最期の時間(とき)

雨木良

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神谷 あずさ 6

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男性は、殴りかかってきた男の拳を掌で受け止めると、そのまま男の腕を捻った。

「い、いててて…、ちょ、ちょっと、折れる、折れるって!」

男は余りの痛さに悶絶の表情を浮かべ、ギブアップと示すように、男性の腕をパンパン叩いた。

「…何も言わずに、このまま消えなさい。」

男性がそう言って手を離すと、男は逃げるように公園から出ていった。

あずさは男性に駆け寄り、深々と頭を下げた。

「ありがとうございました。」

「いえ、困ってる時はお互い様ですよ。」

頭を上げたあずさは、男性をじっと見つめた。

「細身なのにお強いんですね。」

「こう見えても合気道をずっとやっていましてね。…それより、あなたも気をつけた方がいい。もう家に帰りなさい。」

あずさは、何も答えずに下を向いた。

「…何か訳ありかな。家に帰れない理由でもあるのかな?」

男性は優しく問い掛けたが、あずさは何も答えなかった。

「僕でよければ話を聞くよ。こう見えて医者なんだよ。」

男性はそう言うと、胸ポケットから名刺を取り出し、あずさに差し出した。あずさは、黙って受け取り、名刺を見てハッとした。

「え、横浜総合病院!?」

あずさのリアクションに、男性は少し驚いた。

「うちの病院と何かあったのかい?」

「あ、いえ、まぁ…、私がお世話になってまして…。先生、産婦人科医なんですか?…あ、失礼ですが…このお名前の漢字は…。」

「ぬえの、鵺野です。中々読めないですよね。」

「勉強不足で、すみません。…そうか、産婦人科医さんか…。」

あずさの呟くような言葉を聞き取れなかった鵺野医師は、首を傾げた。すると、あずさは、じっと鵺野医師の目を見つめて質問を投げ掛けた。

「ALSでも子どもは産めますか!?」

「…へ?」

鵺野医師は予想外の言葉に驚きながらも、以前、日比野医師から聞いていた若くしたALSと診断された子だと理解した。



一方、あずさの家では、由美子がトボトボと階段を下り、台所へと戻ったところだった。

由美子は、ぼーっとしながら夕飯の準備の続きに取り掛かった。本来なら、あずさが何処に行ってしまったのかを心配するところだが、由美子は目の前の現実を受け入れるだけで精一杯であり、次の展開のことなど考える余力が無かった。

「…由美子や、大丈夫か?」

背後から心配した祖母が声を掛けた。

「…あの子が分からなくなったわ。…あの子と上手くやっていく自信が無くなってきた…。」

由美子は、コンロの火を掛けながら、振り返ることなく答えた。

「母親がそんな気弱でどうすんだい?」

「…しょうがないじゃない。あの子の病気のことだけでも、もう頭がいっぱいいっぱいなのに……子ども…出来たんですって…。」

「…あずさにか?」

「びっくりでしょ?堕ろすように忠告したら、今みたいに飛び出しちゃったわ。…もうどうしたらいいか…一層、このままあの子がいなくなっちゃったっていう現実の方が…。」
「馬鹿言わんしゃい!!」

突然声を荒げた祖母に、由美子は驚いて振り返った。

「お前は母親だろ?あずさのたった一人の存在だ。お前が支えてやらんで、誰があの子を支える?…お前が、結婚もせずに子どもを産むと言った時、私は責めたかい?冷たく洗ったりしたかい?」

「…で、でも、あの子はまだ16歳で…。」
「だから尚更お前が必要なんだよ!自分を振り返ってみんしゃいな。今のあずさは、昔のお前と一緒なんじゃないか?もっと言えば、昔のお前よりずっとツラい状況かもしれん。…今すぐ探して来ておやり。」

「…でも、私にはあの子を支える自信が…。」
「私がお前なら、すぐに追い掛けて、強く抱き締めてやるさ。それだけでいいんだよ!人間ってのは、自分の居場所が欲しい、自分を認めて欲しい、それだけなんだよ。…ほれ、しゃきっとせい!」

祖母は、パンッと由美子の背中を叩いた。


公園では、ぼんやりとした明かりを灯す街灯の下、ベンチに座って、あずさの話に鵺野医師が耳を傾けていた。

「…どうしたら良いか…。先生、率直に聞きます、ALSでも子どもは産めますか?」

「…正直、危険は伴うと思う。僕自身、ALSの患者さんを経験してないってのもあるけど、ALSは進行具合に個人差がある。だから、君…あ、名前聞いてなかったな…。」

「あずさです。神谷あずさ。」

「神谷さんがこの先、病気とどう向き合っていくか、そういった色々な要素が絡んでくるんじゃないかな。…神谷さん自身は、子どもは産みたいのかい?まだ10代だろ?」

「私にとって、普通の人の1秒が何十倍もの価値があるんです。まだ10代じゃなくて、あと残りの時間を考えたら…本当に…気分はおばあちゃんですよ。」

鵺野医師は、言い方を間違えてしまったと反省した。しかし、あずさはニコリと笑いながら鵺野医師に話し掛けた。

「あ、先生に怒ってるわけじゃないですよ。…流石に、子ども産むのは無理ですかね…。」

「うーん、まだ相手にも知らせてないんだろう?医師として、神様からの授かり物は大切にすべきだと言いたいとこだが、子どもは一人では産めないし育てられない。周りのサポートは必至だ。相手や親御さんとも良く話し合って決めるべきだと思うよ。…近いうちに、また病院に来て、僕にお腹の子の様子を見せてくれないか?」

あずさは、コクンと頷いた。すると、鵺野医師はニコリと微笑んで立ち上がった。

「僕ん家は、そのマンションなんだ。ベランダからたまたま男に絡まれてる君を見つけてね。…家まで帰れるかい?」

「………………。」

あずさは下を向いた。

「…君をここに残しては帰れな…。」
「あずさ!!」

鵺野医師の後方、公園の入口から声が聞こえた。 

「…お母さん…。」

由美子はあずさに駆け寄り、強く抱き締めた。

「…ごめんなさい、心配ばかりかけて…。」

「…ごめんね、弱いお母さんで…。」

あずさは、由美子の胸の中で、涙で顔がぐちゃぐちゃになりながら首を横に振った。

「あずさ…これからのこと、ちゃんと話し合っていきましょう。」

鵺野医師は安堵の表情を浮かべて、自宅のマンションに向かって歩きだした。
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