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其のに・青鬼の面、鬼堂の大杉
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九、
お梅と陽成は、寺へ戻った。
ふたりが一緒に帰ってきたことに、陽光とかさねは驚いたが、なにも言わずに迎え入れた。
陽成もなにも言わず、自室に籠った。
それを見たお梅は、かえでをあやすために寺の境内を歩いた。
寺に戻ってきてから、かえでが泣き止まないのである。
かえでを抱きながら、お梅は境内の裏庭までやってきた。
庭に落ちはじめた枯れ葉を見て、ふっと微笑む。
「掃かないとね」
かさねの言いつけで庭を掃いていた頃が懐かしい。
ふいに、小さなお堂を見やる。
陽成と逢瀬を重ねた場所──
お梅は、陽成と一緒になりたいと決めていた。
村を出て、母と子ふたりで生きてゆく決心はしていたのだが、やはり、父親が必要だと思った。
ちゃんと話をすれば、陽光もかさねも判ってくれるはずだ。
寺のことも、許嫁のことも、なんとかしてくれるはずだ。
お梅はそう思い、陽成を信じて待っていた。
しかし、かえでが泣き止まない。
「どうしたの、かえで」
いくらあやしても泣き止まない。
しばらく歩くうちに、お梅もあまり足を踏み入れない場所に来ていた。
小さなお堂と同じくらいの大きさの、宝物殿がある。
ここいらの地域は毎年夏になると、この寺の境内で舞を奉納する。
その祭りの時に使用する道具が納められているのが、この宝物殿であった。
秋にも奉納祭をおこなうが、舞を舞うのは夏だけである。
舞は、鬼の面をつけて舞う。
村びとが赤や青、黒や白など鬼の面をつけ、地獄のようすを舞うのだ。
今年の夏の奉納祭は、もう終了している。
お梅は、寺に預けられたその年から舞を見ている。
宝物殿の前に来ると、ふいにかえでが泣き止んだ。
「かえで?」
母の声が聴こえていないのか、かえでは、まだ濡れている瞳でじっと宝物殿を見つめている。
──ここになにかあるのか
興味が湧き、宝物殿の扉に手をかける。
なかにどんなものが入っているのかは知っているが、ここに立ち入っていいのは住職と、奉納祭で舞う村びとたちだけである。
ぎい、と扉が開いた。
「!」
普段なら、重い閂がかかっているのが、今日は無い。
入っては、いけない場所。
だが、好奇心に勝てなかった。
お梅は、そっとなかに入る。
薄暗い。
よく見えない。
おそるおそる足を踏み出す。
その度に、床の軋む音がする。
この建物のなかだけ、違う空気が流れている。
かえでを腕のなかに強く抱き、ゆっくりと歩く。
そのお梅の足が、なにか固いものにぶつかった。
「あっ」
よろける。
お梅は、かえでを落とさないよう、咄嗟に近くの棚に手を伸ばす。
なんとか倒れずに済んだが、かたん、となにかが足元に落ちた。
眼が慣れてきて、なにが落ちたのかが、うっすらと見える。
丸いもの。
青い丸いもの。
面であった。
青鬼の面であった。
お梅が手を伸ばした棚は、面が収納されている棚だった。
ほかの面は、きれいな木箱にしまわれているのに、この青鬼の面だけ、そのまま外に置かれていたようだ。
「まぁ‥‥」
面をつけると、視界が極端に狭くなるという話は聞いていたが、実際、どれほど視えづらいものなのか。
お梅は青鬼の面をしばらく見つめ、裏返してみた。
豆粒ほどの穴がふたつ開いている。
お梅は、面を顔にあてがった。
暗闇。
小さなふたつの穴から窺える世界。
「まぁ、ほんとに見えづらいのね」
そう言った瞬間、お梅の顔に激痛が走った。
「痛っ!」
かえでを落としそうになるが、ぎゅっと胸に抱える。
「いっ‥‥」
慌てて面を取る。
──が、外れない。
「え、なに、なに⁉」
かえでを棚の開いている場所に置き、お梅は両の手で面を外しにかかる。
木でできたその面は、しっかりと顔の肉に喰い込み、取れない。
「やっ、なに、なに⁉」
お梅は声を荒げる。
その声に驚いたかえでは、泣き出してしまった。
「どうして取れないの! どうして!」
