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1巻
1-3
そう思ったハノンがトレイを持って立ち上がった時、床が何かで濡れていたのか滑って体勢が崩れた。
「きゃっ」
倒れる! と身構えたが、体を支えられて事なきを得る。フェリックスが咄嗟に腕を伸ばして助けてくれたのだ。
トレイを挟んでだが、あの夜以来の距離感にハノンの心臓が跳ね上がる。
「あ、ありがとう……ございます……」
「……いや」
微妙な空気が流れた。ハノンはいた堪れず、食器がのったトレイを返却口へ戻しに行く。
そのまま医務室に戻ろうとしたハノンの手を、ふいにフェリックスが掴んで歩き出した。
「ちょっ……⁉」
狼狽えるハノンをよそにフェリックスはずんずんと歩いていく。
「あのっワイズ卿っ、どこに行く気ですかっ⁉」
ハノンの質問には答えず、そして振り返りもせず、フェリックスは歩き続けた。
そして食堂にほど近い人気のない中庭で手を離される。
「いったいなんなんです⁉ なぜそんなにわたしに構われるのですかっ⁉」
ハノンが抗議すると、フェリックスはじっとこちらを見つめて言った。
「ハノン、俺は確信したぞ」
「っ、何をですかっ?」
またまたのファーストネーム呼びにドキッとする自分にイラッとしながらも尋ねる。
「キミはあの卒業式の夜、薬を盛られた俺を救ってくれた女性だな?」
「……!」
なぜ⁉ どうしてわかった⁉ ハノンは内心、悲鳴を上げながらも淡々と返した。
「何を仰っているのかさっぱりですが」
「匂いだ、さっきキミから香った匂いで確信した。あの夜に嗅いだ匂いと一緒だ」
「嗅いだって何っ⁉ 匂いって何っ⁉」
ハノンは思わずキレてしまう。なんて失礼な発言! ……臭いとかじゃないわよね?
つい自分の体に鼻を向けて確かめた。
「キミの肌から薫る〝香り〟を忘れたことはなかった。魔力を持った者特有の魔力の混ざった香りだ」
フェリックスに一心に見つめられてそう言われると息が止まりそうになる。
とても彼の顔を見ていられなくなって、ハノンは顔を背けた。
「さっきから訳がわからないことばかり言って……貴方が仰っているその人はわたしではありません。申し訳ないですが、他を当たってください」
目を合わせずにそう告げると、次にフェリックスから返ってきた言葉は信じられないものだった。
「そこまで言うならキスをしよう」
「………………は?」
「キスをすればキミが言っていることが正しいかどうかわかる」
「なぜキスなんですか⁉」
「あの日感じた魔力の特徴がわかりやすいからだ。唾液を摂取させてくれ」
「摂取って言わないで!」
「本当は血液の方がわかりやすいんだが、キミを傷付けたくはない。だから唾液しかないんだ」
「どうして血液?」
体液には魔力が含まれている。唾液然り、血液然り。なので一万歩譲って唾液はわかる。
あの時、お互い昂ってキスも沢山したから……しかしなぜ血液……?
っと、そこまで考えてハノンはハッとした。
「そりゃキミの破瓜の……」
「わーーっ! 言わないでっ‼」
ハノンは慌ててフェリックスの口を手で塞いだ。
「とにかく! わたしはあなたのお捜しの方ではありませんし、キスなんか絶対にしません! もうわたしに構わないで‼」
「口先だけで否定されても信じられない。そこまで否定するなら根拠を示してくれ」
「そんなことをする義理はないわっ!」
そう言ってハノンは走って逃げた。
「待てっ……ハノンっ!」
後ろからフェリックスの声が追いかけてきたが、「もう鐘が鳴るわ! 付いてこないでっ!」と言いながらハノンは走り去った。我ながら相変わらずの足の速さである。
ハノンが去った方向に伸ばしたフェリックスの手が宙を彷徨う。
あの夜の相手がハノンであるとフェリックスは確信していた。
ハノンの声を聞いて、朧げだった彼女の声と記憶が結びついたのも確信した理由の一つだ。
それなのに……
なぜハノン=ルーセルはあそこまで否定する? 何かを恐れているかのような。何かを隠しているような。
(何を隠す必要がある……?)
