徒花の彼

砂詠 飛来

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隙間の彼 -齟齬編-

綻びの彼

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 綻びの彼

 宮下潤一、秋。




 学校生活もバイトも結城との仲も、それなりに落ち着いてきた。結城と過ごせる時間はほんのすこしだけど増えた、気がする。気がするのに、そんな僕らを邪魔するようにとある予定が入ってしまった。

 美術サークルの秋合宿だった。僕自身、はっきりと参加すると言った覚えはないが、新入生はほぼ強制参加とのことで断る余地を与えられないらしい。親睦を深め芸術文化にさらに身をーーとかなんとか目的があるようだが、とにかくみんなで楽しく小旅行とのことだった。

 結城の厭そうな困り顔が簡単に想像できるが、この前のことで、言わなきゃいけないことからは逃げないで言う、というのを痛いほど判ったのでちゃんと結城には話しておかないといけない‥‥。判ってくれるといいけど。

 複雑そうな顔をしながらも、結城は笑って了承してくれた。まだふたりで旅行にも行っていないのに、サークル活動の一環とはいえなんだか後ろめたい。と思っていたら、まったく同じことを結城にも言われた。ちゃんと心が通じ合っているようで嬉しいが、素直に喜べなかった。

「お土産なんか要らねぇから、無事に帰ってきて」

「なにその死亡フラグ」

 そんな他愛ない会話をしながら、結城に抱きしめてもらう。キスをしてくれる。幸せだった。

*****

 大学やアパートのある都市部から電車で一時間。辛うじて都会の雰囲気はあるが、観光地らしきその場所はもはや田舎だ。降りた駅では先輩たちが手配した二台のレンタカーに、荷物と一緒にぎゅう詰めになって乗り込む。剥き出しの電柱に駐車場がやたらに広いコンビニをいくつかやり過ごし、趣がありつつもわりと新しめの旅館に到着した。

 このサークルは全体で二十人いるかいないかで、新入生は僕を含めて五人。今回の全体の参加人数は九人で、同期のひとりーーまだ名前を覚えられてない誰かーーがどうしても外せない用事があって来られなくなったそうだ。そんなことが許されるなら僕も休めばよかった。でも旅費は先輩たちが半分出してくれるというので、そこに釣られてしまったのも確かだ。

 この秋合宿に気は進まなかったが、美術サークルは僕が望んで入ったわけだし、いろんな体験をしなきゃとも思ったから多少はワクワクしていた。天気も良くてそこは本当によかった。

 一泊二日、たったそれだけの時間をやり過ごせば結城のいる家に帰ることができる。

 午前中は宿の近くにある湖まで車で行った。みんな好きなようにデッサンしたり写真を撮ったり、ただ寝ているだけの人がいたり各々自由に過ごした。僕は絵を描くのが好きだったからこのサークルを選んだ。

 いまは僕は、ひとりで写真を撮っていた吉村くんと行動している。彼とは前にちょっと話すことがあって、やりとりに苦痛を感じなかった、という理由で吉村くんだった。

 水辺にいるからなんとか涼しさを感じるが、まだ暑い。年々、秋の期間が短くなっている気がする。それでも遠くの山々は夏の若々しい緑色のようすは無く、だんだんと寒さへの準備をするようにあちらこちらで赤く色づき始めている。時折吹いてくる水面からの風がかすかに冷たい。

「宮下はなにか描かないの? それか宿に戻ってから?」

「え、えーと」

 ほとりに立って一眼レフ越しに湖をじっと見つめていた吉村くんが、急に振り返って話しかけてきた。僕は一応クロッキー帳を携えてきたけれど、いまだ今日のページは真っ白だ。ベンチに座ってぼんやりとしている。

「合宿って言うから、もっと遊び目的かと思っててさ」

「うーん。言いたいことは判る、かも。まぁ、あの先輩たちのノリ見てたら遊びっぽいよな」

 吉村くんが隣に座る。僕の手元を覗き込んで、ちいさく笑う。

「なーんだ、写真を撮る俺でも描いてくれればいいのに」

「えっ、いや」

 まごついた僕に、吉村くんはひとつ息を吐いてまた笑った。

「そんなに困った顔すんなって! 宮下は人じゃなくて景色とか物とか描いてんだもんな」

「うん‥‥」

 どうしてそんなことを知っているんだろう。僕が描いたものを誰かにちゃんと見せたことはあったっけ。

「あのさ、宮下ってさ」

「ん?」

 顔をあげて吉村くんを見る。驚くほど真面目な表情をして僕を見つめてくる。こんなに誰かに見つめられたことは、結城や原瀬くん以外に無い。

「いや、また今度でいいや」

 なにかを言いかけた吉村くんは、わずかに視線を外して一瞬の間をあけて、また笑ってなにも言わずに立ちあがった。僕は訳が判らずに問いかけようと思ったけれど、吉村くんは僕に背を向けて再び湖畔にレンズを覗き込んだ。

