しらぬがまもの

夕奥真田

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歩く万能薬

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青空が変わらない。

昨日の泣きべその天気が嘘の様に、空には雲一つない。

それ故、酷くつまらないのだ。

「……あと、どれくらいだ?」

「まださっき答えてから三分も経っていませんよ…」

屋根すらない貧相な馬車の荷台に寝転がる、真っ白な髪の男が酷く気だるげに尋ねると、御者台に腰を下ろすビルゴが疲れた様子で答えた。

元々、少年らしさの残る童顔が特徴的なビルゴであるが、今はそんな特徴が失われたかの如く老けて見える。

それというのも、ほとんど整備されていないこんな田舎道を、こんな貧相な馬車に揺られ、既に数時間以上が経っているからだろう。

何故自分がこんなことをしなくてはいけないのだろう……。

やっとの思いで街を守る騎士になったというのに、実際に任されるものは雑用か、事務仕事ばかりで、子どもの頃に憧れた騎士像とは程遠いものであった。

今回の任務もきっとそうであるに違いない。

その理由は後ろの荷台で寝転がる男の存在だ。

彼の名は、アル・ハイル・ミッテル。

長い名前のためか、皆から専らアルと呼ばれている。

コハブの街で彼の事を知らない者は少ないだろう。

それは彼が人と魔物、両方を診ることができる医術士だからだ。

素晴らしい能力だと断言出来る。

現に彼によって、妻が救われたのだから、他の者が思う以上に、彼の能力を高く買っている。

しかし、それでも彼は医術士。

同じ騎士ではないのだ。

フェンガリの様子を見てこい。

それだけを騎士長から告げられ、詳しい任務の内容も伝えられず、馬車の準備をさせられていたところに、同じような内容の任務を受けたという彼がやって来たのだ。

仲間の騎士ではなく、民間の医術士を同行させる任務。

それだけで、この任務の重要性が何となく察せられた。

きっと、この任務も簡単なつまらないものなのだろう。

それなりに朝早くに出発したにも関わらず、フェンガリはなかなか見えてこず、左右には丘陵地帯、上には青空が広がるだけの変わらない景色に、二人は体だけでなく視覚さえも疲弊させていた。

