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杉崎 瑞枝・圭司 1
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「片野先生、お疲れ様です。」
片野医師は、入院患者の回診を終えて廊下を歩いていたところ、すれ違った救急科の医師に声を掛けられた。
「日比野(ひびの)先生、お疲れ様。ちゃんと休めてますか?」
「最近は夜も急患が多くて、非番でも結構な頻度で呼び出されてます。ははは。」
そう言いながらも疲れを感じさせない笑顔で話す日比野医師は、救急科五年目の三十代の女性医師だ。まだ、経験豊富とまではいかないが、的確な判断と措置で、先輩医師からも一目置かれている存在だ。片野医師も、その噂は充分耳にしており、若い医師の活躍を嬉しく思っていた。
「全国的な話かもしれないですが、高齢者が増えれば病院の需要が増える一方ですけど、やっぱり医師の数が足りないですよね。先生のとこも、患者さんの数凄いじゃないですか。」
「確かにそうですね。年寄りも増えてるけど、最近はまだまだ働き盛りの若い世代の人の大病を診る機会が多く感じてましてね。…午前中も三十代の男性に余命一ヶ月を宣告しましたよ。…余命の宣告ってのは、何回経験しても慣れるもんじゃないなぁと。」
片野医師の話を日比野医師は頷きながら真剣に聞き入っていた。
ブーッ、ブーッ、ブーッ。
「あ、すみません。呼び出しが。…はい、日比野。…分かりました、直ぐに行きます。」
日比野医師は首から下げた携帯をパタンと閉じた。
「急患ですか?」
「はい、すみません、失礼します。」
日比野医師はそう言うと、駆け足で救急科へと向かった。
「さて、私も戻りますか。」
片野医師も診察室へと歩き出した。
その頃、救急車内では、意識が昏迷している八十代の女性患者と息子を乗せて総合病院を目指していた。
「瑞枝(みずえ)さん。分かりますか?救急車の中ですよ。」
救急隊員が、患者の瑞枝に話しかけると、目で少し合図を送った。その様子を、息子の直樹(なおき)は、潤んだ目で見守っていた。
「息子さん、お話し聞かせていただけますか?」
「は、はい。母は、一ヶ月前程から体調を悪そうにしてたんですけど、昔から病院嫌いで…一向に病院に行こうとしてくれなくて。父も健在なんですが、軽い認知症を患ってまして、母は父の面倒を見ながら、昨日までは普通に生活してました。でも、やっぱり相当具合は悪かったようで、今朝吐血したらいんですよ。」
「今朝ですか?随分時間経ってますね。」
救急隊員は午後二時過ぎを指す時計を見て答えた。
「それが…母は吐血したことも隠してたんです。今朝も病院連れてこうかと聞いたんですが、大丈夫だから早く仕事行けと追い払われまして。渋々仕事に行ったんですが、母が毎日昼に使うはずの電気ポットに触れた形跡がなくて。」
「あぁ、今ありますよね、見守り機能が付いてる電気ポット。確か使用すると登録しているアドレスにメール連絡が来るやつですよね?」
直樹は頷いて、話を続けた。
「それで慌てて帰ったら、畳の上に苦しそうに倒れている母を見つけたんです。洗面所を見たら血を拭いたのか真っ赤に染まったタオルが幾つもあって…それで…。」
直樹は項垂れるように言葉に詰まって下を向いた。
救急隊員は、気道確保と必要な措置を行いながら、総合病院の救急車スペースに車を停止させた。後ろのドアを開けるなり、入口で待機していた日比野医師らが駆け寄り、患者の様態を見て救急隊員から状況を聞きながら処置室へと運ぶと、早速瑞枝の容態の確認を始めた。
その間、直樹は処置室の入口脇の長椅子に腰掛け、願掛けするように顔を伏せて、只管に医師からの報告を待った。
処置の最中で、レントゲンやMRIなどの検査のため、何度か出入りを繰り返し、16時過ぎに、直樹は日比野医師に呼ばれ、診察室へと入った。
診察室に入ると、まず幾つも貼られているレントゲンの写真が目に飛び込んできた。
「…杉崎(すぎざき)直樹さんですね。お母様、瑞枝さんの検査結果が出ましたので、お呼びしました。どうぞお掛けください。」
直樹は、恐る恐る日比野医師の前の丸椅子に腰掛けた。
「…お母様、大分ご無理なされてたようですね。」
「やっぱりそうですか。母は、昔ながらの人間というか病院に行くことを昔から嫌ってまして…縛ってでも無理矢理連れてくれば良かったんですが…。」
日比野医師は、一枚のレントゲン写真を指差し説明を始めた。
「見てください。これはお母様の胸部レントゲン写真ですが、このように両方の肺が真っ白になっています。」
素人目に見てもそれは一目瞭然だった。直樹自身、過去にレントゲン写真を何度か見たことがあるが、こんな真っ白に写った肺は見たことがなかった。
「…やっぱり重い病気…なんですか?」
涙声で聞く直樹に、日比野医師は少し間を置いて説明を続けた。
「…はい。病名を言うのであれば肺炎ですね。かなり重度の…。」
「…治るんでしょうか?」
日比野医師は、首を縦には振らなかった。
「重い肺炎を放置していた結果、細菌が血液に入り込んでしまい…敗血症を併発してしまっているようです。」
「…は、敗血症…そんな。」
直樹は、敗血症という言葉に落胆した。素人ではあるが、それがどんなに致死率が高い病気かは何となく分かっていたからだ。この時、直樹は覚悟するしかないと心の中で思った。
「…先生、母はあとどれくらい…。」
「正直、このままですと今週がヤマかと。薬や装置を使った延命措置を続けて、いつまで持つか…。」
