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第2話:孤独な離宮
離宮の朝は、刺すような冷気と共に訪れる。
窓硝子にはびっしりと氷の結晶が張り付き、外の景色を白く濁らせていた。
エリスは薄い寝具の中で、自分の吐息が白く染まるのを眺める。
肺の奥が焼けるように熱い。
それとは対照的に、指先は氷を触っているかのように感覚が失われていた。
彼女は震える手でサイドテーブルに置かれた水差しに手を伸ばすが、指が滑り、陶器の表面を虚しく撫でる。
「……あ」
カラン、と乾いた音がして、水差しが床に転がった。
幸いにして割れはしなかったが、冷たい水が絨毯に黒い染みを作っていく。
エリスはそれを拾い上げる体力すら惜しみ、ただ横たわっていた。
離宮に配属された使用人は、わずか数名。
それも、本邸で疎まれていた者や、公爵の冷徹な命令を忠実に守る「口の重い」者ばかりだ。
彼らにとって、エリスは公爵に疎まれた「飾りの妻」でしかない。
部屋の清掃や食事の運搬といった最低限の公務はなされるが、そこには温もりなど一片も存在しなかった。
「失礼いたします、奥様」
扉を叩く音と共に、一人の老女が入ってきた。
公爵家で長く働く侍女、マーサだ。
彼女は床にこぼれた水を見ると、表情を変えずに手早く拭き取り、新しい水を用意した。
「申し訳ありません、マーサ。少し、手が滑ってしまって」
エリスが掠れた声で謝ると、マーサは一瞬だけその手を止めた。
彼女の鋭い眼光が、エリスの首筋に浮き出た不自然な血管の青白さを射抜く。
「……奥様。顔色が優れませんな。医者を呼びましょうか」
「いいえ、必要ないわ。ただの微熱よ。冬の寒さに体が驚いているだけ」
エリスは嘘を吐いた。
これが単なる風邪ではないこと、自身の命の灯火が消えかけていることを、誰よりも彼女自身が理解している。
もし医者を呼べば、彼女の病状はアルベルトの耳に届くだろう。
そうなれば、彼は義務感から彼女を案じ、あるいは「呪いの血脈」への影響を懸念して接触を増やしてしまうかもしれない。
(それは、いけない。彼に私を意識させてはいけないの)
エリスは無理に上体を起こし、穏やかな微笑を湛えた。
マーサは何かを言いかけたが、主人の「立ち入るな」という無言の圧力を感じ取ったのか、深く一礼して下がっていった。
独りになったエリスは、羽ペンを執り、古びた日記帳を開く。
そこには、アルベルトへの届かない恋心が綴られるはずだった。
しかし、彼女が書き記したのは、彼に対する恨み言や、冷遇されることへの嘆きという偽りの記録だった。
もし自分が死んだ後、彼がこの日記を見つけたとき。
そこに「愛していました」などと書かれていたら、彼はどれほどの後悔に苛まれるだろうか。
だから彼女は、ペン先を震わせながら、自身の心を殺す言葉を並べていく。
『閣下は今日もいらっしゃらない。氷のように冷たいこの部屋で、私は朽ちていくのを待つだけだ。彼を愛することなど、二度とないだろう』
一文字書くたびに、胸の奥が引き裂かれるような痛みに襲われる。
だが、これこそが彼女の選んだ清算の形だった。
窓の外では、庭園の隅に植えられた冬枯れのバラが、雪の重みに耐えかねて首を垂らしている。
その花は、春を待たずに枯れ落ちる運命にある。
エリスは自分の指先を見つめた。爪の間には、先ほど拭いきれなかった血の跡が微かに残っている。
「あと、どれくらい、隠し通せるかしら」
彼女は窓硝子に指を触れた。
冷たさが心地よい。
本邸の方角には、アルベルトが執務をしているであろう部屋の明かりが、星のように小さく輝いていた。
その光に手を伸ばしても、指先には冷たい硝子の感触しか帰ってこない。
彼女の戦いは、誰にも知られず、誰にも報われず、ただ静かに終わらなければならない。
アルベルトが、愛を知らずに、最強の公爵として君臨し続けるために。
エリスは激しく込み上げる咳を、シーツに顔を埋めて押し殺した。
白い布地が、点々と赤く染まっていく。