「あと、どのく……」

「今度聞いたら、怒りますよ……」

腕で目を覆い、まるで眠るような体勢で、もう何度目になるかも分からぬ程してきた質問を繰り返そうとしたアルをビルゴは力無くも遮る。

「はぁ、冷たい男だな……」

「冷たくなんかありません…。貴方がしつこいんです……。はぁ、それにしても、どうして今フェンガリになんか行かなきゃならないんでしょう?」

「……」

質問とも、独り言の愚痴とも聞こえるビルゴの言葉が虚しく流れていく。

「フェンガリを片田舎なんて馬鹿にするつもりはありませんけど、それでもあんな所には何も無いと思うんですよ」

「……まぁ、な」

「それなのに、様子を見てこいなんて……。様子が知りたいなら、手紙を出すか、フェンガリにいる誰かに使いを出すように命令すれば良いのに……」

「……手紙を受け取る奴も、使いに出てくれる奴ももういないのさ」

「えっ?」

アルのぽつりと告げた言葉はビルゴの耳には届かなかった。

もう一度尋ねようとするも、今度は欠伸混じりの間の抜けた声でアルが遮った。

「何でもねぇよ。あんまり愚痴ばかり言ってると、ちくるぞ?お前の嫁さんに」

「…本当にやめてください」

「はははっ。お前の嫁さん、本当に怖いもんな?」

「べ、別に、こ、怖くなんか…」

あからさまに呂律が回らなくなるビルゴをアルはまた笑った。

むっとした表情を浮かんだが、こうして家族の事で笑えるのも彼のおかげだと思うと、文句を言う気にはなれなかった。

太陽が最も高く登った頃、見つけた小さな小川の辺りで、昼食を取るために馬車を降りた。

「ごめんね、長旅させて。ゆっくり休みな」

荷台と出来る限りの馬具を外した馬の背を撫で、持って来た餌を与え終えると、ビルゴもやっと腰を下ろした。

「ずいぶん、手厚い気遣いだな」

「そうですか?これくらいは普通だと思いますけど?」

「お前ならケンタウロスたちとも酒が飲めそうだ」

「もう何度か飲んだことありますよ?」

「……御見逸れした」

アルは苦笑いを浮かべ、肩を竦めると、再び小川での水切り遊びに興じ始めた。

その様子を見て、ビルゴは怪訝そうな表情を浮かべる。

「お昼はもう食べたんですか?」

「昼?そんなもんねぇ、よっと……!」

小さな小川ということもあり、アルが投げた小石は全て対岸へと到着している。

「どうしてお昼持って来なかったんですか……!?」

「こんなに時間がかかるなんて聞いてなかったんだよ……。まぁ、夜たらふく食えば良いさ」

「……それでも医術士ですか?」

「人の私生活に文句はつけるが、自分は特別だっ!」

再びアルの手を離れた小石が対岸へと渡る。

……呆れてものも言えない。

しかし、そうは言いつつも、アルの体型は決してだらしないものではない。

騎士や戦士程屈強なわけではないが、引き締まった体をしていると言える。

偏見、或いは多くの例を知らないからかもしれないが、他の医術士や薬の調合士たちはあまり健康的な体をしていない者たちが多い気がする。

そんなことも彼がコハブの街で有名な要因なのかもしれない。

容姿だけを見ると、あれで結婚していないというのだから、逆に驚きである。

はぁ、大きなため息を吐くと、ビルゴは荷台から布で包まれたある物を持ってアルの方へと歩いて行く。

「……仕方ないですから、僕のお弁当少し食べて良いですよ」

優しさ以外の気持ちを抜きに告げるが、アルはどこか冷めた様な目を向ける。

「……でも、お前の愛妻弁当だろ?」

「そ、そうですよ……!それが悪いですか!?」

「……開けてみ」

何が言いたいのかまるで分からず、アルに言われるままにビルゴは包みを開け、お弁当の蓋を開ける。

「うっ……」

敷き詰められたご飯の上には、具材によって文字が描かれていた。

“誰かにあげるの禁止”

