徒花の彼

砂詠 飛来

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虚偽の彼

五、

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 酔っぱらった先生はなにを思ったのか、俺をベッドに放り出したまま、自分の着崩れた着物をなおしはじめた。酒の力でおかしくなっているにも関わらず、その手つきは鮮やかなものだった。

 乱れた髪に、藍色の着物。白い肌に紅色の頬。泣きそうな顔。

「お前さ、なんなの」

「なにがですか」

「まだ好きなのかよ、宮下のこと」

「‥‥‥」

 小さい子どもを寝かしつけるように、横たわる俺に添い寝する先生。声音も妙に優しく、それが美しいほどに不気味で、俺は先生から目を逸らせないでいた。

「答えてよ。原瀬。むかし好きだった男に泣いてるところなんか見せるなよ。まだ好きなのかよ。お前の弱いところは僕だけが知っていればいいじゃん。実らなかった恋なんか忘れちゃえよ」

「――橋本結城に泣かされたんです」

「いくらなんでもそれはないでしょ。いくら嫌いな奴だからって悪者にするなよ」

「先生だって、むかしの好きな人だからってあいつのこと庇ってませんか」

 俺は先生を怒らせるのが得意らしい。先生は俺に馬乗りになって、胸にぐっと手を突いた。

「ホントになんなの。なんで朝から怒ってるの。なにが厭なの。僕が嫌いなの。こんなおっさんより、やっぱり宮下がいいわけ。どうして。判らないよ原瀬が。判りたいよ」

「橋本結城と同じこと言わないでください。俺だって簡単に泣きませんよ。あいつに優しくされて、悔しかったんですよ。

 絶対に俺のこと嫌いだと思ってたのに、朝だって俺のこと無視してて、それなのにあいつとこの家にふたりきりにされて、実は良い奴だったなんて、知りたくなかった。

 憎い奴のままでいてほしかったのに、実は俺に気を遣ったりしてて、本当に厭な奴」

 このまま俺の胸が先生の手の形に凹むんじゃないかと思うくらい、先生の体重がかかっている。

「なにそれ。橋本、そんなこと言うの」

「俺、気づいたんです。潤一さんのことも諦めたはずだった。潤一さんの視界には最初からあいつしか映ってなくて、俺はただひとりで騒いでるだけだった。だから、嫌いになってしまえば、楽なんだろうなって。

 俺のことを好きにならない潤一さんなんて、嫌いになれ。橋本結城のことしか考えない潤一さんなんて嫌いになれ。でも、うまくいかない。

 いろいろ葛藤してるところに、今日、潤一さんが俺に優しくしてくれて、やっぱりあの日、あの春の日に一目惚れしちゃった俺の負けなんだって」

「で? まだ好きだと? 僕みたいなおっさんはもう、用無し? 性欲の処理にもならない?」

 まだ酔っているのか、もう醒めたのか、判らない。ただ、服越しに感じる先生の手はとても熱かった。

「先生だって、あいつのことどうなんですか。あいつ、もう煙草辞めるって言ってましたよ」

「じゃあ僕も辞める」

「橋本結城が辞めるから?」

 やっぱり先生だって、まだあいつのことが好きなんじゃないか。俺のことばかり責めて、自分のことは棚にあげて、だから大人は狡い。

「君さ、勘違いしてるみたいだから言うけど、嫌いになれたら楽って、それでも嫌いになれないってことはさ、嫌いになるほどまで好きになってないんじゃないの、宮下のこと」

「‥‥!」

 胸のつかえが取れた気がした。代わりに、さっき千切れたはずの見えない糸で、また心臓を貫かれた感覚が全身を走る。

「なんで、そんなこと言うんですか」

 先生は黙って俺に口づけをした。

「キスくらいで騙されませんよ、俺は。結局、失恋したどうしでただ慰め合ってるだけなんですよ、俺たちは」

「もう厭だ。泣かせる。君を。橋本に泣かせることができたなら、僕のほうがもっと上手に泣かせられるはず。ね、いいでしょ」

 意味が判らないことを言いながら、先生は俺の首筋に舌を這わせた。

「いままで君を抱く時は、君のことだけを考えて、どうしたら君が気持ちよくなれるかだけ、それだけで僕も気持ちよくなれた。でも、もう我慢できない。僕の、したいようにする」

 俺のことを言う時に〝お前〟から〝君〟に戻っていることに気がつきながら、これまでと違う先生に、俺は震えていた。
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