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魔女たちのクールブリゼ *ディア編*
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その晩のバー・ソルシエールはいつもと違っていた。
厳密に言えば、普段とようすが違っていたのは店主である双子の姉の白い魔女ディアだった。いつもの彼女なら飄々としていながらも、店内全体――とくに同じく店主の妹の黒い魔女パメラが暴走しないかを気にかけていたし、常ににこにこしていた。一見すれば優しそうで穏やかそうな彼女は多数の客から人気があった。その笑顔の下でなにを考えどんなことを抱えているかなど、はかり知れないし誰も考えもしなかった。それでも彼女は笑みを絶やさずソルシエールを見守っているのだった。
そんなディアが、その晩は客が動揺するほどのミスを連発していた。
グラスを相次いで割ってしまったり、客に提供する酒を間違えたり、料理を鍋ごと焦がしてしまったり、常連客でなくても心配になるレベルだった。
*****
なんとか営業を終え、シンクに寄せられた割れたガラスの破片たちをぼんやりと眺めながら、ディアはしきりに首元をさすっていた。最後の客が座っていたカウンターを布巾で拭いていたパメラは手を止め、ディアの傍らまで来ると、いつもは姉にされるように自分とよく似たその顔を深く覗き込んだ。
「どうしたのよ。今日のアンタなんか変よ。‥‥いつも変だけど、今日は特別おかしいわね」
首元をさすっていた手を一瞬止めたが、不安そうに見つめてくる妹の顔を見、今度はゆっくりさすりはじめた。
「ごめんなさいね、グラスを割ってしまって‥‥お鍋も炭にしちゃったし‥‥」
それを聞いたパメラはあからさまに大きな溜息をついて、黒いネイルが光る指を一本これ見よがしに突き出した。そしてちいさく振った。ひゅっという悪露がしたかと思うと、シンクに山となっていたガラス片たちは見る間にグラスの形をなし、直前まで粉々だったとは思えないほどきれいに元に戻った。パメラは同じ指を焦げてコンロで燻っている鍋に向け、再びちいさく振った。鍋はポンッと煙とともに弾けたかと思うと、カランと音をたてて新品さながらの物が五徳に乗せられた。
「お皿やグラスを割っちゃうのがアタシで、それを直すのがアンタの仕事でしょ」
「そうね‥‥」
きれいになったシンクやグラスたちを見ても、ディアは上の空だった。
「なによ。お客さんがいるから魔法を使わないんだと思ってたけど、そういうわけでもなさそうね‥‥」
ディアは首にあてがっていた手を止め、急に泣き出しそうになって顔を歪めた。そのまま緩くふんわりと巻かれたブロンドの毛先をきつく握りしめ、
「ねえ、パメラ‥‥使い魔も死んだりするのかしら‥‥」
妹のパメラですら聴いたことのないような声で言った。
「はい? 使い魔がなんですって!?」
パメラの驚いた声に、店内の大きな柱時計からそれまで飾りとして見守っていたカラスのグィーが思わず翼を大きく羽ばたかせた。使い魔は基本的には主の命令に従うが、このときばかりはじっとしていられなかったらしい。グィーはパメラの肩へ降り、わずかに気まずそうに毛づくろいをはじめた。
「グィーは元気そうでいいわね‥‥」
妹の使い魔を見るディアの目はひどく虚ろで、あまりにも見ていられないと思ったパメラは急いで近くの椅子へ姉を座らせた。
「ねぇ、どうしたの? ウーイルになにかあった?」
ディアはたっぷり涙を溜めながら、さきほどまでさすっていた首元から、ゆっくりと白く細長いキラキラしたものを取り出した。ディアの使い魔でヘビのウーイルだ。いつもならわざわざ手を使って持ち出さなくても、自らするするとディアの首から肩、腕を這ってくるのに、いまは無機質にだらりと力なく垂れてただの紐のようになっている。言われなければヘビだとは思わないだろう。
「今朝からこんな調子で変なのよ、この子‥‥。食欲も元気もなくて、私の声にも反応してくれないのよ‥‥」
ヘビといっても魔女の使い魔は普通の動物のように食べ物を食べるのではなく、主の魔力をエネルギーとして摂取している。ヘビやカラスの形をしているが、本物の生物のように冬眠したり狩りをするわけではないのだ。なので、主人の体調や魔力で使い魔の能力も増減することがある。パメラの使い魔のグィーが心配そうにウーイルの傍へ行き、嘴で顔のまわりの鱗を優しく噛んだ。ウーイルはかすかにまばたきをしただけだった。
「ディア、あなたに元気がないからウーイルもぐったりしてるんじゃないの?」
「違うわ、ウーイルの元気がないから私も元気ないのよ‥‥」
「――ねえ、もしかして」
ハッとなにかに気づいたパメラが、柱時計の隣にかけられている満月を模したカレンダーに目をやった。ディアは大切そうにウーイルを膝の上に抱え、優しく撫でている。まるで高熱でも出してうなされている幼子を寝かしつけているように。
「ディア‥‥忘れろとは言わないけど、いまだに思い出して一人で苦しむことはないのよ‥‥」
溜まった涙がぽろりと一筋流れ、ディアは、パメラの言葉に静かに頷いた。
*****
120歳となり一人前の魔女となるべく故郷の村を離れ、それぞれの新天地で魔術の修行をすることになった双子の姉妹。妹のパメラが無理矢理お互いの箒を取り換え飛び去ってしまうのを、姉のディアはただただ心配そうに見つめるしかできなかった。幼馴染のクリスのこともあるし、後先を考えずに行動してしまうパメラがこれから一人でやっていけるかも不安だった。これまでずっとふたり一緒だったから、自分の見ていないところでまだ未熟な妹が大変な目に遭ってしまうのではないかと想像するだけで怖ろしい。それはつまり、自らも未熟であるということを思い知らされているようでそれも怖かった。いつまでも妹の心配をしているのではなく、自らのことも考えなければならない。
ディアは、黒い魔女が消えていった空を改めて見つめ、その視線をぐっと下方へ移した。背の高い木々が生い茂っているが、地面にはうっすらと轍があり、道になっているようだ。よく見れば町か村の名前を記したであろう木の看板が立ててあったが、朽ちてしまって字は読めなかった。それでも木立の奥からかすかな喧騒や気配を感じたので、その土地に人は住んでいるようだ。しかし本当に住人がいるのかと疑いながら、ディアはひとつ深呼吸をして薄暗い道を一歩踏み出した。
森を抜けると、思っていたよりも栄えている村が現れた。
大きな広場を囲むように家や店が立ち並び、所々はレンガ造りであったり明るい色のペンキで塗られていたり、ディアたちが育った村よりも華やかできれいだった。昼間ということもあって人々の往来も話し声も賑やかだ。入り口を覆っていた森の具合を見たらこんな活気のある村があるとは誰も思わないだろう。新たに訪れる者を拒んでいるように見えても仕方がない。家々の奥には古そうだが立派な教会の屋根が見える。
あたりを歩いている人たちを見るに、金持ちの村というわけではなさそうだが、荒れている建物も貧しそうな格好をしている住人もとくに見当たらないし、穏やかそうに見える。しかし異様だったのは、出歩いているのは男性ばかりということだ。少女や若い女性――人間の年齢としたときにディアと同年代の女性はまず歩いていないし老女など、どの年代の女性も見かけない。良い雰囲気の村でそこだけが違和感だった。それでも、この村に流れている空気や建物の並びのきれいさに、ディアは修行の場としてここを選んだ。
この村に教会があるのはディアにとって好都合だった。魔族の家に生まれたとはいっても悪の眷属ではないため、教会に行くのはなんら問題はない。それに、教会ならいきなり現れた余所者でも受け入れてくれるはずだと考えたのだ。
初めての地にわずかに緊張しながらも、パメラも同じような気持ちになるのかと思ったら弱気になるわけにもゆかず、ディアは自らを奮い立たせた。まずはなにがしかのお店なら町の人との距離感をめると思い、入りやすそうな店を探すために広場の中心まで歩みを進めた。踏み固められた砂の地面は乾き、すこしの足踏みで埃がたつ。どうしようかと逡巡しているほんの隙に、じゃり、と砂を蹴る音がしたかと思うと、ディアはいきなりひとりの男に羽交い絞めにされてしまった。
何事かと驚く間もなく、ディアはあちらこちらから集まってきた数人の男たちに囲まれてしまった。それまでの穏やかな空気から一変し、殺伐とした空間に包まれる。ディアが声をあげられないように、羽交い絞めにしている男がディアの口を手でふさいだ。
「今日の曜日を忘れたのか。女が出歩いているなんて、お前まさか魔女じゃないだろうな」
どきりとした。跳ねあがる鼓動が背にいる男にバレてしまわないか怖くなった。ここへは箒に乗ってきたわけでもないし、魔法もまだ使ってはいない。もしかして、町の入り口の森でパメラと別れたとき、彼女が箒で飛び立つのを見られていたのか。それに、こんな時刻といってもまだ昼間ではないか。正体が知られてしまったのかと震えていると、男たちの輪をかき分けて一人の若い男が傍まで寄ってきた。ややくたびれた白いシャツ着てそれに負けないほど病的な青白い肌で、やつれた頬とは対照的に栗色のすこし伸びた髪は陽の光に透けて美しい。背はすらりと高いが、なにかにぶつかっただけでバラバラと崩れてしまいそうなほど細い体躯は見ているこちらを心配にさせるほどだ。
「どうしたのですか」
若い男が言葉を発すると、それまでざわついていた雑踏の輪が静かになった。見かけによらず耳障りの良いはっきりとした声だった。
「先生‥‥掟を破って今日外を出歩いている女がいたもんでね。きっとこいつは魔女に違いねぇ」
ディアを拘束している男の手に力が入る。ディアは下手に動いてさらにとりかえしのつかない事態にならないように、とりあえずいまはじっとしていることにした。この若い男がどう出るか見てみることにした。
先生と呼ばれた若い男は、二、三秒じっとディアの目を見つめた。男の瞳は髪と同じく栗色に透きとおっていた。
「掟と言ってもあなたがたが勝手に決めたものでしょう。余所から来た客人がそれを知るわけもありませんよ」
「客人?」
「彼女はわたしが呼んだのです。わたしの知人なのです。あなたがたの言う掟のことを伝えるのを忘れていましてね」