面と肉の境に爪を立てる。
がりがりと掻く。
かえでが泣く。
そのうちに、血が滲んでくる。
爪の間が、皮膚と血と肉にまみれる。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁ!」
いくら引っ掻いても、面は外れない。
お梅の細い指が血に染まる。
結っている髪がほどける。
かえでが泣く。
「あぁ、あ‥‥」
その場に崩れ、力無く呼吸する。
狭い宝物殿に、赤子の泣き声が響く。
「うるさいわね! 静かにしなさいよ!」
お梅は我が子に怒鳴ってしまった。
母の怒声に驚いて、一時は静かになるも、より一層、強く泣き出してしまった。
「なんなの、なんなのよ!」
瞳から涙があふれてくる。
だが、その涙を拭うことはできない。
「泣きたいのは、こっちよ‥‥」
冷たい木の面に手を添わせる。
すると──
どくん、と面が脈を打った。
「え?」
添えた手から、わずかな温もりを感じる。
「な‥‥に‥‥?」
面は、どくん、と脈を打つ。
脈を打つのが次第に速くなってゆく。
面は熱を帯び、まるで生きているもののような感触になってきた。
「なん、なの‥‥」
お梅は気を失った。
十、
お梅を見つけたのは陽光であった。
姿が見えぬお梅を捜しに境内を歩きまわっていると、裏の宝物殿のほうから赤子の泣く声がする。
はて、陽光が見にゆくと、宝物殿の扉が開いている。なかから赤子の泣く声が聴こえてくる。
そして、面をつけて倒れているお梅と、ひたすら泣き喚くかえでがいた。
陽光がお梅を抱きおこし、青鬼の面を外そうと手をかけるが、外れない。
面の縁が顔の肉に喰い込んでいる。
青鬼の面であるから、面は青に塗られているはずだが、その面はお梅の血で半分が赤く染まっていた。
ただごとではないと思った陽光は、お梅とかえでをすぐ本堂へと連れた。
お梅のようすに、かさねと陽成はひどく驚いた。
かえでは、鳴き疲れて眠っていた。
お梅が気を失っている間に、なんとか面を外せないものかといろいろ手を尽くしたが、どうやっても外れなかった。
それどころか、時間が経つにつれ、面はだんだんお梅の顔に喰い込んでゆくようであった。
陽成は、ただ呼吸しているだけのお梅の身体にすがって嘆いた。
どうしようもできない憤りに、自らを責めた。
お梅は、三日三晩、眠り続けた。
その間、かえでに乳をあげるひとが居なくなって困ったが、すぐに乳母を呼んでこれを凌いだ。
陽成は、お梅の傍で夜を過ごした。
いつ眼を覚ましてもいいように、ずっと傍に居た。
十一、
四日目の朝、陽成が目を覚ますと、お梅の姿が無かった。
乱れた夜具だけがそこに残されていた。
「お梅さん‥‥?」
本堂のなか、お梅は居なかった。
履き物は、そのままであった。
外には出ていない──
陽成がそう思った時、本堂の外、門のほうから女の悲鳴が聴こえた。
「!」
陽成は慌てて外へ出る。
境内を駆け抜け、門までやってくる。
そこに、お梅は居た。
しかし、お梅ではなかった。
お梅であり、お梅でないものがそこには立っていた。
鬼であった。
青い皮膚をし、血の涙を流す鬼がそこには居た。
あの青鬼の面は、もはや顔の一部となっていた。
額から二本の角を生やした鬼──
「お梅、さん‥‥」
かつて、お梅であった鬼の手には、ひとの腕が握られていた。
陽成が視線を徐々に鬼の足元に落としてゆくと、そこには女の屍体が転がっていた。
見覚えのある身なりをしている。
「母さん──」
声を嗄らして陽成が呟いた。
お梅の足元に倒れていたのは、陽成の母、かさねであった。
片腕が無い。
鬼は、陽成の見ている前で、手に持っていた腕をばりばりと喰べはじめた。
鋭く伸びた歯で肉を喰いちぎり、倍にも伸びた赤い舌で骨をしゃぶる。
かさねの傍には、陽光の身体も転がっていた。
その身体は、顔から頸、胸元にかけて血で汚れ、肉が削がれている。
陽光の手には数珠が握られていた。
「──お梅、さん」
陽成が呼ぶと、鬼は血の滴る唇を、舌でべろりと舐めた。
ことばが出ない。
声にならない。
──かえではどうした?