隣でアルが深いため息を吐く。

「お前の嫁さん、ラミアだろ。そりゃあ、無理だ……」

確かに、ビルゴの妻は上半身は人間の女性の姿をしているが、蛇の下半身を持つ魔物、ラミアであった。

彼女は愛情深い共に、ひどく独占欲が強いことをビルゴは久々に思い出した。







「腹が減った……」

「……」

残りの距離を聞かなくなった代わりに、腹の虫の声を代弁する様になったアルに、ビルゴは頭を抱えつつも、昼の件で文句も言えず、ぼんやりと前だけを見つめていた。

すっかり日も傾き、緑色だったはずの丘陵地が薄茶色に染まり始めている。

道を間違えた、或いは同じ所をぐるぐると回っているだけなのではないかと不安になる程の時間を馬車の上で過ごしたのだ。

そろそろ目的地が見えなくては、本当にどうにかなりそうであった。

そんなビルゴの目に、微かながらに黒い何かが見え始める。

「あっ……!」
嬉しさのあまりつい声が出てしまった。

しかし、次第にその黒い何かが良く見えるようになっていくにつれ、心から嬉しさと興奮が削がれていき、逆に不安と恐怖が増幅していった。

「な、何ですか、これ……?」

目前に広がる黒く煤けた光景に、ビルゴは馬車を止めた。

そんなビルゴの不安の声には答えず、荷台から飛び降りたアルは凝り固まり、所々痛くなってしまった体を解しながら、真っ黒な残骸が左右に広がる道を進んで行く。

置いていかれることに不安を感じたビルゴも慌てて御者台から降り、その後を追う。

道に馬車を置いておくことや、馬を置き去りにしてしまうことに罪悪感も感じたが、この異様な光景に気圧された本能は、自身の身の安全を優先させた。

先に行ってしまったアルは真っ黒な残骸を一つ一つ、時に足を使ってそれらを退かしながら、入念に眺めていた。

「何でこんなことに……。一体、ここ何処ですか……?」

「何処って……。フェンガリじゃないか」

残骸の方を見つめつつ、さも当然のことの様に告げるアルとは違い、ビルゴは驚きの表情を浮かべる。

「フェンガリ!?そんな、まさか……!?」

あたりを見渡し、言葉を無くす。

実際にこれまでフェンガリに足を運んだことはないが、元々がこんな状態であるはずがないことは分かりきっている。

何故こんなことになっているのか。

誰がこんなことをしたのか。

何故出発前に何も告げられなかったのか。

そして、何故アルはこんなにも落ち着いているのか。
あらゆる疑問が不安と共に一気に湧いてきて、頭を混乱させる。

「……ろくなものが無いな。まぁいい、一応取っておくか」

焦り、混乱するビルゴとは対照的に、アルは落ち着き払い、腰に下げたポーチから一本の試験管を取り出す。

そして、残骸から飛び出た、煤けた何かから破片を集めていく。

「何ですか、それ……?」

試験管の底へと落ちていく破片を遠目に見ながら、ビルゴは恐る恐る尋ねる。

本当はもっと別のことを尋ねるべきなのだろうが、混乱した頭では状況を上手く整理できず、ただ思いついたことを口にする事しか出来なかった。

「これか?死体だろうな」

「し、死体……?」

アルが触れている黒く煤けた何かをよく観察する。
確かに、他の多くの残骸とは形と質感が違う様に見えるが、これが死体とは見えなかった。

煤けた何かをよく見ようと、上に覆い被さる残骸を退かす。

「ひっ……!?」

声にならない悲鳴が漏れる。

残骸の下にあったのは、真っ黒に煤けた何体もの死体と見える物だった。

残骸から飛び出ていたのは、その煤けた死体の腕だったのだ。

折り重なる様に積み上げられているものもあれば、不自然に四肢の見当たらない死体もあり、また、人間の死体もあれば、魔物の死体と思しきものもあった。

しかし、それら全てに言えることは、真っ黒に煤けているということだった。

慌てて残骸の山から離れる。

あれが本物の死体なのだと分かった途端に、お腹の中から胃液が込み上げてくる。

「おいおい、大地への餌付けなら見えない所でやってくれよ?」

「うっ、うえっ……」

吐きこそしなかったが、目からは微かに涙が滲み出てきた。

そんなビルゴの様子に呆れたのか、アルはため息を吐き、向かい側の瓦礫の山へと歩いて行ってしまった。

追いかけようかと思ったが、もう一度同じ様な光景を目にして、平静を保てる自信がなく、作業するアルの後ろ姿を見つめつつ、吐き気を抑え込むことに集中した。

周囲の色が残骸やその下で横たわる者たちと同じ、黒一色に変わってきた頃、お腹の虫を鳴らしながらアルが戻って来た。

「だいぶ落ち着いたか?」

「あまり……」

「ほら、これでも飲んどけ」

片膝をついたまま動けないビルゴに、アルはポーチから取り出した試験管を渡す。

試験管の中には一瞬飲むことを躊躇う色の液体が入っている。

しかし、ビルゴはそれを一気に呷り、顔を歪ませた。

「……相変わらず、ひどい味ですね」

「薬が美味いなら、それを主食にするさ」

アルの尤もな意見に反論する気力はなく、ビルゴはやっとの思いで立ち上がる。

「さて、さっさと帰りたいところだが、このままコハブに帰れば、到着するのはいつ頃だ?」

「……朝帰りは間違いないですね。でも、一晩中、あの子に馬車を引かせる訳にはいきませんよ」