フェリックスはハノンが走り去った方向をただ黙って見つめていた。
ハノン=ルーセルがあの夜以来捜し続けている女性だと確信したフェリックスは、以前にも増してハノンにぐいぐいと詰め寄るようになった。
毎日必ず一度はハノンを捕まえて、卒業式の夜を共に過ごしたことを認めさせようとしてくる。
だけどハノンは何がなんでも認める訳にはいかなかった。
あのひと夜で身籠り、隠れてルシアンを生み育てていたことを知られてなんらかの咎を受けるのも嫌だったし、ワイズ侯爵家の血を引く者を市井には置いておけないと最愛の息子を取り上げられるなんて以ての外だから。
必死の思いで生み育てた、自分の命よりも大切な血を分けた我が子と引き離されるくらいなら、ハノンは死んだ方がマシだと本気で思っていた。
なので、従って、絶っっ対に、あの日フェリックスと関係を持ったことを認める訳にはいかないのだ。
(もう放っといてほしい……わたし達の穏やかな暮らしを奪わないでほしい)
ハノンは心の底から懇願していた。それを口にする訳にもいかないのだけれど……
「ハノン、一緒に食事に行かないか?」
しかしそれ以外でもフェリックスが自分に構い倒すようになったのが解せぬ。
あの夜の件とは関係ない話題で普通に話しかけてくるし、こうやってプライベートなお誘いもしてくるようになったのだ。
今日も終業後に騎士団関係者の出入り口へ向かっている時に声をかけてきたフェリックスを、ハノンは立ち止まることなく一瞥した。
「……すみませんが貴族の方とご一緒にだなんて、とてもじゃないけど食事が喉を通りません。どなたか相応しいご令嬢でもお誘いしたらいかがですか? 貴方に秋波を送られている沢山の侍女の中にも貴族令嬢はいらっしゃいますよ」
「キミも貴族令嬢じゃないか。それに食事を誰かと共にしたいだけで誘ってるんじゃないよ。キミだから一緒に食事をしたいんだ」
まるでハノンが特別だと言っているような言葉に思わずドキリとする。頬にほんのり熱が籠もるのが我ながら腹立たしい。でも勘違いしてはダメだし、間違っても馴れ合ってはいけない。
どこから綻びが生じてルシアンのことを知られるかわからないからだ。
本当は心の中を酷く掻き乱されていることなど噯気にも出さず、ハノンはキッパリと答えた。
「すみません。わたしのような一般的な人間はやらなくてはならない家事が山積みなんです。だから食事には行けません、これで失礼しますね」
平民女性(ホントは子爵令妹だけど)は仕事以外にもやることが沢山あるのだ。お気楽なお貴族様とは付き合ってられないというニュアンスを籠めた。しかしフェリックスはその含みのある言い方に全く頓着しなかった。気を悪くした様子もなく、労わるような優しげな声で言われる。
「そうか。頑張っているんだな。これは失礼した、また誘うよ」
そうしてすんなりと引き下がり、建物内へと戻っていったのだ。
嫌味だったのにあんな感じに返されると、こちらが悪いことをした気になるではないか。
「もう。調子を狂わされっぱなしだわ」
フェリックス=ワイズはなぜ、あの卒業式の夜の女性を捜しているのだろう。
あの夜のことが忘れられないというのか。
……ハノンだってあの夜を忘れたことなどない。
成り行きとやむを得ない状況で肌を重ねたが、後悔したことは一度もなかった。
でもあのままひと夜の夢として終われたから、美しい思い出として振り返られるのだ。
フェリックスにとっては苦しく、下手すれば命を失っていたかもしれない大変な夜だっただろうが。
「……ほじくり返さない方がお互いのためよ」
ハノンはそう独り言ちて、騎士団敷地を後にした。
再会したフェリックス=ワイズがなぜあんなにも執拗に自分を捜しているのか?
それがわからないまま聞くに聞けず、ハノンはモヤモヤを抱え続ける日々を送っていた。
だが今日は休日。久々のオフの日である。
騎士団によほどのことがない限り、呼び出しがかかることもない。
こんな日に家の中で悶々鬱々と過ごすなんて勿体ない。
ど田舎だった元ルーセル領で兄にくっついて野猿のように遊び回っていたハノンにとって、たまに青空の下、広々とした空間で過ごすのは心身共に必要なことであった。
そうしてハノンは気晴らしのためにルシアンを連れて近くの大きな公園へと来たのだ。
その公園には広々とした芝生のエリアがあり、そこにレジャーシートを敷いてお弁当を食べたり裸足で歩き回ったりすると気持ちいいのだ。
ゴミはおろか小石すら見当たらない手入れの行き届いた芝生の上なら、ルシアンのような小さな子も裸足でゆっくりと遊ばせてやれる。
これも、田舎で裸足で駆け回る開放感が堪らなく好きだったハノンが、息子にもこの感覚を味合わせてやりたいと始めたことであった。
こんなところからして、ハノンは元々貴族令嬢らしからぬ貴族令嬢だったのだ。
初めてこの公園に連れてきた時、ルシアンはまだ二歳になったばかりだった。
ふかふかの芝生が足の裏を擽る初めての感覚にびっくりした表情を浮かべていた姿が悶絶級に可愛かった。
それから幾度となくこの公園を訪れているので、ルシアンも今では慣れたものだ。
