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患者のプライド
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処置室に戻り、扉を開けた日比野医師の目線に、キョトンとした表情をした嬉野医師が映り込んだ。
「…何?」
「…あ、いや。…泣いてました?…なんて。」
嬉野医師の言葉に、日比野医師は目に指を当てた。確かに滴が指を伝った。
『私、泣いてたんだ。』
日比野医師は、この涙があずさの現状を悲しんだものなのか、安堵したことに対するものなのかは分からなかったが、慌てて涙を拭った。
「…何でもないから。…さっ、仕事仕事。」
日比野医師は、嬉野医師の表情を伺うことなく机に着き、書類の作成を始めた。
トントン。
「はぁい。」
扉がノックされ、嬉野医師が返事をすると、スーッと扉が開いた。そこには、薄手のコートと茶色いハット帽を被った私服姿の片野医師がいた。
「あれっ、片野先生!?どうされたんですか?」
片野医師が病院に向かっていることを知らなかった嬉野医師は驚いた。
「こんばんは、お疲れ様です。」
「片野先生。わざわざすみません。どうぞ。」
日比野医師は立ち上がり、嬉野医師の席の椅子を自分の椅子の近くに移動させ、片野医師に座るように促した。片野医師は、ゆっくりと腰を下ろし、コートと帽子を脱ぐと、膝の上に畳んで置いた。
「…それで、神谷あずささんはどうですか?」
「先ほど意識を取り戻しました。…少しトラブルがありましたけど。」
苦笑いを浮かべながら答える日比野医師に、片野医師は顔を近付けた。
「トラブル?…死ねなかったことを悔やんで暴れた、とかですか?」
「…え、えぇ、その通りです。」
片野医師のドンピシャな回答に、日比野医師は目を丸くした。
「え?暴れたんですか?」
二人の会話を隅で聞いていた嬉野医師が口を挟んだ。
「そうなのよ。これから先、ツラいことしかないのが分かってるから、誰かに迷惑かける前に、惨めな姿になる前に死にたかったのに、って暴れまして…。」
「…それで日比野先生はどう答えてあげたんですか?」
片野医師が興味津々な表情で聞いた。
「その…本当に在り来たりな事しか言葉が浮かばなくて…誰もが一人でなんか生きていけない、あなたのお母さんだって迷惑だなんて思ってない…とか。最後は、母親の協力で何とか丸く収まりました。」
「…そうですか。でも、他にも先生なりに思ったことがおありのようですね。表情が曇ってますよ。」
優しい口調で迫ってくる片野医師に、独特の恐怖を感じた日比野医師は続けて答えた。
「…命助けて文句言われちゃ、私の仕事は何のためにあるのか…正直、最初にそう思いました。勿論、神谷さん自身にそんな言い方してはいませんが。何だか悲しくなりました。」
「…それで泣いてたのか…。」
嬉野医師がぼそりと呟いた。しかし、しっかりと日比野医師にも聞こえており、日比野医師はギロリと睨み付けた。
「…なるほど。難しいですよね、本当に。医者というのは患者を治して当たり前、ミスをしたら酷く叩かれる。普段はそのプレッシャーの中で身を粉にして働いているわけですが、それを全うしても文句を言われる。…日比野先生の悲しい気持ちは私も理解できます。これから先は、神谷さんには精神科医が必要なんだとは思いますが、神谷さんなりのプライドがあるんですよ。」
「プライド?」
日比野医師は首を傾げた。
「日比野先生みたいな方は自殺など考えたこともないと思いますが…。自らに死を与えるということは、相当な決意と勇気が必要なんです。…もうこの世には戻ってこない、そういう決意をしたのです。自分で出した最後の決断なんです。…それが他人によって覆された。死ぬという最後で最大の決断を遂げることが出来なかった。眠りから目覚めた彼女はパニックになったのでしょう。」