ディアたちを囲んでいる男たちが再びざわつき始めた。ディアの耳元で拘束している男が息を飲むのが聞こえた。驚いたのは男たちだけでなく彼女もだった。まったく面識のない男に知り合いだと言われて動揺しないわけがない。栗色の瞳の男は、再びじっとディアを見つめた。言葉には出さないが、なにかを伝えたいのが判る。――この男は自分を助けようとしている。そう汲み取ったディアは目の前の男に目配せをし、しおらしく多少身じろいでみせた。ディアの口をふさいでいた手が急に離れ、背後の男からきつい口調で「知り合いか?」と問われた。ディアはいろいろ悟られないようにゆっくりと頷く。
「わたしがお呼びした方に手荒な真似は許しませんよ」
栗色の男が言った。ディアの背後の男はまだ納得していないようで、疑いの念がたっぷり籠った声を出した。
「本当に知り合いなんでしょうね?」
「‥‥いつまでも信用しないのは自由ですが、彼女がもし本当に魔女だったら、あなたはきっと無事ではいないでしょうね」
「変なことをされる前に始末しますよ」
始末、という単語に栗色の男は眉をひそめた。ふたりのやりとりを聞きながら、ディアはあることに気がついた。広場から見える位置に建っている家々の窓という窓から、誰かが覗いている影のだ。どうやら女たちのようだった。いま村ではなにが起きているのかみなが不安そうにようすを窺っているのである。魔女だと疑われないために外を出歩かないように”掟”に従って家のなかに潜んでいるのだろう。おそらく、決められた日以外は外出してはならないなどと言われているのだと思った。
「――そのために教会があって、わたしが居るんですよ。それに、聖職者のわたしが魔女と知り合いだとでも思うのですか?」
「‥‥そうですね、先生」
ふっと身体が軽くなって、ディアを羽交い絞めにしていた手が緩んだ。いつのまにか話がついたらしい。まわりを囲んでいた男たちもばつが悪そうにしながら解散してゆく。拘束していた男が舌打ちをしてディアの傍を離れようとしたとき、栗色の男――先生が鋭い声を出した。
「あなた、彼女にしなければならないことがあるのでは?」
拘束していた男は見開いた目を、先生、ディアの順に向けた。すこしの間があって、ディアに軽く頭を下げ「悪かったな」とちいさく呟いてディアの返答を待たずに行ってしまった。先生は弱々しく溜息をはいて、ディアに近づいてきた。
「怪我はありませんか?」
折れてしまいそうな細い身体をかがめて、先生はディアの顔を覗き込んだ。ディアは間近で男の顔を見て、別の意味で心臓が跳ねあがった。どきりとした。病的な肌の白さだが、唇は紅をさしたように赤く染まっている。人形のごとく顔が整っているように見えたのだ。その赤い唇がきゅっと固く結ばれた。よく見ると頬がかすかに震えていた。自らの膝に置いていた手のひらもぎゅっと握りしめられている。
「あの、ありがとうございました‥‥あの、私が言うのもなんですけど、大丈夫ですか」
この男も怖かったのだろう、いまになって身体に表れる震えを一生懸命に抑え込もうとしている。
「あはは、大丈夫ですよ。貴女も怖かったでしょう。わたしの知り合いということにしてしまって大丈夫でしたか?」
「ええ、助かりました」
「よかった‥‥わたしの名前はウィリアムです。教会の牧師をしています」
「私はーーディアです」
言いながらディアは、ウィリアムの肩越しに先ほどの家々の窓を見た。こちらを窺っていた影はまだこちらを見ている。村に入ってきたときの活気はなくなってはいるが、男たちは日常に戻ったものの、幾人かは訝しげにちらちらと視線を送っている。
「さっきの彼は村長の息子で、リーダーのような立場なのです。村長はもう病に臥せって長いので、実質彼が実権を握っているようなものなのです」
「そうでしたか‥‥。いきなりのことでびっくりしましたが‥‥魔女狩りのようなものがこの村にはあるのですね」
「ええ」
ウィリアムは頷いて、ふいにディアの腕を取った。まだこちらを気にしている男たちを見ている。
「ここだと目立つので、わたしの家‥‥教会へ来ませんか。貴女も、ただこの村に迷い込んだというわけではなさそうですし....」
ディアはゆっくり頷いた。
*****
古くも立派に見えていた教会は思っていたよりもくたびれていた。建物を囲う土塀や教会自体のレンガの壁は苔むしているし、樹木も丁寧に剪定されているようすもない。ちいさな花壇がいくつかあって、なにかが生えているが、それが植えられたものなのか勝手に生えてきた雑草なのかは判らない。それでも参道に敷き詰められた石の隙間から草が繁ることはなく落ち葉もなく、綺麗に保たれている。屋根のてっぺんでかすかに揺れている風見鶏は時折、陽の光を受けてきらりと反射している。
聖堂内は外よりも手入れがされているようで、椅子や燭台は美しく磨かれていた。ステンドグラスから差し込む光で、身の丈よりも大きな木の十字架が七色に染まって見える。薄暗い雰囲気だが、怖いとか不安な気持ちにまったくなったりしない、とディアは思った。荘厳さや美しさに圧倒され立ち止まって十字架を見上げていたディアは、ウィリアムに促され祭壇の奥にある部屋に通された。
部屋自体はあまり広くないが、中央に木のテーブルと椅子が4脚あって、使い古された暖炉と食器棚に囲まれている。綺麗に整列し収められている食器は丁寧に磨かれているようで、白い陶器が暖炉のオレンジ色にきらきらと輝いて見える。テーブルの真上にぶら下がっているランプシェードにはかすかに蜘蛛の巣が絡まっているが、その主は居ないようだ。
ウィリアムは慣れた手つきでティーポットとふたつのカップを取り出し、湯を沸かしはじめた。その流れるような動作を黙って見つめていたディアとウィリアムの栗色の瞳がぱちりと合った。太陽の光に照らされてきらきらと輝いて見えたウィリアムの髪は、オレンジ色の暖炉の火で、いまはさらに黄金色に透き通って見える。別れを告げずに村に残してきたクリスのことをふと思い出した。自分たちが村に戻るころには、クリスはどれくらいの年齢になっているのだろう。どうして人間と自分たちは過ごす時間の速さが違うのだろう。ーーぼんやりと思いふけっていると、ぎい、と大きな音をたてないようにウィリアムが椅子を引いてくれた。促されるまま腰かけると、温かい優しい香りがしてきた。
「紅茶しかありませんが‥‥どうぞ」
彼が差し出してきたカップには彼の髪や瞳の色に似た液体が湯気に包まれてたゆたっている。砂糖やミルクもどうぞ、と忙しなくもてなしてくれるウィリアムの表情はどこか照れくさそうで柔らかかった。ウィリアムはディアの正面に座り、自らのカップに砂糖を入れた。暖炉の火がパチパチと爆ぜる音に混じって、かき混ぜるスプーンが陶器に当たる音が響く。ディアも彼に倣い眼の前のカップに砂糖をひとすくい入れた。ウィリアムはその後も幾杯も砂糖を追加していた。
「えっと、それじゃあ‥‥わたしからお話しますね」
沈黙に耐えられなくなったのか、すこし気まずそうにウィリアムは話しはじめた。
彼の話では、彼の父が牧師をしていたときがいちばん非道い魔女狩りの時代で、火炙りや焼き打ちを行わない日のほうがすくなかったという。はじめのころは村長が怪しいと連れてきた女たちを魔女裁判で裁いていたいたものの、村人はみな疑心暗鬼になり、疑わしいものはすべて処刑されてしまったし、その家族も迫害されることがほとんどだった。医者の真似事をしたら魔女、占いをしたら魔女、異性を誘惑したら魔女、井戸端会議をしたら魔女、最終的には黒い服を着て出歩いただけで魔女だと怪しまれた。ウィリアムの父が教会の人間として疑われた女性たちの尋問を執り行ったが、魔女だと疑う村人たちの望む判決をしなければ、お前も魔の眷属だと指を差されなにをされるか判らないため、罪のない女性や子どもたちまでも裁いてしまったと、彼も死ぬまで苦しんだ。
そんな騒ぎが落ち着いたのは、村長の妻や娘が魔女だと疑われたのがきっかけだった。村の権力を得るために村長を誑かしたのではと声があがったのだ。村長が率先して魔女狩りをしていたのは、魔女である妻や娘に呪いをかけられたからだという非道い言われ方をした。もちろん彼女たちは魔力なんて持たない普通の人間だったし、よもや自分たちに矛先が向くとは思っておらず、自らの潔白を訴えるために関係のない者たちを巻き込むなどしてしまった。村長は自分の家族が処刑されるのを阻止したかったし、ウィリアムの父はこれ以上犠牲者を出したくないと不本意ながらも利害が一致し、魔女狩り騒ぎは終結に向かった。それでも家族や恋人を疑われ殺されてしまった村人の怒りはおさまらなかった。無実だと散々訴えても聞き入れてもらえなかったのに、村長は自分の家族を殺されずに済むだなんて納得できるはずもなく、村長一家をすんでのところで助けたウィリアムの父にも疑いの目が向けられたが、聖職者を断罪するわけにもゆかず、今後このような虐殺が起こらないようにと掟を設けることにした。
「魔女たちが集会を行わないように、決められた時間以外は出歩いてはいけない。医術に携わってはいけない。勝手に結婚してはいけない。‥‥父や村長たちが勝手に決めたことなのです。でも、これを守らないと疑われて弁明する間もなく処刑されてしまうので、みなは静かに守っているのです。本当に魔女かどうかなんて、どうでもよくなっているのです。ただ、疑われないように怯えていて、この掟を破っている者を見つけたら取り押さえないと自分たちが魔の眷属だと思われるからそうしているだけなんです。見逃してしまったら、魔女の仲間だから逃がしたと疑われる。それでも、ここしばらくは今日みたいな騒ぎは無かったのです。村には多少の活気は戻りましたが、閉鎖的になってしまって、こちらから呼ばないと外から人は来ない」
「私がその平穏を壊してしまったのですね‥‥」
「いえ、貴女のせいではありません‥‥! こんな掟など廃してしまって、もっと開放的になるべきなのです。魔女狩りなんて恐ろしいものをやっていても、実際に呪われたとか取り憑かれたとかはっきりとした被害なんて無いのです。悪天候や流行り病を魔女のせいにしないと精神が保てないほど、村が壊滅的になった時代も事実ですが‥‥」
