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隙間の彼 -昔歳編-
薔薇の彼
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薔薇の彼
原瀬亮太、ホワイトデー。
天から舞い落ちる雪を見ると、あのクリスマスの晩を思い出す。遠い昔のことに思えるが、実際はたった数ヶ月のあいだの出来事なんだと、時の流れを恨めしく思う。
時間とか年齢とか気にしない世界に行けたらどれだけよいだろう。時間なんて止まってしまえばいいと思っても、俺と先生の歳の差が埋まるわけでもなく、ただふたりだけが取り残されたようになってしまうのだろう。
バレンタインデーに先生にチョコレートを渡せた。それだけで充分だった。いまでもあの日のことを考える。謎なことが多くて、理解ができない。
理解はできなくても納得はしている。先生にチョコレートを渡せた。それだけで良い。スマホを見るとあの日の電話履歴がまだ残っている。
あれから一ヶ月しか経っていないのだから、意図的に消去しない限りはそう簡単に消えはしない。
そういえば先日、卒業式を終えた潤一さんと橋本結城が俺に会いにきた。ふたりとも同じ大学に受かり、4月からはキラキラの大学生になる。
家からは通えない距離ではないらしいが、ふたりで部屋を借りて住むと言っていた。橋本結城から同居――同棲を言い出したとか。
確かに、潤一さんから目を離したらどんな変な奴がちょっかいをかけてくるか判らない。それは俺も頷ける。だから、いつでも守っていられるように同棲をするという。
それを聞いた俺は、ちょっと羨ましくなった。守ってくれる人が傍に居る。朝も昼も夜も、ずっと一緒に居てくれるなんて、この上ない幸せだ。きっと互いに足りないところを補い合って生活してゆくのだろう。
もし、俺と先生が同棲するとなっても、きっと潤一さんたちのようにはならないと思う。どうしたって、俺は先生に養ってもらうかたちになってしまうはずだ。歳の差は、こんなところまできて俺を苦しめる。
今日はホワイトデーなわけだが、バレンタインに俺は先生にチョコをあげた。先生からは貰っていない。だから、お返しもしない。
俺たちの距離感はこんな感じがちょうどいいんだ。あげたからといって、先生からのお返しは期待しない。俺と会ってくれるだけでいい。俺と同じ時間を共有してくれるだけでいい。
俺は春休みだが、先生は新学期に向けてとても忙しそうにしている。そんな先生を邪魔できない。それでも、俺は先生から預かった合鍵を握りしめ、雪が降る夕方の道を歩いている。あの部屋で先生の帰りを待つ。
帰りにあのコンビニでいつものバニラアイスをふたつ買って帰るのが習慣になっていた。いつでも先生と一緒に食べられるように、冷凍庫にストックをしておきたい。だけど、俺が買うばかりで一向に減ってゆかない。
今日もまた、バニラアイスが増えるのだろう。
***
先生のリビングのゴミ箱に、俺があげたものではない包装紙とリボンが捨てられているのを発見したのは、バレンタインを幾日か過ぎたころだった。
先生方とか、ほかの生徒からもらったものだろうか。くたびれた白衣でかすかに煙草の香りをさせている先生だが、一部の女子から人気があるのを俺は気がついていた。
大人の魅力とかいうやつにまわりが見えなくなっている女子たちだ。きっとその女子からもらったものだろう。もしかしたら、教師のなかにも俺の先生のことを気に入ってる人がいるかもしれない。
だけど俺は焦ったりしない。先生は俺のものだからだ。ほかの誰にも渡すつもりはない。捨てられているそれを目ざとく見つけ出し、先生の前へ放って、誰から貰ったものなんだ、なんて問い詰めたりしない。そんなめんどくさい女みたいなことはしたくない。
だけど、包装紙やリボンが捨てられているということは、中身を食べたということか。先生は甘いものが好きだし、食べ物を無駄にしたくない人だから、きっと情けで食べたに違いない。俺に言ってくれれば、俺も一緒に処理してあげたのに。
先生は、そんな奴らにお返しをするのだろうか。俺へのお返しはもちろん期待していないけど、律儀な先生のことだから、これをくれた奴らにお返しをするかもしれない。どんなお返しをするのだろう‥‥。