馬といえど生き物だ。

馬車を引かせる為に飼育し、面倒を見ているからと言って、横暴な態度が許されるはずはない。

「まさか、野宿か……?」

「う~ん……。あっ……」

お腹を押さえ、げんなりした顔をするアルを指さす。

「そういえば、この近くに街があるはずです。名前は確か、ソレイユ、だったかな……?」

「飯が食えるなら何でもいい。さぁ、出発しようぜ」

よほど食事にありつきたいのか、アルは早足で馬車へ歩いて行く。

馬車へと到着すると、変わらずアルは荷台へと乗り込み、ビルゴは先ほど置いて行ってしまったことを馬に謝った後、御者台へと座った。

「あぁ、そうだ。その何とかって街に行く前に、一度このまま街を抜けてくれないか?」

「分かりました。でも、何故ですか?」

「あっちでちょっと面白い物が見つかったんでな」

ランタンに火を灯し、それをビルゴに手渡しながらアルは軽く笑う。

こんなことを言うと、ここで眠る者たちに失礼だが、あんな物を採集していたアルが言う面白い物とは、正直顔を合わせたくはなかった。

しかし、断る訳にもいかず、ビルゴは黙って馬車を進めた。

左右にはまだ微かに残骸が見えるも、目を細めて、出来る限り見ないよう努めた。

もうあんな光景は目にしたくない。

「ちょっと、待っててくれ」

街を抜けると、アルは荷台から飛び降り、近くに一本だけ生えた木の元へと歩いて行く。

そして、すぐに何かを抱えて戻って来た。

荷台へと放り込まれた、ガシャガシャと耳障りな音を立てる物を見て、ビルゴは訝しげな表情を浮かべる。

「これは、剣と盾、それに防具じゃないですか?こんな物どうするんですか?」

「どうするも何も証拠さ。持って帰って調べれば何か分かるだろ」

「……」

「さっ、もういいぜ、その街に向かってくれ。腹が減って死にそうなんだ」

「分かりました……」

馬車を方向転換させ、再び街を抜けて、ソレイユの街を目指す。

「……少し質問してもいいですか?」

カンテラの微かな光だけを頼りに、ソレイユへと向かう道すがら、ビルゴは尋ねる。

「ん?何だ?」

「……何を調べていたんですか?」

「住人の安否と、その死因。そして、襲撃者の痕跡」

「何か分かりましたか?」

「いくつかな。まず住人は全員死亡。死体の数を数えてきたが、数は一致した。あと、死因は半数近くが焼死、残りは殺された様な形跡があった」

「犯人の目星は?」

「全く分からん……って訳ではないが、確証が無いから何とも言えん」

ひどく深刻な事態であるにも関わらず、アルは軽く肩を竦ませる。

しかし、質問はまだ終わってはいない。

「……貴方はフェンガリのこの状況を知っていたんですか?」

「一応な。まさかここまでひどいとは思わなかったが」

淀みなく答えるアルに、ビルゴは棘のある口調で続けた。

「……僕は知りませんでした。一体誰に聞いたんですか?騎士である僕が知らないことを、どうして騎士でもない、一般人の貴方が知っているんですか……!」

「聞いただけさ、お前の上司にな」

「僕だって聞きましたよ……!でも、何も教えてくれなかった……」

「知らなかったんだろう、そいつも」

「なら、尚更貴方は誰に聞いたんですか……!?」

「……」

荷台を振り返り、怒声にも近い困惑の声を上げる。
しかし、アルはもう何も答えず、荷台に寝転がり、ただじっと、星空を眺めていた。

彼に不満をぶつけても仕方がないことは分かっている。

しかし、今の自分の扱いはまるで捨て駒の様な感じがして気に入らない。

もちろん、英雄になりたい訳ではない。

……嘘だ。

少しなりたい気持ちもある。

それ故、こんな噛ませ犬の様な役は嫌だった。

確かに、まだ自分の騎士としての経験は浅く、階級だって一番下だ。

また、先輩たちに本当の意味で可愛がられているとは言えない。

だが、だからと言って、何も教えないというのは酷いではないか。

もしフェンガリをこんな状況にした者たちが残っていたら、彼を守らなくてはならないし、フェンガリの住人が生きたままあの瓦礫の山に埋もれていたら、二人だけでは救出出来なかったかもしれない。

意地悪や悪ふざけで教えなかったのだとしたら、すぐにでもあの騎士長には騎士をやめてもらう必要がある。

しかし、彼が言うように、本当に知らなかったのだとしたら……?

それはそれで別の問題が生じてくる。

騎士長が知らないことを、どうして彼が知っているのかということだ。

確か、朝彼は、同じような任務を受けたから乗せて行ってくれと頼んで来たのだ。

彼が受けた任務とは、おそらく先ほどの三つの事柄についての調査だろう。

住人の安否確認と、死因を調べることについてなら確かに彼が適任だ。

しかし、彼が選ばれた理由から察するに、彼に任務を与えた者は、今のフェンガリの状況を知っていることにならないだろうか。

騎士ですら知らない情報を得て、なおかつ、騎士長、そして一般市民にも指示を与えられる権限のある者。
…一人だけ該当する人物がいる。

だが、どうしても腑に落ちないことがある。

何故、彼が領主と繋がっているのだろうか……?







