最期の時間(とき)

雨木良

文字の大きさ
上 下
33 / 56

有縣 勝蔵・民子 7

しおりを挟む
片野医師が処置室の扉を出ると、扉の向かいのベンチに腰掛けている民子の姿が飛び込んできた。民子は、脱け殻のような覇気のない様子で、じっと処置室の扉を眺めていた。しかし、無意識なのか、その扉から出てきた片野医師にも気が付いていないようだった。

片野医師は、ゆっくりと民子に近づき、優しく声を掛けた。

「…民子さん?」

「……!?」

民子は、我に帰ったようにハッとした表情を浮かべた。

「…先生。いやだ、すみません、ぼーっとしちゃってました…。」

「とんでもない。隣失礼します。」

片野医師は民子の隣に腰を下ろした。

「…結局、お父さん、病気が分かってからあっという間に逝ってしまいました。本人は、今どんな気持ちなんでしょうか。」

「治療を頑張るご意志があったように見えていましたので、本人も残念がってるかもしれませんね。でも、お二人に遺書などを渡せた後だったんですよね。そういう意味では、本人は満足されているかもしれませんね。」

「…遺書と通帳。…あれが無ければ…。」

民子はそう言って顔を両手で覆って下を向いた。片野医師は、民子の言葉の意味が分からず、とりあえず民子を慰めるように優しく語り掛けた。

「民子さん。勝蔵さんからの遺書や通帳が無ければ、ってどういう意味ですか?」

「…中身が…酷くて。悲しくて…。」

その時、スーッとゆっくり処置室の扉が開き、涙を拭っている一博が姿を現した。民子は顔を上げ、一博と目を合わせた。

「親父…死んだよ。…死に顔見てやってくれ、お袋。」

民子はその言葉に全身の力が抜け、立ち上がることが出来なかった。慌てて一博と片野医師が支えて立ち上がらせて、ゆっくりと処置室の中に入っていった。

中に入ると日比野医師、嬉野医師らが民子に頭を下げた。

「14時12分、ご臨終です。」

日比野医師の言葉に、民子も深く頭を下げた。民子は、一博と片野医師に大丈夫と告げ、一人でゆっくりと勝蔵の顔の側に近づいた。

「お父さん、人生お疲れ様でした。」

民子が勝蔵に話し掛けている中、片野医師がそっと一博に質問した。

「あの、勝蔵さんの遺書やら通帳というのは、内容がマズイものだったんですか?」

「…え?」

一博は何の話か分からず、首を傾げた。

「先ほど、民子さんが遺書や通帳が無ければとおっしゃってたので…。」

「お袋がそんなことを?いや、正直私もまだ中身を見てはいないんです。特に遺書は、親父に何かあってからじゃないと開けられませんし。…後で落ち着いたらお袋に聞いてみます。」

「…すみません、こんな時に。」

「いえ、お気遣いいただき、ありがとうございます。」

一博はそう言うと、民子の元へ歩み寄り、勝蔵の手を握った。

日比野医師らは、片野医師が立っている場所まで離れ、勝蔵と民子、一博だけの空間を作った。

「…やれることはやりきりました。」

日比野医師が片野医師だけに聞こえるように呟いた。

片野医師は、日比野医師があずさの一件で、まだ心にモヤモヤしたものを抱えているのだと感じた。

民子が心臓マッサージを止めていいっと言って、処置室から出ていった後も、一博がもう少しだけ続けて欲しいと日比野医師らに言った。日比野医師ももう少し蘇生を試みたかったので、一博の言葉に頷き、嬉野医師に心臓マッサージの再開を指示していた。

しかし、再び勝蔵の心臓が動くことはなかった。

片野医師は民子と一緒に外に出てしまったため、その事を知らないと思った日比野医師が、患者側ではなく自分のプライドを優先して医師としてやれることはやりきったことを告げたかったのだ。 

「お疲れ様でした。勝蔵さんのお身体を移動させたら、皆さん一旦休んでください。」

片野医師は、日比野医師に優しく答えた。

それから民子と一博が一旦落ち着くと、看護師が勝蔵の遺体に処置を施し、民子と一博を連れて地下の霊安室へと移動させた。

看護師が出ていき、勝蔵の遺体を含めて三人だけになった室内。一博は、片野医師に聞かれた内容を、横たわる勝蔵をぼーっと見つめている民子に問い掛けた。

「…お袋、親父から預かった遺書とか通帳の中身、見たのか?」

「…えぇ。」

民子は勝蔵から目線を逸らさずに、一言答えた。

「で、中身はどうだったんだ?」

一博の質問に、民子はフンッと鼻で笑い、看護師が用意してくれていた椅子に腰掛けた。

「どうも何も…通帳の中身なんて何にも残ってないわよ。」

「…え?」

一博は驚いた表情を浮かべた。

「あの後、あなたが自分の部屋に行ったでしょ?その時に、不意に中身を一人で見ちゃったのよ。正直、お父さんのお葬式代もかかるわけだし、これからの自分についても心配だったから。…そしたら、いくつかの金融機関の通帳はあったけど、どれも中身はほとんどない。…驚いた私は、いけないとは思いつつ、遺書も開けてしまったの…。そしたら、中身の九割が借金についての謝罪文だったわ…。」

「…借金!?いつの間に…。」

一博は愕然とし、民子の隣の椅子に腰掛けた。

「私が知らないうちに、退職金を全て注ぎ込んで株を買ってたみたいなの。その会社が倒産したらしくて…。…お父さん、基本的に寡黙な人だったけど、大事なことは必ず私に言ってくれてた。だから、今回のことが本当にショックで…。気持ち的にもお父さんの病気のこととか、急にどうでもよくなっちゃったのよ、そしたら急にお父さんが倒れて…。何にもなかったら、あなたに相談しようかと思ってたのよ。」

「…そんな。親父に限って…。」

一博にとって、勝蔵の死よりも、勝蔵の裏側を知ってしまったことがショックだった。


霊安室の扉の外。片野医師が立ち竦んでいた。

不意に扉越しに二人の会話を聞いてしまった片野医師は、中に入ることはなく、自分の診察室へと向かって歩き出した。
しおりを挟む

処理中です...