「ねぇ、起きて」
肩を揺らされ、俺は目を覚ました。先生のリビング。飲み残したココア。冷凍庫に入れ忘れて溶けたバニラアイス。いつもの煙草の香りに交じって、かすかにお酒のにおいもする。
「先生、お帰りなさい」
「こんな時間まで待ってたのか」
先生の声はすこし低くて、なにかに怒っているのかと思った。俺が遅くまで家にいるのが厭だったのかな。
「最近、ゆっくり会えてないでしょ。俺は春休みだから、いつでも時間がありますけど先生は忙しそうで」
「あたりまえだろう。僕はクラスの担任をやってるわけじゃないからまだ楽だけど、クラスを受け持ってる先生は大変だな。僕には到底できそうにないな」
先生は溶けたバニラアイスを持ちあげ、眉をしかめた。
「また買ってきたの?」
「一緒に食べようと思って」
「君が買ってきてくれるおかげで冷凍庫はバニラまみれだよ。そんなに買わなくていいから。こんな冬に毎日食べていられないでしょ」
俺の気持ちが、否定された気がした。
「先生、お酒飲んできたんですか」
「打ち合わせとかいろいろ兼ねてね」
「酒くさいですよ」
「しょうがないでしょう。大人の付き合いだよ。君も成人して働くようになったら判るさ」
「俺、成人しても酒は飲みませんから」
「そんなことよりさ」
先生は自分のカバンのなかをがさがさ探し、なにやらコンパクトな箱を取り出した。その真っ赤な箱には見覚えがある。
「バレンタインのお返し」
「!」
俺の隣に座った先生は、得意げな顔で箱の包みをほどいてゆく。
「そういうのって、貰う側が開けるんじゃないんですか」
「いいの! 僕が開ける」
そこまで言って、包みはほどいたものの、箱の蓋は開けずに俺に渡してきた。
「開けて」
「全部、先生が開けたらいいじゃないですか」
「いいから。早く」
急かす先生を一瞥し、俺は箱を受け取って蓋を開ける。なにげに固くて、開けづらかった。
「‥‥これ」
箱のなかには、ミルクチョコレートとホワイトチョコレートで作られたちいさな薔薇が花束のように飾られておさまっていた。確実に、見覚えがあった。
あの晩に、あの人から貰った薔薇のチョコレート。食べはしなかったが、箱の赤と薔薇の白と黒を鮮明に覚えている。
「僕、お菓子の手作りとかしたことなくって。料理はするけどお菓子は作らないんだよねぇ。だから、市販のもので申し訳ないんだけど、僕からの気持ち」
俺があげたチョコだって市販品だったけど――そんな言葉は飲み込み、いまは素直に喜びに浸る。
「‥‥ありがとうございます。あの、どうしてこれを選んだんですか」
「え? 不満だった?」
「違います! 違いますけど‥‥嬉しいです、でも、このチョコ‥‥」
言い淀む俺を見て、先生は黒い薔薇をひとつ取り出した。それをそのまま俺の口元まで持ってくる。
「あーん、して」
「‥‥‥」
先生の眼差しが真剣で、俺は戸惑いながらも口を開ける。甘くて柔らかくて、すぐに溶けてしまって、一瞬でも美味しさを感じてしまったことが寂しくなった。
「僕がむかし好きだったチョコレートなんだ。花束みたいで綺麗でしょう。いまでも売っててよかった」
先生は白い薔薇を取り出し、
「今度は僕に食べさせて」
にっこりと笑った。俺は無言のままチョコをつまみ、先生に〝あーん〟を促した。すると先生は不服そうに頬を膨らませ、俺の頬をつねった。
「痛! なんですか!」
「それじゃつまらないでしょ。口移しでやってよ」
目の前の男が判らなくなった。前からこんな人だっただろうか。久々にふたりきりになったから、以前まではどんな感じで過ごしていたのか判らなくなってしまった。
「これ、俺に買ってきたチョコなんですよね。なんで先生が食べるんですか」
「いいじゃん。君の手から食べたいの」
「じゃあ口移しじゃなくていいですね」
「言葉のあや! 君の口から! もう、君は人の揚げ足とるのが上手だよね!」
相変わらず先生の頬を膨らんだままだったが、俺はその頬に手を添えてチョコを咥えた。先生はわずかに微笑むと、おとなしくなった。
こんなに顔を近づけているのに、唇が触れ合わないことにもどかしさを感じながらも、俺の唇の温度で溶けかけた白い薔薇を食む先生は、いつにもまして可愛らしく見えた。