魔女は呪ったり毒を煎じているだけではないのだと、ディアはウィリアムに言ってやりたかった。空の模様を占い、傷を癒やすこともできるのだと。しかし、簡単に正体を明かすことなどできないし、仮にもウィリアムは教会の人間だ。魔女狩りを否定しつつも、存在を肯定しているわけではない。本物の魔女が目の前に現れたとなるとどういう態度になるか判らない。ーーこの村に居ることは諦めようか、と思いながら、ディアは俯いているウィリアムに訊いた。
「どうして私を助けてくれたのですか。あなたの話では、掟を守らない者を養護するとあなた自身も疑われるのではありませんか? そんな状況なのに余所者の私を助け出したらあなたもどうなることか‥‥いくら魔女狩りをよく思っていないのだとしても、危険すぎます」
「そう、ですよね‥‥でも、わたしは貴女を救いたかった。魔女かどうかよりも、困っている人が居たら助けないわけにはいきませんから」
「‥‥私が本当に魔女だったらどうするのですか」
まっすぐにウィリアムを見る。暖炉の火、ランプの明かりに揺らめいて輝く栗色の髪は本当に美しく見える。かすかに窶れた頬や首筋には濃い影ができているが、ただ病的に線が細いわけではなくかつてはしっかりとした体躯だったことが窺える。白い肌に赤い唇が映えている。あの広場では震えながらも助けてくれた。あの村長の息子に本気で殴られればこの男は簡単にねじ伏せられてしまうだろうに、彼はあらゆる危険を顧みずに救ってくれた。もし自分がこの村を離れれば、ウィリアムは魔女を恐れる村人たちになにをされるか判らない。これからは、自分が守ってあげなければ、とディアは思った。彼が美しいからなのか、その考えが共感に値するからなのか、はたまたどちらもなのかディアには判らなかったが、魔女狩りなどということは終わらせたいと思うのも本当の気持ちだった。
「貴女が魔女だったら‥‥? そうですね‥‥」
ウィリアムは暖炉の揺らめく火を見ながらすこしだけ考え、栗色の髪をきらめかせながらディアに視線を戻した。
「きっと貴女なら悪い魔女ではないと思います。それに、教会の人間とこうしてなんの問題も無く会話しているのですから、魔女であれ人であれ、貴女は悪者のはずがありませんよ」
それまで真剣な表情だったウィリアムが、恥ずかしそうに笑った。
「お人好しがすぎますよーーウィリアムさん」
ディアが名前を呼ぶと、ウィリアムはさらに恥ずかしそうに肩をすくめ、白い頬を赤く染めた。
それからディアは、村を訪れた理由を話した。もちろん、魔女であることは言わずに遠くの町から派遣された医術に携わる者としてこの村を視察に来たということにした。しばらく滞在したいため教会で寝起きすることを許してほしいと頼んだ。ウィリアムは快く受け入れた。この村では例の掟があるため、まともに資格を持った医者もおらずおおっぴらには医術を施せないでおり、基本的にはこの教会が病院の役割をしているという。怪我人や病人が出たら器具が整っているこの教会に運び、魔女とは関係ないと示しながら治療を行なっている。かつては老いた医師が居たものの他界し、いまではウィリアムひとりになってしまった。
「だからあなたは、先生と呼ばれていたのですね」
「そんな立派なものではないですけどね。本格的ではないにしろ軽い治療はしますし、子どもたちには読み書きを教えるので、先生と呼ぶほうが楽なのでしょう」
さきほどディアを取り押さえた男は村長のひとり息子だという。母や姉たちが魔女ではないかと疑いをかけられるのを目の前で見ていたそうだ。村長はいま病のために床に臥せっていて、ウィリアムが定期的に往診しているが、女たちを裁判にかけ処刑するようにと指示していたときのようなかつての威厳は無く、ただ死を待つのみの毎日を送っている。そのため、現在は息子が実質的に権力を持っているので、あの広場でも誰も止めに入らなかったのだ。村の男たちは村長の息子――カーターに従っているものの、唯一の医療を行えるウィリアムに完全に敵対しているわけでもなかった。しかし、ウィリアムは孤独を感じていると言った。
「ミサやほかの行事にも村人は参加してくれますが、ただそれだけなのです。互いを干渉しない‥‥。わたしはひとりなのです。なのでなかなかに忙しくて、庭まで手入れが行き届かないのです。屋内はなんとか綺麗に保っているのですが‥‥貴女がここに留まってくれるのはわたしもありがたい。やはり、勇気を出して貴女を救い出して良かった。争いごとは苦手なのです」
「簡単なことですよ」
ディアは飄々と言った。
「子どもたちに、これは授業の一環だと言って掃除を手伝ってもらえばいいのです。読み書きだけが教育ではありませんよ」
「はぁ‥‥確かにそうですね‥‥どうしていままで気がつかなかったんでしょうか‥‥」
あまりにも面食らっているウィリアムの表情が可笑しくなって、ディアはここへ来て初めて笑った。それを見たウィリアムも頬を緩ませた。
「よかった、笑ってくれた。ずっと貴女の笑った顔が見たいと思っていました」
「あの‥‥私のことも、名前で呼んでいただけますか‥‥?」
ディアが言うと、ウィリアムはすこし驚いたがすぐに笑顔になって優しい声で名を呼んでくれた。
「ありがとう、‥‥ディア」
その柔らかな笑顔を見ながら、ディアの心は掴まれたように苦しくなった。彼に嘘をついていることだけではない。彼が肺の病に冒されていることに気づいていたからである。ウィリアムの命は、もう何年も残されていなかった。彼の身体から溢れ出る生気のオーラがまもなく消えてしまうことに、ディアは気づいてしまった。
✳✳✳✳✳
すっかり打ち解けたディアは、ウィリアムの助手として教会に居候することになった。例の騒ぎがあったためか村人は最初こそ嫌悪感を露わにしていたが、教会で献身的に働く姿や人当たりの良さと、程度の弱い魔法を村人にかけることですぐに村に馴染むことができた。件の掟のこともあり自由に村のなかを動けるわけではなかったが、厳しかったルールをすこしずつ緩和してゆけるようにディアなりに努力をした。まずは女たちが好きな色の服を着られるようにした。黒い服が魔女の象徴であるのは確かだったが、ディアの母の時代からそんなことにこだわる魔女はすくなくなった。実際、ディアは全身白で身を包んでいる。それから、男女の交流や恋愛を自由にできるようにした。凝り固まった大人たちは魔女が異性を誘惑することで人間に取り入るのではないかと危惧していたようだが、村の若者たちはそんな考えなどいざ知らず、ひそかに想い合っている者たちもいた。貴重な若者の時間や感情を無駄にしてはいけないとディアは思った。これらを解決してゆくのにはじめたのが、若い人たちだけでも自由に集まれるようにコミュニティを設けた。彼らの正直な意見が大人たちにも届けば、くだらない掟も無くなるかもしれない。
いまはディアの魔法でディアに対しても普通に接してくれている村人たちだが、最終的には魔法が解けても二度と魔女狩りなど行わない村にすることが目標だった。若者たちが集まることを率先しているのがディアなのでいまだに訝しむ者もいるが、ディアは敢えて彼らをそのままにした。あまりに強力な魔法をかけてしまうと、ディアが村を去ったときに殺伐としていた時代に戻ってしまうことを防ぐためだった。縁もゆかりも無いこの村に何故そこまでするのかは、ディアにとって明白だった。ウィリアムが居るからだった。彼に助けられたのもあるし、魔女狩りなどというおぞましい習慣を無くすためでもあるが、なによりもウィリアムがこの先穏やかに過ごしてゆけるようにしてあげたいのが第一だった。ディアは、ウィリアムに惚れているのだ。彼の余命が幾許も残されていないことに同情したのもあるが、彼の人柄に心を奪われた。はじめはきらきらと輝く栗色の髪に目を引かれたが、それ以上にウィリアムの温和で美しい心に惹かれたのだった。こんなに良い人がまもなく死んでしまうなんでディアは受け入れたくなかったのだ。
村の状態がもうすこし良くなるまで、ウィリアムには生きていてもらわなければならない。生まれ育った村が平穏になったところを見てほしい。ディアは、夜半に眠るウィリアムの寝所にそっと忍び込み、治癒魔法を施すことにした。毎日すこしずつ、痩せた身体を癒してゆく。彼に気づかれないように。ウィリアムの病を完治させることは無理でも進行を遅らせることくらいはできる。こんなとき母だったらもうすこし強力な魔法が使えるのだろうか、パメラとふたりだったらウィリアムを治してあげられるのだろうか、とディアは毎晩、薄い胸を上下させて眠るウィリアムを治療しながら考えた。しっかり治してあげたい気持ちは強いが、いきなりウィリアムが完治してしまっては、魔女だという疑いが再びかけられてしまうかもしれない。それに、いまのディアの魔力では毎日すこしずつ施すのが精一杯だった。
あるとき、子どもたちとでは手をつけられなかった教会の庭の手入れをすることにしたディアとウィリアムは、落ち葉を掃くために箒とちりとりを持って外へ出た。ふたりはもう、付き合いの長い恋人のように見えた。ディアの治癒魔法でウィリアムの病状は安定していたものの、衰弱しているさまは明らかだった。ウィリアムはしゃんと立っているが、白い顔はさらに青白く窶れている。見るに見かねたディアは、ウィリアムに声をかけた。
「一度、ちゃんとしたところで診てもらっては‥‥」
この言葉にウィリアムはハッとしてディアを見た。自身の気持ちを落ち着けるように痩せ細った胸に手をあて、ちいさく肩を上下させて息をした。
「気づいていたのですか」
これにディアは思わず吹き出してしまった。笑うつもりではなかったが、そんなに頼りない体躯で、しかも夜半に苦しそうに咳き込んでいるのだ、同じ建物内で生活していれば魔力のあるディアでなくても誰だって気がつくだろう。それなのにウィリアムは気づかれていないと思っていたことに、ディアは可笑しくなってしまったのだ。
「ごめんなさい、ウィリアム。あなたが苦しそうにしているのは知っていました。寝るときに咳をしているけれど、それがただの咳じゃないことくらい判ります。これでも私は医療に携わる者の端くれですよ」
本当ならディアの故郷の村に帰ってウィリアムのことを母や治癒魔法に長けた大人の魔女に診せたいが、まだ修行途中のためそれはかなわない。それでもここよりも大きい町にゆけばしっかりと診てくれる医者くらい居るはずだと思った。
「ディア、わたしのこの病は治らないと思っています。罪も無くあえなく命を散らしてしまった村人たちの無念な思いがきっとわたしを病にしたのでしょう。だから、わたしはそれに向き合わなければならないのです。父のしてしまったことをわたしが償わなければいけないのですよ」