「…『死なせてあげるべき』、そんな状況はこの場所では皆無です。目の前で磨り減っていく命を救うのが、私や嬉野先生の仕事です。勿論、片野先生もですけど。…私は間違ってない。…そう思いたいんです。」
「…日比野先生…。」
普段見たことのない、弱った日比野医師の姿を見て、嬉野医師は不安な気持ちになった。
「日比野先生。あなたの行動は勿論正しいですよ。患者のプライドを尊重すべき時もありますが、医者のプライドだって勿論あります。この場合は、医者のプライドを優先すべきです。患者と医者がお互いに理解し合うには、とことんお互いが本音で話し合うことから始まります。だから、私は患者さんが話したいことがあると私を訪ねてこられた時は、喜んで迎え入れます。…まぁ、日比野先生たちの救急科は、緊急を要する患者さんが次から次へと来るわけですから、中々難しいことだとは思いますが…。」
日比野医師は、片野医師の話を頷きながら聞き入った。片野医師は、優しい口調で続けた。
「…患者に心を開いてもらう。お互いを理解する。…口で言うのは簡単ですけど、本当に難しいことなんですよ。命の問題ってのは、時によっては正解がない問いになります。お互いの言い分がどちらも正しいって時もあるってことです。その壁にぶち当たった時は、患者さんの考えも尊重することを考えてください。…最近で言えば、産婦人科の鵺野先生に話を聞いてみるといいかもしれませんよ。」
片野医師は話を終えると立ち上がった。
「…先生?」
「あ、いや…神谷さんとこに様子を見に行って、話を聞こうかと。…ご一緒にどうですか?」
「えぇ、でもまだカルテの整理もありますので…。」
すると、嬉野医師が日比野医師を椅子から立たせて、自分がその椅子に座った。
「僕がやっときますから、日比野先生は片野先生と神谷さんの話を聞いてきてください!」
「…ありがと。」
二人は、処置室を出て、あずさの病室に向かって歩き出した。二人を見送ると、嬉野医師はキーボードを叩き始めた。
「僕もまだまだだ…。」
パソコンの画面に向かってぼそりと呟いた。
「…何?」
「…あ、いや。…泣いてました?…なんて。」
嬉野医師の言葉に、日比野医師は目に指を当てた。確かに滴が指を伝った。
『私、泣いてたんだ。』
日比野医師は、この涙があずさの現状を悲しんだものなのか、安堵したことに対するものなのかは分からなかったが、慌てて涙を拭った。
「…何でもないから。…さっ、仕事仕事。」
日比野医師は、嬉野医師の表情を伺うことなく机に着き、書類の作成を始めた。
トントン。
「はぁい。」
扉がノックされ、嬉野医師が返事をすると、スーッと扉が開いた。そこには、薄手のコートと茶色いハット帽を被った私服姿の片野医師がいた。
「あれっ、片野先生!?どうされたんですか?」
片野医師が病院に向かっていることを知らなかった嬉野医師は驚いた。
「こんばんは、お疲れ様です。」
「片野先生。わざわざすみません。どうぞ。」
日比野医師は立ち上がり、嬉野医師の席の椅子を自分の椅子の近くに移動させ、片野医師に座るように促した。片野医師は、ゆっくりと腰を下ろし、コートと帽子を脱ぐと、膝の上に畳んで置いた。
「…それで、神谷あずささんはどうですか?」
「先ほど意識を取り戻しました。…少しトラブルがありましたけど。」
苦笑いを浮かべながら答える日比野医師に、片野医師は顔を近付けた。
「トラブル?…死ねなかったことを悔やんで暴れた、とかですか?」
「…え、えぇ、その通りです。」
片野医師のドンピシャな回答に、日比野医師は目を丸くした。
「え?暴れたんですか?」
二人の会話を隅で聞いていた嬉野医師が口を挟んだ。
「そうなのよ。これから先、ツラいことしかないのが分かってるから、誰かに迷惑かける前に、惨めな姿になる前に死にたかったのに、って暴れまして…。」
「…それで日比野先生はどう答えてあげたんですか?」
