最期の時間(とき)

雨木良

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名もなき子・霞 2

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ダウン症候群。それはトリソミー21という染色体異常の通称であり、いわゆる発達障害の一種である。更に、ダウン症は、産まれた際に心臓疾患や聴覚や視覚の異常など合併症のリスクもあるのだが、霞の子は幸いにも命に影響のある心臓等の内臓疾患は見当たらなかった。

医師からダウン症と告げられた際、その名称は耳にしたことがあったが、当然その詳細は分からず、不安で押し潰されそうになった。それと同時に、子どもが出来た時にやりたかったこと、行きたかったとこ、子どもが巣立つまでのライフプラン、その殆どが崩れ去るような気がして悲しかった。

昨日見た我が子は、小猿のようでありながら、とても可愛いと感じられたのだが、今見ても同じ感情を抱けるのかと不安になった。結果、それはその不安通りになった。数時間後に子どもを見に行ったが、ダウン症という言葉が先行して、純粋に可愛いと思えない自分がいた。マイナスなことばかりを考えてしまう自分を支えてくれたのが、夫の翔太と両親だった。

翔太は偏見の目を持たず、俺に似て可愛い子だと毎日のように笑顔で子どもを見つめていた。翔太は何も考えてないように見えて、しっかりダウン症について勉強をしていた。霞がふとした時に会社帰りに病院に寄ってくた翔太の鞄の中に、ダウン症についての本が入っていたのだ。

その時、霞は自分は何してるんだろと思った。

更に、ある時別の病室を担当している看護師がやって来て霞に告げた。「自分もダウン症の子どもがいる。最初は億劫になることも多いと思うけど、すぐに自分の子どもが一番だと思えるようになる。ダウン症はいつまでも親に甘えてくれるから、海外では天使の子と呼ばれているのよ。ダウン症は障害じゃない、個性よ。」と。

霞は涙を流しながら看護師の話に聞き入った。また、近くに住む両親も毎日のように病院に来ては、霞の心の支えになってくれた。

『私は一人じゃない。』

そう確信できた時、霞の考えが変わった。自分の子どもを一番だと思って育てよう。唯一無二の光り輝く存在なんだから。そして、役所への届け出期限ギリギリまで悩んでいた子どもの名前を『光輝』と名付けた。

2歳を過ぎた時、漸く掴まり立ちを始め、徐々に歩こうと努力をし始めた。当然、普通の二歳児よりは発達具合は遅れているが、霞と翔太にとっては周りの事など関係なく、光輝の成長を心から喜び、歩けるようになるかという、一つの大きな不安が拭えたため、二人目の計画を立て、今のお腹の中の子に至っていた。

妊娠が分かった時は勿論嬉しかったのだが、またダウン症の可能性は無いのかという不安が無いと言えば嘘になった。霞はその不安を翔太にも正直に伝えると、出生前診断という案内を持ってきてくれた。

費用はそれなりにかかるのだが、数ヶ月も不安を抱えながら妊娠生活を送るのはお腹の子にも良くないと思い、診断を受ける決意をした。

診断結果を伝えられる日は、緊張で朝から何も食べ物が通らなかった記憶がある。霞の中では、どうしても悪い結果ばかりがちらついていた。

万が一、ダウン症や他の染色体異常を告げられたら、その子を堕ろすことに繋がるのか。折角授かった命を普通の人間としては産まれないからという理由で無きものにして良いのだろうか。いや、それは綺麗事で、現実はそんなに甘くない。既に一人の障害者を抱えてるんだから、神様も許してくれるはず…そんな答えの出ないことばかりを考えていた。

翔太に付き添って貰い、医師から貰った結果表には『異常なし』の文字。緊張が一気に解けて、その場で崩れ落ちそうな気持ちだった。

兎にも角にも、霞の中の不安が一気に吹っ飛び、その後に、光輝が本格的に歩き出した事もまっさらな気持ちで喜べた。

光輝の成長とお腹の子の成長、そんな幸せに包まれた生活を送っていた中で、今回の件が襲ってきたのだ。

子宮収縮抑制剤を打たれた霞は、部屋を移され、様子を見ることになった。

看護師からはこのまま産まれるまでは入院してもらうことになると思うと言われた。霞は、少し痛みが和らいだため、看護師にお願いをし、光輝をみている母親と、仕事中の翔太に今の状況をベッドの上から電話で告げた。

翔太はすぐに、母親は入院の準備をしてから光輝を連れて駆け付けると返事をした。

霞は、電話を終えると横に置き、天井を眺めた。

「…この子、大丈夫なのかな…。」

再び霞の頭の中は不安でいっぱいになった。

ガラガラガラ。病室の扉が開き、鵺野医師が入ってきた。

「遠藤さん。体調はいかがですか?」

「さっきよりは大分楽になりました。ありがとうございました。」

「すみませんね、今日は遠藤さんの主治医の桜庭(さくらば)先生が非番でして。…それで、今は一旦落ち着いたとは思うんですが、安心は出来ません。急で大変だとは思いますが、このままご入院をお願いします。」

霞は頷いた。とにかく、お腹の子を最優先に考えたい。光輝にとっては、初めて母親と長い間離れることになるが、子ども好きの翔太と両親のおかげで、その点の不安は無かった。

「出生前診断受けてたんですね。お一人目がそうですと、やはり不安はありますよね。ダウン症は、成長が遅い分、幼い時期つまり可愛い時期が長いので、大変だけど成長をゆっくり楽しめるし、成長した嬉しさが健常者の子どもの倍以上だって、お母さん方から聞いています。良いお兄ちゃんになるといいですね、光輝くん。」

鵺野医師は微笑んで病室から出ていった。

「光輝がお兄ちゃんか…そうか…。」

霞はお腹を擦りながら微笑んだ。


ガラガラガラ。

「霞!大丈夫か!?」

しばらくすると、凄い勢いで病室の扉が開き、翔太が駆け込んできた。最寄りの駅から全力疾走してきたのだろうか、まだ3月で肌寒い時期にも関わらず、汗だくだった。

「翔太、ごめんね、びっくりさせちゃったよね。心配した?」

「ば、馬鹿!当たり前じゃないか。…で、どうなんだ?」

「うん、一旦は薬のおかげで落ち着いたみたい。でも、このまま入院になっちゃったよ。光輝もいるし…翔太が大変になっちゃうよね。」

「光輝なら俺やお義母さんがみるから、霞は余計な心配はしないでいいよ。昼間は施設が預かってくれてるんだし、職場は事情を話せば考慮してくれると思うし。」

霞は、自分の心配事や不安を一瞬で取り払ってくれる翔太に感謝した。

「とりあえず落ち着いたみたいで良かった。…安心したら喉乾いちゃったよ。」

「全力疾走してきてくれたんだもんね。下に売店あるから、何か買ってきたら?」

笑いながら話す翔太に霞も笑顔で返した。

「じゃあ、ちょっと売店行ってくるよ。」

霞は笑顔で手を振って見送った。

一人きりになった病室で、霞はお腹を撫でながら、話し掛けた。

「パパ優しいね。お兄ちゃんもよく笑う良い子だし、あなたは幸せな子よ。これからよろしくね。…え、あれ…また…痛…。」

突然またお腹が痛みだし、我慢出来なくなった霞はナースコールを押した。
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