「‥‥亡くなった人たちの念で病になどなりませんよ。それに、あなたが背負う必要も無いのです」
「ありがとう、ディア。貴女が傍に居てくれるようになって、体調はかなりよくなりました。いままで苦しんでいたのが嘘のようです。あのとき、貴女を助けて本当に良かった」
以前にも言われた言葉にディアは胸が苦しくなった。この人はどこまでも、自分のことよりも他人のことを優先している。ディアが惹かれたところでもあるが、すこしはその愛情を自分にも向けてほしいと切実に思った。
「それにね、ディア」
ウィリアムは箒の柄を握りしめて続けた。
「きっとディアにはわたしを看取ってもらうことになるでしょう。もっと迷惑をかけるかもしれない。それでもわたしは、この短い人生のなかで貴女に出逢えて同じ時間を過ごせたことを宝物に思っています」
「‥‥馬鹿ですね、あなたは。出逢えたことが宝物だなんて言葉は、これから先ずっと一緒に居る人に言うべきですよ」
「ーーーー」
「私もあなたとの出逢いは大きなものでした。あなたが居なければいま私はこうしていることもできない。あなたには感謝しています。でも、いずれ、元いたところに帰らなければなりません」
一度言葉を切って、ディアはじっとウィリアムを見つめた。その視線から逃れるようにウィリアムは俯いてしまう。ディアは自分だけを見てほしくて、やや火照った彼の頬を両手で優しく包んで正面を向かせた。ウィリアムの白い頬がサッと赤くなった。透き通って輝く栗色の瞳は、驚いて見開いていた。
「帰らなければなりませんが、それがいつかは私にも判りません。そのときが来るまで、私はあなたの傍に居ます。ーー居たいのです」
このとき、それまで弱々しかったウィリアムの生気が、確実に増した。とくに治癒魔法を使ったつもりはディアにはなかったのだが、日々全力を尽くして彼に知られないように行なっていたどの治癒魔法よりも強力で鮮明な魔法だった。毎晩の寝所での治療のほかに、毎日の紅茶や身体を清める水にも魔法をかけていたのだが、ウィリアムの心に直接触れることがいちばんの治癒魔法だったのだ。
「ならわたしは‥‥貴女を帰さないために長生きしなければなりませんね‥‥」
ウィリアムの目には涙が溜まっていた。ここでディアは新たに気がついたことがあった。いくらディアが魔法を施しても、それを受けるウィリアムの生きたいという意思が弱くては目覚ましいほどの効果は得られないのだと。ディアは、さらにウィリアムのことが愛おしくなった。いまにも消え入りそうな命が、自らの手によって強く生きることを望むようになったことが嬉しかった。このままうまくゆけばウィリアムの病も治るかもしれない。ディアは、自身の魔力とウィリアムの生命力にかけてみることにした。
ーー数年が経ち、ウィリアムが元気になってゆくにつれ、村全体に静かにわだかまっていた魔女狩りの風習もほぼ消えつつあった。魔女裁判や処刑などという陰鬱で恐ろしいことが行われていたことが嘘かのように、村は活気があふれるようになった。若い女性や子どもも自由に出歩き、村の外からも人が出入りするようになった。それでもディアはわずかながらも魔法をかけて魔女であることを知られないように万全を期していた。しかし、ディアが魔力を使わなくても村に完全に平穏が訪れるのも近いだろう。それが成し遂げられたとき、ウィリアムはどんな表情で喜んでくれるだろうか。
✳✳✳✳✳
ディアとウィリアムが一緒に居るようになって40年近くが経っていた。結局、ウィリアムの病は完治することはなかった。60代後半になった彼の栗色の髪は灰色が混じるようになったが、瞳は相変わらず澄んで輝いていた。出逢ったころのウィリアムはたった数年で終わりを迎える命だったが、彼自身が抱いたディアと生きたいという思いは想像以上に強く、ディアの魔力以上に力を発揮した。しかし、一度病に蝕まれた身体は癒えず、いまでは車椅子の生活をしている。とはいえディアが常に傍に居るので、ふたりの生活は何不自由なかった。廃するべきだと思っていた掟も、もはや重視する村人もおらず、新たな住民も増え、村人同士で疑い合うなど考えられないほどにまでなった。いままでは教会が病院の役割をしていたが、外から医者を招き入れ新たに病院を設置した。読み書きも教会で教えていたが、廃墟になっていた学校を綺麗にして立派な学び舎を作った。
病に倒れていた村長ーーカーターの父はすでに亡くなり、カーターがあとを継いで村を治めるようになっていた。魔女狩りのことを表立って話すことは無くなったが、カーターのディアへ向ける視線は相変わらず穏やかなものではなかった。道で鉢合わせても、会釈するでもなくカーターは来た道を戻ったりした。ディアもそんなカーターに構っている暇も惜しく、一日でも長くウィリアムの傍に居られるようにつとめた。
ディアがこの村に来てから幾度かの春、きれいに整えられた庭で暖かい陽射しを浴びながらウィリアムの命が尽きた。ディアが買い出しに行くと久々に村の外へ出た日のことだった。座ったままのウィリアムは静かに眠っているように見えたが、その細い身体は確実に冷たくなっていた。
村の人々はウィリアムを献身的に支え、村の発展に尽力したディアを讃えたが、カーターだけは一人意見が違った。ウィリアムの葬式を終えたその場で、カーターはディアに詰め寄ったのだ。初めて見たカーターよりも皺も白髪も増え、みすぼらしい男になっている。
「おかしいではないか。ずっとおかしいと思っていた」
ディアはなにも言い返さずにカーターを睨んでいると、カーターはすこし後退りをした。参列者たちがざわついている。
「俺もこの女に殺されてしまうかもしれないな、この魔女に」
これにはさすがのディアも反論した。
「なにを言うのです」
「先生ーーウィリアムが死んだとき、お前は村の外にいて一緒に居なかったらしいじゃないか。お前が魔力を使ってウィリアムを生かしていたから、傍に居ないときに急に死んだのではないか」
これはまさにカーターの言う通りだった。ディアの魔法でウィリアムの心臓はかろうじて動いていたのだった。しばらく穏やかだったウィリアムの病状を見てディアは外出したのだが、ウィリアムの身体はもう持たなかった。
「わ‥‥私が本当に魔女だったら、ウィリアムは死ななかったでしょう。不老不死の身体を捧げるはずです」
「お前、自分の顔を鏡で見ているのか? ウィリアムも俺も恐ろしく歳を取りくたびれた老人になっちまった。だがお前はどうだ? お前がこの村に来た40年前となにも変わらない。妙齢の美しい娘のままだ」
カーターの言葉にディアはハッとした。顔を洗ったり身だしなみを整えるのに鏡は毎日のように見ていた。しかし、自分だけが老いていないことには気づいていなかったのだ。
それまでざわついていた村人たちが一瞬にして静かになった。ディアは慌ててまわりを見まわした。カーターやウィリアムと歳が近い者も幾人か居る。ディアが村に来たときの騒ぎを目撃していた者もいるに違いない。
ディアは咄嗟に天を見あげた。カーターを始め村人たちもそれにつられて空を見やる。その隙にディアは自らのスカートの裾を手で二、三回払って妹のパメラと交換した箒を取り出した。箒の柄で強く地面を叩くと見るまに暗雲が立ち込め、近くに立っている人の顔すら判別がつかなくなるほど視界が悪くなった。驚き困惑しているカーターたちをその場に残し、ディアはこれまでウィリアムと一緒に過ごしてきた家に戻った。
もうこの村には居られない。先ほどの暗雲には記憶を消す魔法が宿っており、まともに吸えばディアに関する記憶が失われるようになっている。ディアは家のなかからウィリアムが最期まで着ていた白いローブを掴んで外に出た。形見にこれだけは持って行きたかった。箒とローブを強く握りしめ思い出の家を見つめていると、背後からカーターの声がした。なにを言っているかは判らないが、ディアを追いかけてきたのだ。カーターが必死に手を伸ばしてくる。
もうすこしで空を彷徨うその手に捕まる、というところでディアは強く地面を蹴って箒が空に高く飛びあがった。カーターの伸ばした手がウィリアムのローブを引っかけた。そのままローブはカーターに絡め取られてしまったが、紐ベルトだけは固くディアが握りしめていた。
カーターの怒号に振り返ることもなくがむしゃらに上を目指して飛び、厚く立ち込めた暗雲の層を抜けてから下を見おろしたが、自ら放ったその魔法で村のようすは確認できなかった。この暗雲にはディアの記憶を消す力のほかに、仮にディアのことをすっかり忘れてしまっても、ウィリアムが大切にしていたこの村は変わらずに営みを続けてゆける力も込められていた。おそらくカーターもこの暗雲の魔力でそのうちにディアのことも忘れてしまうだろう‥‥。
*****
バー・ソルシエールのカウンターにディアとパメラが腰かけている。哀しみにくれている姉を慰めるように、パメラが温かい紅茶をいれ、満月のカレンダーを見ながら言った。
「ねぇ、ディア。今日はーー」
その湯気をぼんやりと見つめながらディアがゆっくりと頷く。
「そう。今日はウィリアムが亡くなった日よ。この日になると、たとえ日付を忘れていても急に思い出して苦しくなるの。私が苦しくなるからウーイルも元気がなくなるのは判っているのに‥‥。ウィリアムはね、私の正体に気がついていたのよ。気がついていて、40年も傍に置いてくれたの。不思議でしょ? だって彼は教会の人間なのよ。魔族の私とそんなに長いあいだずっと一緒に暮らすなんておかしいわ」
「それが彼の優しさだったのよ。判っていても同じ時間を一緒に過ごしたかったのよ。良いじゃない、私は想い人と過ごせた時間はわずかなんだから」
「彼の形見のローブのポケットに、私にあてた手紙が入っていたの。魔女だと気がついていることをいつ知られるかという恐怖もあったけれど、その恐ろしさよりも一人死にゆくことのほうが恐ろしいと」
ディアは腕のなかのウーイルを優しく撫でた。
ウーイルはウィリアムのローブの紐を元にディアが誕生させた使い魔だった。魔族ではない人間と生活を共にし、流れ感じる時間の差を忘れないための戒めとしてウィリアムのローブを選んだ。ローブ自体はカーターに奪われてしまったが、紐はだけは必死に守った。