片野医師が興味津々な表情で聞いた。
「その…本当に在り来たりな事しか言葉が浮かばなくて…誰もが一人でなんか生きていけない、あなたのお母さんだって迷惑だなんて思ってない…とか。最後は、母親の協力で何とか丸く収まりました。」
「…そうですか。でも、他にも先生なりに思ったことがおありのようですね。表情が曇ってますよ。」
優しい口調で迫ってくる片野医師に、独特の恐怖を感じた日比野医師は続けて答えた。
「…命助けて文句言われちゃ、私の仕事は何のためにあるのか…正直、最初にそう思いました。勿論、神谷さん自身にそんな言い方してはいませんが。何だか悲しくなりました。」
「…それで泣いてたのか…。」
嬉野医師がぼそりと呟いた。しかし、しっかりと日比野医師にも聞こえており、日比野医師はギロリと睨み付けた。
「…なるほど。難しいですよね、本当に。医者というのは患者を治して当たり前、ミスをしたら酷く叩かれる。普段はそのプレッシャーの中で身を粉にして働いているわけですが、それを全うしても文句を言われる。…日比野先生の悲しい気持ちは私も理解できます。これから先は、神谷さんには精神科医が必要なんだとは思いますが、神谷さんなりのプライドがあるんですよ。」
「プライド?」
日比野医師は首を傾げた。
「日比野先生みたいな方は自殺など考えたこともないと思いますが…。自らに死を与えるということは、相当な決意と勇気が必要なんです。…もうこの世には戻ってこない、そういう決意をしたのです。自分で出した最後の決断なんです。…それが他人によって覆された。死ぬという最後で最大の決断を遂げることが出来なかった。眠りから目覚めた彼女はパニックになったのでしょう。」
「…『死なせてあげるべき』、そんな状況はこの場所では皆無です。目の前で磨り減っていく命を救うのが、私や嬉野先生の仕事です。勿論、片野先生もですけど。…私は間違ってない。…そう思いたいんです。」
「…日比野先生…。」
普段見たことのない、弱った日比野医師の姿を見て、嬉野医師は不安な気持ちになった。
「日比野先生。あなたの行動は勿論正しいですよ。患者のプライドを尊重すべき時もありますが、医者のプライドだって勿論あります。この場合は、医者のプライドを優先すべきです。患者と医者がお互いに理解し合うには、とことんお互いが本音で話し合うことから始まります。だから、私は患者さんが話したいことがあると私を訪ねてこられた時は、喜んで迎え入れます。…まぁ、日比野先生たちの救急科は、緊急を要する患者さんが次から次へと来るわけですから、中々難しいことだとは思いますが…。」
日比野医師は、片野医師の話を頷きながら聞き入った。片野医師は、優しい口調で続けた。
「…患者に心を開いてもらう。お互いを理解する。…口で言うのは簡単ですけど、本当に難しいことなんですよ。命の問題ってのは、時によっては正解がない問いになります。お互いの言い分がどちらも正しいって時もあるってことです。その壁にぶち当たった時は、患者さんの考えも尊重することを考えてください。…最近で言えば、産婦人科の鵺野先生に話を聞いてみるといいかもしれませんよ。」
片野医師は話を終えると立ち上がった。
「…先生?」
「あ、いや…神谷さんとこに様子を見に行って、話を聞こうかと。…ご一緒にどうですか?」
「えぇ、でもまだカルテの整理もありますので…。」
すると、嬉野医師が日比野医師を椅子から立たせて、自分がその椅子に座った。
「僕がやっときますから、日比野先生は片野先生と神谷さんの話を聞いてきてください!」
「…ありがと。」
二人は、処置室を出て、あずさの病室に向かって歩き出した。二人を見送ると、嬉野医師はキーボードを叩き始めた。
「僕もまだまだだ…。」
パソコンの画面に向かってぼそりと呟いた。
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