『延命措置』か。直樹は、昔瑞枝が言っていた言葉を思い出した。
片野医師は、入院患者の回診を終えて廊下を歩いていたところ、すれ違った救急科の医師に声を掛けられた。
「日比野(ひびの)先生、お疲れ様。ちゃんと休めてますか?」
「最近は夜も急患が多くて、非番でも結構な頻度で呼び出されてます。ははは。」
そう言いながらも疲れを感じさせない笑顔で話す日比野医師は、救急科五年目の三十代の女性医師だ。まだ、経験豊富とまではいかないが、的確な判断と措置で、先輩医師からも一目置かれている存在だ。片野医師も、その噂は充分耳にしており、若い医師の活躍を嬉しく思っていた。
「全国的な話かもしれないですが、高齢者が増えれば病院の需要が増える一方ですけど、やっぱり医師の数が足りないですよね。先生のとこも、患者さんの数凄いじゃないですか。」
「確かにそうですね。年寄りも増えてるけど、最近はまだまだ働き盛りの若い世代の人の大病を診る機会が多く感じてましてね。…午前中も三十代の男性に余命一ヶ月を宣告しましたよ。…余命の宣告ってのは、何回経験しても慣れるもんじゃないなぁと。」
片野医師の話を日比野医師は頷きながら真剣に聞き入っていた。
ブーッ、ブーッ、ブーッ。
「あ、すみません。呼び出しが。…はい、日比野。…分かりました、直ぐに行きます。」
日比野医師は首から下げた携帯をパタンと閉じた。
「急患ですか?」
「はい、すみません、失礼します。」
日比野医師はそう言うと、駆け足で救急科へと向かった。
「さて、私も戻りますか。」
片野医師も診察室へと歩き出した。
その頃、救急車内では、意識が昏迷している八十代の女性患者と息子を乗せて総合病院を目指していた。
「瑞枝(みずえ)さん。分かりますか?救急車の中ですよ。」
救急隊員が、患者の瑞枝に話しかけると、目で少し合図を送った。その様子を、息子の直樹(なおき)は、潤んだ目で見守っていた。
「息子さん、お話し聞かせていただけますか?」
「は、はい。母は、一ヶ月前程から体調を悪そうにしてたんですけど、昔から病院嫌いで…一向に病院に行こうとしてくれなくて。父も健在なんですが、軽い認知症を患ってまして、母は父の面倒を見ながら、昨日までは普通に生活してました。でも、やっぱり相当具合は悪かったようで、今朝吐血したらいんですよ。」
「今朝ですか?随分時間経ってますね。」
救急隊員は午後二時過ぎを指す時計を見て答えた。
「それが…母は吐血したことも隠してたんです。今朝も病院連れてこうかと聞いたんですが、大丈夫だから早く仕事行けと追い払われまして。渋々仕事に行ったんですが、母が毎日昼に使うはずの電気ポットに触れた形跡がなくて。」
「あぁ、今ありますよね、見守り機能が付いてる電気ポット。確か使用すると登録しているアドレスにメール連絡が来るやつですよね?」
直樹は頷いて、話を続けた。
「それで慌てて帰ったら、畳の上に苦しそうに倒れている母を見つけたんです。洗面所を見たら血を拭いたのか真っ赤に染まったタオルが幾つもあって…それで…。」
直樹は項垂れるように言葉に詰まって下を向いた。
救急隊員は、気道確保と必要な措置を行いながら、総合病院の救急車スペースに車を停止させた。後ろのドアを開けるなり、入口で待機していた日比野医師らが駆け寄り、患者の様態を見て救急隊員から状況を聞きながら処置室へと運ぶと、早速瑞枝の容態の確認を始めた。
その間、直樹は処置室の入口脇の長椅子に腰掛け、願掛けするように顔を伏せて、只管に医師からの報告を待った。
処置の最中で、レントゲンやMRIなどの検査のため、何度か出入りを繰り返し、16時過ぎに、直樹は日比野医師に呼ばれ、診察室へと入った。
診察室に入ると、まず幾つも貼られているレントゲンの写真が目に飛び込んできた。
「…杉崎(すぎざき)直樹さんですね。お母様、瑞枝さんの検査結果が出ましたので、お呼びしました。どうぞお掛けください。」
直樹は、恐る恐る日比野医師の前の丸椅子に腰掛けた。
「…お母様、大分ご無理なされてたようですね。」
「やっぱりそうですか。母は、昔ながらの人間というか病院に行くことを昔から嫌ってまして…縛ってでも無理矢理連れてくれば良かったんですが…。」
日比野医師は、一枚のレントゲン写真を指差し説明を始めた。
「見てください。これはお母様の胸部レントゲン写真ですが、このように両方の肺が真っ白になっています。」
素人目に見てもそれは一目瞭然だった。直樹自身、過去にレントゲン写真を何度か見たことがあるが、こんな真っ白に写った肺は見たことがなかった。
「…やっぱり重い病気…なんですか?」
涙声で聞く直樹に、日比野医師は少し間を置いて説明を続けた。
「…はい。病名を言うのであれば肺炎ですね。かなり重度の…。」
「…治るんでしょうか?」
日比野医師は、首を縦には振らなかった。
「重い肺炎を放置していた結果、細菌が血液に入り込んでしまい…敗血症を併発してしまっているようです。」
「…は、敗血症…そんな。」
直樹は、敗血症という言葉に落胆した。素人ではあるが、それがどんなに致死率が高い病気かは何となく分かっていたからだ。この時、直樹は覚悟するしかないと心の中で思った。
「…先生、母はあとどれくらい…。」
「正直、このままですと今週がヤマかと。薬や装置を使った延命措置を続けて、いつまで持つか…。」
『延命措置』か。直樹は、昔瑞枝が言っていた言葉を思い出した。
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