芝生に着くなり裸足になり、持ってきたボールを転がして遊んでいる。
ハノンはそれを近くで見守りながら、いつものようにレジャーマットを敷いてお弁当を広げた。
今日のメニューはオープンサンド……いやオープンドッグにした。
作り置きの惣菜や今日のために作ってきたチキンハムなどを、なんでも好きにパンに挟んで食べるのだ。
惣菜はクリームチーズにスモークサーモンとスライスオニオンをマリネしたもの。それにポテトサラダ、人参をバターとガーリックソルトでソテーしたもの、それから林檎のコンポートと硬めに仕上げた自家製カスタードクリームもある。
可愛いルシアン王子様がお望みの具材を、ホットドッグ用のパンに挟んで渡してあげる。
これなら小さな子どもでもパンから具材がサヨウナラすることなく上手に食べられるのだ。
今日のルシアン王子様のチョイスは、ポテトサラダとチキンハムの組み合わせと、カスタードと林檎のナンチャッテアップルパイ風のオープンドッグ。
我が子ながらグッドチョイスである。
「いただちましゅ!」
「はいどうぞ召し上がれ」
「まま、おいちいね!」
「ふふ、そうね。お外で食べると美味しいわね」
「うん!」
あぁ……幸せだ。母一人子一人、一般的な家庭からすれば苦労と不憫のオンパレードに見えるかもしれないが、ハノン達親子はそんな風に感じたことはなかった。
母子二人、健康で平和に暮らせるなら他に何も望まない。
この平穏な暮らしがハノンのすべてだから。
でもたまに……今、目の前を通っていく親子連れ。
子どもを間に挟んだ両親が繋いだ手を引っ張り上げて子どもを宙に浮かせてあげているのをルシアンが不思議そうに見ている姿は、胸にグッと来るものがあるが……
かといって無理に誰かと結婚して父親を作ろうとは思わない。いや思えない。
母親しかいないのなら、その分思いっきり愛してあげれば良い。
ハノンはそんなことを考えつつクリームチーズとサーモンマリネのオープンドッグを頬張った。
ランチの後はルシアンとボールで遊んだり虫を観察したり、二人で追いかけっこをしたりと、休日のピクニックを楽しんだ。
そして夕方前には片付けをして帰路に就く。
今日は楽しかったねと話しながらルシアンと手を繋いで歩いていると、後ろからふいに声をかけられた。
「……ハノン様……?」
「え?」
数年ぶりに敬称を付けて呼ばれたことに驚いて振り返ると、そこには同年代くらいの若い男性が立っている。ハノンはその青年に見覚えがあった。
記憶の中にあるその人物との違いに多少戸惑うも正直に訊ねてみる。
「あの……もしかして……」
ハノンがその男性に訊ねると、相手はパッと明るい表情を浮かべた。
「やっぱりハノン様だっ、わかりませんか? 俺です、元ルーセル子爵家に勤めていたメイドの息子で、昔よく遊んだ……」
そこまで言われ、ハノンの記憶の扉がバタンと開いた。
「やっぱり……アレイ=バートンなの?」
父が借金の保証人となった友人が逃げたことにより、多額の負債を背負わされた。
そのせいで元々あまり多くなかった使用人達に暇を出したのだが、このアレイの母親であるメイドのラーナだけは給金がほとんど払えないのにもかかわらず最後までルーセル家を支えてくれたのだ。
住み込みだったラーナのたった一人の家族であるこのアレイとは、兄のファビアンと共に兄弟のように育ったのだった。
ハノンが名を言い当てたことで男性は――アレイは破顔して嬉しそうな声を出した。
「そうです! うわぁ懐かしいな、そして覚えていてくれたことが本当に嬉しい!」
「忘れる訳ないわよ、家族のように暮らしていたんだから。領地を手放すことになってそれきっりだったけれど……元気そうで何よりだわ」
ハノンがそう言うとアレイは大きく頷く。
「ええおかげ様で! ハノン様も相変わらずお美しくて驚きましたよ」
「またそんな上手なことを。昔からアレイは褒め上手だったわよね」
アレイは頭を掻きながら照れた顔をして答えた。
「お世辞なんかじゃありません。ハノン様は昔からお美しかった……俺を含め、元ルーセル領の腕白小僧達に崇められていたんですよ、ハノン様は」
それを聞き、ハノンはころころと笑った。
「いいのよ、わたしは自分の容姿はよくわかっているつもりだから。平々凡々の女だとね」
自棄になっている訳でもなく淡々と事実を述べるハノンにアレイは肩を竦めて「いや全然わかってないでしょ」と言った。
数年ぶりの再会でこんなにもすぐに打ち解けて話せるのも幼馴染だからこそだろう。
ハノンはかつての思い出の記憶の扉が次々と開き、懐かしさに微笑んだ。
そんなハノンが手を繋ぐルシアンに、アレイの視線が集中していることに気が付く。
「あぁ、息子のルシアンよ」
ハノンがルシアンを紹介するとアレイは少しだけ表情を曇らせて言った。
「……ご結婚されてるんですね。当然か、俺達もう二十一ですもんね。ご領地を失くされ苦労されているのではないかと心配してましたが、お幸せそうで何よりです」
アレイのその言葉を受け、ハノンはなんでもないことのように事実を告げた。
