最期の時間(とき)

雨木良

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杉崎 瑞枝・圭司 2

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何年か前に、父が認知症の診断を受けた時に、母がこんなことを言っていた。

「わたしゃ、ボケて人に迷惑かけてから死にたくはないわね。直樹、私にもしもの時があったら延命措置とか絶対しないで、コロッと逝かせてくれよ。」

あの時は、冗談で言っていたのかもしれないがその言葉が直樹の中で強く残っていた。

確かあの時は、父が認知症だと診断されたショックで自分も落ち込んでいる中で、母が父を揶揄するような言葉を吐いたことに苛立って口喧嘩になった覚えがあった。

気分が悪くなり家を飛び出した自分が、しばらくしてそっと家に帰り、静かに自分の部屋に向かう途中、父の寝室の障子が開いていた。そっと様子を伺うと、寝ている父の横で、母が涙を流している姿が目に入った。

そりゃそうだよな。25前後で結婚して60年以上一緒にいる相方が、短い時間でもしかしたら自分のことをすっかり忘れてしまうかもしれない、60年積み上げてきた思い出が全て白紙になってしまうとしたら、こんなにツラいことは無いのだろうと直樹は思った。

その後は、デイサービスを利用しながら、父を懸命に介護してきた母がこんな形で余命を宣告されるなんて、直樹は母に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「…杉崎さん?大丈夫ですか?」

日比野医師の言葉でハッと我に返った直樹は、心配そうに見つめる日比野医師に立ち上がって質問した。

「先生…延命措置…もしお断りしたら…俺は人殺しと同じですか?」

「え?」

日比野医師は、予想していなかった直樹の言葉に一瞬固まってしまった。

「…人殺しだなんて、そんなことはありませんよ。悩まれてるってことは、瑞枝さんとそういうお話をされたことが?」

「…え、えぇ。あの時はまさか、こんなことになるなんて、考えもせずに聞いてました。…人様に迷惑を掛けたくない性格だったんで、多分本心で言ってたと思うんです。…延命措置したら、治るチャンスがあるんですか?」

潤んだ目で見つめる直樹に、日比野医師は目を逸らして、ゆっくり首を横に振った。

その反応に、直樹は深いため息を付いて、崩れ落ちるように椅子に座った。

「…母さん…いいよな?…俺、きっと母さんのこと…ちゃんと理解出来てると思うんだ。…いいよな…母さん。」

涙を流しながら自問自答している直樹に対して、日比野医師も椅子に座り、直樹の手を優しく握った。

「杉崎さん。私はあなたがそう感じたのなら、瑞枝さんのご意思もそうなんだと思います。こんなに涙して悩んで出した杉崎さんの結論に対して、瑞枝さんは何も文句は言わないと思いますよ。…今すぐじゃなくて良いですから…一旦待ち合い室でご自分一人になってお考えください。」

直樹は頷き、ゆっくり立ち上がると診察室を後にした。

「…ふぅ。片野先生の経験値でも慣れてないんだから、私なんてまだまだよね…。」


廊下に出た直樹は、待ち合いスペースまでフラフラと歩き、並んでいる長椅子に腰を下ろし、頭を抱えた。

今朝まで普通に会話していた肉親が、たった数時間後に、死に至る病に冒されていることを告げられ、もう会話もままならない現状が、まだ現実と捉えることが出来なかった。一人っ子で独身の直樹には、こんな重い悩みを相談する相手が見当たらず、プレッシャーに押し潰されそうだった。

「…あ、そうだ。親父には何て言おうか…。」

軽度の認知症を患っている父・圭司(けいじ)は、まだ瑞枝や直樹のことはしっかりと認識出来ているが、日々の中で、時々認知症なんだと感じられる言動があった。

昔からだが、瑞枝と圭司は、毎日のように口喧嘩をしていた。その原因は本当にどうでもよいことが多く、直樹も二人の口喧嘩には嫌気をさしている日々だった。加えて二人とも耳が悪かったため、自然と声も大きかった。

圭司が軽度の認知症の診断を受けた後も、変わらず二人の口喧嘩は日常の一部だった。だが、直樹の中で二人の口喧嘩の見方が変わっていた。口喧嘩をすると言うことは圭司が瑞枝をしっかり理解しているという証拠であり、今までと何も変わっていないという安心感を得れていたからだ。

もうあの口喧嘩を聞くこともないのか…直樹はまた悲しみの波に襲われた。

圭司は、朝からデイサービスに出掛けており、瑞枝が救急車で運ばれていることを知らずにいる。そろそろデイサービスから帰ってくる予定の時刻だが、圭司を一人きりには出来ないため、昔からの付き合いがある隣の家に圭司のことを頼んで来ていた。

圭司の人生から瑞枝が消えたら、彼はどうなるのだろうか。それは正に自分にも当てはまることであり、自分の人生から母親が消えたらどうなるのだろうか。…答えは直ぐには出なかった。

だが、一つだけ確かな感情があった。『もっと親孝行しておけば良かった』。60歳手前で独身の自分に、瑞枝は毎日のように小言を言っていた。思い返せば、毎日毎日その言葉に苛立って、冷たくあしらってばかりだったが、今考えれば、一人っ子で独身の息子を心配するのは母親としては当然のことであり、愛情の一つだったんだとハッキリと理解出来た。

「もっと優しく出来たよな…。」

どうにもできない後悔と不安が直樹を包み込んでいた。
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