「なによりも、ウィリアムの香りのするものを傍に置きたいだけという、邪な思いが強いのだけれどね」
ディアは紅茶に砂糖を入れた。
厳密に言えば、普段とようすが違っていたのは店主である双子の姉の白い魔女ディアだった。いつもの彼女なら飄々としていながらも、店内全体――とくに同じく店主の妹の黒い魔女パメラが暴走しないかを気にかけていたし、常ににこにこしていた。一見すれば優しそうで穏やかそうな彼女は多数の客から人気があった。その笑顔の下でなにを考えどんなことを抱えているかなど、はかり知れないし誰も考えもしなかった。それでも彼女は笑みを絶やさずソルシエールを見守っているのだった。
そんなディアが、その晩は客が動揺するほどのミスを連発していた。
グラスを相次いで割ってしまったり、客に提供する酒を間違えたり、料理を鍋ごと焦がしてしまったり、常連客でなくても心配になるレベルだった。
*****
なんとか営業を終え、シンクに寄せられた割れたガラスの破片たちをぼんやりと眺めながら、ディアはしきりに首元をさすっていた。最後の客が座っていたカウンターを布巾で拭いていたパメラは手を止め、ディアの傍らまで来ると、いつもは姉にされるように自分とよく似たその顔を深く覗き込んだ。
「どうしたのよ。今日のアンタなんか変よ。‥‥いつも変だけど、今日は特別おかしいわね」
首元をさすっていた手を一瞬止めたが、不安そうに見つめてくる妹の顔を見、今度はゆっくりさすりはじめた。
「ごめんなさいね、グラスを割ってしまって‥‥お鍋も炭にしちゃったし‥‥」
それを聞いたパメラはあからさまに大きな溜息をついて、黒いネイルが光る指を一本これ見よがしに突き出した。そしてちいさく振った。ひゅっという悪露がしたかと思うと、シンクに山となっていたガラス片たちは見る間にグラスの形をなし、直前まで粉々だったとは思えないほどきれいに元に戻った。パメラは同じ指を焦げてコンロで燻っている鍋に向け、再びちいさく振った。鍋はポンッと煙とともに弾けたかと思うと、カランと音をたてて新品さながらの物が五徳に乗せられた。
「お皿やグラスを割っちゃうのがアタシで、それを直すのがアンタの仕事でしょ」
「そうね‥‥」
きれいになったシンクやグラスたちを見ても、ディアは上の空だった。
「なによ。お客さんがいるから魔法を使わないんだと思ってたけど、そういうわけでもなさそうね‥‥」
ディアは首にあてがっていた手を止め、急に泣き出しそうになって顔を歪めた。そのまま緩くふんわりと巻かれたブロンドの毛先をきつく握りしめ、
「ねえ、パメラ‥‥使い魔も死んだりするのかしら‥‥」
妹のパメラですら聴いたことのないような声で言った。
「はい? 使い魔がなんですって!?」
パメラの驚いた声に、店内の大きな柱時計からそれまで飾りとして見守っていたカラスのグィーが思わず翼を大きく羽ばたかせた。使い魔は基本的には主の命令に従うが、このときばかりはじっとしていられなかったらしい。グィーはパメラの肩へ降り、わずかに気まずそうに毛づくろいをはじめた。
「グィーは元気そうでいいわね‥‥」
妹の使い魔を見るディアの目はひどく虚ろで、あまりにも見ていられないと思ったパメラは急いで近くの椅子へ姉を座らせた。
「ねぇ、どうしたの? ウーイルになにかあった?」
ディアはたっぷり涙を溜めながら、さきほどまでさすっていた首元から、ゆっくりと白く細長いキラキラしたものを取り出した。ディアの使い魔でヘビのウーイルだ。いつもならわざわざ手を使って持ち出さなくても、自らするするとディアの首から肩、腕を這ってくるのに、いまは無機質にだらりと力なく垂れてただの紐のようになっている。言われなければヘビだとは思わないだろう。
「今朝からこんな調子で変なのよ、この子‥‥。食欲も元気もなくて、私の声にも反応してくれないのよ‥‥」
ヘビといっても魔女の使い魔は普通の動物のように食べ物を食べるのではなく、主の魔力をエネルギーとして摂取している。ヘビやカラスの形をしているが、本物の生物のように冬眠したり狩りをするわけではないのだ。なので、主人の体調や魔力で使い魔の能力も増減することがある。パメラの使い魔のグィーが心配そうにウーイルの傍へ行き、嘴で顔のまわりの鱗を優しく噛んだ。ウーイルはかすかにまばたきをしただけだった。
「ディア、あなたに元気がないからウーイルもぐったりしてるんじゃないの?」
「違うわ、ウーイルの元気がないから私も元気ないのよ‥‥」
「――ねえ、もしかして」
ハッとなにかに気づいたパメラが、柱時計の隣にかけられている満月を模したカレンダーに目をやった。ディアは大切そうにウーイルを膝の上に抱え、優しく撫でている。まるで高熱でも出してうなされている幼子を寝かしつけているように。
「ディア‥‥忘れろとは言わないけど、いまだに思い出して一人で苦しむことはないのよ‥‥」
溜まった涙がぽろりと一筋流れ、ディアは、パメラの言葉に静かに頷いた。
*****
120歳となり一人前の魔女となるべく故郷の村を離れ、それぞれの新天地で魔術の修行をすることになった双子の姉妹。妹のパメラが無理矢理お互いの箒を取り換え飛び去ってしまうのを、姉のディアはただただ心配そうに見つめるしかできなかった。幼馴染のクリスのこともあるし、後先を考えずに行動してしまうパメラがこれから一人でやっていけるかも不安だった。これまでずっとふたり一緒だったから、自分の見ていないところでまだ未熟な妹が大変な目に遭ってしまうのではないかと想像するだけで怖ろしい。それはつまり、自らも未熟であるということを思い知らされているようでそれも怖かった。いつまでも妹の心配をしているのではなく、自らのことも考えなければならない。
ディアは、黒い魔女が消えていった空を改めて見つめ、その視線をぐっと下方へ移した。背の高い木々が生い茂っているが、地面にはうっすらと轍があり、道になっているようだ。よく見れば町か村の名前を記したであろう木の看板が立ててあったが、朽ちてしまって字は読めなかった。それでも木立の奥からかすかな喧騒や気配を感じたので、その土地に人は住んでいるようだ。しかし本当に住人がいるのかと疑いながら、ディアはひとつ深呼吸をして薄暗い道を一歩踏み出した。
森を抜けると、思っていたよりも栄えている村が現れた。
大きな広場を囲むように家や店が立ち並び、所々はレンガ造りであったり明るい色のペンキで塗られていたり、ディアたちが育った村よりも華やかできれいだった。昼間ということもあって人々の往来も話し声も賑やかだ。入り口を覆っていた森の具合を見たらこんな活気のある村があるとは誰も思わないだろう。新たに訪れる者を拒んでいるように見えても仕方がない。家々の奥には古そうだが立派な教会の屋根が見える。
あたりを歩いている人たちを見るに、金持ちの村というわけではなさそうだが、荒れている建物も貧しそうな格好をしている住人もとくに見当たらないし、穏やかそうに見える。しかし異様だったのは、出歩いているのは男性ばかりということだ。少女や若い女性――人間の年齢としたときにディアと同年代の女性はまず歩いていないし老女など、どの年代の女性も見かけない。良い雰囲気の村でそこだけが違和感だった。それでも、この村に流れている空気や建物の並びのきれいさに、ディアは修行の場としてここを選んだ。
この村に教会があるのはディアにとって好都合だった。魔族の家に生まれたとはいっても悪の眷属ではないため、教会に行くのはなんら問題はない。それに、教会ならいきなり現れた余所者でも受け入れてくれるはずだと考えたのだ。
初めての地にわずかに緊張しながらも、パメラも同じような気持ちになるのかと思ったら弱気になるわけにもゆかず、ディアは自らを奮い立たせた。まずはなにがしかのお店なら町の人との距離感をめると思い、入りやすそうな店を探すために広場の中心まで歩みを進めた。踏み固められた砂の地面は乾き、すこしの足踏みで埃がたつ。どうしようかと逡巡しているほんの隙に、じゃり、と砂を蹴る音がしたかと思うと、ディアはいきなりひとりの男に羽交い絞めにされてしまった。
何事かと驚く間もなく、ディアはあちらこちらから集まってきた数人の男たちに囲まれてしまった。それまでの穏やかな空気から一変し、殺伐とした空間に包まれる。ディアが声をあげられないように、羽交い絞めにしている男がディアの口を手でふさいだ。
「今日の曜日を忘れたのか。女が出歩いているなんて、お前まさか魔女じゃないだろうな」
どきりとした。跳ねあがる鼓動が背にいる男にバレてしまわないか怖くなった。ここへは箒に乗ってきたわけでもないし、魔法もまだ使ってはいない。もしかして、町の入り口の森でパメラと別れたとき、彼女が箒で飛び立つのを見られていたのか。それに、こんな時刻といってもまだ昼間ではないか。正体が知られてしまったのかと震えていると、男たちの輪をかき分けて一人の若い男が傍まで寄ってきた。ややくたびれた白いシャツ着てそれに負けないほど病的な青白い肌で、やつれた頬とは対照的に栗色のすこし伸びた髪は陽の光に透けて美しい。背はすらりと高いが、なにかにぶつかっただけでバラバラと崩れてしまいそうなほど細い体躯は見ているこちらを心配にさせるほどだ。
「どうしたのですか」
若い男が言葉を発すると、それまでざわついていた雑踏の輪が静かになった。見かけによらず耳障りの良いはっきりとした声だった。
「先生‥‥掟を破って今日外を出歩いている女がいたもんでね。きっとこいつは魔女に違いねぇ」
ディアを拘束している男の手に力が入る。ディアは下手に動いてさらにとりかえしのつかない事態にならないように、とりあえずいまはじっとしていることにした。この若い男がどう出るか見てみることにした。
先生と呼ばれた若い男は、二、三秒じっとディアの目を見つめた。男の瞳は髪と同じく栗色に透きとおっていた。
「掟と言ってもあなたがたが勝手に決めたものでしょう。余所から来た客人がそれを知るわけもありませんよ」
「客人?」
「彼女はわたしが呼んだのです。わたしの知人なのです。あなたがたの言う掟のことを伝えるのを忘れていましてね」
