最期の時間(とき)

雨木良

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最期の時間(とき)【完結】

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日比野医師と嬉野医師らは、落ち着かない様子で救急車が到着するのを病院の入口で待っていた。

「…日比野先生、自分怖いです。」

嬉野医師がぼそりと呟いた。

「…私だって…。…ねぇ、こんな質問は愚問かもしれないけどいいかしら。」

「何ですか?」

「片野先生、助けていいのよね?」

日比野医師の問い掛けに、嬉野医師は苦笑いした。

「…愚問ですね。でも、自分も同じことを頭に思い浮かべました。片野先生にとって、最高の最期ってのは何なのか…、弓削さんの話では、10年以上音信不通だった娘さんと再会して、今一緒に暮らしてるって聞きました。唯一の家族だって。娘さんに見守られながら逝けるなら、それが片野先生にとっての、一番良い最期なのかもしれないですね…。」

「…そうね。弓削さんにも連絡しといたわ。…片野先生には、医者としてだけじゃく、人としてあるべき姿を教えて貰った。感謝しかないわ。…来たわ。」

救急車がサイレンを鳴らしながら、日比野医師らの前で停止し、すぐに後部の扉が開かれた。

中では心肺蘇生が行われており、そのそばでは、晃子が静かに涙を流しながら見守っていた。

「…片野先生…。」

最後に会った時とは、あまりにギャップがある姿に、日比野医師らは言葉を失った。

「い、いきますよ!日比野先生!」

嬉野医師が瞳を潤わせながら、ストレッチャーに手を掛けた。救急隊員と一緒に引き出し、心臓マッサージを続けながら、処置室へと運ばれていった。

日比野医師は予想をはるかに超えるショックを受けており、その場で立ち竦んでいた。

「…父のお知り合いの先生ですか?」

涙を拭いながら、晃子が日比野医師に話し掛けた。

「…えぇ。とてもお世話になりました。医者というものだけじゃなく、人としてどうあるべきか、深くご教示いただきました。…ごめんなさい。覚悟はしていたんですが、いざ目の前でお姿を見ると…本当に…。」

「ありがとうございます。そう思っていただいてるだけで、父は喜びますよ。…私も覚悟はできてます。…父を最期までよろしくお願いいたします。」

晃子の言葉で、ハッと我に帰った日比野医師は、急いで処置室へと向かった。


日比野医師が処置室に駆け込むと、変わらず心臓マッサージが嬉野医師により続けられていた。

一旦止めて、様子を伺うも、モニターの波形は直線に変わり、心停止を告げる虚しい機械音が部屋中に響いた。

嬉野医師が汗を拭い、再び心臓マッサージを開始した。

「片野先生!!まだダメですよ!あなたにはまだ教えて貰いたいことが山ほどあるんですから!」

嬉野医師が涙をボロボロ溢しながら叫んだ。

「…日比野先生!先生も何か言ってあげてください!」

日比野医師は、処置室の扉を開け、外で待つ晃子を中に入れ、一緒に片野に近づいた。

「…片野先生!!お嬢さんとこれからまだやりたいことあるんじゃないですか!?」

日比野医師はそう言いながら、晃子の背中をポンと叩いた。

「…うぅ、…お父さん!まだ10年間の空白、ちゃんと埋めきってないよ!まだ…まだ…、お父さんにしてほしいこと、私がお父さんにしてあげたいこと…いっぱい…いっぱい、あるのに…うぅ。」