先生がお風呂に入ると言い立ちあがったが、だいぶ酔いがまわっていたのか、放っておける状態ではなかった。おぼつかない足取りでふらふらする先生を支え、浴室まで運ぶ。
遅くまで先生を待ってはいたが、忙しい先生のことを想うと泊まるつもりではなかった。だけど、こんなにも危なっかしい先生を置いては帰れない。朝になって冷たくなっていたなんてことになったら、俺は一生自分のことを恨む。
半分眠りかけている先生の服を脱がせている自分を冷静に見たら、これは介護なのかもと思ったりして、そんな考えはすぐに拭い去った。
無理に風呂に入らなくても、このまま寝室へ連れて行って寝かせてしまったほうがいいのかもしれない。でも酔っぱらいながらも先生は風呂に入ると言って聞かないので、俺はこうして風呂の世話をしている。
湯船で溺れられてもしょうがないので、俺も一緒に入ることにした。久々に先生の裸を見た気がする。それでも、いやらしいこととか考える間もなく、先生がのぼせる前に浴室を出て、身体を拭いて、寝間着を着せて‥‥これじゃあ本当に介護みたいだ。
髪がまだ濡れていたが、疲れてしまった俺はそのまま先生をベッドに寝かせた。
「ねぇ」
呆けた声で先生が俺を呼ぶ。
「大変でしたよ、お風呂」
「ごめん」
先生は毛布を顔まで引っぱり、俺の視線から逃れるように潜った。
「泊まっていきますけど、いいですか」
「いいよ」
「‥‥本当は帰るつもりだったんですけどね」
「チョコだけ貰って?」
「お返しは期待してませんでしたから!」
「ふうん」
俺はベッドに腰かけ、毛布の下でもぞもぞとしている先生をを見つめる。
「明日は早いんですか?」
「うーん。ぼちぼち」
「なんですかそれ。ああ、潤一さんと橋本結城に会いましたよ。春からふたりで一緒に暮らすらしいですよ」
「へぇ。君もそうしたい?」
「え?」
先生の声はくぐもっていて、聴きづらい。
「君のご実家がどうなってるかなんて僕には関係ないけど、君が僕と暮らしたいならそうしたらいいよ。僕は大歓迎する」
「‥‥本気にしますよ」
「いいよ」
毛布から顔を出した先生は、すこし哀しそうな表情をしていた。冗談を言っているようには感じられない。
「君に、言っておくことがあるんだけどさ」
「――なんですか」
「僕さ、別の学校に異動になったんだ」
「‥‥え。どこへ、ですか」
「いまの学校も長いからね。もうそろそろかなーって思ってたんだけど」
先生は再び毛布のなかに潜り込んでしまった。
「4月からは別々になっちゃうんだよ、僕たち」
「じゃあ、俺も転校します」
「簡単に言わないでよ。ご両親が許してくれないでしょ」
「いまの親とは縁を切ります。それで、それで‥‥先生の家族になれば、一緒に住むことになっても平気なはずです」
「‥‥だから、簡単にそんなこと言わないでよ。学校が変わるくらいで、僕たちの関係が終わるわけじゃないんだから」
自分でも落ち着けと思っている。思っているのに、ろくでもないことが言葉となって先生を責める。
「とりあえず、今日はこれだけ言いたかった。だから、帰ってきたときに君がうちに居てくれて本当にホッとした」
「先生は満足かもしれまんせんけど、俺としてはもやもやしたままなんですけど」
「落ち着いたら、ちゃんとするから。約束する‥‥」
先生は、静かに寝息をたてていた。
翌朝、俺が目覚めると先生は居なかった。出勤したようだった。薔薇の形のチョコレートは、そのままリビングのテーブルの上に置かれている。
ふと思い出して、冷凍庫を開けてみると、俺がいままで買ってきたものに交じって、歪な形で固まったバニラアイスが入っていた。溶けてしまったものを、先生がしまってくれたようだ。
一緒に住む。潤一さんたちの話を聞いたときは確かに羨ましいと思ったが、実際に自分たちのこととなるといろいろな問題が現れてきて、大変なことなんだと実感した。簡単に考えていた俺は、まだ子どもだ。
そういえば、ゴミ箱の包装紙、誰から貰ったものなのか訊こうと思っていたのに忘れてしまった。そしてその奴らにお返しをしたのか、するのかも。
久々に先生と会えたこと、チョコを貰えたこと、一緒に風呂に入ったこと、素直に喜ぶべきことがたくさんあったのに、同じだけの問題が山積みになってしまった。
俺は白い薔薇をひとつつまんで口に含む。