その時、陽成の後方でかすかな物音がした。
陽成が振り向くと、本堂の陰から、乳母が赤子を抱えて駆けてゆく背中が見えた。
「かえで‥‥!」
我が子の名を呼び、追いかけようとした陽成よりも速く、鬼が駆けていた。
この鬼の姿を見て、乳母は顔を恐怖でいっぱいにしながら、前のめりに転んでしまった。
あっという間に乳母の元まで駆けていった鬼は、馬乗りになり、乳母の片足をつかんで容易く引きちぎってしまった。
乳母の悲鳴。
鬼は、引きちぎった足をしゃぶる。
乳母はもう、呼吸もままならない状態であった。
鬼が足をしゃぶるのに夢中になっている隙を見て、必死に守った赤子の衣をほどけないようにすると、乳母はちらりと陽成を見、そのまま赤子を転がしてきた。
鬼は、気がついていない。
陽成は素早く赤子を拾いあげた。
乳母は、すでに息絶えていた。
と──
ぎろり、と鬼が睨んだ。
血走った眼。
「あ──」
陽成は小さく喉の奥で啼き、鬼に背を向けて走った。
門を目指す。
両親の無惨な屍の傍をゆこうとした時、身体が宙に浮いた。
「⁉」
鬼が、陽成の着物の襟をつかみあげたのである。
だが、鬼は爪が伸びているため、その爪に引っかかって襟が破れた。
陽成は、どん、と地に落ちる。
尻もちをつき、鬼を見あげる。
鬼は、陽成を見おろす。
「お梅さん──」
陽成は、鬼のことをそう呼んだ。
鬼は、赤子を見る。
自らのまわりでなにが起きているのかを知らずに、すやすやと寝息をたてている。
「お梅さん、どうして‥‥」
鬼は、一歩詰め寄る。
血に濡れた手を、陽成に向ってそっと伸ばした。
ふいに、赤子が泣き出した。
それを見た鬼は、一瞬、苦痛に表情を歪めた。
そして、腰をかがめて陽成の耳許でなにかを囁いた。
喰われる、と思い、陽成はぎゅっと眼をつぶるが、なにもせずに鬼はそのまま立ちあがった。
「──」
陽成がゆっくり眼を開けると、血涙ではなく、瞳から透明な雫をこぼした愛しい女の顔がそこにあった。
静かに赤子を見つめ、そのまま裏庭のほうへ走り去ってゆく鬼。
「あ、待ってくれ!」
陽成は慌ててあとを追う。
鬼は件の小さなお堂の前で事切れていた。
姿は、もう若い娘に戻っていた。
大量の血を吐いたあとがある。
青鬼の面は外れていた。
眼からも口からも、血を流していた。
「お梅さん‥‥」
陽成は膝からくずおれる。
ことばも無く、瞳から涙がこぼれてくる。
薄暗いこの裏庭に、赤子の泣き声だけが、響いていた。
十二、
お梅と青鬼の面は、お梅が事切れていた小さなお堂の傍に埋めることにした。
次の世では長生きできるようにと、長寿命である杉の木を墓標として植えた。
この杉は、後の世の頃にはたいへん立派な杉となり、「鬼堂の大杉」と呼ばれるようになった。
しかしこの杉、奇怪なことに、常に皮目から血が流れ出ていたという。
鬼が吐いた血、流した血涙なのだろうと、ひとびとは噂した。
杉を植えた時、陽成は誓った。
「お梅さん、かえでを一生懸命に育てます。かえでを一生懸命に産んでくれたお梅さんを、もうがっかりさせません」
──最期、お梅は陽成になにかを囁いた。
「かえでを、よろしくお願いします」
鬼と化したお梅は、愛しいひとと我が子の前で、ひとの心に戻れたのであった。
其のに・青鬼の面、鬼堂の大杉
了
お梅と陽成は、寺へ戻った。
ふたりが一緒に帰ってきたことに、陽光とかさねは驚いたが、なにも言わずに迎え入れた。
陽成もなにも言わず、自室に籠った。
それを見たお梅は、かえでをあやすために寺の境内を歩いた。
寺に戻ってきてから、かえでが泣き止まないのである。
かえでを抱きながら、お梅は境内の裏庭までやってきた。
庭に落ちはじめた枯れ葉を見て、ふっと微笑む。
「掃かないとね」
