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アネットの朝

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アネットは魔法省の省舎にほど近い小さなアパートに住んでいる。

両親と領地を失う前から、勤め出した魔法省へ通いやすいようにと借りていた部屋だ。

古くてとても狭い、だけど手入れの行き届いたアネットの大切な領域テリトリー

前の住人が置いていったという寝台と食器棚と小さなテーブルをそのまま使わせてもらい、少ないお給料からやりくりをして少しずつ食器や調理道具を買い揃えた。

借金を返すために全てを手放したけれど、債権者の情けでこれだけはと手元に残して貰えた、シラー男爵家の紋章入りの万年筆とカフス。
亡き父の形見であるこれらだけが唯一、アネットが貴族であるということを静かに物語っていた。

「ふわぁ~……よく寝た……」

朝目覚めると、アネットはまず花瓶に活けている花の水換えをする。
この花は魔法省のロビーに飾られていた花で、新しい花と交換される際に古いものを貰ってくるのだ。
古い花といえど新たに水上げをし、傷んだ葉を落とせばまだまだ充分に綺麗に咲き続けられる。
仲良しの掃除員のおばさんたちが各フロアの花を選りすぐり、いつもアネットのために取って置いてくれるのだ。

アネットは新鮮な水に交換した花を、亡き両親の写真の前に置いた。

「おはよう、お父さんお母さん。今日はとってもいいお天気よ」

毎朝欠かさない両親への挨拶。
二人はもうこの世界のどこにも居ないけれど、アネットの心の中にはずっと変わらない姿と笑顔で生き続けている。

アネットは愛おしそうに二人の遺影に細い指で触れた。

「今日も頑張るから。応援していてね」

それからアネットは顔を洗い、朝食の準備に取りかかる。
準備といっても気持ち薄めのミルクティーと近所のベーカリーで袋詰めで売られている安売りパンと手作りのジャムをテーブルに並べるだけ。
アネットお手製のジャム。
今の季節は公園でリスたちと競い合うように拾った栗で作った栗のジャム……というかペーストである。

「あ~もうほとんど食べちゃったぁ……」

アネットはヘラで保存用の瓶をこれでもかというくらいにペーストをかき集めてパンに塗りつけた。

「やっぱり量が少ないから味気ないわ」

アネットはボソボソとパンを咀嚼する。
でも大丈夫。
こういう時、アネットには裏技があるのだ。

アネットは目を閉じてウットリとした表情を浮かべてパンを食べ続けた。

「うふふ。おかげで美味しく食べられたわ」

アネットはそうひとりちて、食器をキッチンへと運んで片付けた。

朝食の後はさっと身支度を整える。

小さなクローゼットの扉を開けて中に掛けられた三着のワンピースと睨めっこをする。
一着は先日のお見合いのために貯めていたヘソクリを崩して購入した一張羅のワンピース。
既製品の廉価商品だけど、優しいサーモンピンクが気に入っている。

は、もちろん大切な一着なので仕事には着ていけない。
となると選択肢はあと二着だ。
そのうちの一着は昨日、それを着て登省した。
ということは……。

「ふふ。悩むまでもなくこのワンピースしかないわね」

そう言ってアネットは昨日着ていない方のワンピースを手に取った。

着替えを済まし、洗面台の上に取り付けられている鏡の前に立つ。
アネットは自身のふわふわでくるくるなくせ毛に触れる。

「笑っちゃうくらいのくせっ毛ね。でも酒屋のおカミさんに教えてもらったりんご酢リンスのおかげで少しマシになってきたわ」

アネットは生まれつきくせ毛でオマケに猫っ毛だ。
空気が乾燥している日、そして雨の日は髪が反乱を起こし広がってなかなか纏まってくれない。

効果の高いトリートメント剤と香油を使えばこの困ったくせ毛も幾分かマシになるのだろうけど、如何せんアネットにはそんな金銭的な余裕はない。
なのでくせ毛たちを躾けることは諦めて、髪を結うなどして対応していた。