溶けてゆく甘さと柔らかさに、寂しさが増した。
隙間の彼 -昔歳編-
薔薇の彼
了
原瀬亮太、ホワイトデー。
天から舞い落ちる雪を見ると、あのクリスマスの晩を思い出す。遠い昔のことに思えるが、実際はたった数ヶ月のあいだの出来事なんだと、時の流れを恨めしく思う。
時間とか年齢とか気にしない世界に行けたらどれだけよいだろう。時間なんて止まってしまえばいいと思っても、俺と先生の歳の差が埋まるわけでもなく、ただふたりだけが取り残されたようになってしまうのだろう。
バレンタインデーに先生にチョコレートを渡せた。それだけで充分だった。いまでもあの日のことを考える。謎なことが多くて、理解ができない。
理解はできなくても納得はしている。先生にチョコレートを渡せた。それだけで良い。スマホを見るとあの日の電話履歴がまだ残っている。
あれから一ヶ月しか経っていないのだから、意図的に消去しない限りはそう簡単に消えはしない。
そういえば先日、卒業式を終えた潤一さんと橋本結城が俺に会いにきた。ふたりとも同じ大学に受かり、4月からはキラキラの大学生になる。
家からは通えない距離ではないらしいが、ふたりで部屋を借りて住むと言っていた。橋本結城から同居――同棲を言い出したとか。
確かに、潤一さんから目を離したらどんな変な奴がちょっかいをかけてくるか判らない。それは俺も頷ける。だから、いつでも守っていられるように同棲をするという。
それを聞いた俺は、ちょっと羨ましくなった。守ってくれる人が傍に居る。朝も昼も夜も、ずっと一緒に居てくれるなんて、この上ない幸せだ。きっと互いに足りないところを補い合って生活してゆくのだろう。
もし、俺と先生が同棲するとなっても、きっと潤一さんたちのようにはならないと思う。どうしたって、俺は先生に養ってもらうかたちになってしまうはずだ。歳の差は、こんなところまできて俺を苦しめる。
今日はホワイトデーなわけだが、バレンタインに俺は先生にチョコをあげた。先生からは貰っていない。だから、お返しもしない。
俺たちの距離感はこんな感じがちょうどいいんだ。あげたからといって、先生からのお返しは期待しない。俺と会ってくれるだけでいい。俺と同じ時間を共有してくれるだけでいい。
俺は春休みだが、先生は新学期に向けてとても忙しそうにしている。そんな先生を邪魔できない。それでも、俺は先生から預かった合鍵を握りしめ、雪が降る夕方の道を歩いている。あの部屋で先生の帰りを待つ。
帰りにあのコンビニでいつものバニラアイスをふたつ買って帰るのが習慣になっていた。いつでも先生と一緒に食べられるように、冷凍庫にストックをしておきたい。だけど、俺が買うばかりで一向に減ってゆかない。
今日もまた、バニラアイスが増えるのだろう。
***
先生のリビングのゴミ箱に、俺があげたものではない包装紙とリボンが捨てられているのを発見したのは、バレンタインを幾日か過ぎたころだった。
先生方とか、ほかの生徒からもらったものだろうか。くたびれた白衣でかすかに煙草の香りをさせている先生だが、一部の女子から人気があるのを俺は気がついていた。
大人の魅力とかいうやつにまわりが見えなくなっている女子たちだ。きっとその女子からもらったものだろう。もしかしたら、教師のなかにも俺の先生のことを気に入ってる人がいるかもしれない。
だけど俺は焦ったりしない。先生は俺のものだからだ。ほかの誰にも渡すつもりはない。捨てられているそれを目ざとく見つけ出し、先生の前へ放って、誰から貰ったものなんだ、なんて問い詰めたりしない。そんなめんどくさい女みたいなことはしたくない。
だけど、包装紙やリボンが捨てられているということは、中身を食べたということか。先生は甘いものが好きだし、食べ物を無駄にしたくない人だから、きっと情けで食べたに違いない。俺に言ってくれれば、俺も一緒に処理してあげたのに。
先生は、そんな奴らにお返しをするのだろうか。俺へのお返しはもちろん期待していないけど、律儀な先生のことだから、これをくれた奴らにお返しをするかもしれない。どんなお返しをするのだろう‥‥。
「ねぇ、起きて」
肩を揺らされ、俺は目を覚ました。先生のリビング。飲み残したココア。冷凍庫に入れ忘れて溶けたバニラアイス。いつもの煙草の香りに交じって、かすかにお酒のにおいもする。