「わたし、結婚はしていないの。独り身でこの子を生んで育てているのよ」
「え……」
アレイが驚いた表情でこちらを見る。
一応貴族令嬢であった(今も一応子爵令妹だが)ハノンが今やシングルマザーだ。驚かれても無理はない。
その時、ルシアンが目を擦りながらハノンを見上げた。
「まま……ねむいよぅ……」
「あ、ごめんねルシアン。いっぱい遊んで疲れたよね。早くお家に帰ろう」
ハノンは荷物を肩にしっかりかけてからルシアンを抱き上げた。
おねむのルシアンがハノンの肩に顔を押し付けてくる。
これは相当眠たい時の仕草だ。ハノンはアレイに言った。
「ごめんなさいね、息子がおねむで限界みたいだからもう帰るわ。会えて本当に嬉しかった。お母様のラーナにもよろしく伝えてね」
ハノンがそう言って立ち去ろうとすると、ふいに肩から提げていた鞄を取り上げられた。
「アレイ?」
ハノンはきょとんとしてアレイを見る。
するとアレイは何やら難しそうな顔をしてハノンに告げた。
「……送ります」
「え? いいわよ悪いもの。それにアパートはすぐそこだから」
「すぐそこなら尚更送りますよ。子どもを抱えて荷物まで……そんな華奢な体で無理だ」
「平気よ? いつものことだもの。もう慣れっこよ」
ハノンのその言葉に、なぜかアレイは傷付いたような顔をする。
そして、「そんなことに慣れちゃダメだ……」と言って歩き出した。
「あ、ちょっと、アレイ……!」
「家はこっちでいいんですか?」
「え? ええ……そうだけど……でも……」
「送ります、送らせてください」
そう告げてアレイは前を向く。
「アレイ……」
ハノンはルシアンをしっかりと抱き直し、アレイの後を追った。
結局、再会した幼馴染にアパートまで送ってもらうこととなったハノン。
途中、抱っこしていたルシアンが眠ってしまい、重たそうに抱えて歩くハノンを見かねたアレイがルシアンも抱いてくれたのだった。
元より人見知りをする子ではないが寝ている間なら初めて会った男性でも大丈夫だろうと思い、ハノンはルシアンをアレイに預けた。
アパートまでの帰り道、アレイの口数は少なく、そして何かを考えているかのように見受けられた。
それなりに重い三歳の子どもを抱いて送ってもらったのに、お茶を出さず帰しては礼に欠ける。
そう思ったハノンがお茶を飲んでいくように勧めるも、この後用事があるからとアレイは断った。
だけど明日にでも改めて伺っても良いかと聞かれ、今日はいいけど明日は駄目とは言いづらいので了承したのだった。
そして次の日も休日であったハノンは昼過ぎに訪れたアレイを迎え入れた。
「いらっしゃい。昨日はありがとう、助かったわ。狭いけどどうぞ入って」
「お邪魔します」
ハノンが出迎えるとアレイは少し照れた様子で入ってきた。
「こんにちわっ!」
ルシアンが元気にご挨拶すると、アレイは優しく微笑みルシアンの前に屈んで挨拶を返す。
「こんにちは。お名前を教えてくれるかい?」
「るちあんでしゅ!」
「ルシアンくんか。お年は言えるかな?」
そう聞かれてルシアンは指を三本立てて、「しゃんたい!」と自慢げに言った。
「三歳か。ルシアンくんはお利口だなぁ」
「うん!」
「はははは」
二人が会話を交わしているのを聞きながらハノンはお茶の用意をする。
昨夜焼いておいたパウンドケーキと、今朝作って保冷魔道具で冷やしておいたオレンジゼリーも出した。
アレイはそのゼリーを見て懐かしそうに笑みを浮かべる。
「このゼリー……昔よく作ってくれましたよね」
「ふふ、覚えていてくれたんだ」
「覚えてますよ、俺の大好物だったんだから」
「お世辞でも褒められると嬉しいものね」
「お世辞だなんてとんでもない。本心ですよ」
そんなことを言いながらルシアンを椅子に座らせ、ハノンとアレイもそれぞれ席に着いた。
紅茶を口に含み、ややあって意を決したようにアレイが訊ねてくる。
「不躾な質問だとはわかっていますが……あえて訊かせてもらいます。ルシアンくんの父親とは今も繋がっているのですか?」
おそらく色々と訊かれるのだろうなぁと思っていたハノンは、話せる範囲で話すと決めていた。
「いいえ。向こうはルシアンが存在していることすら知らないわ」
「っそんなっ……!」
無理もないとは思うが父親に対する非難めいた反応に、ハノンは釘を刺すように告げた。
「向こうは何も悪くないの。詳しく話すつもりはないけれど、互いに合意の下で、そうなることを望んだのはわたしの方だということを理解してほしい。相手に子どものことを教えないと決めたのもわたし自身の意思よ」
「それでも……」
苦渋に満ちたアレイの表情に、ハノンは小さく笑った。
「そんな顔しないでアレイ。わたし達親子は充分幸せに暮らしているわ」
ハノンがそう声をかけると、アレイは俯く。
そして何か思い詰めたような声色で言った。
「……ルシアンくんが幼いうちはいいかもしれません。でも年齢が上がると共に、父親がいない家庭の不利を身をもって感じることが増える可能性がある……俺がそうだったから……」
ルーセル子爵家でメイドをしていたアレイの母親もシングルマザーであった。