かさねの言いつけで庭を掃いていた頃が懐かしい。
ふいに、小さなお堂を見やる。
陽成と逢瀬を重ねた場所──
お梅は、陽成と一緒になりたいと決めていた。
村を出て、母と子ふたりで生きてゆく決心はしていたのだが、やはり、父親が必要だと思った。
ちゃんと話をすれば、陽光もかさねも判ってくれるはずだ。
寺のことも、許嫁のことも、なんとかしてくれるはずだ。
お梅はそう思い、陽成を信じて待っていた。
しかし、かえでが泣き止まない。
「どうしたの、かえで」
いくらあやしても泣き止まない。
しばらく歩くうちに、お梅もあまり足を踏み入れない場所に来ていた。
小さなお堂と同じくらいの大きさの、宝物殿がある。
ここいらの地域は毎年夏になると、この寺の境内で舞を奉納する。
その祭りの時に使用する道具が納められているのが、この宝物殿であった。
秋にも奉納祭をおこなうが、舞を舞うのは夏だけである。
舞は、鬼の面をつけて舞う。
村びとが赤や青、黒や白など鬼の面をつけ、地獄のようすを舞うのだ。
今年の夏の奉納祭は、もう終了している。
お梅は、寺に預けられたその年から舞を見ている。
宝物殿の前に来ると、ふいにかえでが泣き止んだ。
「かえで?」
母の声が聴こえていないのか、かえでは、まだ濡れている瞳でじっと宝物殿を見つめている。
──ここになにかあるのか
興味が湧き、宝物殿の扉に手をかける。
なかにどんなものが入っているのかは知っているが、ここに立ち入っていいのは住職と、奉納祭で舞う村びとたちだけである。
ぎい、と扉が開いた。
「!」
普段なら、重い閂がかかっているのが、今日は無い。
入っては、いけない場所。
だが、好奇心に勝てなかった。
お梅は、そっとなかに入る。
薄暗い。
よく見えない。
おそるおそる足を踏み出す。
その度に、床の軋む音がする。
この建物のなかだけ、違う空気が流れている。
かえでを腕のなかに強く抱き、ゆっくりと歩く。
そのお梅の足が、なにか固いものにぶつかった。
「あっ」
よろける。
お梅は、かえでを落とさないよう、咄嗟に近くの棚に手を伸ばす。
なんとか倒れずに済んだが、かたん、となにかが足元に落ちた。
眼が慣れてきて、なにが落ちたのかが、うっすらと見える。
丸いもの。
青い丸いもの。
面であった。
青鬼の面であった。
お梅が手を伸ばした棚は、面が収納されている棚だった。
ほかの面は、きれいな木箱にしまわれているのに、この青鬼の面だけ、そのまま外に置かれていたようだ。
「まぁ‥‥」
面をつけると、視界が極端に狭くなるという話は聞いていたが、実際、どれほど視えづらいものなのか。
お梅は青鬼の面をしばらく見つめ、裏返してみた。
豆粒ほどの穴がふたつ開いている。
お梅は、面を顔にあてがった。
暗闇。
小さなふたつの穴から窺える世界。
「まぁ、ほんとに見えづらいのね」
そう言った瞬間、お梅の顔に激痛が走った。
「痛っ!」
かえでを落としそうになるが、ぎゅっと胸に抱える。
「いっ‥‥」
慌てて面を取る。
──が、外れない。
「え、なに、なに⁉」
かえでを棚の開いている場所に置き、お梅は両の手で面を外しにかかる。
木でできたその面は、しっかりと顔の肉に喰い込み、取れない。
「やっ、なに、なに⁉」
お梅は声を荒げる。
その声に驚いたかえでは、泣き出してしまった。
「どうして取れないの! どうして!」
面と肉の境に爪を立てる。
がりがりと掻く。
かえでが泣く。
そのうちに、血が滲んでくる。
爪の間が、皮膚と血と肉にまみれる。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁ!」
いくら引っ掻いても、面は外れない。
お梅の細い指が血に染まる。
