しらぬがまもの

夕奥真田

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拾った命

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互いに握ったその手は、似ても似つかぬものであった。

片や肌色の何の変哲の無い手、片や鋭利な爪を持った手。

そのしっかりと交わされた握手は、全世界を震撼させ、多くの命を生かす一方、多くの命を奪っていった。







焦げ臭い匂いが立ち込めている。

降り注ぐ雨でも、この匂いまで消すことは出来ないらしい。

左右を見渡せば煤けた瓦礫の山が広がっている。

だが、敢えて見渡す必要もないものだ。

この街はもう死んでいる。

死んだ街にいるものなど高が知れている。

そして、その者の末路も。

元は大通りだったであろう、いくつかの車輪の跡の残る道を雨と共に進んでいると、耳障りな音が背後からゆっくりと近づいてくる。

水たまりのぬかるみを避ける気もなく踏むその音は、ひどく気に入らない。

足を止め、振り返る。

そこには女が立っていた。

ひび割れた鎧を身に纏い、切っ先の折れた剣をこちらへと向けているが、その足はまるで子鹿の様に覚束ず、震えている。

短く切った黒色の髪は、雨や泥、そして血液で濡れていた。

額や頬を伝って流れてきた血液を、口から撒き散らしながら女が何かを叫ぶ。

しかし、その口から侮蔑以上の意味のある言葉が吐き出される前に、女はその朦朧とした微かな意識さえも手放したようだった。

再び耳に静かな雨音が響き始める。







涼しげな風を感じる。

重たい瞼を開けると、すぐ右手にある窓辺で、名も知れぬ可愛げな小鳥が何かをさえずっているのに気がついた。

どうやら窓が開いているらしく、心地良い風はそこから入ってきているようだ。

小鳥の子守唄と、心地良い風に身を任せていると、瞼は再び重みを取り戻していき、意識が次第に微睡みへと落ちていく。

しかし、意識が完全に眠りにつく前、扉が開く音に続き、誰かの足音が聞こえてきた。

顔さえも動かすことが億劫な体はそのままに、目を少しだけ開けていると、足音の主はぱたぱたとこちらに近づき、ベッドの上へと登ってくる。

不思議な生き物だ…。

小さな体には、真っ黒な獣の耳や尻尾が付き、手足もふさふさとした毛に覆われているが、その子は確かに人の子の顔をしていた。

ベッドへとよじ登ってきたその子は、こちらの眠りを妨げないようにか、小さな体を目一杯伸ばし、窓辺へと手をかける。

そして、子犬の様に鼻をひくひくさせ、外の匂いを嗅ぎ始めた。

未だ微かにぼやけた視界ながら、まじまじとその子を見つめていると、その視線に気がついたのか、不意にこちらを見つめ返してきた。

人間の男の子とも、女の子とも見える可愛らしいその顔は一瞬で驚きの色に染まり、慌てた様子でベッドを飛び降りて廊下へと走って行ってしまった。

今のは夢なのだろうか…?

今まで眠っていたこともあるが、あまりにあの子の現実味のない姿形に、頭は混乱していた。

あれは人なのだろうか、それとも…。

先ほどまで微睡みへと誘おうとしていた眠気はすっかりと消え、次第に頭と体は覚醒していく。

意識が完全に戻ると、体のあちこちがすぐに痛み出す。

しかし、もはや悠長に眠っているわけにもいかない。
すぐにでもここを離れた方が良い、と覚醒した頭は告げている。

そっと、ベッドを降り、辺りを見渡す。

身につけていたはずの装備品がない。

あるのは、いつの間にか着替えさせられたこのひらひらとした可愛らしい服だけで、護身用の短剣さえも見当たらない。

動こうとしていた体が鈍り出す。

ここで動くのが本当に得策なのか、あるいは状況が良くなるのをもう少し待つべきなのか。

生死を決める判断だ。

心臓はどんどんと拍動を早め、その拍動が苛立たしさと焦りを全身へと送り出し、じっとしていることを困難にさせていく。

仕方がない…。

すぐに逃げるにしても、待つにしても、もう少しだけこの部屋で使えそうな物を先に探そう。

浮き足立つ体と心に、小さな目標という名の鎮静剤を打ち、部屋の中を改めて見渡す。

簡素な作りの部屋だ。

窓際にベッドと、その近くに小さなテーブル、クローゼットがあるだけでそれ以外の物は特には見当たらない。

近い物から順に引き出しや、扉を開けていく。

しかし、これといった目ぼしい物は見つからない。

せめて何か武器になりそうな物でも見つかれば良い、そんな甘い考えをしていた自分が恨めしかった。

どうしたものか、状況は先ほどから何も変わっていない。

むしろ、無駄な時間さえ過ごしてしまった。

また焦り始める心と体に急かされる様に、頭も冷静さを欠いていく。

それ故か、その頭が何かを考えつくその前に、またぱたぱたという足音が二つこちらへと近づいて来ていた。







「お加減はいかがでしょうか?まだ傷は痛みますか?」

「い、いや、大丈夫だ…。そ、それよりいくつか聞き…」

「やった、聞いたソルちゃん。お姉さん具合良くなったって…!」

可愛らしいエプロンを着け、茶色のお団子ヘアが特徴的な女性、ソーレは背後に隠れていた息子のソルを高く抱き上げた。

ソルはそれが楽しいのか、真っ黒な尻尾をぱたぱたと動かしてはしゃぐ。

「…も、もう何か聞いても良いだろうか?」

「はい?何でしょう?」

母子の戯れの一頻り後、ソーレはソルを抱きかかえ、ベッドで上体を起こす女性へと笑顔を向けた。

とても若いことがよく分かる。

三十代前半か、二十代後半くらいだろうが、化粧っ気のなさと、今の息子とやり取りを見ていると、それ以上に若く、あるいは幼く見てしまう。

しかし、彼女は確かに人間である。

問題はその腕に抱えられた子どもの方だった。

「その子は本当に貴女の子なのか…?」

「はい。私の自慢であり、宝物の息子です」

言い淀んだり、どこか不自然な口調になるわけでもなく、ソーレはソルの柔らかな頬をぷにぷにと突きながら幸せそうに答える。

そんな母の指が楽しいのか、ソルはしきりにその指を掴もうとする。

ひどく微笑ましい光景のはずだが、女性の表情は緩まなかった。

「では次に、ここは一体何処だ?」

「ここですか?ここはソレイユという街です」

「ソレイユ…」

ぽつりと復唱するが、呼び起こされる記憶は何一つない。

そんな女性の態度から察したのか、ソーレは苦笑いを浮かべる。

「あまり人に知られた街ではありませんので、知らないのも無理はないと思います。それに、今のご時世、どうしても国境近くにもなると人通りは少なくなってしまいますから」

「国境…?ここはどこの国同士が繋がっているんだ?」

「ここはテールやデゼールなどと繋がっていますよ」

「テールやデゼール…」

女性の表情が一段と険しくなっていく。

「…ここは、もしやシエルの領内か?」

険しい表情をそのままに、恐る恐る尋ねる女性に気圧され、ソーレは声を出さずに黙って一度頷く。

その瞬間、女性の目に強い憎しみの色が宿った。

「シエル…!シエルだと…!?私はシエルの者たちに助けられたというのか…!?」

「あ、あの…」

「冗談ではない!」

歯を喰いしばり、何度も拳を布団へと叩きつけた後、女性はソーレとソルを強く睨みつけた。

傷の痛みなどもはや忘れていた。

痛みに反応するはずの頭を、憎しみに満たされた心が支配していた。

そうか…。

この子どもがおかしいのは、そういうことだったのか。

ならば、こんな子どもを産んだこの母親も…!