「先生、お帰りなさい」
「こんな時間まで待ってたのか」
先生の声はすこし低くて、なにかに怒っているのかと思った。俺が遅くまで家にいるのが厭だったのかな。
「最近、ゆっくり会えてないでしょ。俺は春休みだから、いつでも時間がありますけど先生は忙しそうで」
「あたりまえだろう。僕はクラスの担任をやってるわけじゃないからまだ楽だけど、クラスを受け持ってる先生は大変だな。僕には到底できそうにないな」
先生は溶けたバニラアイスを持ちあげ、眉をしかめた。
「また買ってきたの?」
「一緒に食べようと思って」
「君が買ってきてくれるおかげで冷凍庫はバニラまみれだよ。そんなに買わなくていいから。こんな冬に毎日食べていられないでしょ」
俺の気持ちが、否定された気がした。
「先生、お酒飲んできたんですか」
「打ち合わせとかいろいろ兼ねてね」
「酒くさいですよ」
「しょうがないでしょう。大人の付き合いだよ。君も成人して働くようになったら判るさ」
「俺、成人しても酒は飲みませんから」
「そんなことよりさ」
先生は自分のカバンのなかをがさがさ探し、なにやらコンパクトな箱を取り出した。その真っ赤な箱には見覚えがある。
「バレンタインのお返し」
「!」
俺の隣に座った先生は、得意げな顔で箱の包みをほどいてゆく。
「そういうのって、貰う側が開けるんじゃないんですか」
「いいの! 僕が開ける」
そこまで言って、包みはほどいたものの、箱の蓋は開けずに俺に渡してきた。
「開けて」
「全部、先生が開けたらいいじゃないですか」
「いいから。早く」
急かす先生を一瞥し、俺は箱を受け取って蓋を開ける。なにげに固くて、開けづらかった。
「‥‥これ」
箱のなかには、ミルクチョコレートとホワイトチョコレートで作られたちいさな薔薇が花束のように飾られておさまっていた。確実に、見覚えがあった。
あの晩に、あの人から貰った薔薇のチョコレート。食べはしなかったが、箱の赤と薔薇の白と黒を鮮明に覚えている。
「僕、お菓子の手作りとかしたことなくって。料理はするけどお菓子は作らないんだよねぇ。だから、市販のもので申し訳ないんだけど、僕からの気持ち」
俺があげたチョコだって市販品だったけど――そんな言葉は飲み込み、いまは素直に喜びに浸る。
「‥‥ありがとうございます。あの、どうしてこれを選んだんですか」
「え? 不満だった?」
「違います! 違いますけど‥‥嬉しいです、でも、このチョコ‥‥」
言い淀む俺を見て、先生は黒い薔薇をひとつ取り出した。それをそのまま俺の口元まで持ってくる。
「あーん、して」
「‥‥‥」
先生の眼差しが真剣で、俺は戸惑いながらも口を開ける。甘くて柔らかくて、すぐに溶けてしまって、一瞬でも美味しさを感じてしまったことが寂しくなった。
「僕がむかし好きだったチョコレートなんだ。花束みたいで綺麗でしょう。いまでも売っててよかった」
先生は白い薔薇を取り出し、
「今度は僕に食べさせて」
にっこりと笑った。俺は無言のままチョコをつまみ、先生に〝あーん〟を促した。すると先生は不服そうに頬を膨らませ、俺の頬をつねった。
「痛! なんですか!」
「それじゃつまらないでしょ。口移しでやってよ」
目の前の男が判らなくなった。前からこんな人だっただろうか。久々にふたりきりになったから、以前まではどんな感じで過ごしていたのか判らなくなってしまった。
「これ、俺に買ってきたチョコなんですよね。なんで先生が食べるんですか」
「いいじゃん。君の手から食べたいの」
「じゃあ口移しじゃなくていいですね」
「言葉のあや! 君の口から! もう、君は人の揚げ足とるのが上手だよね!」
相変わらず先生の頬を膨らんだままだったが、俺はその頬に手を添えてチョコを咥えた。先生はわずかに微笑むと、おとなしくなった。
こんなに顔を近づけているのに、唇が触れ合わないことにもどかしさを感じながらも、俺の唇の温度で溶けかけた白い薔薇を食む先生は、いつにもまして可愛らしく見えた。
先生がお風呂に入ると言い立ちあがったが、だいぶ酔いがまわっていたのか、放っておける状態ではなかった。おぼつかない足取りでふらふらする先生を支え、浴室まで運ぶ。