ディアたちを囲んでいる男たちが再びざわつき始めた。ディアの耳元で拘束している男が息を飲むのが聞こえた。驚いたのは男たちだけでなく彼女もだった。まったく面識のない男に知り合いだと言われて動揺しないわけがない。栗色の瞳の男は、再びじっとディアを見つめた。言葉には出さないが、なにかを伝えたいのが判る。――この男は自分を助けようとしている。そう汲み取ったディアは目の前の男に目配せをし、しおらしく多少身じろいでみせた。ディアの口をふさいでいた手が急に離れ、背後の男からきつい口調で「知り合いか?」と問われた。ディアはいろいろ悟られないようにゆっくりと頷く。
「わたしがお呼びした方に手荒な真似は許しませんよ」
栗色の男が言った。ディアの背後の男はまだ納得していないようで、疑いの念がたっぷり籠った声を出した。
「本当に知り合いなんでしょうね?」
「‥‥いつまでも信用しないのは自由ですが、彼女がもし本当に魔女だったら、あなたはきっと無事ではいないでしょうね」
「変なことをされる前に始末しますよ」
始末、という単語に栗色の男は眉をひそめた。ふたりのやりとりを聞きながら、ディアはあることに気がついた。広場から見える位置に建っている家々の窓という窓から、誰かが覗いている影のだ。どうやら女たちのようだった。いま村ではなにが起きているのかみなが不安そうにようすを窺っているのである。魔女だと疑われないために外を出歩かないように”掟”に従って家のなかに潜んでいるのだろう。おそらく、決められた日以外は外出してはならないなどと言われているのだと思った。
「――そのために教会があって、わたしが居るんですよ。それに、聖職者のわたしが魔女と知り合いだとでも思うのですか?」
「‥‥そうですね、先生」
ふっと身体が軽くなって、ディアを羽交い絞めにしていた手が緩んだ。いつのまにか話がついたらしい。まわりを囲んでいた男たちもばつが悪そうにしながら解散してゆく。拘束していた男が舌打ちをしてディアの傍を離れようとしたとき、栗色の男――先生が鋭い声を出した。
「あなた、彼女にしなければならないことがあるのでは?」
拘束していた男は見開いた目を、先生、ディアの順に向けた。すこしの間があって、ディアに軽く頭を下げ「悪かったな」とちいさく呟いてディアの返答を待たずに行ってしまった。先生は弱々しく溜息をはいて、ディアに近づいてきた。
「怪我はありませんか?」
折れてしまいそうな細い身体をかがめて、先生はディアの顔を覗き込んだ。ディアは間近で男の顔を見て、別の意味で心臓が跳ねあがった。どきりとした。病的な肌の白さだが、唇は紅をさしたように赤く染まっている。人形のごとく顔が整っているように見えたのだ。その赤い唇がきゅっと固く結ばれた。よく見ると頬がかすかに震えていた。自らの膝に置いていた手のひらもぎゅっと握りしめられている。
「あの、ありがとうございました‥‥あの、私が言うのもなんですけど、大丈夫ですか」
この男も怖かったのだろう、いまになって身体に表れる震えを一生懸命に抑え込もうとしている。
「あはは、大丈夫ですよ。貴女も怖かったでしょう。わたしの知り合いということにしてしまって大丈夫でしたか?」
「ええ、助かりました」
「よかった‥‥わたしの名前はウィリアムです。教会の牧師をしています」
「私はーーディアです」
言いながらディアは、ウィリアムの肩越しに先ほどの家々の窓を見た。こちらを窺っていた影はまだこちらを見ている。村に入ってきたときの活気はなくなってはいるが、男たちは日常に戻ったものの、幾人かは訝しげにちらちらと視線を送っている。
「さっきの彼は村長の息子で、リーダーのような立場なのです。村長はもう病に臥せって長いので、実質彼が実権を握っているようなものなのです」
「そうでしたか‥‥。いきなりのことでびっくりしましたが‥‥魔女狩りのようなものがこの村にはあるのですね」
「ええ」
ウィリアムは頷いて、ふいにディアの腕を取った。まだこちらを気にしている男たちを見ている。
「ここだと目立つので、わたしの家‥‥教会へ来ませんか。貴女も、ただこの村に迷い込んだというわけではなさそうですし....」
ディアはゆっくり頷いた。
*****
古くも立派に見えていた教会は思っていたよりもくたびれていた。建物を囲う土塀や教会自体のレンガの壁は苔むしているし、樹木も丁寧に剪定されているようすもない。ちいさな花壇がいくつかあって、なにかが生えているが、それが植えられたものなのか勝手に生えてきた雑草なのかは判らない。それでも参道に敷き詰められた石の隙間から草が繁ることはなく落ち葉もなく、綺麗に保たれている。屋根のてっぺんでかすかに揺れている風見鶏は時折、陽の光を受けてきらりと反射している。
聖堂内は外よりも手入れがされているようで、椅子や燭台は美しく磨かれていた。ステンドグラスから差し込む光で、身の丈よりも大きな木の十字架が七色に染まって見える。薄暗い雰囲気だが、怖いとか不安な気持ちにまったくなったりしない、とディアは思った。荘厳さや美しさに圧倒され立ち止まって十字架を見上げていたディアは、ウィリアムに促され祭壇の奥にある部屋に通された。
部屋自体はあまり広くないが、中央に木のテーブルと椅子が4脚あって、使い古された暖炉と食器棚に囲まれている。綺麗に整列し収められている食器は丁寧に磨かれているようで、白い陶器が暖炉のオレンジ色にきらきらと輝いて見える。テーブルの真上にぶら下がっているランプシェードにはかすかに蜘蛛の巣が絡まっているが、その主は居ないようだ。
ウィリアムは慣れた手つきでティーポットとふたつのカップを取り出し、湯を沸かしはじめた。その流れるような動作を黙って見つめていたディアとウィリアムの栗色の瞳がぱちりと合った。太陽の光に照らされてきらきらと輝いて見えたウィリアムの髪は、オレンジ色の暖炉の火で、いまはさらに黄金色に透き通って見える。別れを告げずに村に残してきたクリスのことをふと思い出した。自分たちが村に戻るころには、クリスはどれくらいの年齢になっているのだろう。どうして人間と自分たちは過ごす時間の速さが違うのだろう。ーーぼんやりと思いふけっていると、ぎい、と大きな音をたてないようにウィリアムが椅子を引いてくれた。促されるまま腰かけると、温かい優しい香りがしてきた。
「紅茶しかありませんが‥‥どうぞ」
彼が差し出してきたカップには彼の髪や瞳の色に似た液体が湯気に包まれてたゆたっている。砂糖やミルクもどうぞ、と忙しなくもてなしてくれるウィリアムの表情はどこか照れくさそうで柔らかかった。ウィリアムはディアの正面に座り、自らのカップに砂糖を入れた。暖炉の火がパチパチと爆ぜる音に混じって、かき混ぜるスプーンが陶器に当たる音が響く。ディアも彼に倣い眼の前のカップに砂糖をひとすくい入れた。ウィリアムはその後も幾杯も砂糖を追加していた。
「えっと、それじゃあ‥‥わたしからお話しますね」
沈黙に耐えられなくなったのか、すこし気まずそうにウィリアムは話しはじめた。
彼の話では、彼の父が牧師をしていたときがいちばん非道い魔女狩りの時代で、火炙りや焼き打ちを行わない日のほうがすくなかったという。はじめのころは村長が怪しいと連れてきた女たちを魔女裁判で裁いていたいたものの、村人はみな疑心暗鬼になり、疑わしいものはすべて処刑されてしまったし、その家族も迫害されることがほとんどだった。医者の真似事をしたら魔女、占いをしたら魔女、異性を誘惑したら魔女、井戸端会議をしたら魔女、最終的には黒い服を着て出歩いただけで魔女だと怪しまれた。ウィリアムの父が教会の人間として疑われた女性たちの尋問を執り行ったが、魔女だと疑う村人たちの望む判決をしなければ、お前も魔の眷属だと指を差されなにをされるか判らないため、罪のない女性や子どもたちまでも裁いてしまったと、彼も死ぬまで苦しんだ。
そんな騒ぎが落ち着いたのは、村長の妻や娘が魔女だと疑われたのがきっかけだった。村の権力を得るために村長を誑かしたのではと声があがったのだ。村長が率先して魔女狩りをしていたのは、魔女である妻や娘に呪いをかけられたからだという非道い言われ方をした。もちろん彼女たちは魔力なんて持たない普通の人間だったし、よもや自分たちに矛先が向くとは思っておらず、自らの潔白を訴えるために関係のない者たちを巻き込むなどしてしまった。村長は自分の家族が処刑されるのを阻止したかったし、ウィリアムの父はこれ以上犠牲者を出したくないと不本意ながらも利害が一致し、魔女狩り騒ぎは終結に向かった。それでも家族や恋人を疑われ殺されてしまった村人の怒りはおさまらなかった。無実だと散々訴えても聞き入れてもらえなかったのに、村長は自分の家族を殺されずに済むだなんて納得できるはずもなく、村長一家をすんでのところで助けたウィリアムの父にも疑いの目が向けられたが、聖職者を断罪するわけにもゆかず、今後このような虐殺が起こらないようにと掟を設けることにした。
「魔女たちが集会を行わないように、決められた時間以外は出歩いてはいけない。医術に携わってはいけない。勝手に結婚してはいけない。‥‥父や村長たちが勝手に決めたことなのです。でも、これを守らないと疑われて弁明する間もなく処刑されてしまうので、みなは静かに守っているのです。本当に魔女かどうかなんて、どうでもよくなっているのです。ただ、疑われないように怯えていて、この掟を破っている者を見つけたら取り押さえないと自分たちが魔の眷属だと思われるからそうしているだけなんです。見逃してしまったら、魔女の仲間だから逃がしたと疑われる。それでも、ここしばらくは今日みたいな騒ぎは無かったのです。村には多少の活気は戻りましたが、閉鎖的になってしまって、こちらから呼ばないと外から人は来ない」
「私がその平穏を壊してしまったのですね‥‥」
「いえ、貴女のせいではありません‥‥! こんな掟など廃してしまって、もっと開放的になるべきなのです。魔女狩りなんて恐ろしいものをやっていても、実際に呪われたとか取り憑かれたとかはっきりとした被害なんて無いのです。悪天候や流行り病を魔女のせいにしないと精神が保てないほど、村が壊滅的になった時代も事実ですが‥‥」
魔女は呪ったり毒を煎じているだけではないのだと、ディアはウィリアムに言ってやりたかった。空の模様を占い、傷を癒やすこともできるのだと。しかし、簡単に正体を明かすことなどできないし、仮にもウィリアムは教会の人間だ。魔女狩りを否定しつつも、存在を肯定しているわけではない。本物の魔女が目の前に現れたとなるとどういう態度になるか判らない。ーーこの村に居ることは諦めようか、と思いながら、ディアは俯いているウィリアムに訊いた。