憎しみの心に侵された思考は貪欲に新たな憎しみを探し出していく。

「貴様らなんか…!貴様らなんか!」

女性がベッドから降り、その手をソーレたちへと伸ばしかけた時だった。

「うわぁぁぁん!」

ソーレに抱きかかえられていたソルが大きな泣き声をあげた。

「あっ…」

口からぽつりと声が漏れると、途端に心を満たしていた憎しみが萎んでいく。

姿形は異形といえど、人間の子となんら変わらぬソルの泣き声は、女性の心をひどく揺さぶった。

心から解放された思考は急速に冷静さを取り戻していく。

しかし、自身のせいで必死に泣き喚く子と、それをあやす母にかける言葉はなかなか見つからない。

「そ、その、わ、私は…」

「だ、大丈夫です…。よしよしソル、泣かなくても大丈夫だよ…?」

「…すまない」

単純な謝罪の言葉だけを告げると、女性はベッドへと腰掛け、遣る瀬無い気持ちで項垂れた。

倒すべき相手、許すべきではない相手だと頭も心も分かっているはずなのに、いざとなれば、その手に力が入りきらない。

小さな何かで、気持ちが揺らいでしまう。

今回もそうだし、あの時もそうだった。

実際にどれくらいソルが泣いていたかは、定かではないが、ひどく長い時間が過ぎたように女性には感じられた。

すっかり涙袋を腫らしたソルが泣き疲れて眠ってしまうと、ソーレはそっと女性の隣に腰掛けた。

「先ほどはすまなかった…」

「…あまりに気になさらないでください。シエル以外の国の方々が私たちのことをどう思っているかは、理解していますから…」

「…」

弁明しようとする女性を制し、ソーレは苦笑しながら切なげに告げる。

返す言葉がない。

優しくソルの頭を撫で、そのまま異質な獣耳に触れながらソーレは続ける。

「元々は小さな国の癖に、信仰に反する方法で力を手に入れ、今ではほとんどを敵に回せる程の国になってしまいましたから…。他国の方々が気に入らないのも、無理はないと思います…」

人によっては嫌味の様に聞こえるかもしれない。

しかし、女性にはそうは聞こえなかった。

むしろ、自国の現状を自嘲しているかの様に感じられた。

「…すまない」

何と言うべきか未だ分からず、女性はまた静かに謝る。

すると、ソーレは無理矢理な笑顔を向けた。

「謝らないでください。私たちもあまり気にはしていませんから。それよりも、よろしければ、貴女のことを教えてくれませんか?」

「わ、私のこと…?」

「はい。無理に、とは言いませんが」

悩む様に女性は口元へと手を当てる。

答えない、という選択肢もあるが、そうなれば当然角が立ち、動きが取りづらくなることは明白だ。

かといって、全てを教えることもまた出来ない。

暫しの間悩んだ末、女性は幾つかの嘘をつくことに決めた。

「…名前はイヴだ。テール方面から旅をしている」

「まぁ、旅人さんなんですね。あぁ、だからリウ君が倒れていた所を見つけて、連れて来てくれたんですね」

「倒れていた…?」

イヴが聞き返すと、ソーレは不思議そうに首を傾げる。

「憶えていないのですか?」

「あぁ、ここに連れて来られたことや、倒れた時のことはあまり記憶にない…」

包帯の巻かれた額や頭に触れながらイヴは告げる。

「なるほど…。なら、リウ君に聞いてみませんか?イヴさんを連れて来てくれた張本人ですから、きっと何か知っていると思いますよ?」

「そう、だな…」

正直、会いたいとは思わない。

助けたということは、その当時のことを知っていることになる。

リウという名に心当たりはないが、シエルの中の街に運び込まれたところを見ると、おそらくはその者もシエルの人間だと考えるべきだろう。

シエルの人間があの当時のことを知っている。

それだけでも、一刻も早くここから離れるべき理由になる。

あまり乗り気ではないのか、曖昧な返事をするイヴだが、急にソーレはその手を取って立ち上がる。

「きっとリウ君なら下にいると思いますから、今から行ってみましょう!」

「えっ、いや、しかし…」

「ほらほら、早く行きましょう!」

断る暇すら与えられず、ほとんど履けていない靴のまま、強引に手を引かれる。

もたつきながらも、何とか転ばずに部屋から出ることが出来たイヴでだったが、一階へと続く階段でその足を滑らせた。

手を引いていたソーレを巻き込みこそしなかったが、体は一気に階段下の床へと吸い寄せられる。

顔面からの激突を覚悟し、咄嗟に目を瞑る。

しかし、いつまで経っても激突の痛みは襲って来なかった。

「全く…、お転婆なのはソーレだけで充分だ」

恐る恐る目を開く前に、これまで聞いたことのない程低く野太い声が耳に届いた。

慌ててを目を開くと、目前には木製の床が広がっていた。

「うわっ…!?」

「おいおい、暴れるな」

驚き、体を動かそうかと思うと、視界はぐるりと持ち上げられ、足元に床がある平時の状態へと戻った。

「気をつけろよ」

先ほどと同じ声がまた耳に届くと、いつの間にか体に巻きついていた、異様に大きな五本指の手が離れていく。

その離れていく手を視線で追いかけていくと、そこには人間ではない者が鎮座していた。

イヴを掴んでいたその大きな手の持ち主は、人間の様な形を取りつつも図体は数倍も大きく、全身のほとんどが茶色の体毛に覆われていた。

しかし、胸部や腹部など毛に覆われていない部分の筋肉などは張り裂けんばかりに盛り上がっており、その頑強さが浮かび上がっている。

そして、その頭は、片角が半分欠けていながらも、その雄々しさを失わぬ二本角を携えた牛の頭をしていた。

「ま、魔物…!」

驚きの声を上げると、その魔物は牛の頭を向ける。

じっくりとイヴを観察する様に目を細めるが、その目は、書物や話で語り継がれる禍々しく、睨みつけた人間を恐怖させる目つきではなかった。

しかし、イヴの体と目には力が入り、自然と体がすぐに動ける体勢へと変わっていく。

そんなイヴの様子を見て、魔物は小さく鼻を鳴らした。

「その様子じゃあ、このあたりの人間じゃねぇな?」

「はい、イヴさんは旅人さんらしいです」

イヴの代わりに返事をしたのは、階段をちゃんと降りてきたソーレだった。

「すみません、急かしてしまって…。お怪我はありませんでしたか?」

「あぁ、大丈夫だ…」

魔物から目を離さず答えると、ソーレはほっとしたように胸を撫で下ろした。

「あぁ、良かった…。ミノさん、ありがとうございました」

「…礼を言われる程のことはしちゃいない」

「それでも、お礼は言わせてください。ありがとうございました」

ソーレは魔物に向けて深く頭を下げると、イヴの傍へと立ち、魔物の方を手で示した。

「紹介しますね、イヴさん。こちらはこの街を守ってくださっている魔物の一人、ミノタウロスさんです。皆さんからはミノさんって呼ばれますから、イヴさんもそう呼んであげてください」

「…わ、わかった」

返事こそしたが、あの魔物をそんな可愛らしく呼ぶ気などさらさらなかった。

魔物はどこまでいっても、所詮は魔物だ。

下劣で醜悪で、滅ぼすべき存在なのだ。

ソーレによる簡単な紹介が終わると、ミノタウロスはどこか呆れた様なため息混じりに、イヴに話しかける。

「起きたんだな?」

「…あぁ」

「ふん、元気そうで何よりだ。…で、あんたの様な旅人が何故倒れていたんだ?」

「そ、それは…」

「それが怪我のせいか、よく覚えていないそうなんです。だから、連れて来てくれたリウ君に話を聞こうと思って降りて来たのですが…。また、どこかに行ってしまったみたいですね」