そんな時、近所の市場の酒屋の奥さんがいい事を教えてくれた。

「それならビネガーリンスにすればいいのよ」

アネットが購入した塩を袋に入れながらおカミさんが言った。

「ビネガーリンス?お酢を髪に塗るんですか?」

「髪に直接塗るんじゃなくて洗面器にお湯を張ってそこにビネガーを垂らすの。それを髪に浸したり、目に入らないように気をつけて頭から被ればいいのよ」

「髪に良いんですか?」

「抜け毛が減るし髪がふんわり柔らかくなるわ。くせ毛にもいいらしいのよ。お酢の匂いが気になるようならアップルビネガーがオススメね。ビネガーは安いし使用量も少しでいいからお財布にも優しいわ」

「やります!ビネガーリンス!りんご酢をひと瓶くださいな!」

「ハイお買い上げまいどあり!」

と、いう経緯ではじめたりんご酢リンスだが、これが期待以上の効果でアネットはとても満足している。

「ふふ、それでもまだくせっ毛だけれど」

そして支度が整ったらもう家を出る時間だ。
アネットは昨夜の夕食の残りをタッパーに詰めて、家を出た。

本省の省舎までは徒歩で二十分ほど。
途中、商店街のアーケードを通るので雨の日は助かるし、様々な店舗の店構えを見るのも楽しい。

アネットはどんな些細なものにでも楽しさや幸せを見出すことの出来る天才であった。

魔法省の建物が見えてくる。
その前には王都で有名なパティスリーがあるのだが、そのパティスリーからとある香りが漂ってきた。

『あ、この香りは……!』

アネットはその香りに釣られるようにパティスリーに近づく。
そして前を平然と歩く通行人を装って人知れずその香りを堪能するのだ。

『お店の名物、ガレットのバターの香りがたまらな~い……今朝もこの香りを思い出しながらパンを食べてとても美味しく感じたの。新しく記憶の上書きが出来て嬉しいわ。これで明日の朝のパンもこの香りを思い出して美味しくいただける』

今日はなんていい日だろう。
ガレットの焼き時間はまちまちで、この芳しい香りにお目にかかれ……鼻にかかれるのはなかなかにタイミングが難しいのだ。
まさか店の人に匂いを記憶したいから焼き時間を教えて欲しいとも言えず、かといって超高級パティスリーのお菓子なんてとてもじゃないが買えない。

だからこうやって偶然にも焼き時間とかち合うなんてとてもラッキーなのだ。

『今日はきっといいことがある日だわ』

アネットは満足し、自身にもふんわりとついたガレットの香りに幸せを感じながら省舎へと入っていった。


そしてその予感が当たったのかどうか……は定かではないが、午後のランチタイムに突然アネットの前に先日婚約者となったトリスタン・ハイドが現れたのだった。

「……え?今日の終業後、ですか?終業後に時間があるかとお訊ねになられたのですか?」

トリスタンに告げられた言葉を確認するようにアネットは繰り返した。
トリスタンは鷹揚に頷く。

「そうだ。キミは今夜、何か用事はあるのか?」

「い、いいえ?とくにはないですが……」

「それなら、今夜食事に行くぞっ」

「え?」

「婚約者となったのだから交流の場を設けんといかん」

「と、誰かに言われたのですね?」

「……キミを可愛がってるジリス次長にそろそろデートに誘えと言われた」

「デ、デート……ライブラ・ジリス様に……」

「俺は婚約者を食事にも連れて行かないような薄情で狭量な男ではないっ」

「ぷ、ふふ……ジリス様にそう言われたのですね」

ズバズバものを言うジリスらしい。
アネットは思わず吹き出し、そのまま笑みを浮かべてトリスタンに返事をした。

「嬉しいです。ぜひ、お食事をご一緒したいですわ」

「……そうか」

「はい。楽しみです」

「よし、じゃあデートするぞ!」

「はい。デートしましょう」

「俺たちは婚約者同士だからな!」

「ふふふ。はい、私たちは婚約者同士です」


アネットとトリスタン。

婚約を結んで初のデートとなった。



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