死に物狂いで支えた公爵家から捨てられたので、回帰後は全財産を盗んで消えてあげます 〜今さら「戻れ」と言われても、私は隣国の皇太子妃ですので〜

しょくぱん

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番外編:第二話

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 冷たい執務室の空気。微かに香る古い紙とインクの匂い。
 回帰して数日、私はかつてと同じように、アデナウアー公爵家の莫大な帳簿を前にしていた。けれど、ペンを握る私の指先に迷いはない。
 この指が記す数字の一つ一つが、あの「地獄の断頭台」へと続く道を切り拓くのではなく、今度は家族たちをどん底へ突き落とすための「死の宣告」になるのだから。

「……ふふ、まずは『帳簿上の虚像』から作りましょうか」

 私は独り言ち、二振りのペンを使い分ける。
 一振りは、父に見せるための「偽りの繁栄」を記すペン。もう一振りは、私がこの家から持ち出す「真実の資産」を整理するペンだ。
 アデナウアー公爵家は、対外的には王国屈指の富豪として知られている。だが、その内実は、父のギャンブルと、弟ディートリヒの放蕩、そして妹マリアの度を越した贅沢によって、土台から腐りかけていた。それを私が、不眠不休の労働と商会との過酷な交渉で支え、黄金のメッキを塗り直してきたに過ぎない。

 ならば、そのメッキを剥がすのは容易いことだった。

「お嬢様、夜食をお持ちしました」

 扉を叩いたのは、料理長のハンスだ。彼は長年この家に仕えているが、その実力に見合わぬ薄給で、家族たちからは「飯炊き人形」のように扱われていた。
 前世の私は、彼に十分な報奨を出す余裕もなかったが、今回は違う。

「ハンス、そこへ置いてちょうだい。……それと、これを」

 私は、あらかじめ用意していた封筒を差し出した。中には、私が密かに運営していた隠し口座から引き出した、彼がこの家で一生かかっても稼げないほどの金貨が入っている。

「……! これは、一体……?」
「退職金よ、ハンス。近いうちに、この家は『空っぽ』になるわ。貴方には、ここを出て、夢だった自分の店を開いてほしいの。私が信頼できるのは、この家で貴方とトニだけだから」

 ハンスは目を見開いた。彼は私の異常なまでの働きぶりを、誰よりも近くで見てきた男だ。私が家族にどれほど虐げられ、搾取されてきたかも知っている。
 彼は深く頭を下げ、震える声で言った。

「お嬢様……。私は、お嬢様がこの家の呪縛から逃れる日を、ずっと待っておりました。……承知いたしました。このハンス、最後までお嬢様の足跡を消すお手伝いをさせていただきます」

 それから数日間、私は「魔法契約」の書き換えに着手した。
 アデナウアー公爵家の金庫は、歴代当主の血によって封印されている。本来なら、私のような「道具」には開けられない代物だ。
 けれど、父はあまりにも無能だった。彼は魔導具のメンテナンスさえ私に丸投げしていたのだ。

 私は「防犯システムの強化」と偽り、金庫の封印式を巧妙に改変した。
 当主の血ではなく、私の魔力に反応して開くように。そして、中身が抜き取られても「幻影魔法」によって、一見すると黄金が詰まっているように見せかける偽装を施したのだ。

 その作業の間も、家族たちの放蕩は止まらない。

「姉上! また新しい軍服が必要なんだ。今度の閲兵式で、隣国の王太子に見せつけてやるからな。最高級の絹と、魔物の皮を使った特注品を用意しておけよ!」

 弟のディートリヒが、執務室に土足で踏み込んでくる。彼の背後にあるのは、私が血の滲むような思いで整えた書類の山だ。彼はそれを平然と踏みにじり、傲慢に笑う。
 前世では、この傲慢さに耐えるのが当たり前だと思っていた。けれど今は、その浅ましい姿が滑稽で仕方がない。

「ええ、ディートリヒ。最高のものを用意するわ。……貴方の人生で『最後』の晴れ舞台にふさわしいものをね」
「はん、当たり前だろ! 姉上は黙って僕のために金を作っていればいいんだ」

 彼はそのまま、私の返事も待たずに去っていく。
 続いて現れたのは妹のマリアだ。彼女は最新のファッション誌を広げ、宝石のページを指差した。

「お姉様、この『人魚の涙』というネックレス、今度の舞踏会までに用意してくださる? 没落しかけている伯爵家の令嬢が持っていたそうだけど、あんな汚らわしい女に似合うはずがないわ。アデナウアーの気品にふさわしいのは私だけよ」
「マリア、それは王室御用達の工房で作られた一点物よ。今の我が家の家計では……」
「うるさいわね! お姉様が有能なら、それくらいどうにかしなさいよ! できないなら、お父様に言いつけて、また地下室に閉じ込めてもらうわよ?」