ミノタウロスがどことなく顔をしかめたことに気づきもせず、イヴの代わりに答えたソーレは、階段を一段だけ上がる。

おそらくはそのリウという人物を探すのだろう。

ソーレにつられて、イヴもあたりを見渡す。

どうやらここは酒場かどこからしく、客と思しき、人間はもちろん、ミノタウロス以外の魔物もテーブルやカウンターで飲み物を飲んだり、食事をしている。

大きな魔物たちも受け入れるためか、店内はとても広々としており、天井はとても高い。

人だけならばかなりの大人数を迎え入れることができることだろう。

そんな店内にいる者たちは誰もが嫌そうな顔一つをせず、時々笑い声さえもあげている。

その空間にイヴは目を疑い、目眩まで感じそうであった。

人間と魔物が共に平和に暮らしている。

有り得るはずはないと思っていた。

有り得るべきではないと思っていた。

だが、今目の前に広がる光景は、まさにその通りのものだ。

これが現実なのだ。

これが醜悪な魔物共と、信仰を捨て、魔物に魂を売った愚かな人間が暮らす、シエルという国なのだ。

認めざるを得ない。

ふつふつとまた憎悪が心の奥底から這い出してくるのが分かる。

静かに深呼吸をする。

先ほどの様に思考を憎悪に任せる訳にはいかない。

今ここで魔物や人を打ち倒したとして、この現状を変えることはできない。

何より自分自身の命を守り通せるとも思えない。

今は、何も出来ぬこの歯痒さと、吐き気さえも催すこの状況に耐えなくては。

「リウなら少し前に出て行ったぞ。どこにかは、もちろん知らんがな」

「小さな依頼でも片付けに行ったのでしょうか?」

「さぁな…。まぁ、あいつのことだ。その内に帰って来る」

ミノタウロスの言葉に納得したらしく、ソーレは小さく頷くと、イヴの方へと顔を向けた。

「どうやらリウ君はここにはいないみたいです。どうします?上で休んでいましょうか?それとも、ここで待ちますか?」

「…」

すぐには答えることは出来なかった。

無論、出来ることならすぐにでもこの場を離れ、この国からも出て行きたかった。

しかし、よくよく考えれば、この場から逃げ出したとして何になるだろうか。

おそらく、もはや帰る所などない。

出迎えてくれる者たちもいないはずだ。

ならば、どんなに不本意であってもここに留まる他ない。

だが、ここで多くの真実を知り、それを伝えることが出来れば、もしかしたら帰れる可能性があるかもしれない。

そう考えると、ここに留まることも決して悪いことばかりではないかもしれない。

怨念の入り混じる決意を見出したイヴは静かに答える。

「ここに残ろう…。出来れば、そのリウという男が来るまでの間、この国やお前たちのことを…」

教えてくれ、そうイヴが頼もうとした時、チリンチリンと扉上に付いたベルが客の出入りを知らせた。

反射的に出入り口の方を向いたソーレの顔には自然と笑顔が浮かび、ミノタウロスは静かに片腕を上げた。

店へと入ってきたのは、雪を思い起こさせる様な白髪がひどく目を惹く男だった。

男は手甲と鉄靴のみを装備した不可思議な格好で店の奥へと入って来る。

「お帰りなさい。ちょうど待っていたんです」

ソーレが微笑みかけるが、男はちらりと一瞥をくれただけで、返事をすることもなくミノタウロスの近くの椅子へと腰掛けた。

前髪が揺らめく度に見える、物憂げながらも他者を見下すことは忘れぬ、その万人受けし難い顔には皺の一つも見えない。

少なくとも自然と白髪になる様な歳ではないことが分かる。

この男もやはり人ならざる者に違いない。

「…お前が私を助けた、リウか?」

カシャカシャと手甲を外す男に、イヴは問いかける。
しかし、男は一瞥さえくれることはなかった。

自分を助けたのは本当にこいつなのかと疑いたくなる程、男の他人への態度が悪いことに苛立ったイヴは、その疑問を顔に出して、ソーレの方を向く。

ソーレは苦笑いと共に弁明した。

「あまり人付き合いの好きな方ではないんです…。でも、本当は優しいですし、イヴさんを連れて来てくれたのも、本当にこのリウ君ですよ」

「…」

イヴはまた視線を落とす。

にわかには信じ難いものではあるが、かといって、気に入らないから礼を言わないなどという子どもの様な理屈を通す訳にもいかない。

深いため息と共にイヴは静かに頭を下げる。

「…助けてくれたこと、礼を言う」

「…」

案の定、リウからの反応はない。

「それで、お前にはいくつか聞きたいことがある。まず私の荷物は何処だ?次にお前は一体私を何処から運んで来た?そして、その時の状況は?」

下げた頭を元に戻したイヴが少々不遜な態度でリウに尋ねる。

気持ちはさしてなくとも、礼は述べたのだ。

もはや、多少の無礼などで責められることもあるまい。

そもそも人ならざる者どもに礼儀など不要だとさえ言える。

質問の何一つに答えぬリウを脅すかのように、イヴは詰め寄り、その拳を机へと叩きつけようとした瞬間、出入り口のベルが、今度は荒々しく鳴った。

「はぁ、はぁ、た、大変…!フェンガリが!フェンガリが…!」

扉を壊す勢いで店へと転がり込んで来た、顔だけを見るならば多くの男を惑わせるであろう程端麗な顔立ちであるが、その手足には鳥を思わせる羽と鉤爪がついた雌の魔物は、荒れた呼吸を繰り返しながら叫んだ。

すかさずソーレと、カウンターで仕事をしていた真っ黒な犬の頭を持ちながらも、人と同じ二足歩行の魔物が駆け寄る。

「落ち着け、まずはゆっくり深呼吸しろ」

犬頭の魔物は鳥の魔物を落ち着かせるように優しく肩に手を置き、ソーレはその背中をさする。

よほど焦っていたのだろう、なおも何か言おうとしていたようだが、二人の落ち着いた様子に安心したのか、鳥の魔物は素直に深呼吸を繰り返した。

ある程度荒れた呼吸と気持ちが落ち着くと、鳥の魔物は静かに告げた。

「フェンガリが襲われました…。何も残らない、酷いくらいに…」

一瞬、時が止まったかのように感じた。

店の中にいた誰もが言葉を発せず、身じろぎ一つしなかったからだ。

「…それは本当か?」

固まってしまった口をやっとの思いで開いたかの様に、重々しく尋ねたのはミノタウロスだった。
鳥の魔物は力なく頷く。

「やっぱり、あの噂は本当だったんだ…」

誰かがぽつりと呟くと、その言葉は、平らな水面に落ちた水滴が波紋を起こすように、他の者たちにも広がっていく。

「…ソーレ、すまないがこの子を二階で休ませて来てくれ。少しミノタウロスたちと話してくる」

不安の騒めきが溢れかえる店内、その空気に飲まれたのか、眠る我が子を抱く手が微かに震えるソーレに犬頭の魔物が声をかける。

どこか呆然としていたソーレであったが、声をかけられたことで意識がはっきりとしたのか、静かに頷き、鳥の魔物の手を取って階段へと向かって歩き出した。
途中、階段近くのイヴたちの方を一瞬見つめたが、特に何かを言うこともなく階段を上っていった。

「フェンガリが襲われたか…」

「…フェンガリ、というのは国境近くにある街のことだろう?」

「ほぉ、よく知ってるな?」

褒めるというよりも訝しむミノタウロスに、イヴは澄ました様に答える。

「…国境に最も近い街だからな。地図に載っている時もある」

「ふん、なるほど…」

「…襲われたのは意外だったのか?」

唐突の質問にミノタウロスは鋭い目つきを向ける。

「どういう意味だ?」

「国境近くにある街だ。ならば、まず最初に襲われるのは当然の話だろう?別に驚く程のことではないはずだ」

「…戦争中ならな。だが、少なくとも今は違う」

「あれだけ侵略しておいて、今は戦争中ではないとでも…!?」

予想もしていなかったミノタウロスの答えにイヴの語気が強まる。

「よそでどんなことを教えられて来たのか知らねぇが、シエル、というよりも魔王様自体は戦争をしているつもりはない」

「しかし、今でもシエル以外の国では魔物どもによる被害が出ているんだぞ!」

「それが本当に魔物たちの仕業だという証拠は?」

話の輪に入って来たのは犬頭の魔物だった。

お盆に四人分の水の入ったコップを乗せてやって来た彼は、それらをイヴやミノタウロス、そしてリウへ配る。

「証拠だと?人をあんなにも惨たらしく殺し、なおかつ、その血肉を卑しく貪るのはお前たち魔物だけだろう!」

「…いかように殺されたかは聞かないが、それは人では決して出来ないことか?」

「何が言いたい!?」

再び心から姿を現した憎悪が全身を駆け巡り、受け取ったコップの冷たさなど感じぬ程に身体中を熱くする。

「つまり…」

「つまり、人間様は絶対に同じ人間様を惨たらしく殺して、その屍肉を食わないのか、そう聞いているんだよ」

言い淀む犬頭の魔物に代わって、先ほどよりも明らかに悪意ある言葉遣いでミノタウロスが尋ねる。

「人を殺して食べる、そんな卑しいことをする人がいるとでも言うのか!お前たち魔物ではないのだぞ!」

「なら惨たらしく死んだのは、全て魔物が人肉欲しさに襲ったとでも言うのか!?」

「そ、それ以外に、うわっ…!」

「うおっ…」

憎悪に思考が囚われかかった瞬間、イヴ、そしてミノタウロスの顔にひどく冷たい液体がぶつけられた。

顔に残った水滴を拭い、目を開くと、そこには変わらず他者をどこか蔑む様な表情を浮かべたリウがいた。

その手には空になったコップが握りしめられている。

「くだらない話をするな。ガラクタどもめ」

吐き捨てる様にリウに告げられても、不思議と怒りは湧いてこなかった。

むしろ、犬頭の魔物に指摘されるまでほんの少しも、あの被害が魔物によるものだと信じて疑わず、大声でかなり無茶な論理を喚き散らしていたことに恥ずかしさすら感じた。

言われてみれば、一度たりとも魔物が人を食べている光景を目にしたことはない。

いつも魔物が犯人であったと伝えられ、その死骸らしい物を見せられていたに過ぎない。

しかし、食べないにしても、人があれほど惨たらしい殺し方を出来るとは考えられない。

…いや、考えたくない。

全てを魔物のせいだと決めつけたかった。


「すまない…。そちらの考え方を知らないとはいえ、あんな不躾な質問はするべきではなかった。申し訳ない」

犬頭の魔物は誰よりも早く頭を下げ、そっとハンカチをイヴとミノタウロスへと差し出す。

イヴはそのハンカチを受け取りつつ、同様に頭を下げた。

「こちらこそ、すまなかった。大声を出してしまって…」

「気にしないでくれ。むしろ、良くも悪くも貴女がどういう考えの持ち主なのかが分かった」

「…」

「誤解しないでほしい。別に貴女を敵やひどい人間だと言うつもりはない。そちらにはそちらの考えや信条、そして教えられてきたことがある。だが、それは理解しているが、こちらも同じだということを貴女にも理解してほしい。ミノタウロスはそれを教えたくて、俺の代わりに話してくれた」