当時アレイを妊娠中だった母親を捨て、父親は他の女とどこかへ消えたという話を聞いた覚えがある。
アレイは話し続けた。
「もちろん、すべての母子家庭がそうだとは言いません。でも、俺と母さんは結構苦労したから……ハノン様のお父上の先代ルーセル子爵やファビアン様がいてくださったからなんとかやってこられたんです……若いシングルマザーと知って言い寄ってくる男とか、困っていることが多いんじゃないですか?」
「……うーん、よっぽどわたしに魅力がないのか、それはないのよねー……」
「魅力がないなんてあり得ないっ」
「あら、ありがとう……」
ハノンが変な男に言い寄られないのは、偏にメロディのおかげだと思う。
メロディがハノンのアパートに出入りしているおかげで周辺の住人はメロディというボディガードがいることを知っているし、規律の厳しい西方騎士団でむやみやたらと誘いをかけてくる男はそういない。
稀にいたことはいたが、それもまたメロディに追い払われていた。
ハノンにはメロディという頼もしい守護神が憑いて……じゃない、付いてくれているのだ。
「ふふ」
守護神よろしく腕を組んで仁王立ちしているメロディを想像して思わず噴き出すハノンを、アレイは不思議そうに見やった。
「きゃっ」
倒れる! と身構えたが、体を支えられて事なきを得る。フェリックスが咄嗟に腕を伸ばして助けてくれたのだ。
トレイを挟んでだが、あの夜以来の距離感にハノンの心臓が跳ね上がる。
「あ、ありがとう……ございます……」
「……いや」
微妙な空気が流れた。ハノンはいた堪れず、食器がのったトレイを返却口へ戻しに行く。
そのまま医務室に戻ろうとしたハノンの手を、ふいにフェリックスが掴んで歩き出した。
「ちょっ……⁉」
狼狽えるハノンをよそにフェリックスはずんずんと歩いていく。
「あのっワイズ卿っ、どこに行く気ですかっ⁉」
ハノンの質問には答えず、そして振り返りもせず、フェリックスは歩き続けた。
そして食堂にほど近い人気のない中庭で手を離される。
「いったいなんなんです⁉ なぜそんなにわたしに構われるのですかっ⁉」
ハノンが抗議すると、フェリックスはじっとこちらを見つめて言った。
「ハノン、俺は確信したぞ」
「っ、何をですかっ?」
またまたのファーストネーム呼びにドキッとする自分にイラッとしながらも尋ねる。
「キミはあの卒業式の夜、薬を盛られた俺を救ってくれた女性だな?」
「……!」
なぜ⁉ どうしてわかった⁉ ハノンは内心、悲鳴を上げながらも淡々と返した。
「何を仰っているのかさっぱりですが」
「匂いだ、さっきキミから香った匂いで確信した。あの夜に嗅いだ匂いと一緒だ」
「嗅いだって何っ⁉ 匂いって何っ⁉」
ハノンは思わずキレてしまう。なんて失礼な発言! ……臭いとかじゃないわよね?
つい自分の体に鼻を向けて確かめた。
「キミの肌から薫る〝香り〟を忘れたことはなかった。魔力を持った者特有の魔力の混ざった香りだ」
フェリックスに一心に見つめられてそう言われると息が止まりそうになる。
とても彼の顔を見ていられなくなって、ハノンは顔を背けた。
「さっきから訳がわからないことばかり言って……貴方が仰っているその人はわたしではありません。申し訳ないですが、他を当たってください」
目を合わせずにそう告げると、次にフェリックスから返ってきた言葉は信じられないものだった。
「そこまで言うならキスをしよう」
「………………は?」
「キスをすればキミが言っていることが正しいかどうかわかる」
「なぜキスなんですか⁉」
「あの日感じた魔力の特徴がわかりやすいからだ。唾液を摂取させてくれ」
「摂取って言わないで!」
「本当は血液の方がわかりやすいんだが、キミを傷付けたくはない。だから唾液しかないんだ」
「どうして血液?」
体液には魔力が含まれている。唾液然り、血液然り。なので一万歩譲って唾液はわかる。
あの時、お互い昂ってキスも沢山したから……しかしなぜ血液……?
っと、そこまで考えてハノンはハッとした。
「そりゃキミの破瓜の……」
「わーーっ! 言わないでっ‼」
ハノンは慌ててフェリックスの口を手で塞いだ。
「とにかく! わたしはあなたのお捜しの方ではありませんし、キスなんか絶対にしません! もうわたしに構わないで‼」
「口先だけで否定されても信じられない。そこまで否定するなら根拠を示してくれ」
「そんなことをする義理はないわっ!」
そう言ってハノンは走って逃げた。
「待てっ……ハノンっ!」
後ろからフェリックスの声が追いかけてきたが、「もう鐘が鳴るわ! 付いてこないでっ!」と言いながらハノンは走り去った。我ながら相変わらずの足の速さである。
ハノンが去った方向に伸ばしたフェリックスの手が宙を彷徨う。
あの夜の相手がハノンであるとフェリックスは確信していた。
ハノンの声を聞いて、朧げだった彼女の声と記憶が結びついたのも確信した理由の一つだ。
それなのに……
なぜハノン=ルーセルはあそこまで否定する? 何かを恐れているかのような。何かを隠しているような。
(何を隠す必要がある……?)
