最期の時間(とき)

雨木良

文字の大きさ
上 下
10 / 56

名もなき子・霞 1

しおりを挟む
日比野医師は、直樹を見送ると再び集中治療室に戻り、瑞枝の容態を確認し、眠っている瑞枝の胸にそっと手を当てた。

「立派な息子さんをお持ちですね。私の息子もあんな風に親を大事に考える人に育って貰いたいです。」

日比野は瑞枝の顔を見つめながらぼそりと呟いた。

同時刻。病院の正面に一台のタクシーが止まり、高齢のタクシー運転手が急いで運転席を降りて、後部座席のドアを開けると、中に座っていた若い女性を肩で支え、病院の中へと入ってきた。

タクシー運転手は、中に入るや否や、左手の総合受付の窓口に向かって大きな声を上げた。

「だ、誰か!産婦人科、産婦人科の先生に早く!!」

その声に病院内の視線は一点に集中した。受付にいた係員は、一瞬固まったが、支えられている女性が苦悶の表情を浮かべて、お腹に手を当てていることで理解し、すぐに産婦人科の窓口に内線を掛けた。

その間、運転手は近くの長椅子に女性を座らせ、もうすぐ先生がくるから大丈夫などと励まし続けていた。

数分後に、産婦人科の看護師が走って来た。

「大丈夫ですか?…まずお名前言えます?」

「遠藤霞(えんどうかすみ)です。」

看護師の問い掛けに、霞は苦しそうに答え、鞄から財布を取り出し、看護師に渡した。

「その中に…診察券が。」

看護師は急いで財布を開くと分かりやすい所に診察券が挟まっており、診察券を手に取ると、看護師は首から下げていた携帯で産婦人科の窓口に電話を掛けて、霞の名前や生年月日を告げた。

「遠藤さん、ちょっと待ってて。直ぐに先生も来るから。」

看護師は、苦悶の表情を続ける霞のお腹を見て少し不思議に感じた。

「…あなた、お腹そんなに出てないけど、妊娠何週目?」

「…20週…です。」

それを聞いて看護師は早産の可能性を危惧し、とりあえず霞を長椅子に寝転がらせた。

「20週か…まだ早いわね。お腹痛いのよね?」

看護師の問い掛けに霞は頷いた。

「子宮が収縮してるかも、このままじゃマズイわね。」

そう言ってる間に、ストレッチャーを押しながら、医師と看護師二人が現場に到着した。

「鵺野(ぬえの)先生、この方まだ妊娠20週ですが、子宮収縮かもしれません。」

「分かった。とりあえず処置室へ。」

鵺野医師の指示で、霞をストレッチャーに乗せることにし、男手としてタクシー運転手も手伝い、無事にストレッチャーに乗せ終わると、急いで処置室へと向かった。

看護師の一人が残り、タクシー運転手に状況を確認した。

「元々は目的地がデパートだったので、恐らく買い物に行く目的で私どものタクシー会社に迎車をご依頼されたと思うんです。ですが、デパートに向かっている途中で急に苦しみ出されまして、お聞きしたらご妊娠されてるとのことでしたので、まさかと思いました。それで、掛かり付けの病院がここだとお伺いしたもので…あの方、大丈夫ですよね?」