 マリアの口調には、私に対する敬意など微塵もない。彼女にとって私は、望むものを魔法のように差し出す「便利な道具」に過ぎなかった。
 私は静かに微笑んだ。

「分かったわ、マリア。必ず『手配』しておくわね」

 ――ええ、手配するわ。そのネックレスの代金として、公爵家の名義で莫大な借用書を。もちろん、支払期日は私がこの家を去った翌日に設定して。

 決行の夜は、激しい雨が降っていた。
 前世で私が処刑された日と同じ、冷たい雨だ。
 私は、御者のトニを呼び寄せた。彼は私が幼い頃、馬車に轢かれそうになったところを助けて以来、私に絶対の忠誠を誓っている。

「トニ、準備はいい?」
「はい、お嬢様。地下通路から、荷馬車三台分の荷物を運び出しました。……すべて、お嬢様の指示通り、隣国の国境近くの隠れ家に運んであります」
「ありがとう。……これ、貴方の家族の分よ。遠い場所で、静かに暮らして」

 私は彼にも十分な報酬を渡した。トニは力強く頷き、雨の中に消えていった。

 私は一人、深夜の金庫室へと向かった。
 冷たい石造りの廊下を歩く足音が響く。懐中電灯の代わりに灯した魔法の光が、壁に掛けられた歴代当主の肖像画を照らし出す。彼らは皆、自分たちの築き上げた富が、今夜、一人の娘の手によって完全に消滅することなど露ほども思っていないだろう。

 最奥の扉。父が「我が家の誇り」と呼ぶ大金庫。
 私はそこに手を触れた。魔法回路が起動し、私の魔力を読み取る。

『認証完了。……解錠します』

 重厚な音を立てて扉が開く。
 そこには、山積みの金貨、眩いばかりの宝石、そして隣国との秘密の通商権を示す権利書や、他家の弱みを握った公文書が収められていた。

 私は、躊躇なく「空間収納魔法」を発動させた。
 これは、膨大な魔力と精密な制御を必要とする高等魔法だ。家族たちは私がこれほどの魔法を使えることすら知らなかった。私を「事務作業しかできない女」だと侮っていたから。

 吸い込まれるように、黄金が消えていく。
 宝石が、権利書が、そして公爵家の「格」を支えていた歴史的な美術品までもが、私の影の中に飲み込まれていく。
 空っぽになった棚には、あらかじめ用意しておいた「精巧な偽物」と、触れると砕け散る「幻影の金貨」を敷き詰めた。
 さらに、私は父の机から、彼の印章を盗み出した。

 そして、最後の一仕上げ。
 私は一枚の便箋を取り出し、流麗な筆致で書き記した。

『拝啓、お父様。
 今まで私を「道具」として大切に使ってくださり、ありがとうございました。
 お礼として、この家の借金、不祥事の証拠、そして未来への負債はすべて置いていきます。
 私が持ち出したのは、私が私の力で稼ぎ、守ってきたものだけです。
 これからは、貴方たちが誇る「公爵家の気品」とやらで、空っぽの金庫をお守りください。
 さようなら。……二度と、私の名前を呼ばないで』

 手紙を金庫の中央に置き、私は扉を閉めた。
 封印の魔法を元に戻し、何事もなかったかのように執務室へ戻る。

 翌朝。
 私は、シオン様が差し向けてくれた隠密部隊の馬車に乗り込んだ。
 屋敷の門をくぐる際、ふと振り返ると、まだ眠りの中にいる公爵邸が見えた。
 数時間後、朝食の席で「お姉様、お茶が冷めているわよ!」と叫ぶマリアの声が、誰にも届かずに空虚に響くことになるだろう。
 帳簿を確認しようとした父が、数字がすべて「ゼロ」に書き換わっていることに気づき、泡を吹いて倒れることになるだろう。

 私は、膝の上に置いた小さなカバンを抱きしめた。
 中には、あの「全財産」を収納した魔導具が入っている。
 重みはない。けれど、これは私の自由の重さであり、彼らへの復讐の証だ。

「……お嬢様、顔色がよろしいですね」

 馬車の御者台に座るトニが、窓越しに声をかけてきた。

「ええ。とても気分がいいわ。……トニ、馬車を出して。新しい世界へ」

 雨は上がり、雲の隙間から朝日が差し込み始めていた。
 公爵家という名の泥沼から這い出した私は、今、自らの手で掴み取った黄金の道を、一歩ずつ進み始めたのだ。

 背後で、ガタガタと崩れ落ちる「音」が聞こえたような気がした。
 それは幻聴かもしれないし、あるいは、本当にアデナウアー公爵家の「栄光」が崩壊した音だったのかもしれない。

-————————————————————-

(第二話・完)
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