彼女はその汚れを愛おしそうに撫で、闇の中に沈んでいった。
窓硝子にはびっしりと氷の結晶が張り付き、外の景色を白く濁らせていた。
エリスは薄い寝具の中で、自分の吐息が白く染まるのを眺める。
肺の奥が焼けるように熱い。
それとは対照的に、指先は氷を触っているかのように感覚が失われていた。
彼女は震える手でサイドテーブルに置かれた水差しに手を伸ばすが、指が滑り、陶器の表面を虚しく撫でる。
「……あ」
カラン、と乾いた音がして、水差しが床に転がった。
幸いにして割れはしなかったが、冷たい水が絨毯に黒い染みを作っていく。
エリスはそれを拾い上げる体力すら惜しみ、ただ横たわっていた。
離宮に配属された使用人は、わずか数名。
それも、本邸で疎まれていた者や、公爵の冷徹な命令を忠実に守る「口の重い」者ばかりだ。
彼らにとって、エリスは公爵に疎まれた「飾りの妻」でしかない。
部屋の清掃や食事の運搬といった最低限の公務はなされるが、そこには温もりなど一片も存在しなかった。
「失礼いたします、奥様」
扉を叩く音と共に、一人の老女が入ってきた。
公爵家で長く働く侍女、マーサだ。
彼女は床にこぼれた水を見ると、表情を変えずに手早く拭き取り、新しい水を用意した。
「申し訳ありません、マーサ。少し、手が滑ってしまって」
エリスが掠れた声で謝ると、マーサは一瞬だけその手を止めた。
彼女の鋭い眼光が、エリスの首筋に浮き出た不自然な血管の青白さを射抜く。
「……奥様。顔色が優れませんな。医者を呼びましょうか」
「いいえ、必要ないわ。ただの微熱よ。冬の寒さに体が驚いているだけ」
エリスは嘘を吐いた。
これが単なる風邪ではないこと、自身の命の灯火が消えかけていることを、誰よりも彼女自身が理解している。
もし医者を呼べば、彼女の病状はアルベルトの耳に届くだろう。
そうなれば、彼は義務感から彼女を案じ、あるいは「呪いの血脈」への影響を懸念して接触を増やしてしまうかもしれない。
(それは、いけない。彼に私を意識させてはいけないの)
エリスは無理に上体を起こし、穏やかな微笑を湛えた。
マーサは何かを言いかけたが、主人の「立ち入るな」という無言の圧力を感じ取ったのか、深く一礼して下がっていった。
独りになったエリスは、羽ペンを執り、古びた日記帳を開く。
そこには、アルベルトへの届かない恋心が綴られるはずだった。
しかし、彼女が書き記したのは、彼に対する恨み言や、冷遇されることへの嘆きという偽りの記録だった。
もし自分が死んだ後、彼がこの日記を見つけたとき。
そこに「愛していました」などと書かれていたら、彼はどれほどの後悔に苛まれるだろうか。
だから彼女は、ペン先を震わせながら、自身の心を殺す言葉を並べていく。
『閣下は今日もいらっしゃらない。氷のように冷たいこの部屋で、私は朽ちていくのを待つだけだ。彼を愛することなど、二度とないだろう』
一文字書くたびに、胸の奥が引き裂かれるような痛みに襲われる。
だが、これこそが彼女の選んだ清算の形だった。
窓の外では、庭園の隅に植えられた冬枯れのバラが、雪の重みに耐えかねて首を垂らしている。
その花は、春を待たずに枯れ落ちる運命にある。
エリスは自分の指先を見つめた。爪の間には、先ほど拭いきれなかった血の跡が微かに残っている。
「あと、どれくらい、隠し通せるかしら」
彼女は窓硝子に指を触れた。
冷たさが心地よい。
本邸の方角には、アルベルトが執務をしているであろう部屋の明かりが、星のように小さく輝いていた。
その光に手を伸ばしても、指先には冷たい硝子の感触しか帰ってこない。
彼女の戦いは、誰にも知られず、誰にも報われず、ただ静かに終わらなければならない。
アルベルトが、愛を知らずに、最強の公爵として君臨し続けるために。
エリスは激しく込み上げる咳を、シーツに顔を埋めて押し殺した。
白い布地が、点々と赤く染まっていく。
彼女はその汚れを愛おしそうに撫で、闇の中に沈んでいった。
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