そっとミノタウロスの方を見ると、彼は受け取ったハンカチで大袈裟に顔を拭いており、顔を合わせようとはしない。

「…すぐには難しい」

「正直な方だな」

犬頭の魔物は軽く微笑み、空になったリウのコップを持って、カウンターへと歩いて行った。

自覚はないが、よほど大きな声を上げていたのか、先ほどまで不安そうに小声で話していた他の客たちがこちらを見つめていることに気がついた。

イヴはそんな視線から逃れる様に、ミノタウロスたちと同じテーブルの席へと着き、彼らへ背を向ける。

もっとも、このテーブルの空気も決して和やかなものではない。

「…ここからフェンガリへは遠いのか?」

水を一口だけ飲み、口を濡らしたイヴが意を決して尋ねると、ミノタウロスは顎や頬を撫でながら考え始めた。

「そうだな…。人の足なら三十分、いや、四十分くらいか…?どうだ、リウ?」

「…知らん」

リウの冷たい返事に、ミノタウロスは態とらしく肩を竦めてみせる。

イヴは一瞬苦笑いを浮かべたかけたが、すぐに表情を引き締めた。

ミノタウロスが先ほどのことを気にして態とやったのかは定かではないが、今までの言動とは打って変わって、親しみやすさを感じたのは確かだ。

しかし、心の奥底で憎しみが警告を発したのだ。

こいつは魔物なのだ、これは演技なのだと。

「…それくらいの距離なら、私をそこに連れて行ってはくれないか?」

「フェンガリへか?だが、あいつの話が本当なら、もう街はない。お前がそんな所へ行ってどうするんだ?」

「…もしかしたら、焼け落ちた家屋の下敷きになっている住民たちがいるかもしれないじゃないか?早くしないとそういう人たちもみんな死んでしまうかもしれない」

「…確かにな。だが、フェンガリを潰した奴らがいる可能性もあるぞ?」

「なら、尚更行くべきだろう」

急に後ろからの声が聞こえてきた。

振り返るとコップに水を汲んだ犬頭の魔物が戻って来ていた。

犬頭の魔物の意外な発言に、ミノタウロスは怪訝そうな表情を浮かべる。

「何故だ?何者であるにしろ、フェンガリを潰す、つまりは魔物を殺すことができる様な奴らだぞ。下手に近づけば危険だ」

「確かに危険だ。しかし、フェンガリを滅ぼした者たちが何者であるかを知るチャンスでもある。それに、彼女の言う通り、住民たちを救わなくてはならない」

犬頭の魔物はちらりとイヴの方を見ると、軽く微笑む。

「…分かった。なら、リウ、お前がついて行け」

そのミノタウロスの太い指で指されるも、リウは返事の一つもせず、水を飲んでいる。

「俺は魔王様たちにこのことを伝えに行ってくる。本当にフェンガリが潰されているかは分からんが、取り越し苦労だったとしても、あの兄弟に小言を言われるくらいなんてことはない」

「ならば、俺はこのことを他の魔物や住民たちに伝えておく。不安にはさせたくないが、知らないでいるよりは良いだろう」

「頼む」

犬頭の魔物の肩を叩くと、ミノタウロスは椅子に座っていながらも、人の数倍はある、大きく頑強な図体を更に持ち上げ、地響きすら起こせそうなほどの大きさとなった体を屈めて店を出て行った。

「…リウだったな?少し待っていてくれないか?さすがにこの格好では出かけられん。上に行って、何か動きやすい服を借りて来る」

助けて貰っておきながら、服まで借りるというのも些か気が引けることだが、こんなひらひらとした服では動き辛い。

それに、こんなにも可愛らしい服を汚すというのも気が引けた。

自身の身なりを再確認しながら告げるイヴに反応したのはリウではなく、犬頭の魔物だった。

「予備の服の様な物もきっとあるはずだ。上には妻がいる。妻に聞いてみてくれ」

「…妻?」

イヴが聞き返すと、犬頭の魔物は不思議そうな顔をした後、思い出したとばかりに掌を叩く。

「そういえば自己紹介がまだだったな。俺はブラックドッグ、この酒場兼宿屋の主人をしている。そして、貴女がさっきまで話していたのは、妻のソーレで、その腕で寝ていたのが息子のソルだ」