「片野先生!お嬢さんの声、聞こえてますか!?僕たちの声、聞こえてますか!?はぁはぁ…くそっ!」

嬉野医師は息があがって、そっと片野の胸から手を離した。

ピーーーーーーッ。 

心停止を意味する機械音と、皆のすすり泣く声が部屋内に響いていた。

晃子は、そっと父の手を握り、自分の頬にあてた。

「…お父さんの手、あったかい…。」

嬉野医師は、無言の片野に深く頭を下げて、時計を確認した。

「午前4時38分…ご臨終です…。」

晃子は嬉野医師らに頭を下げて、父に手を合わせた。

日比野医師は、その場にいることができずに、涙を拭いながら処置室の扉を開けた。すると、目の前の長椅子には手を合わせて静かに祈っている弓削の姿があった。

「…弓削さん。」

弓削はパッと顔を上げて立ち上がった。

「日比野先生!…片野先生…は?」

日比野医師は、首をゆっくり横に振った。それを見た弓削は、力が抜けたように、長椅子に腰掛けた。

「…覚悟はしてたんですけどね…。でも、娘さんと再会した後で良かったわ。…片野先生、頑張りすぎたのよね…自分の身体はそっちのけで、仕事に没頭して…。」

「…それが片野先生です。私の知ってる尊敬する片野先生です。」 

日比野医師の言葉に、弓削は少し笑いながら頷いた。

「多分、娘さんに看取られて、一番良い最期だったんじゃないかと思います。」

「そうですね。…日比野先生や嬉野先生にもお世話になれて、片野先生としたら、これ以上ないくらいの最期だったかもしれませんね。」

日比野医師は、弓削を処置室の中に案内した。 




数ヵ月後。

「紗希ちゃん。遅くなってごめん!」

祐太郎の墓に花を手向けに来ていた紗希は、名前を呼ばれて振り返った。

今日は祐太郎の月命日だった。

「生駒さん、遅いですよ。もう花飾っちゃいましたからね。」

「悪い悪い。ちょっと職場に寄っててさ。」

「職場に?」

生駒は背広のポケットからあるものを取り出し、紗希に渡した。

「…これ何?手紙…ですか?」

「…俺の職場の机の中に入ってた。ゆうたからの俺宛のもう一通の手紙だ。」

紗希は手渡された手紙を受け取ると、二つ折りになっていた手紙を開き、中身に目を通した。

「…ゆうたからは、以前にも面と向かって手紙に書かれてることを言われたよ。…そんときは、馬鹿なこと言うなって言ってやったけどさ。」

紗希は手紙を再び二つ折りにすると、生駒にそっと戻した。

「…ゆうちゃんのお墓の前ですよ?」

「…あぁ。しっかりとゆうたに見せてあげたいんだ。…紗希ちゃん、まだ先でいい。紗希ちゃんの気持ちが落ち着いて、もし俺にゆうたの代わりが務まるなら…ん?」

紗希は人差し指を生駒の唇に重ねて、ニコリと微笑んだ。

そして、そっと指を離すと、何も言わずに線香に火を付ける準備を始めた。

「…危ないから俺がやるよ。」

「危ないって…子どもじゃないですよぉ。」

「ははははは。」

二人はゆうたの墓を見つめて、微笑んだ。




同時刻。
総合病院。

「…じゃあいいかい?」

鵺野医師があずさに語り掛けた。

「…はい、お願いします。」

「あずさ、頑張ってね!」

拓海があずさの手をギュッと握った。拓海の後ろには、由美子と祖母が心配そうな眼差しで立っていた。

「ちょっと、お母さんとおばあちゃん、心配しすぎ。私なら大丈夫だから!元気な赤ちゃん待ってて。」

由美子と祖母は目を合わせた。

「ごめんなさい。うん、待ってるわ。」

「いいかい、あずさ。隣の恵理(えり)ちゃんも帝王切開だったと。本人に聞いたんじゃが、あっという間っちゅーてた。だから、気張らんと、全てを先生に委ねてリラックスしいや。」

あずさは、三人に頷くと、分娩室へと運ばれていった。

鵺野医師は、分娩室に入る前に三人に振り向いた。

「あずささん、今のところALSの進行も乏しく、本当に順調に赤ちゃんも育ってくれました。皆さんの支えのお陰です。後は、私が責任をもって新しい生命の誕生の手助けをさせていただきます。…では。」

鵺野医師は、一礼して分娩室へと入っていった。


「死」。それは、命あるものには誰にでも平等に訪れる避けられないものである。

そして、その「最期の時間」、つまり命の炎が消える瞬間、あなたはどうありたいだろうか。また、愛する人、親しい人のその瞬間、あなたはどうしてあげたいだろうか。

愛する人たちに囲まれながらその瞬間を迎えられたら…。しかし、現実にはその望みとおりにはいかないかもしれない。もし、望みとおりの最期の時間を過ごせたのなら、これ以上ない幸せ者なんだと思うべきである。

「生」。誰かが「死」を迎えた代わりに、この世に生きる資格を与えられたのだろうか。沢山の人生の先輩たちの思いを継ぎ、授かった命。そう思うことで、きっと自分を、命を、大切にしながら生きていけるのだろう。

ー 誰もが、「命」について真剣に考え、自己を、他人を心から大切にすることができる世界を願って ー。

【完】
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