「どうして私を助けてくれたのですか。あなたの話では、掟を守らない者を養護するとあなた自身も疑われるのではありませんか? そんな状況なのに余所者の私を助け出したらあなたもどうなることか‥‥いくら魔女狩りをよく思っていないのだとしても、危険すぎます」
「そう、ですよね‥‥でも、わたしは貴女を救いたかった。魔女かどうかよりも、困っている人が居たら助けないわけにはいきませんから」
「‥‥私が本当に魔女だったらどうするのですか」
まっすぐにウィリアムを見る。暖炉の火、ランプの明かりに揺らめいて輝く栗色の髪は本当に美しく見える。かすかに窶れた頬や首筋には濃い影ができているが、ただ病的に線が細いわけではなくかつてはしっかりとした体躯だったことが窺える。白い肌に赤い唇が映えている。あの広場では震えながらも助けてくれた。あの村長の息子に本気で殴られればこの男は簡単にねじ伏せられてしまうだろうに、彼はあらゆる危険を顧みずに救ってくれた。もし自分がこの村を離れれば、ウィリアムは魔女を恐れる村人たちになにをされるか判らない。これからは、自分が守ってあげなければ、とディアは思った。彼が美しいからなのか、その考えが共感に値するからなのか、はたまたどちらもなのかディアには判らなかったが、魔女狩りなどということは終わらせたいと思うのも本当の気持ちだった。
「貴女が魔女だったら‥‥? そうですね‥‥」
ウィリアムは暖炉の揺らめく火を見ながらすこしだけ考え、栗色の髪をきらめかせながらディアに視線を戻した。
「きっと貴女なら悪い魔女ではないと思います。それに、教会の人間とこうしてなんの問題も無く会話しているのですから、魔女であれ人であれ、貴女は悪者のはずがありませんよ」
それまで真剣な表情だったウィリアムが、恥ずかしそうに笑った。
「お人好しがすぎますよーーウィリアムさん」
ディアが名前を呼ぶと、ウィリアムはさらに恥ずかしそうに肩をすくめ、白い頬を赤く染めた。
それからディアは、村を訪れた理由を話した。もちろん、魔女であることは言わずに遠くの町から派遣された医術に携わる者としてこの村を視察に来たということにした。しばらく滞在したいため教会で寝起きすることを許してほしいと頼んだ。ウィリアムは快く受け入れた。この村では例の掟があるため、まともに資格を持った医者もおらずおおっぴらには医術を施せないでおり、基本的にはこの教会が病院の役割をしているという。怪我人や病人が出たら器具が整っているこの教会に運び、魔女とは関係ないと示しながら治療を行なっている。かつては老いた医師が居たものの他界し、いまではウィリアムひとりになってしまった。
「だからあなたは、先生と呼ばれていたのですね」
「そんな立派なものではないですけどね。本格的ではないにしろ軽い治療はしますし、子どもたちには読み書きを教えるので、先生と呼ぶほうが楽なのでしょう」
さきほどディアを取り押さえた男は村長のひとり息子だという。母や姉たちが魔女ではないかと疑いをかけられるのを目の前で見ていたそうだ。村長はいま病のために床に臥せっていて、ウィリアムが定期的に往診しているが、女たちを裁判にかけ処刑するようにと指示していたときのようなかつての威厳は無く、ただ死を待つのみの毎日を送っている。そのため、現在は息子が実質的に権力を持っているので、あの広場でも誰も止めに入らなかったのだ。村の男たちは村長の息子――カーターに従っているものの、唯一の医療を行えるウィリアムに完全に敵対しているわけでもなかった。しかし、ウィリアムは孤独を感じていると言った。
「ミサやほかの行事にも村人は参加してくれますが、ただそれだけなのです。互いを干渉しない‥‥。わたしはひとりなのです。なのでなかなかに忙しくて、庭まで手入れが行き届かないのです。屋内はなんとか綺麗に保っているのですが‥‥貴女がここに留まってくれるのはわたしもありがたい。やはり、勇気を出して貴女を救い出して良かった。争いごとは苦手なのです」
「簡単なことですよ」
ディアは飄々と言った。
「子どもたちに、これは授業の一環だと言って掃除を手伝ってもらえばいいのです。読み書きだけが教育ではありませんよ」
「はぁ‥‥確かにそうですね‥‥どうしていままで気がつかなかったんでしょうか‥‥」
あまりにも面食らっているウィリアムの表情が可笑しくなって、ディアはここへ来て初めて笑った。それを見たウィリアムも頬を緩ませた。
「よかった、笑ってくれた。ずっと貴女の笑った顔が見たいと思っていました」
「あの‥‥私のことも、名前で呼んでいただけますか‥‥?」
ディアが言うと、ウィリアムはすこし驚いたがすぐに笑顔になって優しい声で名を呼んでくれた。
「ありがとう、‥‥ディア」
その柔らかな笑顔を見ながら、ディアの心は掴まれたように苦しくなった。彼に嘘をついていることだけではない。彼が肺の病に冒されていることに気づいていたからである。ウィリアムの命は、もう何年も残されていなかった。彼の身体から溢れ出る生気のオーラがまもなく消えてしまうことに、ディアは気づいてしまった。
✳✳✳✳✳
すっかり打ち解けたディアは、ウィリアムの助手として教会に居候することになった。例の騒ぎがあったためか村人は最初こそ嫌悪感を露わにしていたが、教会で献身的に働く姿や人当たりの良さと、程度の弱い魔法を村人にかけることですぐに村に馴染むことができた。件の掟のこともあり自由に村のなかを動けるわけではなかったが、厳しかったルールをすこしずつ緩和してゆけるようにディアなりに努力をした。まずは女たちが好きな色の服を着られるようにした。黒い服が魔女の象徴であるのは確かだったが、ディアの母の時代からそんなことにこだわる魔女はすくなくなった。実際、ディアは全身白で身を包んでいる。それから、男女の交流や恋愛を自由にできるようにした。凝り固まった大人たちは魔女が異性を誘惑することで人間に取り入るのではないかと危惧していたようだが、村の若者たちはそんな考えなどいざ知らず、ひそかに想い合っている者たちもいた。貴重な若者の時間や感情を無駄にしてはいけないとディアは思った。これらを解決してゆくのにはじめたのが、若い人たちだけでも自由に集まれるようにコミュニティを設けた。彼らの正直な意見が大人たちにも届けば、くだらない掟も無くなるかもしれない。
いまはディアの魔法でディアに対しても普通に接してくれている村人たちだが、最終的には魔法が解けても二度と魔女狩りなど行わない村にすることが目標だった。若者たちが集まることを率先しているのがディアなのでいまだに訝しむ者もいるが、ディアは敢えて彼らをそのままにした。あまりに強力な魔法をかけてしまうと、ディアが村を去ったときに殺伐としていた時代に戻ってしまうことを防ぐためだった。縁もゆかりも無いこの村に何故そこまでするのかは、ディアにとって明白だった。ウィリアムが居るからだった。彼に助けられたのもあるし、魔女狩りなどというおぞましい習慣を無くすためでもあるが、なによりもウィリアムがこの先穏やかに過ごしてゆけるようにしてあげたいのが第一だった。ディアは、ウィリアムに惚れているのだ。彼の余命が幾許も残されていないことに同情したのもあるが、彼の人柄に心を奪われた。はじめはきらきらと輝く栗色の髪に目を引かれたが、それ以上にウィリアムの温和で美しい心に惹かれたのだった。こんなに良い人がまもなく死んでしまうなんでディアは受け入れたくなかったのだ。
村の状態がもうすこし良くなるまで、ウィリアムには生きていてもらわなければならない。生まれ育った村が平穏になったところを見てほしい。ディアは、夜半に眠るウィリアムの寝所にそっと忍び込み、治癒魔法を施すことにした。毎日すこしずつ、痩せた身体を癒してゆく。彼に気づかれないように。ウィリアムの病を完治させることは無理でも進行を遅らせることくらいはできる。こんなとき母だったらもうすこし強力な魔法が使えるのだろうか、パメラとふたりだったらウィリアムを治してあげられるのだろうか、とディアは毎晩、薄い胸を上下させて眠るウィリアムを治療しながら考えた。しっかり治してあげたい気持ちは強いが、いきなりウィリアムが完治してしまっては、魔女だという疑いが再びかけられてしまうかもしれない。それに、いまのディアの魔力では毎日すこしずつ施すのが精一杯だった。
あるとき、子どもたちとでは手をつけられなかった教会の庭の手入れをすることにしたディアとウィリアムは、落ち葉を掃くために箒とちりとりを持って外へ出た。ふたりはもう、付き合いの長い恋人のように見えた。ディアの治癒魔法でウィリアムの病状は安定していたものの、衰弱しているさまは明らかだった。ウィリアムはしゃんと立っているが、白い顔はさらに青白く窶れている。見るに見かねたディアは、ウィリアムに声をかけた。
「一度、ちゃんとしたところで診てもらっては‥‥」
この言葉にウィリアムはハッとしてディアを見た。自身の気持ちを落ち着けるように痩せ細った胸に手をあて、ちいさく肩を上下させて息をした。
「気づいていたのですか」
これにディアは思わず吹き出してしまった。笑うつもりではなかったが、そんなに頼りない体躯で、しかも夜半に苦しそうに咳き込んでいるのだ、同じ建物内で生活していれば魔力のあるディアでなくても誰だって気がつくだろう。それなのにウィリアムは気づかれていないと思っていたことに、ディアは可笑しくなってしまったのだ。
「ごめんなさい、ウィリアム。あなたが苦しそうにしているのは知っていました。寝るときに咳をしているけれど、それがただの咳じゃないことくらい判ります。これでも私は医療に携わる者の端くれですよ」
本当ならディアの故郷の村に帰ってウィリアムのことを母や治癒魔法に長けた大人の魔女に診せたいが、まだ修行途中のためそれはかなわない。それでもここよりも大きい町にゆけばしっかりと診てくれる医者くらい居るはずだと思った。
「ディア、わたしのこの病は治らないと思っています。罪も無くあえなく命を散らしてしまった村人たちの無念な思いがきっとわたしを病にしたのでしょう。だから、わたしはそれに向き合わなければならないのです。父のしてしまったことをわたしが償わなければいけないのですよ」
「‥‥亡くなった人たちの念で病になどなりませんよ。それに、あなたが背負う必要も無いのです」