 それからは陽が傾いて肌寒くなるまで湖畔をひとりで歩きまわり、たまに吉村くんと合流して軽い立ち話をしたり。いろいろ考えることはあったけれど、それでも僕のクロッキー帳はまっさらなまま。

 先輩たちの帰るぞ、の声で車に押し込まれ宿へ戻る。僕はもう、車の揺れと射し込む木漏れ日で目蓋が重たくてたまらなかった。でも先輩たちがなにかを喋っているのでちゃんと聴かないと、と闘っていると、

「いいよ、寝ちゃいな」

 と隣から囁く声がした。吉村くんだった。そのまま僕は彼の肩を借りて眠ることにした。こんな姿を結城に見られたら吉村くんはきっと無事ではいないだろう‥‥。

 宿に着いて、食事をして、温泉に入って、九人全員で和室の大部屋に布団を敷く。まだ二十二時前ということもあって、先輩たちが近くのコンビニで買ってきた缶のお酒でちょっとした宴会がスタートした。買い出しに行っている間に幾人かが卓球をしに部屋を出た。残ったメンバーは着慣れていない浴衣で各々に乾杯する。

 卓球場へ行ったきり帰ってこないのがいたが、誰が居ないのかなんて誰も気にしなかった。僕は適当に渡された缶チューハイを開けたものの、ひとくちだけ口をつけてあとはずっと握りしめていた。早くみんな終わって寝てほしい。こんなことになるなら僕も卓球場へ行けばよかった。

 いつのまにそんなに飲んだの、というほどへべれけになった佐久間さくま先輩が女子に絡んでいる。女子も案外まんざらでもなさそうで、このまま変なことが起きないかヒヤヒヤする。肩についた黒髪とちいさめの鼻が印象的だ。同期の子だ。

 そういえば吉村くんは、と広々とした畳の部屋を見まわすが、どこにも居ない。僕はこの場から逃げようと、トイレに行くフリをして立ちあがる。佐久間先輩に絡まれていた女子ーー同期の穂波ほなみさんと目が合った。一瞬、眉をひそめたので多少なりとも迷惑はしているようだった。まんざらでもなさそう、というのは違ったみたいだ。

 彼女を助けようか、それとも逃げてしまおうか逡巡していると、襖が開いて卓球組が帰ってきた。吉村くんがいた。

 吉村くんは僕をちらりと見て、肩越しに佐久間先輩と穂波さんを見て、大きな声を出した。

「あれ! 勝手に始めちゃったんすか!」

 そして穂波さんから佐久間先輩を引き離すようにその隣に座る。続いて幾人かも部屋に入ってくる。

 僕ができなかったことを吉村くんはさらりとやってのけた。穂波さんを救ったのだ。僕は立ちあがったまますこしバツが悪くなり、誤魔化すように部屋を出た。後ろ手に襖を閉めようとすると、穂波さんが、

「私も出るから」

 と、追いかけてきて彼女が襖を閉めた。

「ごめんね、僕が助けてあげられればよかったんだけど」

「いいの、大丈夫。ありがとう。その気持ちだけでも伝わったし嬉しかった」

 きっと結城でも彼女を助けられたにちがいない。

「吉村くんにもお礼を言わないとね‥‥私なに言わないで気まずくなって出てきちゃった」

「僕も、吉村くんにお礼言わなきゃ」

 それから僕たちはすこしだけ時間を潰して部屋に戻ることにした。

*****

 襖の引手に手をかけたとき、向こう側から開けられた。女子の先輩二人だった。なにか不服そうな顔をしていたが、なにも言わずに出て行った。僕らはそのまま入る。

 和室はすこし荒れていて、枕投げでもしたのか敷かれた布団はしわになっているし枕は四散、空いた缶がいくつも倒れている。酒が入ってる分、高校の修学旅行よりタチが悪いかもしれない。

