徒花の彼

砂詠 飛来

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昔歳の彼 -裏-

切望の彼

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 バレンタインということは認識していた。それでも、なかなかチョコレートを買いに行けなかった。

 先生の好みを聞いていなかったからだ。これだけ一緒に居るのに、チョコの好みのひとつも判らない。いや、普通のカップルはチョコの好みまで知ってることなんてほとんどないのかもしれないが、俺にとって、先生の好みを把握できていないのは非常に悔しいことだった。

 珍しく残業だよ、とくたびれた白衣から煙草の香りを漂わせて先生は笑った。

「家で待ってます」

 俺はそれだけ言って、その日は学校を出た。電車に乗る前に、駅ナカの賑わうチョコレート売り場に向かった。結局、どんなものが好みか聞きそびれた――直接聞くのはなんだか恥ずかしくそのままずるずるとさせてしまった俺が悪いのだが。

 とりあえずお酒に合うものを、と思ったが、俺自身が酒の味を知らないため、なにが良いのか判るはずもなかった。

 ふと、トレイを片手に突飛な色のエプロンを着た男と目が合った。試食販売でもしているのだろうか。俺はその人に近づいてみた。あまり高いものは買えないが、お店の人が薦めるものを買えば間違いはないだろうと思ったのだ。

「あの」

 控えめに声をかける。俺はぼんやりとしていて気がつかなかったが、まわりには女性客が多く、男は店員を含め俺とふたりしか居ないようだった。バレンタインは女の行事だということを忘れていた。

「試食ですか? どうぞ」

 20代くらいのその男はにこやかに接してくれた。客相手の商売も大変だろうな、と男のエプロンを見て思った。

「‥‥美味しい」

 チョコレートは美味しくて、自然と言葉がこぼれていた。聴こえていないと思ったのに目の前の男は、いわゆる営業スマイルではない、普通に笑顔になっていた。

 それからいろいろ軽く話をして、チョコレートを選んでくれた。やはりお店の人に聞くのが早くて確実だ。

***

 困った。

 先生が電話に出てくれない。残業と言っても、どの教師たちよりも早く切りあげて帰るような人が、21時前になっても連絡がつかない。なにかあったんじゃないかと不安になる。それとも、本当に仕事が長引いているのだろうか。

 俺は先生の自宅のリビングで、時計とスマホを交互に確認するということだけをくり返していた。

 渡されていた合鍵が、まだポケットのなかに入っている。失くしてしまってはいけないと、カバンにしまった。時計の針の音と、表の道路を走る自動車の音と、それから、それから‥‥。

 帰りが遅くなるなら、そのように連絡をくれればいい。だけど、それすら無い。先生の自宅に俺ひとりしか居ないことが寂しくてたまらない。俺の家族なんて、息子の心配なんかしてくれない。俺には先生が居ればいい。

 幾度も幾度もスマホを確認していたからか、電池の減りが顕著だった。どこかに充電器があったはずだ。探そうと思い立ちあがったが、めまいに襲われてその場にうずくまってしまった。

 それから先、どうなったのかは覚えていない。ただ、気がついたら見知らぬ薄暗いアパートで眠っていて、あのチョコレート売り場の男に起こされたのだった。

***

「もしかして、君の好きな先生って男?」

 そう問われ、やっと意識がはっきりしてきた。それまでにもなにか訊かれたり話したりしたが、ぼんやりとしか覚えていない。ふと、視界に入った紙切れを見やる。成績表だ。そうだ、この紙で俺はなにかを見たのだ。

 目の前の男は、困った顔で俺を見ていた。

 いまなにを問われた? どんな流れで会話をしていた? 俺はこの成績表に書かれたとあるものを見て、思考が停止してしまっていたのだった。口のなかに残るココアの後味。

「リョウタくん‥‥? ごめん、変なこと訊いたかな」

 そうか。俺の好きな人が男だと気づかれてしまったのか。

「――男が男を好きになっちゃいけないんですか」

 いま自分がどんな表情をしているのかを見られたくなくて、俯いてしまう。そして、俯いた視線の先に、あの成績表。再び目にするあの文字。

 史学科4年 須堂実幸

 ――なんでここに先生の名前があるのか。珍しい苗字に名前。そこかしこに居るような名前じゃない。ということは、つまり‥‥目の前の若い男は、先生なのか? 再び思考がどこかへいきそうになる。

「あなただって‥‥いや、でも‥‥」

 あなただって、男を好きになるくせに。この俺を。何十年後かに、俺を。

 どうして先生の若い頃といまの俺がこうして顔を合せているのか、意味が判らなかった。先生の家に行ったはずなのに、目が覚めたらここに居たことも理由が判らなかった。それでも、いま目の前に居るのが俺の先生だということは判る。

 はっきりと覚えてはいないが、先生の名前を見つけてしまってから、この男は本当に先生なのだろうかと一瞬で考えを巡らせたはずだ。俺のスマホは、カメラが起動されたままになっている。きっと写真を撮ってあとで確認でもしようとしたのだろうか。

「最初からおかしかったんです。目が覚めてこの部屋に居たことも。テレビもスマホも。おかしい。気づくべきだった。成績表も。

    だけど‥‥だけどあなたが‥‥夢かもしれないけど‥‥そんなはずはないと、確かに俺は先生を待っていたはずだったのに‥‥ココアとかコーヒーとか、あなたが‥‥」

 俺はいろいろと思いつくことを口にして整理させようとした。けれど、虚しく口が動くだけで、なにも結びつきはしなかった。ただ、目の前の男が哀しい表情のまま俺を見つめているだけだった。

 男は俺の腕を掴み、座らせてくれた。その手の冷たさには、覚えがあった。

***

 やっぱり、先生だ。

 涙で先生の顔がちゃんと見れない。若い、若い先生の顔。そんな若い先生に訊いてみたいことを思いついた。

 俺の涙を拭ってくれた先生は、頬を緩ませている。その顔もよく見ると現在の面影を感じる。

「バニラアイスは好きですか」

 黒目を丸くさせて先生は驚いた。見慣れた40代の顔よりもあどけないその表情が、とても愛おしい。

「好き、だよ」

 よかった。先生はむかしからバニラアイスが好きだったんだ。コーヒーが苦手でココアが好きで。女と付き合っていようと、先生は変わらないでいてくれるんだ。それならなおさら、何十年後に俺と出逢ってもらわないと困る。

「‥‥学校の先生に、なってくださいね」

 そうして、俺のことを好きになってください。クリスマスも正月も一緒に過ごしてください。

「待って。やっぱり僕のお願いも聞いて」

 先生は立ちあがり、俺の頬を包む。

「チョコ、ちゃんと渡して想いを伝えるんだよ」

 俺が頷くよりも早く、先生は口づけをしてくれた。そのキスの感触も、やっぱり初めてのものじゃなかった。

***

 先生のアパートを飛び出した俺は、電池が切れそうなスマホを取り出した。

 いまなら繋がる――そんな気がしたのだ。

 呼び出し音。

『‥‥もしもし』

 すこし不審がる声が聴こえた。

「やっと出た‥‥」

 ずっと聴きたかった声とはちょっと違うように感じたけれど、それでも確かに先生の声だ。

 謝らないと。先に帰っていると言ったのに、道草を食ってしまった。先生にチョコレートを渡さないと。

「ごめんなさい、俺‥‥」

 あなたに逢いたい。

「本当にごめんなさい――先生」

『‥‥いいよ』

 それだけ言って、電話を切られてしまった。ほかにももっと言いたいことがあったのに。まあいいや。直接、言えばいいんだから。


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 切望の彼

   了
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