「妻に息子…」

合点がいった。

しかし、もはや憎しみや怒りは湧いてこなかった。

きっと、他にやらなくてはいけないことがあるからだろう。

「そ、そうか…。なら、彼女に聞いてみよう」

そう告げたイヴはさっさと階段を上り、二階へと向かう。

宿屋というだけあり、二階にはいくつもの部屋がある。

扉が閉められていると、自分が先ほどまで寝ていた部屋がどこなのかさえも分からない。

仕方がない、一部屋ずつ扉を開けて見ていこう。

手近な扉を片っ端から開け、部屋の中を確認していく。

そうしていると、階段からずいぶん離れた部屋の中にソーレと先ほどの鳥の魔物はいた。

扉が急に開いたことに驚いたのか、鳥の魔物はびくっと体を震わせ、不安と恐怖の入り混じった顔をこちらへと向ける。

そんな魔物の背中を優しく撫でながらソーレが口を開く。

「どうかされましたか?」

「少し出かけたいと思ってな。すまないが何か服を貸して欲しい」

「怪我の方は大丈夫なのですか?」

「…あぁ、大丈夫だ」

実を言えばまだ身体中に痛みがあり、寝ていたいという気持ちがないと言えば嘘になる。

だが、そんな悠長なことは言っていられない。

「そうですか。お出かけは何処まででしょう?近くに買い物?それとも街の散策ですか?」

「…フェンガリだ」

「えっ…?」

ソーレと魔物は呆然とした表情を浮かべる。

あまりこの魔物の前では答えたくない質問であったが、嘘を言っても仕方がない。

それにソーレからはしっかりとした服を借りたかった。

「…何故、フェンガリへ行くの?」

震える声で魔物は尋ねる。

「…住民の救助と襲った者たちの特定だ」

「そんなのもう意味ないわよ…」

「まだ分からない。もしかしたら焼け落ちた建物に…」

「そんな訳ない…!」

目から大粒の涙を零し、魔物は掠れた声で悲痛な叫びをあげる。

「貴女は知らないからそんなこと言える…。あれじゃ誰も助からない…。誰も、誰も…」

「…」

翼で顔を覆い、声を殺すようにして泣く魔物の頭を優しく撫でると、ソーレはイヴに部屋を出るよう無言で促した。

部屋を出て待っていると、すぐにソーレも部屋を出てきた。

その顔に初めて話した時の様な明るさはない。

「…本当にフェンガリに行くのですか?」

「ああ」

「…分かりました。服はこっちにあると思います。付いて来てください」

ソーレはすたすたと歩き出し、イヴもその後を追った。







「見ず知らずの貴女に任せるべきことではないが、気をつけて行ってきてくれ」

酒場を出たところで荷物の最終チェックを行うイヴとリウに、ブラックドッグは申し訳なさそうに告げる。

ソーレが貸してくれた装備の数々はイヴが思っていた以上だった。

動きやすい服程度で問題はないと考えていたが、ソーレは軽い防具の一式と護身用の剣、そして多くの荷物を収納できるリュックを貸してくれた。

多少重さが傷のある体に響くが、備えあれば憂いなしと思い、ありがたく全てを借りた。

「分かった…」

イヴの言葉にブラックドッグとソーレは静かに頷き、酒場へと戻って行く。

ブラックドッグたちがいなくなると、イヴは一度あたりを見渡す。

街とは言っても、ここはそれほど大きな街ではないらしい。

木製の建物に挟まれる形で、真ん中に大きな道が通っているが、せいぜい馬車などが通れる程度の整備しかされておらず、ぬかるんだ土が人や魔物たちの足を汚していた。

酒場の外にも人や魔物たちは多かったが、誰も騒いでいる様子は見受けられなかった。

どうやらまだフェンガリのことは聞いていないらしい。

「…行くぞ」

一向に出発しないイヴに痺れを切らしたのか、リウはぽつりと呟き、一人歩みを進め始める。

「ま、待ってくれ!」

慌ててイヴはその後を追う。

雨は音も無く降っているが、日は出ているため、おそらく長くは降らない。

目的地に着く頃にはきっと晴れているはずだ。

「私を見つけ、助けたのはいつ頃だ?」

空や周囲の様子を眺めながらイヴが尋ねると、リウは振り返らずに答えた。

「…早朝だ」

「そうか…」

あの時は今より雨が激しかったはずだ。

フェンガリの者たちにとっては不幸中の幸いだろうか。

いや、生きている者たちがいなければ、本当に幸いであったかどうかはまだ分からない。

…何故、こんなことを考えているのだろう。

本来ならこんな天気を憎むべき立場にいるはずなのに。

ぬかるんだ道を黙々と歩き続け、いつの間にか振り返ってもソレイユの街が見えなくなった頃、イヴは再び口を開いた。

「お前はあの街…というよりも、このシエルで生まれたのか?」

「…」

リウは答えないが、イヴは続ける。

もはや無視されることには慣れてきた。

「見たところ、お前は私と似た歳頃だが、子どもの頃から魔物たちと共に暮らしているのか?」

「…」

「お前たちは…シエルの人々は魔物たちをどう思っているんだ?」

絡みつく様な地面にも関わらず、黙々と歩みを進めていたリウがぴたりと止まり、静かに振り返る。

その顔はやはりどこか人を小馬鹿にした様な表情をしているが、その目は遠くを見つめていた。

「…少なくとも、奴らはそう悪い者たちではない」

暫しの間、イヴの更に後ろを見つめた後、それだけを告げ、リウは再び何事もなかった様に歩き出す。

リウの見つめていた視線の先を追い、イヴも一度振り返る。

見渡す限りの緑の丘陵地が広がるだけで、他には何も見たらないが、彼が見つめていたものが何であるかは何となく察しがついた。

彼が思い馳せていたのはソレイユの街であり、奴らとはおそらくミノタウロスたちのことだろう。

彼は彼らを信頼している。

そして、彼らもまた彼を信頼している。

彼らのやり取りを見ていれば、その仲が昨日今日のものではないことは分かる。

…正直、信じたくはなかった。

あんな魔物たちが悪い者たちでないはずがない。

しかし、敢えてそれを口にすることはなかった。

彼らとの関係に角が立つからではない。

教えられ、植え付けられ、自分自身で研磨してきた価値観に少なからず疑念が生まれていたからだ。

戦争を望まぬ平和の心。

他者を理解する寛容な心。

他者の為に涙を流す優しき心。

そんな人間らしい心が、本当は魔物たちにも微かにあるのではないか、そう思えてきたからだ。

「早く来い」

いつまでも背後を見つめるイヴをリウは少し苛立たしげに呼ぶ。

イヴが急いで駆け寄ると、二人は黙って歩みを進めた。

雨の日の外は独特な匂いが立ち込めるものだ。

これを自然らしい匂いだと言うと少し変かもしれないが、イヴにとってはこの匂いこそ最も慣れ親しんだ自然らしさだった。

しかし、そんな自然らしい匂いの中に、身に覚えのある不快感が混じり始める。

「あれ、だな?」

前方に微かに見えてきた黒い何かを指さすと、リウは静かに頷く。

自然、二人の足取りはこれまで以上に早くなった。

目的地に到着すると、そこにはもはや誰もいないことがすぐに分かった。

ソレイユの街同様に、大きな道の左右に並んでいたであろう建物は全てが燃やされており、その先の景色がよく見えるほどに崩れて落ちてしまっている。

元のフェンガリが如何様なものかはよく知らないが、ここはもはや街でもなければ、廃墟とすら呼ぶに値しないものと成り果てていた。

「用が済んだら声をかけろ。俺はここで待つ」

リウはそう告げると、街へは入らず、外の丘陵地帯の方を見つめた。

「あぁ、分かった…」

イヴは一人、元フェンガリの街へと入った。

すっかりと雨が上がり、昼下がりの傾きかけた日が地を照らし、温めるが、そう簡単にこのぬかるんだ道は乾きそうもない。

そんな道をゆっくりとあたりを見渡しながら歩く。

左右には変わらず真っ黒に煤けた建物の残骸が積まれているが、それらをどける勇気はなかった。

時折、明らかに建物の残骸とは違う質感を持つ何かが隙間から姿を覗かせていたからだ。

そういった物から可能な限り目を背け、微かな希望を持って生存者を探しながら歩くが、終わりはすぐにやってきた。

左右に建物の残骸が無くなると、入り口と同じ様に、丘陵地帯の緑が広がり始める。 

暫しの間、目を細めその緑を眺め続けた。

後ろを振り返るのが恐ろしかった。

…自分は本当にこんなことを望んでいたのだろうか。

魔物とその魔物に従うシエルの人々をこうも残忍に殺すことを。

そうだ、と告げる自分もいれば、違う、と告げる自分もいて、もはや、自分が何を考えているのかさえ分からなくなってくる。

…気分が悪い。

吐き気さえも感じ、借りた装備に泥が付くことなど気にする余裕もなく、地面へと両手両膝をつく。

心音は鼓膜を突き破らんばかりに大きくなり、呼吸はどんどんと荒くなっていく。

何とか胸に手を当て、鼓動と呼吸を必死で宥める様に努めるが、思いとは裏腹に勢いは増すばかりだ。

次第に姿勢を維持することさえも苦しくなり、前髪が泥につく程に頭が下がっていく。

このままではいけない、そう思い、何とか体を持ち上げようと全身に力を入れる。

すると、意外にも体はすんなりと起き上がった。

「何をしている」

呆れる様な口調が背後から聞こえ、顔だけを向けると、そこにはリウが立っていた。

どうやら彼が立つのを手伝ってくれたようだった。

「はぁ、はぁ…。気分が、悪くなって…」

見るからに顔色が悪く、息も絶え絶えに話すイヴはふらりと、リウの方へと倒れかかる。

一瞬、避けられるかとも思ったが、リウはしっかりとイヴを支えた。

もはや礼を言う余力もなく、リウの腕の中で荒い呼吸を宥めていると、彼は街の外に生えた木の所までイヴを引っ張っていった。

「傷が開いたか?」

水筒の蓋を開け、それをイヴへと手渡ししながらリウはつまらなそうに尋ねる。

気分の悪さから、体全体が気だるいが、ひどい痛みのようなものは感じないため、その心配はおそらくないだろう。

イヴは静かに頭を横に振り、受け取った水筒へと口をつける。

甘くて、美味しい。

ソーレがリュックと共に貸してくれた水筒の中身はとても甘いものだった。

酒やジュースの様な物ではなく、水に砂糖か何かを溶かしただけの簡素な物だろうが、それ故とても飲みやすく、美味しい。

水分を取ると、荒れていた鼓動と呼吸は次第に落ち着きを取り戻していった。

ある程度イヴの顔色が良くきているのを認めると、リウは街へと入って行ってしまった。

置いていかれたのではないか、そんな不安は不思議と湧いてこなかった。

彼を信頼している訳ではない。

おそらくは単にそんなことを考える余裕がまだなかったのだろう。

木に寄りかかり、雨上がりの優しげな風を目を閉じて感じていると、ぬかるんだ地面を歩く音が近づいて来た。

リウが戻って来たのだろう、そう思い、目を開けずにいると、がしゃがしゃと耳障りな音を立てる何かが近くに落ちた。

目を開け、その何かを確認する。

「こ、これは…」
音の正体は、切っ先の折れた剣、激しく損傷しているが騎士の紋章を見て取れる盾、そしてひび割れた防具の数々だった。

イヴはそれらに触れようと手を伸ばす。

しかし、触れる直前でその手を止め、恐る恐るリウの方へと顔を向けた。

「お前の物だ」

変わらぬ表情で告げるリウにイヴは寒気がした。

この男は知っているのだ。

知っていてなお、こんな茶番を演じているのだ。

何と嘘をついても、もはや意味などないのだと悟ると、頭の中は一気に真っ白になった。

更なる滑稽な嘘を考えることも出来なければ、全てを明かす踏ん切りもつかない。

「…所詮お前の物だ。どうするかは好きにしろ。だが、確かに届けた」

呆然と虚空を見つめるイヴに嫌気がさしたのか、小さく鼻を鳴らしたリウは再び背を向け、街へと歩いて行く。

イヴはそんなリウの後ろ姿を暫し見つめた後、無造作に投げられた剣や盾を眺めた。

好きにしろ、とはどういう意味なのだろうか。

好きにするも何もないではないか。

これらを今更どうしようとも、もはやこれが誰の物なのかを知っている者がいるではないか。

それとも、彼は知っていながらそれを黙っているつもりなのだろうか。

何の為に…?

