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砂詠 飛来

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あの人に似て

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 別居状態にあった妻から送られてきたのは、八歳になる長男と一通の手紙だった。

「久しぶりだな、元気だったか? ママはどうした?」

 僕が訊くと、息子はちいさく首を横に振るばかりで、手紙を寄越してなにも言わなかった。

 久しぶりに会うというのに、懐かしむでもなく帰りたがるでもなく、ただ真っ黒な瞳で僕を見つめるばかりだ。

 とにかく手紙を読んでみるしかないらしい。

 薄い花柄の封筒のなかには、きれいに折りたたまれた同じ花柄の便箋と、すこしシワになった離婚届が入っていた。

*****

 康助こうすけさんへ

 結婚して十五年になります。

 志穂しほは中学生、直矢なおやは小学生です。

 ここしばらく思うところがあって、志穂と直矢と一緒に実家におりましたが、このたび決意がかたまりましたので、こうして筆を執りました。

 直矢がそちらに向かったと思います。

 もうひとりで電車にもバスにも乗れるようになりましたよ。

 直矢にはなにも話していませんが、これからはパパと一緒に暮らしてね、とだけ言い聞かせてあります。

 志穂については、私が引き取ります。

 つきましては、同封してある離婚届に記入して判を押してほしいのです。

***** 

 妻の一方的な言い分に、読みながら顔が熱くなってゆくのを感じた。

 こういうことは、直接会って話すべきではないのか。

 見慣れた綺麗な字が、またなんとも厭味に感じる。

 ふと息子――直矢を見やると、ソファに座り、つまらなそうに足をぶらぶらさせながら僕を見ていた。

「お腹すいてないか?」

「平気」

 またもだんまりかと思ったが、短いながらもちゃんと会話ができたことが嬉しかった。

 僕は手紙の続きを読み始めた。

*****

 康助さんが納得してくれるかは判りませんが、離婚の理由を簡潔に書きます。

 このことで誰かのせいにしたり恨んだりはやめてください。

 すべて、私の問題なのです。

 ひとつ、私は十五年、結婚する前の付き合っていた期間を含めておよそ二十年のあいだ、あなたを愛したことはありません。

 愛そうという努力もできませんでした。

 それでも、あなたと夫婦になる必要がありました。

 ふたつ、二十年あまりあなたを愛せないことを我慢してきましたが、もう限界がきました。

 だから、離婚をしたいのです。

 勝手な理由でごめんなさい。

 みっつ、志穂は十五歳になりました。まだまだ子どもだけれど、もう立派な一人の女性です。どうしても、私の傍で育てたいのです。

 これが、あなたと離婚したい理由です。

*****

 離婚したいという事実ですら受け止めきれないのに、僕の妻はなにをしたためているのか。

 勝手な理由がすぎる。

 僕が必死に注いできた愛情は、彼女に届いていなかったというのか。

 ふたりの子どもにも恵まれ、人並みではあるが、幸せな家庭だと思っていたのに。

 愛していないくせに、どうして結婚をしたんだ。

 僕と夫婦になる必要とはなんだ。

 ‥‥彼女がふたりを連れてひっそりとこの家を出たときからずっと、僕を支配していた不安がこうして目の前に形になってしまった。

 簡単に離婚と言うが、学校はどうするのだ。

 志穂のことは書いてあるが、直矢のことは僕に押しつけるのか。

「直矢は、ママとお姉ちゃんと一緒に暮らしたい?」

「それ、ママにも訊かれた」

 僕は一瞬固まってしまったが、ひとつ呼吸を置いて改めて問うた。

「お姉ちゃんとママは元気か?」

「パパが居なくなってからは、ずっと元気だよ。でも、ぼくのことはかまってくれないんだ。ママはいつもお姉ちゃんとお買い物に行ったり、お風呂に入ったりしてるんだ。もう、ぼくのことは要らないみたい」

 幼い口から聞くには、あまりにも悲痛な内容ではないか。

 直矢は困惑している僕の手元を指差し、まだつづきがあるよ、と言った。

*****

 最後に、あなたと夫婦にならなければいけなかった理由を書きます。

 本当は私の胸のなか、そして墓場まで持ってゆくつもりでしたが、このことを抱えたままでは、二十年も私を養ってくれた康助さんに申し訳ないと思うからです。

 私はどうしても、あなたの血が流れている子どもが欲しかったのです。

 もっといえば、夕子ゆうこさんと同じ血が流れているあなたの子どもが、です。

 私と夕子さんでは子どもをつくることができませんが、夕子さんと血縁者のあなたとなら、子どもができます。

 私は、あの人に‥‥夕子さんに似た子どもが欲しかったのです。

 最近、志穂に夕子さんの面影を感じるのです。

 これで、あなたと夫婦になった甲斐がありました。

 これから志穂を、夕子さんのように美しい女性に育ててゆきます。

 私たちは、あなたにも夕子さんにも迷惑がかからないように、あなたたちの知らない土地で生活します。

 なので、もう二度と夕子さんにも会うことができなくなりますが、悔いはありません。

 あなたが、夕子さんのお兄さんでよかった。
本当なら、直矢とも一緒に暮らしたいです。

 でも、いまの可愛い直矢が、だんだんとあなたに似てくる将来を思うと、とてもじゃないですが平常心を保てないのです。

 どうか、直矢には不自由ない生活をさせてあげてください。

 慰謝料や養育費等は望みません。

 私たち母娘の前に、姿を現さない、連絡をとらないことだけを守ってください。

 私も、直矢とあなたの前には現れません。

 お互いに約束してください。

 この約束こそが、私たちの最後のつながりです。

*****

 夕子。

 なぜ、妹の名前が。

 まさか妻は、僕の妹のことが好きだったのか?

 二十年も前から?

 好きな人のためなら、愛してもない男と寝ることができるのか?

 同性愛がどうとかではなく、まさか、夕子が離婚原因だとは思わなかった。

 母親が急に居なくなるということが、不自由な生活だとは思わないのか。

 この女は自分ことしか考えていない。

 いまさらこの女に、離婚はやめてくれとせがんだところで、円満な家庭をやりなおせるとは思えない。

 自分に愛情を抱いていない女と、愛しい自分の子どもたちと、同じ屋根の下で暮らしてゆけるとは思えない。

 志穂や直矢のことを考えたら、わけの判らないことを言う女と無理に家族を続ける必要があるのだろうか。

 ‥‥このままもう二度と志穂に会えないのか。

 夫婦のつながりは解消しても、親子のつながりは保っていてほしかった。

 志穂は、母親のことをどう思っているのか、そして、父親だった存在になる僕のことをどう思うのか。

 夕子はこの女のことを知っているのか。

 志穂に夕子の面影がある?

 一気に疑問や苛立ちが押し寄せたが、僕は、目の前の直矢を見た。

「?」

 直矢は僕の視線に首をかしげるばかりだ。

 その表情が、どうにも妻と似ていた。

 ――愚かな妻よ

 澱んだ欲望をその娘に押しつけることになるのだ。

 自らが愛した唯一の女――夕子が、ぼくの腹違いの妹だということを知らずに。


 了
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