死に物狂いで支えた公爵家から捨てられたので、回帰後は全財産を盗んで消えてあげます 〜今さら「戻れ」と言われても、私は隣国の皇太子妃ですので〜

しょくぱん

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番外編:第一話

 窓の外には、アルトハイム帝国の象徴である黄金の夕日が広がっている。
 かつて私が過ごしたアデナウアー公爵家の、どんよりと湿った灰色の空とは違う。ここにあるのは、すべてを包み込むような暖かな光だ。

「……ふう。これで、今月分の通商条約の見直し案は完成ね」

 私は羽ペンを置き、大きく息を吐いた。
 机の上には、整然と並べられた書類の山。かつて公爵家で「便利屋」として酷使されていた頃、私は一日に数千枚もの帳簿を処理していた。その経験は、皮肉にも今、隣国の皇太子妃としての公務において、驚異的な処理能力という形で役立っている。
 
 帝国の文官たちが三日がかりで終わらせる仕事を、私は数時間で片付けてしまう。それが私の存在意義であり、ここにいても良いという「証明」だと、心のどこかでまだ思っているのかもしれない。

「エルゼ。また、そんなに根を詰めているのか」

 背後から、低く、けれど蜂蜜のように甘い声が響いた。
 振り返るまでもない。この広い帝宮で、私の執務室に断りもなく入ることが許され、そしてこれほどまでに慈愛に満ちた声を向けてくれるのは、世界にたった一人しかいない。

「シオン様……。お仕事はよろしいのですか?」
「君が働きすぎだと報告を受けたのでな。宰相が『皇太子妃殿下の処理速度が早すぎて、我々の仕事がなくなってしまう』と泣きついてきたぞ」

 苦笑しながら近づいてきたのは、私の夫であり、この国の皇太子であるシオン・フォン・アルトハイムだ。
 燃えるような金の髪と、深い海を思わせる蒼の瞳。その美貌は、初めて会った時から変わらず私の心臓を跳ねさせる。彼は私の隣に立つと、まだインクの乾ききらない書類を一瞥し、そして優しく私の手からペンを奪い取った。

「シオン様?」
「今日はもう終わりにしよう。エルゼ、君はもうアデナウアーの『道具』ではないんだ。私の、かけがえのない妻なのだから」

 その言葉に、胸の奥がチクリと痛む。
 回帰する前、私は死ぬまで働かされた。眠る間もなく、食事をする間もなく、家族の贅沢のために、ただひたすらに数字を追い続けた。休むことは「悪」であり、役に立たないことは「死」を意味していた。
 その呪縛は、どれほど幸せな今であっても、ふとした瞬間に首筋を撫でる。

「……申し訳ありません。つい、やっておいた方が安心だと思ってしまって」
「安心、か。君にとっての安心が『労働』であるということが、私は悲しくてならないよ。私の腕の中こそが、君が最も安心できる場所であってほしいのだが」

 シオン様は私の背後に回り、包み込むように抱きしめた。
 彼の胸板の厚さと、体温が背中から伝わってくる。公爵家では、誰かに抱きしめられることなど一度もなかった。冷たい床で震えながら、明日の計算を考えていただけの夜。
 それに比べて、シオン様の腕の中は、どうしてこれほどまでに暖かいのだろう。

「さあ、着替えよう。今夜は庭園で、二人きりの晩餐を用意させた」
「二人きり……。侍従たちは?」
「下がらせた。君が『皇太子妃』としての仮面を脱いで、ただのエルゼに戻れる時間が必要だと思ったからね」

 彼は私の指先に、何度も愛おしそうに口づけを落とした。
 公爵家でペンだこができていた指は、今では最高級のクリームと魔法薬で、白く滑らかに整えられている。かつて「汚らわしい商人の手だ」と父に罵られたこの手さえも、シオン様にとっては「愛すべき宝物」なのだという。

 案内された夜の庭園は、幻想的な光に包まれていた。
 空中に浮かぶ魔導具の灯火が、満開の月下香(げっかこう)を照らし出し、甘い香りが夜風に乗って鼻腔をくすぐる。
 テーブルに並べられた料理は、どれも私の好物ばかりだ。