何の得にもならないではないか。

むしろ、不利益にすらなり得るかもしれない。

まともに考えれば、彼の行動の真意が分からない。

敢えて黙っておく理由も、ここに連れてきた理由も。

しかし、捨てきれぬ信仰心と価値観故に、全てを明かす踏ん切りがつかない今、真意の分からぬ彼を信じる他ないのかもしれない。

イヴはそっと立ち上がる。

立ちくらみこそすれ、先ほどまでの気持ち悪さは和らいだ。

何とかソレイユに歩いて帰ることは出来そうだ。

…本当に帰るべきなのかは分からないが。

剣や盾などはそのままに、イヴはリウが待つであろう街の出入り口へと足早に向かった。

「用は済んだか?」

「あぁ…」
街の外に広がる自然な緑を眺めたまま尋ねるリウに、イヴは小さな声で答える。

「なら、さっさと戻るぞ。ガラクタどもにくだらない心配をされるのは疲れる」

「あぁ、そうだな…。なぁ、一つ聞いてもいいか?」

「…」

返事はないが、足を止めているということは、聞いても良いということだろう。

「お前は、その、私が…。いや、やはり何でもない…」

やはり、尋ねる勇気は湧いてこなかった。

尋ねれば、何か取り返しのつかない答えが返ってきそうで、恐ろしかった。

「なら、話しかけるな」

冷たく遇われてしまったが、むしろ、深く追求されなかっただけ幾分かましだろうか。

「すまない…」

「戻るぞ。離れずについてこい」

「あぁ…」

歩き出すリウの背中だけを見つめながら、イヴは力なくその追いかけて行く。

その足取りは酷く重いものであったが、リウと距離が離れることはなかった。







日が陰り、光源のない街の外の緑が闇に沈みかけて来た頃、イヴとリウはソレイユへと到着した。

重い気持ちも相まって、イヴが引きずる様な足取りで酒場へと向かうと、ちょうどソーレがソルと共に出入り口に設置された燭台に火を灯していた。

「あっ、お帰りなさい」

「た、ただいま…」

本当の家ではないのだが、にこにこと優しげな微笑みを浮かべるソーレに出迎えられると、自然と挨拶が口から出ていた。

午前中のことを気にしているのか、ソルはそっとソーレの後ろに隠れ、上目遣いでこちらの様子を伺っている。

人と魔物との間に生まれた者。

人の血が混じったとはいえ、その人というのも、人と呼ぶに値しない者たちであり、彼らもまた異形の者たちであることに変わりはない。

そう教えられてきたが、実際、本当にそうなのかは分からない。

イヴはそっと片膝をつき、目線をソルと同じくする。

ソルは更にソーレに強く抱きつき、隠れるも、ちらりとこちらの様子を伺っている。

「…さっきはすまなかった。怯えさせてしまったな。私はイヴ、君の名前は?」

当然知っているが、他に何を話すべきか分からなかった。

ソルは一度確認する様に母の顔を見つめる。

そして、変わらず優しげな微笑みを浮かべる母を信じたのか、そっとその体から離れると、恐る恐るイヴへと近づく。

「そ、そる…」

まだどこか舌足らずな喋り方だが、それがどこか人の子らしさを醸し出す。

やはり、異質な腕や足をしながらも、この子は人の子とそう変わらない、そんな気がする。

「ソルか。良い名前だな」

ソルに触れようと手を伸ばしかけるが、そこで自分の手が乾いてこそいるが、泥だらけであることに気がついた。

思えばあの時倒れた為に、身体中が泥だらけであった。

伸ばしかけた手を下ろそうとすると、ソルは急にその手に飛びついた。

「どろんこあそびしてきたの?」

「えっ…?」

戸惑うイヴをよそに、ソルはイヴの手を覆う乾燥した泥をぱりぱりと剥がしていく。

遊びのつもりなのか、楽しそうにその手を、肉球のついた可愛らしい手で弄ぶソルを引き剥がすことも出来ず、イヴは戸惑いの視線をソーレへと向ける。

「あっ、ごめんなさい。こら、ソルちゃん、イヴさんたちは疲れてるんだから、遊び相手にしちゃだめでしょ?」

しばらくの間、我が子の遊ぶ姿を微笑ましく眺めていたソーレだったが、イヴからの視線に気がつくと、そっとソルを抱き上げた。

もっと触っていたいのか、ソルは抱きかかえられながらも、イヴの方へと手を伸ばす。

喜ぶべきか、どうやらそこまで深く嫌われていたようではないようだ。

「あぁ、そうだ…。あなたに借りた服や装備を泥で汚してしまった。本当に申し訳ない…」

「まぁ、そうなんですか。なら、少し早いですが、お風呂に入った方が良いですね。さぁ、こっちです!」
ソーレはイヴの片腕を掴む。

「…またか」

何が引き金になるのかはいまいち分からないが、ソーレに変に強引な所があることは、午前中の内に気がついていた。

そして、スイッチが入れば、抵抗など意味はなく、引きずり回されることも。

「あっ、リウ君も汚れていますか?」

掴んだイヴの腕は離さずに、ソーレがリウの方を向く。

すると、リウは汚れていないことを証明するかの様に、軽く両手を挙げたままその場でくるりと一回転してみせた。

「汚れては…いないみたいですね。なら、イヴさんだけで良いですね」

リウがどこかほっとした様に見えたのもつかの間、イヴは午前中同様、ソーレに引きずられる様にして店内へと入る。

「帰って来たのか、どう…」

カウンターで仕事をするブラックドッグが話しかけようとするが、ソーレはそれを無視して階段横にある扉を開け、中に入る。

部屋の中は、小さいながらも家そのものの様だった。

リビングやキッチン、ダイニングがあるが、部屋奥にある扉にぶら下がった看板を見ると、どうやらトイレに浴室もあるようだった。

「ここは私たちが暮らしている部屋なんです。どうぞ、お風呂場はこちらです」

一瞬、泥だらけの足で入っても良いものかとも考えたが、ソーレの腕を引く力は緩まなかったため、イヴは可能な限り部屋を汚さぬよう、爪先立ちとなってついていく。

浴室と書かれた看板がぶら下がる扉を開くと、そこは小さな脱衣所となっており、タオルや着替えなどを置くための籠などが置いてある。

浴室は磨りガラスの向こうだろう。

「着替えなどはすぐに持ってくるので、入って待っていてくださいね」

それだけを告げると、ソーレはイヴを残して扉を閉じてしまった。

ふぅ、ため息にも似た吐息を吐くと、イヴは汚れた防具と服を脱いでいく。

下着姿になり、その全身が鏡に映ると、そういえば額や体に包帯が巻かれていることを思い出した。

額に巻かれた包帯には血が滲んでいたが、傷の具合が気になったため、全ての包帯を解いた。

額の包帯の下には、真っ赤な一文字が描かれ、体の包帯の下には、他の白い肌とは異なる色の肌が広がっていた。

額の切り傷は仕方がない。

斬り合いとなればこの手の傷は日常茶飯事だ。

だが、我が身可愛さを強調する気はないが、これほどまで痛々しい打撲痕を見たことも経験したもない。
あの時の強烈な衝撃と痛みが思い起こされる。

こちらは鎧を着込み、なおかつ相手の得物は剣であったにも関わらず、まさかこんなにもダメージを受けるとは予想していなかった。

いや、命を落とさなかっただけ運が良かったと思うべきか。

優しく色の変わってしまった肌を撫で、傷のことをあまり気にせぬように浴室へと入る。

シエルといえども、さすがに浴室の作りまではそう違いはなかった。

浴槽には絶えず湯が流れ込み、溢れたものたちは浴室を包む湯気となるか、浴室の端に開いた穴へと落ちていく。

構造自体は同じだ。

しかし、個人が浴室を持っているとは珍しい。

記憶を探っても、こんな浴室を持っていた者たちはかなり限られた貴族たちだけだ。

今更彼らを理由もなく侮蔑するつもりはないが、小国シエルで暮らす一介の酒場兼宿屋の主人が手に入れられるものとは考え辛かった。

やはり、これも魔物たちによる恩恵なのだろうか。

置いてあった桶に湯を汲み、その中で泥だらけの手や足を洗いながらそんなことを考えていると、磨りガラスが少しだけ開いた。

「着替えを置いておきますね。あと、タオルは脱衣所にある好きなものを使ってください」

「あぁ、分かった。…ありがとう」

ソーレはにこりと微笑み、顔を引っ込めた。


やはり、まだうまく礼が言えない。

