちた時は、国防の結界の礎として磔になり、血を望んだ男とまぐわい、更にその先の隣国では何人もの男に囲われ薬を使われ死んだことも。
「ギルトロメアの時代の魔女は、東の国に連れ去られ投獄されました。謂れもない罪だとあのギルトロメアが嘆願を出し、魔女の救出に人員を裂いてくださったのです。しかし、ギルトロメアの言葉が届かないうちに魔女は斬首刑となり死んだのです」
「なんてことを」
「平民の生まれであった魔女は、本来ならギルトロメアの御前に出ることは許されていませんでした。しかし、盾の子が魔女を願ったことから、魔女と秘宝と国王という関係が生まれました。それ以前に魔女は平民だったので、あの嘆願は本当にありえないことだった。魔女になぞ心を裂く必要などなかったというのに」
冷え切った指先を絡めながら、私は当時のことを思い出します。最期、駆けつけてきてくれた騎士団の方々はよく知る面々で。辺境で共に酒を酌み交わした彼らの、目を見張り上げられた怒号を私は昨日のように思い出せるのです。他の時代でも、この国の顔見知りたちがが他者に殺される魔女を見て咆哮を上げていたこともありました。
「エディ」
「その時の魔女の唯一の後悔は、ギルトロメアの賢王と呼ばれてきた功績に傷をつけてしまったことだけで」
「…エディはギルトロメア王を好いていたのか?」
「いいえ。それはないですわ。ソリが合わなかったので、顔を合わすたびに盾の子を挟んで喧嘩ばかりしていました。今でも王城の東棟三階に大きな抉れた傷が残っているかと思いますが、あれはギルトロメアがつけたやつで。あの馬鹿王は修繕しなかったのだなあ、と今でも東棟を見るたびに思います」
「三階のあれは、ギルトロメア王が?」
「盾の子が身籠ったと聞いて、ブチ切れた私がギルトロメアの顔に思いっきり平手打ちをかましたんですの。それにブチ切れたギルトロメアが。記念か何かと勘違いして残したんでしょうか」
「ギルトロメア王に平手打ち」
「とどのつまりこの国だけは私を異端として扱うことがなく、そして血を求めることがなかった。だから、私はよくこの国に生れ落ちるのでしょう。生きて秘宝に巡り合うために。ま、こればかりは神の思し召しですけどね」
目を閉じているのでメルキゼデク様の表情をお伺いすることはできません。ですが、今はそれが良かったとさえ思います。
「怒らなくてもいいのです、メルキゼデク様」
「…なぜ、怒りすらも持たせてくれん」
「それが魔導書の魔女が紡いできた歴史ですから。何時の時代のフォークナー家も、変わりませんね。魔導書の魔女の歴史に怒りを抱いて、嘆いてくれる」
「フォークナー家は、君と共にあったことが?」
「いつも平民で生まれる魔女の後見人をフォークナー公爵家がしてくださっていて。『国王のためだ』と言いながら、私の背を守ってくださっていた。そしてフォークナー家の男たちは、いつも外に連れ出され殺された魔女の亡骸をこの国に連れ戻してくださった。そして、喪に服してくれたのです」
ギルトロメアの時も、当時のフォークナー家当主が東の国まで私を迎えに来てくれた。物言わぬ、首と身体が離れた魔女を抱きしめたあと棺に納め、辺境の騎士団と共に帰途に就いたという。その時は、辺境の騎士団も魔女の喪に服し――いつの間にか、辺境の騎士団だけ黒い騎士服を身に纏うようになったという。鎧ですら黒に染めたものを使うのだとか。喪に服し過ぎではないの?
「…その、連れ戻したという魔女の亡骸は屋敷の裏にある森の奥の礼拝堂にある」
「あら。ずっと受け継いでくださってるのね。燃やし尽くしてくださっていいのに」
「はじめて、森の奥の礼拝堂について聞かされた時馬鹿げていると思ったんだ。そんなものを、と」
「ええ」
「だが、君から話を聞いて、あの愚かな俺を殴りたくなった。歴代のフォークナー家当主は、ずっと魔導書の魔女に恋焦がれていたから」
「…え?ちょっとお待ちになって、メルキゼデク様。話が逸れてますわ。グリモワールにも書いてあったでしょう?」
「逸れとらんし、そこまで読み込んでない。魔導書の魔女に関わって来たフォークナー家の当主の日記はずっと残っていて、俺が養子に入った時に読まされたことがある。馬鹿げてると思っていたから、あんまり読んでなかったが、ただひとつ覚えていることがある。魔女は愛を知らないから、愛を受け取らないと。——あれは、君のことだったのか」
そんなこと、語り継がなくてもいいのに。悲痛な声音で、今にも泣き始めそうな子供の用な声音でメルキゼデク様は言った。
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しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
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