 案の定、先輩たちはすっかり出来あがっていたし、吉村くんたちはその扱いに困っているようだった。最悪の状態に入ってきてしまったようだ。

「なあ」

 頬と言わず耳や首元までも赤く染めた佐久間先輩が話しかけてきた。

「お前らデキてんの」

「はい?」

 裏返りながらもなんとか声を絞り出す。お前ら、とは僕と穂波さんのことか? 咄嗟に彼女のほうを向くと、穂波さんも僕を見あげて目が合ってしまった。恥ずかしくなって視線を逸らす。

 すると佐久間先輩のまわりにいた先輩たちも、いいオモチャを見つけたとばかりに僕らのまわりに集まってきた。僕は穂波さんを守るように身体で隠す。

「デキてないんだったら、いまからでもいいからやっちゃえよ」

 今度ばかりは佐久間先輩がなにを言っているのか判らなかった。こんな低俗な言葉があってたまるか。

「穂波さん、行こう」

 この状態で穂波さんを連れて出てゆくと、確実に妙な噂がたってしまうかもしれないが、こんな醜悪な環境に彼女を置いておきたくなかった。

「オレらの目の前でキスしてみろよ」

 完全に酔っぱらいのそれである。ふざけすぎている。大学生にもなってなにを言っているんだ。先ほど穂波さんに迫ってはみたけど、うまいこと逃げられてしまって僕に八つ当たりしているのか。

 ‥‥ああ、入りしなにすれ違った女の先輩たちは、酔った佐久間先輩から逃れたくて出て行ったのか。

 穂波さんは怯えきってしまって、僕の浴衣の袖を握りしめている。どうしたらいい。ーー結城だったらどうやって助けてくれるんだろう。いままで僕はどんなふうに助けてられてきたんだろう。

 僕の袖を強く握りしめたまま、穂波さんは肩が揺れるほど大きく呼吸をし、瞬きも多めにようやく立っていられるようだった。

「あの、いい加減にしてくださいよ」

 僕が、守ってやらないと。固く決心して、穂波さんの腕を取る。先輩たちを押し退けてその場から逃げようと一歩踏み出した。

「いたっ」

 穂波さんがちいさく悲鳴をあげた。佐久間先輩も穂波さんのもう片方の腕を掴んでいた。

「ほらほら、痛くしてやんなよ」

 ゲラゲラと下品に笑う男たちを見て、本気で嫌悪感を抱く。

「お前としねえならオレとキスしようよ」

 もう我慢の限界だった。そのときーー

「先輩、俺としません?」

 部屋の隅にいた吉村くんが佐久間先輩の肩口を思い切り掴み、胸ぐらをぎゅっと絞めた。その動作は軽やかなもので、だけど見た目とは反して佐久間先輩は苦しそうだ。

 それまで野次を飛ばしていたまわりの先輩たちも、すっと静かになる。

「どうすか」

 吉村くんの声は低く、蔑んだ目をしていた。
 
「お、オレ、男の趣味は無ぇから‥‥」

 佐久間先輩は穂波さんの腕を離した。それを確認した吉村くんはパッと身体を解放し、にっこり笑った。

「なーんだ、残念」

 背骨を抜かれてしまったみたいに、その場にくしゃくしゃになって座り込む佐久間先輩の酔いは、すっかり覚めたようだった。

*****

「穂波さん、大丈夫?」

 再び廊下に出て、ロビーの椅子に穂波さんを座らせる。吉村くんが彼女の隣に腰かけて顔を覗き込む。僕は手持ち無沙汰が厭で、自販機でミネラルウォーターを二本買ってきて二人に渡した。穂波さんは口をつけなかったが、吉村くんはひとくちだけ飲んだ。それを見届け、

「ありがとう吉村くん‥‥」

 俯いて穂波さんが力無い声でお礼を言う。

「そもそも男女で部屋を分けないのが悪いよな。大部屋にしてケチってんだよ」

 なあ、と吉村くんは僕を見あげて同意を求めてくる。

「‥‥吉村くん、助かったよ‥‥僕じゃ助けられなかった」

 この言葉に穂波さんが顔をあげて僕を見る。

「そんなことない、宮下くんも助けてくれたよ」

「そうだよ、お前が先輩と彼女のあいだに立ってくれたから俺だって抗えた」

 二人にそう言われると、なんだかそんな気がしてくる。僕も、誰かの助けになれたと思ってもいいのかもしれない。

「それでね、宮下くん」

 穂波さんがひとつ大きく深呼吸して僕を見あげた。とても晴れやかな表情に僕は安堵する。

「佐久間先輩たち、酔ってあんなこと言ってたけど‥‥宮下くんとならキスしてもいいよ」

 え?