シエルの人々や魔物が話に聞いた、悪そのものを具現化させた様な者たちではないのだと、頭では理解してきている。

しかし、心は未だ教えられてきた信仰心や価値観、そして憎しみを捨てきれずにいるのだ。

何と情け無いことだろう。

泥が溶け落ちた湯を捨て、新たに汲み直した湯を頭からかぶるも、さすがにまだ傷口が塞がっていないらしく、湯が額の切り傷にひどく染みる。

その痛みはまるで何者かに叱責されているかの様な気分にさせる。

仕方なく、頭や髪は簡単に洗い、湯船へと浸かる。

温かくて心地いい。

心身共に疲れる一日だったせいだろう。

目を閉じ、気を抜けば一瞬にして微睡みに落ちそうな程だ。

だが、心地良さに任せてばかりではいられない。

今後のことも考えなくては。

意識を取り戻した当初はこの国からの脱出を考えていたが、シエルを離れたとしてもう一度戻る場所はあるだろうか。

逆に、ここに留まるとして、今後何事もなく上手くやっていけるだろうか。

おそらく、どちらも望み薄だ。

自然、深いため息が吐き出される。

何故こんなことになってしまったのだろうか。

あの時、あんな馬鹿なことをしなければ良かったのだろうか。

いや、そもそもあんな集団に入らなければ。

しかし、あの集団に入る原因を作ったのは。

意味はないと分かっていても、どこまでも繋がる変えられぬ因果が憎くて仕方がない。

…もう出よう。

一人でいると、どうしても自分自身と向き合ってしまい、いらぬ不安感を掻き立ててしまう。

彼らの人肌が恋しい訳ではない。

何か今の状況が変わる出来事が欲しかった。

脱衣所へと戻ると、汚れた服や防具は無くなっており、代わりにまた可愛らしい服と下着が置かれていた。

最も小さなタオルで身体中の水滴を拭き取り、髪の毛もある程度乾かすと、それらを身に付け、脱衣所を出る。

部屋には誰もいなかった。

部屋を見渡しても時計は見当たらないが、窓から入ってくる微かな日の光から、ソーレたちはまだ酒場で働いている時刻なのだと察しがついた。

酒場へ向かおうと扉に近づくと、すぐ下に自身の靴が置かれていることに気がつく。

あれだけの距離を歩いたため、部屋へ入ることを躊躇う程泥が付着していたはずだったが、置かれている靴に目立った泥や汚れは見当たらない。

思えば、床にも自分の靴の跡は残っていない。

全てソーレがやってくれたのだろうが、正直、彼女の思いやりの心には頭が下がる思いでいっぱいだ。

度々、彼女がシエルの人でなければ、そう思ってしまう。

靴を履き、酒場へと出ると、入って来た時には気づかなかった異常さに今更ながら気がついた。

客が誰一人もいないのだ。

フェンガリへと出かける前には、それなりの客たちがいたはずだが、今は客らしい客がいない。

今、店の中にいるのは、主人のブラックドッグ家族とリウのみであり、あのミノタウロスの姿さえない。

「さっぱりしたか?」

「ああ。それにしても客たちがあまりいないが、いつもこれから来るのものなのか?」

カウンターで仕事をするブラックドッグに尋ねるが、彼は少し考えた後、首を横に振った。

「いや、そんなことはない。これくらいの時間ならちらほら客たちも来ているはずだ。しかし、今日は、な…」

「…やはり、フェンガリか?」

ブラックドッグは静かに頷いた。

「あぁ、街の全員に出来るだけ出歩くことを自粛するように伝えておいた。まぁ、俺たちのような客商売には良いことではないがな…」

軽く苦笑いを浮かべるブラックドッグだが、本気で客のいない今の状況を憂いている訳ではなさそうだ。

「それで、フェンガリの様子はどうだった?何か襲撃者の手掛かりは得られたか?」

「…リウからは聞いていないのか?」

そっとイヴはリウの方を見る。

彼は午前中と同じ席に座り、片腕でソルの遊び相手をしている。

「いや、何も聞いていない。むしろ、あいつが何かを報告してくれた時は少ない。いつも、ああやって静かにしている」

少し呆れるようにブラックドッグは告げる。

やはり彼の考えは読めない。

「そうか…。あまり、他人が好きではないのかもしれないな」

「ふっ、確かに傍目にはそう見えるな。だが、あいつは優しい子だよ」

「そうだろうか…?」

「そうさ、でなければ貴女を助けない」

言われてみればその通りかもしれない。

あんな所にいた私を助け、正体を知っているにも関わらずそれを他者に漏らそうとしない。

やはり、これらは彼の優しさなのだろう。

しかし、どうしても彼を真に信じることが出来ない。
それは彼の、その人と思わせぬ異質な雰囲気と、シエルに暮らす者だからという偏見が捨てきれない故だろう。

「それで?貴女は話してくれるのか?」

「…話さなくても良いのか?」

「そこは自由だ。無理をさせてまで話させることではない。午前中のハーピーを見ていれば尚更だ」

ハーピーというのは、おそらく午前中店へと転がり込み、今回の事を伝えてくれたあの鳥の魔物のことだろう。

確かに、実際にあのフェンガリを見た時、あまりの無残さに気分が悪くなった程だ。

もしあそこに肉親や友人、知り合いがいたとなれば、その精神的痛みは計り知れないものだろう。

しかし、ここで話さない訳にはいかない。

「…いや、話そう。あまり、詳しいことまでは分からなかったが」

「構わない。どういう状況だったのかが分かれば、おおよその見当はつく」

イヴはソーレやソルたちに聞こえぬよう、小さな声でブラックドッグにフェンガリの様子を伝えた。
ある事を伏せたまま。

「なるほど、やはり噂は本当だったということか…」

「噂…?」

午前中にも客たちの間から聞こえていたが、一体何なのかを確かめることは出来なかった。

イヴが訝しげに尋ねると、ブラックドッグは項垂れる様にテーブルを見つめながらぽつぽつと話し始めた。

「レイダット・アダマーという名に聞き覚えは?」

「いや…」

「奴らは反魔物派の人間たちの集まりだ。魔物たちを許さず、またその魔物たちと暮らすシエルの人々の存在をも許さない過激な連中だと言われている」

「…それで?」

「奴らは元々テールやデゼールといった反魔物派の国々で生まれた、ただの過激な集団だと言われてきた。だが、最近、といっても、数ヶ月程前からだが、シエルとの国境近くに、奴らの拠点と思われる砦の様な街が建設されているという噂が出回ってきた」

「…」

イヴは相槌も打たず、黙ってブラックドッグの話に耳を傾ける。

「御上の方々が真意を知っているかは分からないが、少なくともこんな端で暮らす俺たちの様な魔物は眉唾な噂だと耳も傾けてこなかった。だが、実際にフェンガリが潰されたとなれば、この噂を信じない訳にはいかない」

「な、なるほど…」

何とかイヴが相槌を打つと、ブラックドッグは深いため息を吐き出し、尚も続ける。

「しかし、噂が本当だとすると、不可解なことがある。ただの過激集団が何故そんな街を建設できるのか、その金は?許可は?俺が考えるに、奴らの後ろにはシエルと敵対する国々が付いている気がする。そうでなければ、ただの過激集団にフェンガリを潰すだけの力はないはずだ」

「…」

語彙が強くなりつつあることに気がついたのか、ブラックドッグは一度咳払いを挟む。

「まぁ、それでもまだ噂の域を出ない。それに、もし噂が本当だったとしても、こちらから手を出す気はない。魔王様に折り入って頼み込み、もっと魔物たちを各街に派遣してもらい、防衛力を高めるしかない」

「…争う気はないと?」

「ミノタウロスも言っていたと思うが、魔王様は人間たちとの戦争を望んではいない」

「そう、だったな…」

午前中の様な口論に発展させる気はないため、適当に頷きこそしたが、魔物たちが言うように、本当に魔王に戦争の意思がないとは思えなかった。

戦争の意思がないのなら、そもそも人間界にやってくる必要性はなかったはずだ。

魔界で暮らしていれば、こちらからわざわざ戦争を仕掛けることはおろか、その存在にすら気づきもせず、神話の様に語り継がれる勇者の物語に出てくる、架空の存在だと認識され、いずれは忘れ去られていったはずだ。