「ありがとうございます。我々も全力を尽くしますから。もしまたお聞きしたいことがあった場合、ご連絡させていただきたいんですが。」

すると、タクシー運転手は名刺を看護師に渡した。

「ありがとうございました。」

看護師はそう言って頭を下げると、走って処置室へと向かった。

タクシー運転手は、両手に力を込めて「頑張れ!」と呟いた。

処置室では、鵺野医師を中心に、霞と胎児の容態を確認していた。

「患者さんは遠藤霞さん29歳。妊娠20週目です。前回の検診では胎児には異常は特に見られませんでした。」

看護師がカルテを読みながら鵺野医師に伝えると、鵺野医師は霞の身体を見て言った。

「遠藤さん。ちょっと体重が少なすぎなんじゃないか?ちょっと細すぎだよ。」

「そうですね。前回の検診の際に、霞さんから食べ物が喉を通らないという相談を受けて、栄養補給の点滴を行ってます。体調がその後も戻らなかったんですかね。」

「ストレス性かもな。とにかくこのままじゃ早産になっちまう。子宮収縮抑制剤の準備を頼む。」

看護師が抑制剤投与の準備に取り掛かった。鵺野医師は、苦悶の表情を続ける霞の顔に近づき、肩を叩きながら呼び掛けた。

「遠藤さん!今お腹の痛みを取る薬を入れますからね!」

霞は、早くこの痛み苦しみから解放されたくて頷いたが、鵺野医師の腕を掴んで質問をした。

「はぁ…はぁ…あ、赤ちゃん…は…大丈夫です…か?」 

「このまま産まれてしまった方が、胎児にとっては危険です。お腹の中に留めておくためのお薬ですから。」

鵺野医師が微笑みながら答えると、霞も少し微笑んで頷いた。

霞は今、二人目の子どもを授かっている。上の子は現在3歳になったばかりの男の子だが、普通に産まれて、平和なまま今に至っているたわけではなかった。だからこそ、霞は今のお腹の中の子が心配で仕方なかった。

長男の光輝(こうき)は、今から約三年前、同じこの病院で産まれていた。

更に遡ること約7か月前、霞が結婚してから二年後、子どもが欲しくて堪らなかった夫婦に待望の赤ちゃんが宿った。その事が分かった日の嬉しさと興奮は、霞にとって今も忘れることのできない思い出になっていた。

初めての妊娠だったため、悪阻(つわり)や体質の変化に悩まされながらも、安定期に入ると、子どもが産まれるという幸せに浸る時間が増え、毎日お腹を擦り、声を掛けながら産まれてくる我が子を待っていた。

だが、予定日まで一ヶ月を切った時に、それは突然やって来た。幸いだったのは、休日だったため、夫の翔太(しょうた)と一緒に居るときだったということだ。二人で近所のスーパーに夕飯の買い物に来ていた時、突然お腹に激しい痛みを感じたのだ。触ると今までにないくらいお腹が張っていた。

慌てふためく翔太は、霞の指示で病院まで車を走らせた。病院に着くなり、破水が始まり、緊急分娩となり分娩室へと直行した。

まだ予定日までは一ヶ月もあるのにと、霞は激しい痛みの中、ただただ産まれてくる我が子の心配ばかりをしていた。

翔太も分娩に立ち会い、霞の手を強く握りながら見守った。霞の余りに苦しそうな表情に、翔太も顔を強張らせ、無事に我が子が産まれてくることを一緒に願った。

産まれてくるまでは、それほど時間が掛からなかった。

産まれてすぐに泣き声が聞こえ、二人は安堵の表情を浮かべた。産まれたての我が子を看護師が見せてくれた時の感動は、今までの人生で経験をしたことのない喜びだった。

しかし、早産だったため体重が2000グラム程の未熟児だったため、直ぐに保育器に入れられ、別室へと移された。

感動してわんわん泣いている翔太も医師の指示で分娩室を一旦出ていった。

霞は分娩後の処置を終えると窓ガラス越しに、保育器に入れられた我が子を見せてもらった。

小さくてシワシワで小猿のようだったが、ただただ愛しく感じた。

看護師からは、今日はゆっくり休みなさいと言われて、病室に連れて行かれると、疲れがどっと襲ってきて、いつの間にか眠ってしまい、気が付くと翌朝になっていた。

朝ごはんを食べ終わると、医師が回診にやってきた。霞は満面の笑みで礼を述べたが、医師の表情は曇っていた。

その時、医師が教えてくれた。

『あなたの子どもはダウン症の可能性が高いです』と。
しおりを挟む

処理中です...