 この言葉には、僕以上に吉村くんが驚いていた。持っていたミネラルウォーターを取り落としたが、幸いキャップは閉められていたため水が弾けることはなかった。

「いや、このタイミングで言うことじゃないとは思うけど、でも私、宮下くんのこと気になってた。だから、助けてくれようとしたことホントに嬉しかった」

 なに、を言っているんだ。いや、彼女の言いたいことも判る。判るけど、こんなことを言って僕にどうしてほしいのだろう。

「ーー俺、お邪魔かな?」

 気を利かせてるつもりなのか、吉村くんがそろそろと後退りはじめた。いや待ってくれいま行かないでくれ。彼女と二人きりにしないでくれ。

「あ、あの! 穂波さん。ありがとう」

 大きな声を出してみる。行かないで、と吉村くんに目配せしてみる。吉村くんはちいさく二度ほど頷き、立ち止まってくれた。穂波さんは僕と吉村くんを交互に見て、怪訝そうに口の端をあげた。

「穂波さんの迷惑になってなくて、良かった。良かった、けど‥‥」

「なに?」

「僕、付き合ってる人がいるから、その‥‥」

「え!」

 声をあげたのは穂波さんではなく吉村くんだった。穂波さんはというと、驚くでもなくクスッと笑っただけだった。

「なにも、好きです付き合ってください、って言ってないよね私」

「うん‥‥」

 なにこの子。確かに言われてないけど、僕が勝手に勘違いして騒いでるみたいじゃないか。

「キスしてもいい、ってだけよ」

 じゃあね、と付け加えて穂波さんは去って行った。途中、トイレへと駆け込む佐久間先輩とすれ違ったが彼女は無視した。

「大人しそうな子なのになあ」

 吉村くんは座り直し、後ろに仰け反って天を仰いだ。

「ていうかさ」

 なんて返答しようか悩んでいると、吉村くんは上体を戻して僕を見た。

「なに、かな」

「お前って彼女いるんだ」

「え、うん‥‥」

 付き合ってるのは女の子ではなく同い歳の男だが、ここは無理に訂正せずにいこう。

「なんかさ、いかにも中性的というか、宮下って角度によっては女の子にも見えるというか」

 どんな角度だよ。反論したいが、いまは吉村くんの語るに任せてみる。

「橋本結城と同じ高校だったらしいじゃん?」

 驚いた。ここで結城の名前が出てくるとは思わなかった。いつのまに接点があったというのか。そんなことすら知り得ないほど、僕らは会話してこなかったのか。

 僕は気まずくなって下を向く。

「同じ、だったけど。それがなに」

「いやさ、結構失礼なこと言っちゃってさ。橋本に、宮下ってあの見た目だから実は女の子だったりして、って訊いちゃったんだよ」

 なんとも呆れ返る会話だ。一歩間違えればこいつも佐久間先輩と同じ世界の人間じゃないか。

「僕が女だったらどうしたわけ?」

 ついムキになって言ってしまった。なにを返答してほしいわけでもないのに。

「え? どう、ってのもないけど‥‥」

 ひとつ間を置いて、

「女の子だったら結構アリだなって感じ」

 吉村くんは笑った。本気なのか冗談なのか判らない。腹が立つ。結城ならここで一発や二発殴るのだろうが、その労力すら惜しいしなによりも呆れてしまってなんのアクションも起こせない。

 視界の端で佐久間先輩がトイレから出てくるのが見えた。ちらりと目が合った気がしたが、気づかないフリをした。

*****

 翌朝、気まずい空気はあったけれど、たった半日だけだからと我慢した。佐久間先輩とも会話はないし、穂波さんとは挨拶程度だった。吉村くんは相変わらず話しかけてくれたけど、きっと僕はどこか上の空だっただろう。一晩のこの出来事を結城に話すかどうか、話したとしてどうやって持ってゆけばいいのか。それだけを考えていた。

 黙っていても吉村くんを通して、はたまた僕が全く知らない誰かから結城に伝わってしまうかもしれない。それなら僕の口から包み隠さず話してしまったほうがおそらく平和に終わる。まぁ、吉村くんは一発二発、殴られるかもしれないけれど。

 僕らは、なにがあっても二人で話し合うことを決めたのだから。




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   了
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