フェリックスはハノンが走り去った方向をただ黙って見つめていた。
ハノン=ルーセルがあの夜以来捜し続けている女性だと確信したフェリックスは、以前にも増してハノンにぐいぐいと詰め寄るようになった。
毎日必ず一度はハノンを捕まえて、卒業式の夜を共に過ごしたことを認めさせようとしてくる。
だけどハノンは何がなんでも認める訳にはいかなかった。
あのひと夜で身籠り、隠れてルシアンを生み育てていたことを知られてなんらかの咎を受けるのも嫌だったし、ワイズ侯爵家の血を引く者を市井には置いておけないと最愛の息子を取り上げられるなんて以ての外だから。
必死の思いで生み育てた、自分の命よりも大切な血を分けた我が子と引き離されるくらいなら、ハノンは死んだ方がマシだと本気で思っていた。
なので、従って、絶っっ対に、あの日フェリックスと関係を持ったことを認める訳にはいかないのだ。
(もう放っといてほしい……わたし達の穏やかな暮らしを奪わないでほしい)
ハノンは心の底から懇願していた。それを口にする訳にもいかないのだけれど……
「ハノン、一緒に食事に行かないか?」
しかしそれ以外でもフェリックスが自分に構い倒すようになったのが解せぬ。
あの夜の件とは関係ない話題で普通に話しかけてくるし、こうやってプライベートなお誘いもしてくるようになったのだ。
今日も終業後に騎士団関係者の出入り口へ向かっている時に声をかけてきたフェリックスを、ハノンは立ち止まることなく一瞥した。
「……すみませんが貴族の方とご一緒にだなんて、とてもじゃないけど食事が喉を通りません。どなたか相応しいご令嬢でもお誘いしたらいかがですか? 貴方に秋波を送られている沢山の侍女の中にも貴族令嬢はいらっしゃいますよ」
「キミも貴族令嬢じゃないか。それに食事を誰かと共にしたいだけで誘ってるんじゃないよ。キミだから一緒に食事をしたいんだ」
まるでハノンが特別だと言っているような言葉に思わずドキリとする。頬にほんのり熱が籠もるのが我ながら腹立たしい。でも勘違いしてはダメだし、間違っても馴れ合ってはいけない。
どこから綻びが生じてルシアンのことを知られるかわからないからだ。
本当は心の中を酷く掻き乱されていることなど噯気にも出さず、ハノンはキッパリと答えた。
「すみません。わたしのような一般的な人間はやらなくてはならない家事が山積みなんです。だから食事には行けません、これで失礼しますね」
平民女性(ホントは子爵令妹だけど)は仕事以外にもやることが沢山あるのだ。お気楽なお貴族様とは付き合ってられないというニュアンスを籠めた。しかしフェリックスはその含みのある言い方に全く頓着しなかった。気を悪くした様子もなく、労わるような優しげな声で言われる。
「そうか。頑張っているんだな。これは失礼した、また誘うよ」
そうしてすんなりと引き下がり、建物内へと戻っていったのだ。
嫌味だったのにあんな感じに返されると、こちらが悪いことをした気になるではないか。
「もう。調子を狂わされっぱなしだわ」
フェリックス=ワイズはなぜ、あの卒業式の夜の女性を捜しているのだろう。
あの夜のことが忘れられないというのか。
……ハノンだってあの夜を忘れたことなどない。
成り行きとやむを得ない状況で肌を重ねたが、後悔したことは一度もなかった。
でもあのままひと夜の夢として終われたから、美しい思い出として振り返られるのだ。
フェリックスにとっては苦しく、下手すれば命を失っていたかもしれない大変な夜だっただろうが。
「……ほじくり返さない方がお互いのためよ」
ハノンはそう独り言ちて、騎士団敷地を後にした。
再会したフェリックス=ワイズがなぜあんなにも執拗に自分を捜しているのか?
それがわからないまま聞くに聞けず、ハノンはモヤモヤを抱え続ける日々を送っていた。
だが今日は休日。久々のオフの日である。
騎士団によほどのことがない限り、呼び出しがかかることもない。
こんな日に家の中で悶々鬱々と過ごすなんて勿体ない。
ど田舎だった元ルーセル領で兄にくっついて野猿のように遊び回っていたハノンにとって、たまに青空の下、広々とした空間で過ごすのは心身共に必要なことであった。
そうしてハノンは気晴らしのためにルシアンを連れて近くの大きな公園へと来たのだ。
その公園には広々とした芝生のエリアがあり、そこにレジャーシートを敷いてお弁当を食べたり裸足で歩き回ったりすると気持ちいいのだ。
ゴミはおろか小石すら見当たらない手入れの行き届いた芝生の上なら、ルシアンのような小さな子も裸足でゆっくりと遊ばせてやれる。
これも、田舎で裸足で駆け回る開放感が堪らなく好きだったハノンが、息子にもこの感覚を味合わせてやりたいと始めたことであった。
こんなところからして、ハノンは元々貴族令嬢らしからぬ貴族令嬢だったのだ。
初めてこの公園に連れてきた時、ルシアンはまだ二歳になったばかりだった。
ふかふかの芝生が足の裏を擽る初めての感覚にびっくりした表情を浮かべていた姿が悶絶級に可愛かった。
それから幾度となくこの公園を訪れているので、ルシアンも今では慣れたものだ。
芝生に着くなり裸足になり、持ってきたボールを転がして遊んでいる。
ハノンはそれを近くで見守りながら、いつものようにレジャーマットを敷いてお弁当を広げた。
今日のメニューはオープンサンド……いやオープンドッグにした。
作り置きの惣菜や今日のために作ってきたチキンハムなどを、なんでも好きにパンに挟んで食べるのだ。