ソレイユに近づいても、それが街であると気づくのに暫く時間がかかった。

それというのも、街にしてはひどく灯りが少なく、まるで闇に紛れ、何かから身を潜めているかの様であったからだ。

数少ない灯りの近くに馬車を止め、そっと建物の中の様子を探る。

どうやら誰かしらはいるらしい。

足音が聞こえると妙に落ち着く。

ビルゴは馬車を通り道の邪魔にならない様、店の側へと寄せ、御者台から降りた。

「着きましたよ?」

「ようやくか……。さぁて、たらふく食うぞ!」

先ほどのことをあまり気にはしていないのか、アルは変わらぬ明るい声で告げ、店の扉を開ける。

チリンチリンと、扉上のベルがアルたちの入店を伝えた。

「い、いらっしゃいませ……」

二人の元へとすぐさま駆けつけて来たのは、短い黒髪の可愛らしい服を着込んだ女性だった。

客が来た瞬間駆けつけるその瞬発力と俊敏さは素晴らしいものであったが、その応対自体はひどくぎこちない。

実際、出迎えのあいさつ後の言葉が続かない。

「……好きな所に座っても?」

「え、ええっと……」

お腹の虫を鳴らすアルが尋ねるも、女性は困った様に振り返る。

すると、奥の方でにこにこと微笑む、髪を後ろで丸く纏めた茶髪の女性がやって来た。

「どうぞ、お好きな所に座ってください。たぶん、今日はもうお客様も来ないでしょうから」

「それは一体どう……」

「そいつはありがたい。なら、一番奥の席にさせてもらおう。あの階段近くの」

客が来ない理由を尋ねようとするビルゴを遮るかの如く、アルは言葉を被せ、店の奥の方へと入っていく。
仕方なくそのあとを追う。

二人が席に着くと、カウンターからブラックドッグがメニュー表と水を持って来てくれた。

「決まったら、声をかけてくれ」

「どうも。それにしても、あまり客がいないみたいだが、何かあったのか?」

「あぁ、まぁ……。近くで少々物騒なことがあったからな……」

「なるほど、それでか……。時にマスター、その物騒なことってのは、フェンガリのことかい?」

目に見えてブラックドッグの表情が険しくなる。

「……失礼だが、貴方方は?」

「なに、ちょいとコハブからやって来た者でね。詳しい話を聞いても?」

「コハブから……。ということは、貴方方が調査隊?」

「二人で隊って言うのも、何だか仰々しいがな」

肩を竦めるアルと、黙って頷くビルゴの顔を交互に見つめてから、ブラックドッグは声を潜めて話し始める。

「詳しい話と言われても、ほとんど我々も何も分かってはいない。昨日、とある魔物がフェンガリの状況を伝えてくれ、それを二人の者たちが確かめに行ってくれたに過ぎない」

「……ということは、ほとんどの方が知らない?」

ビルゴが尋ねるとブラックドッグは首を横に振った。

「いや、この街の者たち全員にはフェンガリのことを教えた上で、出来るだけ出歩くことを控えてもらっている」

「なるほど、そういうことか……」

先ほど茶髪の女性が言っていた、もうお客は来ないというのはそういう意味だったのか。

一人納得するビルゴをよそにアルとブラックドッグは話を続ける。

「確認しに行ってくれた者たちの話では、フェンガリの全てが焼かれていたということだったが、貴方方から見てその犯人や原因などは特定出来たのだろうか?」

「お生憎様だ。だが、焼けた死体の中には、既に致命傷らしい傷がある者たちもいた。てことは、生きた者も殺した者も、結局は全員を家に放り込んで、家ごと燃やしたってことだろうな」

女性二人には聞こえぬ様小さな声でアルが告げると、ブラックドッグは躊躇いながらも静かに尋ねる。

「……やはり、犯人はレイダット・アダマーだろうか?」

その名は当然聞いたことがある。

シエルの人々を、勇者への信仰心を無くした連中と貶し、強硬に魔物との共存に反対する集団の名だ。

自身から言わせれば、勇者などという古臭い御伽噺を未だに信じ、現実に現れた魔物たちを直視しようとしない、所詮は愚か者たちの集まりであるが、噂では最近になってその勢力を伸ばし、シエルの国境近くに砦の様なものを築いているという。