それを今更何故…。


思案に耽っていると、不意に出入り口のベルが鳴る。
店内にいた全員が反射的にそちらを見た。

「ふん、今日は貸切だな」

そう言って店へと入って来たのは、少し疲れた顔をしたミノタウロスだった。

「みの~!」

こんな時に来訪者が来るとは思っていなかったのか、一瞬反応の遅れたブラックドッグやソーレよりも一早くミノタウロスに駆け寄ったのは、小さなソルだった。

「おぉ、ソル。この寝坊助め、やっと起きたのか?」

足元へとやって来たソルを一度高く抱き上げ、そのまま下ろすと、ミノタウロスはのっしのっしと奥へと入って来る。

「お帰りなさい、お疲れではありませんか?何か飲まれますか?」

「あぁ、何か冷たい物なら何でもいい」

定位置なのか、ミノタウロスは椅子をどかし、午前中と同じ様にリウと向かい合う形で床へと腰を下ろす。

「ふぅ…。で、どうだった?フェンガリの様子は?」

「…」

一息つく前にミノタウロスが尋ねる。

しかし、相変わらずリウは口を開かなかった。

「全く、お前って奴は…。あぁ…イヴ、だったか?どうだったんだ?」

「あの時、フェンガリの事を伝えくれた魔物が言った通りだった」

イヴとブラックドッグはカウンターを離れ、リウたちと同じテーブルへと移動する。

「そうか…。報告も無駄じゃなかったようだな」

「しかし、ずいぶん時間が掛かったようだが、一体どこまで行っていた?」

「コハブだ」

「あの街か…。まぁ、我々がシエルの王城に出向くよりは話も通りやすいだろうな」

「…すまない、コハブとは?」

知らぬ街の名を耳にしたイヴがおずおずと尋ねると、ブラックドッグは特に嫌な顔一つせず説明をしてくれた。

「コハブとはこの地方を治めている領主が暮らす、こことは比べ物にならない大きな街だ。ソレイユからは馬車で片道半日、徒歩なら最悪一日はかかる程に遠い」

ブラックドッグの話が本当ならば、そんな距離を往復で、しかも報告という何かしらの用事があるにも関わらず、ミノタウロスは数時間で帰って来たということになる。

あの巨体がそんなにも早く動けるのかと思うと、少しぞっとした。

「俺たちが田舎者だからといって、魔王様が話を聞いてくれねぇはずはねぇが、今回の様な一件を伝えるのなら、領主を通した方がおそらく早いのさ」

「それで、領主は何と?」

「ちゃんと魔王様に伝えておくだとよ。あと、フェンガリに調査隊も派遣するとも言っていた」

「調査隊か…。しかし、二人の話では生存者も、襲撃者の痕跡すらなかったらしい。有益な物が見つかれば良いが…」

調査隊…。

不安や恐怖が胸の内で大きくなり、苦しくなる。

痕跡がないわけではない。

それに、私の正体を知る人物もいる。

…やはり、ここを離れた方が良いのだろうか。

ぼんやりと机を見つめながら、そんなことを考えていると、目の前に飲み物が置かれた。

「暗い話はそれくらいにして、少し早いですが、御夕飯にしませんか?」

ソーレがソルと共に全員分の飲み物を持ってやって来たのだ。

「…そうだな、今日はもう酒場は閉めるとしよう」

「はい。ミノさんも一緒に食べて行きませんか?」

「そうだな…。お前たちが良いというなら、お言葉に甘えさせてもらう」

少しはにかみながらも、ミノタウロスはソーレの誘いに応じた。

「良かった。イヴさんたちも少し待っていてください。すぐに、御夕飯の準備をしますから」

「わ、私も良いのか…?」

馬鹿げたことを尋ねたと、後になって気がついた。

無一文に等しい今、風雨を凌ぐにも、食料を得るにも、ソーレたちを頼る他ないではないか。

しかし、これまでにも何度も助けられた上に、更に助け求めることが許されるものなのだろうか。

プライド云々以前に、これ以上迷惑をかけることに後ろめたい気持ちだった。

だが、そんな心配など吹き飛ばさんばかりに、ソーレはいつもの優しげな笑みを見せた。

「もちろんです。大人数での食事の方が楽しいですから」

「しかし、私はお金が…」

「お金のことは気にしなくても大丈夫ですよ。でも、もしよろしければ、お料理を手伝っていただけますか?」

「分かった…!そんなことなら、容易いことだ!」

勢いよく立ち上がり、ソーレたちと共にキッチンへと向かった。

「…美味いな」

「あぁ、今度時間があったらレシピを教えてほしい」

「すごく本当に美味しいですね」

「おいし~!」

料理の腕を褒められることに決して悪い気はしない。
彼らが魔物やシエルの人々であっても例外ではない。
むしろ、気に入らなかったのは、何も言わず、ただ黙々と料理を食べる一人だけだった。

真っ白な髪が料理に付きそうになっているにも関わらず、敢えて髪をかきあげもせず、美味しいの一言もないこの男には、フェンガリでの件を忘れて、ひどく腹が立った。

じろりと、その男の方を睨みつける。

だが、男は視線に気づくことなく食事を続けている。
それがまた無性に腹立たしい。

「…リウ、お前はどうだ?美味いか?」

何となくイヴの様子から空気を読んだのか、ブラックドッグが箸を止め、リウに尋ねる。

手に持っていた皿の料理を一気に掻き込み、頬を一杯にしたリウは、やっと視線に気がついたのか、イヴの方を向きながら答える。

「…普通だ」

一番言われたくない一言だった。

馬鹿にされるよりか良いようにも聞こえるかもしれないが、馬鹿にされたほうが喧嘩を起こす大義名分を得ることが出来るので、正直まだましだと感じる。

故に褒め言葉でもなければ、貶し言葉でもない、普通という評価が最も気に入らない上に、対処に困るのだ。

無論、料理に絶対的な自信があるわけではない。
この料理だって、所詮は素人に毛が生えた程度の物だ。

無理に褒めろとは言わないが、気に入らない答えを返すくらいなら、いつもの様に無視を決め込んでほしかった。

「ふ、普通か…」

「あぁ、普通だ」

興味なさげに答えると、リウは再び皿を手に取り、食事を再開し始める。

元々あまりなかった食欲が更になくなった気がした。







食事が終わると、ミノタウロスは早々に店を出て行った。

今後のことを他の魔物たちとも考えたいということらしい。

食事の時は、その団欒とした空気に忘れかけていたが、今は決して気を抜いて良い状況ではない。

ソレイユに住む者たちにとってもそうだが、イヴにとってもそうだった。

今後のことを早く決めなくては。

「イヴさん、お部屋の準備出来ましたよ!」

「分かった、すぐに行く」

二階の吹き抜けからのソーレの呼びかけに応じ、イヴは階段上がる。

そうは思っていても、やはり彼らの優しさに甘えてしまいたくなる。

そして、現に甘え、何事もなければ、このままここで暮らしたいという気持ちが大きくなっている。

「それなりに広いですが、客室なので特に家具がないんです。もし何か不便なことがあったら言ってください」

「そんな…。むしろ、泊めてもらえるだけで、とても助かる。本当にすまない」

「気にしないでください。こんな時なんですし、それにこうしてイヴさんと出会ったのも、何かの運命だと思いますから」

「運命か…」

確かにそうかもしれない。

しかし、それが良いものか、悪いものなのかは、まだ分からない。

「はい。では、私たちは下の階で休んでいます。何かあったら、下に来てください」

「分かった」

「あっ、あと…」

部屋を出る直前、何かを思い出したのか、ソーレが振り返る。

「隣はリウ君の部屋ですから」

「…そうか」

正直どうでもいい情報だった。

ソーレが出て行くと、イヴはほっと一息つき、静かにベッドへと腰を下ろした。

疲れる一日だった…。

しかし、こんな日は今日だけでは終わらないはずだ。
明日も明後日も、おそらくこの先ずっとこんな日が続くことだろう。

昨日までは抱きもしなかった不安と苦悩に苛まれる、そんな日々が。

どうすれば良いのだろう。

自らのぐちゃぐちゃになった信仰心と価値観、そして感情に尋ねる。

もちろん、その答えは知っている。

だが、選ぶ自信がない。

どちらを選んでも、何かを得る代わりに、大切な何かを失うことになる。

もう大切な何かを失うことは嫌だ。

かといって、選び取らなかったとしても、このままでいられるはずがない。

誰にとっても、平等で残酷な時間はどんどんと過ぎていくのだから。

時の流れを意識すると、カチカチ、という時計の音が耳に反響し始める。

途端に焦りと恐怖がこみ上げ、慌ててベッドへと潜り込み、体を可能な限り小さく丸めて、耳を両手で押さえた。

耳を押さえても、自身の高鳴った拍動が追いかけてくるが、時計の無機質な音よりはいくらか安心できる。

今はもう何も考えないようにしよう…。

下手に何か考えれば、フェンガリの時のようになりかねない。

自分自身の精神がこんなにも脆く、打たれ弱いことも恨めしかったが、今はただ、この疲れに身を任せ、眠りにつきたかった。
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