惣菜はクリームチーズにスモークサーモンとスライスオニオンをマリネしたもの。それにポテトサラダ、人参をバターとガーリックソルトでソテーしたもの、それから林檎のコンポートと硬めに仕上げた自家製カスタードクリームもある。
可愛いルシアン王子様がお望みの具材を、ホットドッグ用のパンに挟んで渡してあげる。
これなら小さな子どもでもパンから具材がサヨウナラすることなく上手に食べられるのだ。
今日のルシアン王子様のチョイスは、ポテトサラダとチキンハムの組み合わせと、カスタードと林檎のナンチャッテアップルパイ風のオープンドッグ。
我が子ながらグッドチョイスである。
「いただちましゅ!」
「はいどうぞ召し上がれ」
「まま、おいちいね!」
「ふふ、そうね。お外で食べると美味しいわね」
「うん!」
あぁ……幸せだ。母一人子一人、一般的な家庭からすれば苦労と不憫のオンパレードに見えるかもしれないが、ハノン達親子はそんな風に感じたことはなかった。
母子二人、健康で平和に暮らせるなら他に何も望まない。
この平穏な暮らしがハノンのすべてだから。
でもたまに……今、目の前を通っていく親子連れ。
子どもを間に挟んだ両親が繋いだ手を引っ張り上げて子どもを宙に浮かせてあげているのをルシアンが不思議そうに見ている姿は、胸にグッと来るものがあるが……
かといって無理に誰かと結婚して父親を作ろうとは思わない。いや思えない。
母親しかいないのなら、その分思いっきり愛してあげれば良い。
ハノンはそんなことを考えつつクリームチーズとサーモンマリネのオープンドッグを頬張った。
ランチの後はルシアンとボールで遊んだり虫を観察したり、二人で追いかけっこをしたりと、休日のピクニックを楽しんだ。
そして夕方前には片付けをして帰路に就く。
今日は楽しかったねと話しながらルシアンと手を繋いで歩いていると、後ろからふいに声をかけられた。
「……ハノン様……?」
「え?」
数年ぶりに敬称を付けて呼ばれたことに驚いて振り返ると、そこには同年代くらいの若い男性が立っている。ハノンはその青年に見覚えがあった。
記憶の中にあるその人物との違いに多少戸惑うも正直に訊ねてみる。
「あの……もしかして……」
ハノンがその男性に訊ねると、相手はパッと明るい表情を浮かべた。
「やっぱりハノン様だっ、わかりませんか? 俺です、元ルーセル子爵家に勤めていたメイドの息子で、昔よく遊んだ……」
そこまで言われ、ハノンの記憶の扉がバタンと開いた。
「やっぱり……アレイ=バートンなの?」
父が借金の保証人となった友人が逃げたことにより、多額の負債を背負わされた。
そのせいで元々あまり多くなかった使用人達に暇を出したのだが、このアレイの母親であるメイドのラーナだけは給金がほとんど払えないのにもかかわらず最後までルーセル家を支えてくれたのだ。
住み込みだったラーナのたった一人の家族であるこのアレイとは、兄のファビアンと共に兄弟のように育ったのだった。
ハノンが名を言い当てたことで男性は――アレイは破顔して嬉しそうな声を出した。
「そうです! うわぁ懐かしいな、そして覚えていてくれたことが本当に嬉しい!」
「忘れる訳ないわよ、家族のように暮らしていたんだから。領地を手放すことになってそれきっりだったけれど……元気そうで何よりだわ」
ハノンがそう言うとアレイは大きく頷く。
「ええおかげ様で! ハノン様も相変わらずお美しくて驚きましたよ」
「またそんな上手なことを。昔からアレイは褒め上手だったわよね」
アレイは頭を掻きながら照れた顔をして答えた。
「お世辞なんかじゃありません。ハノン様は昔からお美しかった……俺を含め、元ルーセル領の腕白小僧達に崇められていたんですよ、ハノン様は」
それを聞き、ハノンはころころと笑った。
「いいのよ、わたしは自分の容姿はよくわかっているつもりだから。平々凡々の女だとね」
自棄になっている訳でもなく淡々と事実を述べるハノンにアレイは肩を竦めて「いや全然わかってないでしょ」と言った。
数年ぶりの再会でこんなにもすぐに打ち解けて話せるのも幼馴染だからこそだろう。
ハノンはかつての思い出の記憶の扉が次々と開き、懐かしさに微笑んだ。
そんなハノンが手を繋ぐルシアンに、アレイの視線が集中していることに気が付く。
「あぁ、息子のルシアンよ」
ハノンがルシアンを紹介するとアレイは少しだけ表情を曇らせて言った。
「……ご結婚されてるんですね。当然か、俺達もう二十一ですもんね。ご領地を失くされ苦労されているのではないかと心配してましたが、お幸せそうで何よりです」
アレイのその言葉を受け、ハノンはなんでもないことのように事実を告げた。
「わたし、結婚はしていないの。独り身でこの子を生んで育てているのよ」
「え……」
アレイが驚いた表情でこちらを見る。
一応貴族令嬢であった(今も一応子爵令妹だが)ハノンが今やシングルマザーだ。驚かれても無理はない。
その時、ルシアンが目を擦りながらハノンを見上げた。
「まま……ねむいよぅ……」
「あ、ごめんねルシアン。いっぱい遊んで疲れたよね。早くお家に帰ろう」
ハノンは荷物を肩にしっかりかけてからルシアンを抱き上げた。
おねむのルシアンがハノンの肩に顔を押し付けてくる。
これは相当眠たい時の仕草だ。ハノンはアレイに言った。
「ごめんなさいね、息子がおねむで限界みたいだからもう帰るわ。会えて本当に嬉しかった。お母様のラーナにもよろしく伝えてね」
ハノンがそう言って立ち去ろうとすると、ふいに肩から提げていた鞄を取り上げられた。
「アレイ?」
ハノンはきょとんとしてアレイを見る。