「ありがとう、ディア。貴女が傍に居てくれるようになって、体調はかなりよくなりました。いままで苦しんでいたのが嘘のようです。あのとき、貴女を助けて本当に良かった」
以前にも言われた言葉にディアは胸が苦しくなった。この人はどこまでも、自分のことよりも他人のことを優先している。ディアが惹かれたところでもあるが、すこしはその愛情を自分にも向けてほしいと切実に思った。
「それにね、ディア」
ウィリアムは箒の柄を握りしめて続けた。
「きっとディアにはわたしを看取ってもらうことになるでしょう。もっと迷惑をかけるかもしれない。それでもわたしは、この短い人生のなかで貴女に出逢えて同じ時間を過ごせたことを宝物に思っています」
「‥‥馬鹿ですね、あなたは。出逢えたことが宝物だなんて言葉は、これから先ずっと一緒に居る人に言うべきですよ」
「ーーーー」
「私もあなたとの出逢いは大きなものでした。あなたが居なければいま私はこうしていることもできない。あなたには感謝しています。でも、いずれ、元いたところに帰らなければなりません」
一度言葉を切って、ディアはじっとウィリアムを見つめた。その視線から逃れるようにウィリアムは俯いてしまう。ディアは自分だけを見てほしくて、やや火照った彼の頬を両手で優しく包んで正面を向かせた。ウィリアムの白い頬がサッと赤くなった。透き通って輝く栗色の瞳は、驚いて見開いていた。
「帰らなければなりませんが、それがいつかは私にも判りません。そのときが来るまで、私はあなたの傍に居ます。ーー居たいのです」
このとき、それまで弱々しかったウィリアムの生気が、確実に増した。とくに治癒魔法を使ったつもりはディアにはなかったのだが、日々全力を尽くして彼に知られないように行なっていたどの治癒魔法よりも強力で鮮明な魔法だった。毎晩の寝所での治療のほかに、毎日の紅茶や身体を清める水にも魔法をかけていたのだが、ウィリアムの心に直接触れることがいちばんの治癒魔法だったのだ。
「ならわたしは‥‥貴女を帰さないために長生きしなければなりませんね‥‥」
ウィリアムの目には涙が溜まっていた。ここでディアは新たに気がついたことがあった。いくらディアが魔法を施しても、それを受けるウィリアムの生きたいという意思が弱くては目覚ましいほどの効果は得られないのだと。ディアは、さらにウィリアムのことが愛おしくなった。いまにも消え入りそうな命が、自らの手によって強く生きることを望むようになったことが嬉しかった。このままうまくゆけばウィリアムの病も治るかもしれない。ディアは、自身の魔力とウィリアムの生命力にかけてみることにした。
ーー数年が経ち、ウィリアムが元気になってゆくにつれ、村全体に静かにわだかまっていた魔女狩りの風習もほぼ消えつつあった。魔女裁判や処刑などという陰鬱で恐ろしいことが行われていたことが嘘かのように、村は活気があふれるようになった。若い女性や子どもも自由に出歩き、村の外からも人が出入りするようになった。それでもディアはわずかながらも魔法をかけて魔女であることを知られないように万全を期していた。しかし、ディアが魔力を使わなくても村に完全に平穏が訪れるのも近いだろう。それが成し遂げられたとき、ウィリアムはどんな表情で喜んでくれるだろうか。
✳✳✳✳✳
ディアとウィリアムが一緒に居るようになって40年近くが経っていた。結局、ウィリアムの病は完治することはなかった。60代後半になった彼の栗色の髪は灰色が混じるようになったが、瞳は相変わらず澄んで輝いていた。出逢ったころのウィリアムはたった数年で終わりを迎える命だったが、彼自身が抱いたディアと生きたいという思いは想像以上に強く、ディアの魔力以上に力を発揮した。しかし、一度病に蝕まれた身体は癒えず、いまでは車椅子の生活をしている。とはいえディアが常に傍に居るので、ふたりの生活は何不自由なかった。廃するべきだと思っていた掟も、もはや重視する村人もおらず、新たな住民も増え、村人同士で疑い合うなど考えられないほどにまでなった。いままでは教会が病院の役割をしていたが、外から医者を招き入れ新たに病院を設置した。読み書きも教会で教えていたが、廃墟になっていた学校を綺麗にして立派な学び舎を作った。
病に倒れていた村長ーーカーターの父はすでに亡くなり、カーターがあとを継いで村を治めるようになっていた。魔女狩りのことを表立って話すことは無くなったが、カーターのディアへ向ける視線は相変わらず穏やかなものではなかった。道で鉢合わせても、会釈するでもなくカーターは来た道を戻ったりした。ディアもそんなカーターに構っている暇も惜しく、一日でも長くウィリアムの傍に居られるようにつとめた。
ディアがこの村に来てから幾度かの春、きれいに整えられた庭で暖かい陽射しを浴びながらウィリアムの命が尽きた。ディアが買い出しに行くと久々に村の外へ出た日のことだった。座ったままのウィリアムは静かに眠っているように見えたが、その細い身体は確実に冷たくなっていた。
村の人々はウィリアムを献身的に支え、村の発展に尽力したディアを讃えたが、カーターだけは一人意見が違った。ウィリアムの葬式を終えたその場で、カーターはディアに詰め寄ったのだ。初めて見たカーターよりも皺も白髪も増え、みすぼらしい男になっている。
「おかしいではないか。ずっとおかしいと思っていた」
ディアはなにも言い返さずにカーターを睨んでいると、カーターはすこし後退りをした。参列者たちがざわついている。
「俺もこの女に殺されてしまうかもしれないな、この魔女に」
これにはさすがのディアも反論した。
「なにを言うのです」
「先生ーーウィリアムが死んだとき、お前は村の外にいて一緒に居なかったらしいじゃないか。お前が魔力を使ってウィリアムを生かしていたから、傍に居ないときに急に死んだのではないか」
これはまさにカーターの言う通りだった。ディアの魔法でウィリアムの心臓はかろうじて動いていたのだった。しばらく穏やかだったウィリアムの病状を見てディアは外出したのだが、ウィリアムの身体はもう持たなかった。
「わ‥‥私が本当に魔女だったら、ウィリアムは死ななかったでしょう。不老不死の身体を捧げるはずです」
「お前、自分の顔を鏡で見ているのか? ウィリアムも俺も恐ろしく歳を取りくたびれた老人になっちまった。だがお前はどうだ? お前がこの村に来た40年前となにも変わらない。妙齢の美しい娘のままだ」
カーターの言葉にディアはハッとした。顔を洗ったり身だしなみを整えるのに鏡は毎日のように見ていた。しかし、自分だけが老いていないことには気づいていなかったのだ。
それまでざわついていた村人たちが一瞬にして静かになった。ディアは慌ててまわりを見まわした。カーターやウィリアムと歳が近い者も幾人か居る。ディアが村に来たときの騒ぎを目撃していた者もいるに違いない。
ディアは咄嗟に天を見あげた。カーターを始め村人たちもそれにつられて空を見やる。その隙にディアは自らのスカートの裾を手で二、三回払って妹のパメラと交換した箒を取り出した。箒の柄で強く地面を叩くと見るまに暗雲が立ち込め、近くに立っている人の顔すら判別がつかなくなるほど視界が悪くなった。驚き困惑しているカーターたちをその場に残し、ディアはこれまでウィリアムと一緒に過ごしてきた家に戻った。
もうこの村には居られない。先ほどの暗雲には記憶を消す魔法が宿っており、まともに吸えばディアに関する記憶が失われるようになっている。ディアは家のなかからウィリアムが最期まで着ていた白いローブを掴んで外に出た。形見にこれだけは持って行きたかった。箒とローブを強く握りしめ思い出の家を見つめていると、背後からカーターの声がした。なにを言っているかは判らないが、ディアを追いかけてきたのだ。カーターが必死に手を伸ばしてくる。
もうすこしで空を彷徨うその手に捕まる、というところでディアは強く地面を蹴って箒が空に高く飛びあがった。カーターの伸ばした手がウィリアムのローブを引っかけた。そのままローブはカーターに絡め取られてしまったが、紐ベルトだけは固くディアが握りしめていた。
カーターの怒号に振り返ることもなくがむしゃらに上を目指して飛び、厚く立ち込めた暗雲の層を抜けてから下を見おろしたが、自ら放ったその魔法で村のようすは確認できなかった。この暗雲にはディアの記憶を消す力のほかに、仮にディアのことをすっかり忘れてしまっても、ウィリアムが大切にしていたこの村は変わらずに営みを続けてゆける力も込められていた。おそらくカーターもこの暗雲の魔力でそのうちにディアのことも忘れてしまうだろう‥‥。
*****
バー・ソルシエールのカウンターにディアとパメラが腰かけている。哀しみにくれている姉を慰めるように、パメラが温かい紅茶をいれ、満月のカレンダーを見ながら言った。
「ねぇ、ディア。今日はーー」
その湯気をぼんやりと見つめながらディアがゆっくりと頷く。
「そう。今日はウィリアムが亡くなった日よ。この日になると、たとえ日付を忘れていても急に思い出して苦しくなるの。私が苦しくなるからウーイルも元気がなくなるのは判っているのに‥‥。ウィリアムはね、私の正体に気がついていたのよ。気がついていて、40年も傍に置いてくれたの。不思議でしょ? だって彼は教会の人間なのよ。魔族の私とそんなに長いあいだずっと一緒に暮らすなんておかしいわ」
「それが彼の優しさだったのよ。判っていても同じ時間を一緒に過ごしたかったのよ。良いじゃない、私は想い人と過ごせた時間はわずかなんだから」
「彼の形見のローブのポケットに、私にあてた手紙が入っていたの。魔女だと気がついていることをいつ知られるかという恐怖もあったけれど、その恐ろしさよりも一人死にゆくことのほうが恐ろしいと」
ディアは腕のなかのウーイルを優しく撫でた。
ウーイルはウィリアムのローブの紐を元にディアが誕生させた使い魔だった。魔族ではない人間と生活を共にし、流れ感じる時間の差を忘れないための戒めとしてウィリアムのローブを選んだ。ローブ自体はカーターに奪われてしまったが、紐はだけは必死に守った。
「なによりも、ウィリアムの香りのするものを傍に置きたいだけという、邪な思いが強いのだけれどね」
ディアは紅茶に砂糖を入れた。
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