家族に売られてたどり着いた先は、王女様の侍女でした。 ――掃除だけは誰にも負けません。

月城 蓮桜音

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第48話 真実としての可能性

 その日の午後、リーナは呼び止められた。場所は廊下の一角。人の行き来はあるが、立ち止まって言葉を交わすことが不自然ではない程度の静けさがある。声をかけたのは、王女だった。公務の場でも、私室でもない。つかず離れずの、奇妙に中立な距離感だった。
 
「少し、確認させて」
 
 王女の声は軽やかだ。決して問い詰めるような響きではない。
 
「はい」
 
 リーナは足を止め、背筋を伸ばして応じた。
 
「あなたの今の働きに対して支払われている賃金、その額を把握しているかしら?」
 
 一瞬、考え込む。正確な数字を即座に答えられるわけではない。けれど、手元に残る重みとして、感覚的には理解していた。
 
「……生活に必要な分を引いても、少しだけ、手元に残ります」
 
「ええ。十分なほどにね」
 
 王女は否定せず、静かに頷いた。
 
「今のあなたなら、弟さん一人を養っていくことは十分に可能よ」
 
 その言葉は、淡々としていた。励ますわけでも、決断を急かすわけでもない。リーナは、すぐには言葉を返せなかった。「養う」。そして「引き取る」。二つの言葉が、頭の中で重なり合って火花を散らす。
 
「もちろん」
 
 王女は言葉を継いだ。
 
「そうしなさい、と促しているわけではないわ」
 
 強調するような言い方ではなかった。ただ、事実の上に一本の線を引く。
 
「選べる立場にある、という事実を伝えているだけよ」
 
 リーナはふっと視線を落とした。「選べる」。それは、今まで一度も考えたことのない前提だった。弟のことは、いつも「足りない」から始まっていた。足りない薬。足りない金。足りない時間。だから、ひたすら補う。黙って、必死に働く。それしかなかった。だが今は、「足りない」のではない。——手が、届くのだ。
 
「あなたが選びなさい」
 
 王女はそう言った。命令ではない。一方的な許可でもない。判断の権利を、まっすぐに本人へと戻す言葉。
 
「急がなくていいわ。答えを出すのは、いつでも」
 
 それだけを告げて、王女は去っていった。遠ざかるその背中を、リーナは見送る。廊下に流れる空気は、さっきまでと何も変わらない。周囲の誰も、この数分間に特別なことが起きたなんて顔はしていない。けれど、リーナの中では、景色が確実に変容していた。
 
 ——戻るしかない。そう思い込んでいた足元に、初めて別の線が引かれた。選ばなければならない、という戸惑い。そして、選べてしまう、という現実。
 
 リーナは、しばらくその場から一歩も動くことができなかった。
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