するとアレイは何やら難しそうな顔をしてハノンに告げた。
「……送ります」
「え? いいわよ悪いもの。それにアパートはすぐそこだから」
「すぐそこなら尚更送りますよ。子どもを抱えて荷物まで……そんな華奢な体で無理だ」
「平気よ? いつものことだもの。もう慣れっこよ」
ハノンのその言葉に、なぜかアレイは傷付いたような顔をする。
そして、「そんなことに慣れちゃダメだ……」と言って歩き出した。
「あ、ちょっと、アレイ……!」
「家はこっちでいいんですか?」
「え? ええ……そうだけど……でも……」
「送ります、送らせてください」
そう告げてアレイは前を向く。
「アレイ……」
ハノンはルシアンをしっかりと抱き直し、アレイの後を追った。
結局、再会した幼馴染にアパートまで送ってもらうこととなったハノン。
途中、抱っこしていたルシアンが眠ってしまい、重たそうに抱えて歩くハノンを見かねたアレイがルシアンも抱いてくれたのだった。
元より人見知りをする子ではないが寝ている間なら初めて会った男性でも大丈夫だろうと思い、ハノンはルシアンをアレイに預けた。
アパートまでの帰り道、アレイの口数は少なく、そして何かを考えているかのように見受けられた。
それなりに重い三歳の子どもを抱いて送ってもらったのに、お茶を出さず帰しては礼に欠ける。
そう思ったハノンがお茶を飲んでいくように勧めるも、この後用事があるからとアレイは断った。
だけど明日にでも改めて伺っても良いかと聞かれ、今日はいいけど明日は駄目とは言いづらいので了承したのだった。
そして次の日も休日であったハノンは昼過ぎに訪れたアレイを迎え入れた。
「いらっしゃい。昨日はありがとう、助かったわ。狭いけどどうぞ入って」
「お邪魔します」
ハノンが出迎えるとアレイは少し照れた様子で入ってきた。
「こんにちわっ!」
ルシアンが元気にご挨拶すると、アレイは優しく微笑みルシアンの前に屈んで挨拶を返す。
「こんにちは。お名前を教えてくれるかい?」
「るちあんでしゅ!」
「ルシアンくんか。お年は言えるかな?」
そう聞かれてルシアンは指を三本立てて、「しゃんたい!」と自慢げに言った。
「三歳か。ルシアンくんはお利口だなぁ」
「うん!」
「はははは」
二人が会話を交わしているのを聞きながらハノンはお茶の用意をする。
昨夜焼いておいたパウンドケーキと、今朝作って保冷魔道具で冷やしておいたオレンジゼリーも出した。
アレイはそのゼリーを見て懐かしそうに笑みを浮かべる。
「このゼリー……昔よく作ってくれましたよね」
「ふふ、覚えていてくれたんだ」
「覚えてますよ、俺の大好物だったんだから」
「お世辞でも褒められると嬉しいものね」
「お世辞だなんてとんでもない。本心ですよ」
そんなことを言いながらルシアンを椅子に座らせ、ハノンとアレイもそれぞれ席に着いた。
紅茶を口に含み、ややあって意を決したようにアレイが訊ねてくる。
「不躾な質問だとはわかっていますが……あえて訊かせてもらいます。ルシアンくんの父親とは今も繋がっているのですか?」
おそらく色々と訊かれるのだろうなぁと思っていたハノンは、話せる範囲で話すと決めていた。
「いいえ。向こうはルシアンが存在していることすら知らないわ」
「っそんなっ……!」
無理もないとは思うが父親に対する非難めいた反応に、ハノンは釘を刺すように告げた。
「向こうは何も悪くないの。詳しく話すつもりはないけれど、互いに合意の下で、そうなることを望んだのはわたしの方だということを理解してほしい。相手に子どものことを教えないと決めたのもわたし自身の意思よ」
「それでも……」
苦渋に満ちたアレイの表情に、ハノンは小さく笑った。
「そんな顔しないでアレイ。わたし達親子は充分幸せに暮らしているわ」
ハノンがそう声をかけると、アレイは俯く。
そして何か思い詰めたような声色で言った。
「……ルシアンくんが幼いうちはいいかもしれません。でも年齢が上がると共に、父親がいない家庭の不利を身をもって感じることが増える可能性がある……俺がそうだったから……」
ルーセル子爵家でメイドをしていたアレイの母親もシングルマザーであった。
当時アレイを妊娠中だった母親を捨て、父親は他の女とどこかへ消えたという話を聞いた覚えがある。
アレイは話し続けた。
「もちろん、すべての母子家庭がそうだとは言いません。でも、俺と母さんは結構苦労したから……ハノン様のお父上の先代ルーセル子爵やファビアン様がいてくださったからなんとかやってこられたんです……若いシングルマザーと知って言い寄ってくる男とか、困っていることが多いんじゃないですか?」
「……うーん、よっぽどわたしに魅力がないのか、それはないのよねー……」
「魅力がないなんてあり得ないっ」
「あら、ありがとう……」
ハノンが変な男に言い寄られないのは、偏にメロディのおかげだと思う。
メロディがハノンのアパートに出入りしているおかげで周辺の住人はメロディというボディガードがいることを知っているし、規律の厳しい西方騎士団でむやみやたらと誘いをかけてくる男はそういない。
稀にいたことはいたが、それもまたメロディに追い払われていた。
ハノンにはメロディという頼もしい守護神が憑いて……じゃない、付いてくれているのだ。
「ふふ」
守護神よろしく腕を組んで仁王立ちしているメロディを想像して思わず噴き出すハノンを、アレイは不思議そうに見やった。
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