遅くまで先生を待ってはいたが、忙しい先生のことを想うと泊まるつもりではなかった。だけど、こんなにも危なっかしい先生を置いては帰れない。朝になって冷たくなっていたなんてことになったら、俺は一生自分のことを恨む。
半分眠りかけている先生の服を脱がせている自分を冷静に見たら、これは介護なのかもと思ったりして、そんな考えはすぐに拭い去った。
無理に風呂に入らなくても、このまま寝室へ連れて行って寝かせてしまったほうがいいのかもしれない。でも酔っぱらいながらも先生は風呂に入ると言って聞かないので、俺はこうして風呂の世話をしている。
湯船で溺れられてもしょうがないので、俺も一緒に入ることにした。久々に先生の裸を見た気がする。それでも、いやらしいこととか考える間もなく、先生がのぼせる前に浴室を出て、身体を拭いて、寝間着を着せて‥‥これじゃあ本当に介護みたいだ。
髪がまだ濡れていたが、疲れてしまった俺はそのまま先生をベッドに寝かせた。
「ねぇ」
呆けた声で先生が俺を呼ぶ。
「大変でしたよ、お風呂」
「ごめん」
先生は毛布を顔まで引っぱり、俺の視線から逃れるように潜った。
「泊まっていきますけど、いいですか」
「いいよ」
「‥‥本当は帰るつもりだったんですけどね」
「チョコだけ貰って?」
「お返しは期待してませんでしたから!」
「ふうん」
俺はベッドに腰かけ、毛布の下でもぞもぞとしている先生をを見つめる。
「明日は早いんですか?」
「うーん。ぼちぼち」
「なんですかそれ。ああ、潤一さんと橋本結城に会いましたよ。春からふたりで一緒に暮らすらしいですよ」
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「え?」
先生の声はくぐもっていて、聴きづらい。
「君のご実家がどうなってるかなんて僕には関係ないけど、君が僕と暮らしたいならそうしたらいいよ。僕は大歓迎する」
「‥‥本気にしますよ」
「いいよ」
毛布から顔を出した先生は、すこし哀しそうな表情をしていた。冗談を言っているようには感じられない。
「君に、言っておくことがあるんだけどさ」
「――なんですか」
「僕さ、別の学校に異動になったんだ」
「‥‥え。どこへ、ですか」
「いまの学校も長いからね。もうそろそろかなーって思ってたんだけど」
先生は再び毛布のなかに潜り込んでしまった。
「4月からは別々になっちゃうんだよ、僕たち」
「じゃあ、俺も転校します」
「簡単に言わないでよ。ご両親が許してくれないでしょ」
「いまの親とは縁を切ります。それで、それで‥‥先生の家族になれば、一緒に住むことになっても平気なはずです」
「‥‥だから、簡単にそんなこと言わないでよ。学校が変わるくらいで、僕たちの関係が終わるわけじゃないんだから」
自分でも落ち着けと思っている。思っているのに、ろくでもないことが言葉となって先生を責める。
「とりあえず、今日はこれだけ言いたかった。だから、帰ってきたときに君がうちに居てくれて本当にホッとした」
「先生は満足かもしれまんせんけど、俺としてはもやもやしたままなんですけど」
「落ち着いたら、ちゃんとするから。約束する‥‥」
先生は、静かに寝息をたてていた。
翌朝、俺が目覚めると先生は居なかった。出勤したようだった。薔薇の形のチョコレートは、そのままリビングのテーブルの上に置かれている。
ふと思い出して、冷凍庫を開けてみると、俺がいままで買ってきたものに交じって、歪な形で固まったバニラアイスが入っていた。溶けてしまったものを、先生がしまってくれたようだ。
一緒に住む。潤一さんたちの話を聞いたときは確かに羨ましいと思ったが、実際に自分たちのこととなるといろいろな問題が現れてきて、大変なことなんだと実感した。簡単に考えていた俺は、まだ子どもだ。
そういえば、ゴミ箱の包装紙、誰から貰ったものなのか訊こうと思っていたのに忘れてしまった。そしてその奴らにお返しをしたのか、するのかも。
久々に先生と会えたこと、チョコを貰えたこと、一緒に風呂に入ったこと、素直に喜ぶべきことがたくさんあったのに、同じだけの問題が山積みになってしまった。
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