「これ……私が以前、一度だけ食べてみたいと言った、北方の伝統料理ですね」
「覚えているとも。君が口にする言葉は、すべて私の心に刻まれている」

 シオン様は自らワインを注ぎ、私の向かいに座った。
 食事中、彼は私を「有能な政治のパートナー」としてではなく、一人の「愛する女性」として扱ってくれる。
 今日のドレスがどれほど似合っているか。私の瞳が月明かりの下でどれほど美しいか。そんな、公爵家では「時間の無駄」と切り捨てられていた甘い言葉を、彼は惜しげもなく注ぎ込む。

「エルゼ。君は時々、ひどく遠くを見るような目をすることがある」

 デザートの果実を口に運んでいた時、シオン様がふと表情を曇らせた。

「……あの日、君が公爵家を去り、私の元へ来た時の覚悟は分かっているつもりだ。君はすべてを捨てて、自らの手で未来を勝ち取った。だが、それでもまだ、過去の影が君を苦しめているのではないか?」

 私は、手に持っていたフォークを静かに置いた。
 隠しているつもりだった。幸せだということに嘘はない。けれど、時折、真夜中に目が覚めると、自分がまだあの冷たい監禁室にいるのではないかと錯覚し、呼吸が苦しくなることがあるのだ。

「……シオン様。私は、自分が怖くなるのです。もし私が、これほど有能でなかったら。もし、貴方のお役に立てない、ただの女だったとしたら……貴方は、それでも私を愛してくださったのでしょうか?」

 喉の奥に詰まっていた問いが、こぼれ落ちた。
 私にとって、愛とは「対価」だった。何かを与え、成果を出し、役に立つことでようやく得られる、一時的な猶予。それが、私の知る世界のルールだった。

 シオン様は席を立ち、私の元へ歩み寄った。
 そして、私の前に跪き、私の両手をしっかりと握りしめる。皇太子という地位にある彼が、一人の女性の前に膝を突く。それがどれほど異例で、重い意味を持つか。

「エルゼ。よく聞いてくれ。私が君を求めたのは、君が有能だったからではない。君が、あの地獄のような環境にありながら、誇りを捨てず、最後まで自分を律し、そして美しくあろうとした……その『魂』に惹かれたのだ」

 彼の蒼い瞳が、私の心を射抜く。

「君がもし、計算ができなくても、文字が書けなくても、何も生み出さない存在だったとしても、私の気持ちは変わらない。私が愛しているのは、アデナウアーの長女でも、優秀な実務家でもない。……夜中にこっそり甘いものを食べて微笑む、不器用で、けれど誰よりも優しい、エルゼという名の女性なのだ」

 視界が、急激に滲んでいった。
 ああ、そうだ。この人は、私が全財産を奪って逃亡しようとしたあの日、すべてを知った上で「面白い。ならば私の元へ来い」と笑って手を差し伸べてくれた人だった。

「泣かないでおくれ。君の瞳から流れるのは、幸せの涙だけでいい」

 シオン様は優しく私の頬を撫で、涙を指で拭った。
 その指先の温もりが、私の心に沈殿していた「過去の澱」を溶かしていく。

「……ありがとうございます、シオン様。私は……私は、もう一度、自分を許してみようと思います。働きすぎなくても、役に立とうと必死にならなくても、ここにいていいのだと」
「ああ。君の唯一の『仕事』は、私の側で笑っていることだ。それ以上の重労働はないだろう?」

 茶目っ気たっぷりにウインクする彼に、私はようやく、心からの笑みを浮かべることができた。

 かつての家族たちは今頃、泥水を啜り、失った黄金の夢を追いかけて絶望していることだろう。
 私が彼らに与えたのは、彼らが私に与えた「孤独」と「欠乏」の写し鏡だ。彼らにはもう、何も残っていない。

 けれど私には、この暖かい手がある。
 公爵家という名の檻を壊し、すべてを奪って逃げた先に見つけたのは、略奪した金銀財宝よりも価値のある、無償の愛だった。

「エルゼ。夜はまだ長い。少し……食後の散歩に付き合ってくれるか? 星がよく見える場所があるんだ」
「はい、シオン様。どこまでも、お供いたします」

 シオン様の手を引き、私は立ち上がる。
 もう、振り返る必要はない。
 私の人生は、あの雨の日、断頭台の前で一度終わり、そしてこの場所で、本当の意味で始まったのだから。

 月光に照らされた二人の影が、白銀の道の上に重なり、溶けていった。
 それは、どんな帳簿にも記すことのできない、至福という名の永遠の記録だった。

——————————————————————————-

(第一話・完)
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