結っている髪がほどける。
かえでが泣く。
「あぁ、あ‥‥」
その場に崩れ、力無く呼吸する。
狭い宝物殿に、赤子の泣き声が響く。
「うるさいわね! 静かにしなさいよ!」
お梅は我が子に怒鳴ってしまった。
母の怒声に驚いて、一時は静かになるも、より一層、強く泣き出してしまった。
「なんなの、なんなのよ!」
瞳から涙があふれてくる。
だが、その涙を拭うことはできない。
「泣きたいのは、こっちよ‥‥」
冷たい木の面に手を添わせる。
すると──
どくん、と面が脈を打った。
「え?」
添えた手から、わずかな温もりを感じる。
「な‥‥に‥‥?」
面は、どくん、と脈を打つ。
脈を打つのが次第に速くなってゆく。
面は熱を帯び、まるで生きているもののような感触になってきた。
「なん、なの‥‥」
お梅は気を失った。
十、
お梅を見つけたのは陽光であった。
姿が見えぬお梅を捜しに境内を歩きまわっていると、裏の宝物殿のほうから赤子の泣く声がする。
はて、陽光が見にゆくと、宝物殿の扉が開いている。なかから赤子の泣く声が聴こえてくる。
そして、面をつけて倒れているお梅と、ひたすら泣き喚くかえでがいた。
陽光がお梅を抱きおこし、青鬼の面を外そうと手をかけるが、外れない。
面の縁が顔の肉に喰い込んでいる。
青鬼の面であるから、面は青に塗られているはずだが、その面はお梅の血で半分が赤く染まっていた。
ただごとではないと思った陽光は、お梅とかえでをすぐ本堂へと連れた。
お梅のようすに、かさねと陽成はひどく驚いた。
かえでは、鳴き疲れて眠っていた。
お梅が気を失っている間に、なんとか面を外せないものかといろいろ手を尽くしたが、どうやっても外れなかった。
それどころか、時間が経つにつれ、面はだんだんお梅の顔に喰い込んでゆくようであった。
陽成は、ただ呼吸しているだけのお梅の身体にすがって嘆いた。
どうしようもできない憤りに、自らを責めた。
お梅は、三日三晩、眠り続けた。
その間、かえでに乳をあげるひとが居なくなって困ったが、すぐに乳母を呼んでこれを凌いだ。
陽成は、お梅の傍で夜を過ごした。
いつ眼を覚ましてもいいように、ずっと傍に居た。
十一、
四日目の朝、陽成が目を覚ますと、お梅の姿が無かった。
乱れた夜具だけがそこに残されていた。
「お梅さん‥‥?」
本堂のなか、お梅は居なかった。
履き物は、そのままであった。
外には出ていない──
陽成がそう思った時、本堂の外、門のほうから女の悲鳴が聴こえた。
「!」
陽成は慌てて外へ出る。
境内を駆け抜け、門までやってくる。
そこに、お梅は居た。
しかし、お梅ではなかった。
お梅であり、お梅でないものがそこには立っていた。
鬼であった。
青い皮膚をし、血の涙を流す鬼がそこには居た。
あの青鬼の面は、もはや顔の一部となっていた。
額から二本の角を生やした鬼──
「お梅、さん‥‥」
かつて、お梅であった鬼の手には、ひとの腕が握られていた。
陽成が視線を徐々に鬼の足元に落としてゆくと、そこには女の屍体が転がっていた。
見覚えのある身なりをしている。
「母さん──」
声を嗄らして陽成が呟いた。
お梅の足元に倒れていたのは、陽成の母、かさねであった。
片腕が無い。
鬼は、陽成の見ている前で、手に持っていた腕をばりばりと喰べはじめた。
鋭く伸びた歯で肉を喰いちぎり、倍にも伸びた赤い舌で骨をしゃぶる。
かさねの傍には、陽光の身体も転がっていた。
その身体は、顔から頸、胸元にかけて血で汚れ、肉が削がれている。
陽光の手には数珠が握られていた。
「──お梅、さん」
陽成が呼ぶと、鬼は血の滴る唇を、舌でべろりと舐めた。
ことばが出ない。
声にならない。
──かえではどうした?
その時、陽成の後方でかすかな物音がした。
陽成が振り向くと、本堂の陰から、乳母が赤子を抱えて駆けてゆく背中が見えた。
「かえで‥‥!」
我が子の名を呼び、追いかけようとした陽成よりも速く、鬼が駆けていた。
この鬼の姿を見て、乳母は顔を恐怖でいっぱいにしながら、前のめりに転んでしまった。
あっという間に乳母の元まで駆けていった鬼は、馬乗りになり、乳母の片足をつかんで容易く引きちぎってしまった。
乳母の悲鳴。
鬼は、引きちぎった足をしゃぶる。
乳母はもう、呼吸もままならない状態であった。
鬼が足をしゃぶるのに夢中になっている隙を見て、必死に守った赤子の衣をほどけないようにすると、乳母はちらりと陽成を見、そのまま赤子を転がしてきた。
鬼は、気がついていない。
陽成は素早く赤子を拾いあげた。
乳母は、すでに息絶えていた。
と──
ぎろり、と鬼が睨んだ。
血走った眼。
「あ──」
陽成は小さく喉の奥で啼き、鬼に背を向けて走った。
門を目指す。
両親の無惨な屍の傍をゆこうとした時、身体が宙に浮いた。
「⁉」
鬼が、陽成の着物の襟をつかみあげたのである。
だが、鬼は爪が伸びているため、その爪に引っかかって襟が破れた。
陽成は、どん、と地に落ちる。
尻もちをつき、鬼を見あげる。
鬼は、陽成を見おろす。
「お梅さん──」
陽成は、鬼のことをそう呼んだ。
鬼は、赤子を見る。
自らのまわりでなにが起きているのかを知らずに、すやすやと寝息をたてている。
「お梅さん、どうして‥‥」
鬼は、一歩詰め寄る。
血に濡れた手を、陽成に向ってそっと伸ばした。
ふいに、赤子が泣き出した。
それを見た鬼は、一瞬、苦痛に表情を歪めた。
そして、腰をかがめて陽成の耳許でなにかを囁いた。
喰われる、と思い、陽成はぎゅっと眼をつぶるが、なにもせずに鬼はそのまま立ちあがった。
「──」
陽成がゆっくり眼を開けると、血涙ではなく、瞳から透明な雫をこぼした愛しい女の顔がそこにあった。
静かに赤子を見つめ、そのまま裏庭のほうへ走り去ってゆく鬼。
「あ、待ってくれ!」
陽成は慌ててあとを追う。
鬼は件の小さなお堂の前で事切れていた。
姿は、もう若い娘に戻っていた。
大量の血を吐いたあとがある。
青鬼の面は外れていた。
眼からも口からも、血を流していた。
「お梅さん‥‥」
陽成は膝からくずおれる。
ことばも無く、瞳から涙がこぼれてくる。
薄暗いこの裏庭に、赤子の泣き声だけが、響いていた。
十二、
お梅と青鬼の面は、お梅が事切れていた小さなお堂の傍に埋めることにした。
次の世では長生きできるようにと、長寿命である杉の木を墓標として植えた。
この杉は、後の世の頃にはたいへん立派な杉となり、「鬼堂の大杉」と呼ばれるようになった。
しかしこの杉、奇怪なことに、常に皮目から血が流れ出ていたという。
鬼が吐いた血、流した血涙なのだろうと、ひとびとは噂した。
杉を植えた時、陽成は誓った。
「お梅さん、かえでを一生懸命に育てます。かえでを一生懸命に産んでくれたお梅さんを、もうがっかりさせません」
──最期、お梅は陽成になにかを囁いた。
「かえでを、よろしくお願いします」
鬼と化したお梅は、愛しいひとと我が子の前で、ひとの心に戻れたのであった。
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