確かにフェンガリは国境から最も近い街だ。

噂を信じるならば、今回のフェンガリの一件も、彼らによる犯行だというのは考えられる。

……むしろ、それ以外に考えられない。

「そうですよ……!きっと、そうに違いありません!あの連中なら何だって……」

「何だ?お前、騎士になる前はあっちで働いてたのか?」

アルの口調はいつも変わらぬ軽いものではあるが、その嫌味な質問にビルゴは顔をしかめる。

「どういう意味ですか……?」

「別に深い意味はないさ。連中の考えが分かるなんて、昔はあっちで働いてたのかなって思っただけさ」

「誰にだって連中の考えなんか分かりきっているでしょう……!連中は魔物とシエルの人々を根絶やしにするつもりなんですよ!」

「プロパガンダだろ」

「ふざけないでください!」

拳を叩きつけた拍子に置かれたコップの一つが机から落ちる。

アルはそれをキャッチするが、中に入っていた水は溢れ、床を濡らした。

店内の空気が一気に重くなる。

しかし、ビルゴは謝ろうとはしない。

そんなビルゴにアルは深いため息を吐きつつも、敢えて咎めるようなことはなかった

「はぁ、申し訳ないが、何か拭くものを貸してくれないか?床を拭きたい、ついでに手も」

濡れた手をひらひらとさせ、女性二人に合図する。
すると、茶髪の女性がすぐに雑巾を持って駆け寄って来た。

「悪いね、濡らしちまって」

「あっ……」

濡れた床を拭こうとする女性の手から雑巾を奪うと、アルは何食わぬ顔で床に溢れた水を拭き取っていく。

「よっし、こんなもんでいいかな?」

床に水滴が落ちていないことを入念に確認した後、最後に濡れた手を自分の服に擦りつけながらアルは尋ねる。

「す、すみません…!お客様にやらせてしまって……!」

「お気になさらず、可愛いメイドさん。あ~、でも、やっぱり手が洗いたいな。どこか借りても?」

「は、はい。こちらです」

茶髪の女性はカウンターにある流し台へとアルを連れて行く。

テーブルからカウンターまでは、ほんの少し距離しかないが、アルはその間も女性に何かを話しかけているらしく、二人の間の空気は明るくなっている。

しかし、取り残された者たちの空気は依然として重いものが張り詰めていた。

「先ほどの話だが……」

重くなった空気の中で、床に置かれたままの雑巾を拾い上げながら、黒い髪の女性が口を開いた。

「私も、プロパガンダではないと思う……。彼らはきっと、本当に魔物やシエルを滅ぼしたいと願っているはずだ……」

「……何故、貴女もそう思うのですか?」

同じ意見であることに一瞬親近感を覚えたが、黒い髪の女性の目に、同じ憤怒の色がないことに気がつくと、ビルコは少し冷めた様に尋ねる。

「私は昨日までシエルとは違う国で暮らしていた。訳あってこの国へと来たが、正直、とても困惑した。今でもしている……」

「……何故ですか?」

「あまりに違かったんだ……。今まで教えられてきた魔物やシエルの人々と、ここで暮らす者たちが……」

「……」

「教えられてきた魔物やシエルの人々とは、とても恐ろしく、受け入れ難いものだった。だが、実際に触れ合い、話してみると、我々シエル以外の国の者たちと全く変わらない…いや、あまり変わらないのではないかと、思うようになってきたんだ……。だから……」

「……だから、何だって言うんです?今更まだお互いのことをよく知り合うべきだとでも!?」

少し収まりかけていた怒りが、またふつふつと熱を取り戻してきたのか、ビルゴの口調が荒くなっていく。
そんなビルゴに触発されたのか、黒髪の女性の表情にも検が現れ始めた。

「互いのことを知れば溝が埋まる可能性もある……!」

「対話なら充分にやっています!でも、貴女たちの国は全く聞く耳を持たなかった!今でもそうだ!」

「そんなことはない!むしろ、聞く耳を持たなかったのはそちらの方だ!魔物たちと手を切れば、これまで通りの関係に戻れると、我々はシエルをずっと説得してきた!」

「魔物たちと手を切る!?それが傲慢だ!お前たちはそうやっていつも小国のシエルを馬鹿にしてきた!何がこれまでの関係だ!搾取されたことのない大国風情が!」

「貴様……!」

黒髪の女性は右手を振り上げる。

無論、その軌道を容易に予測出来たビルゴはすぐに防御体勢を取り、自身の反撃の手を考えていた。

しかし、女性の拳がビルゴに届くこともなければ、ビルゴの反撃が飛ぶこともなかった。

飛んでいたのはむしろ、ビルゴ自身だった。

「ぐっ……!?」

気がつくと背中を階段へと打ち付けられていた。

何が起こったのが分からず、ただずるずると体が階段から滑り落ちていく。

立つことすら難しい程の痛みに、ビルゴは床にへたり込み、顔だけを上げる。

目の前には、拳を突き出したまま呆然とした表情で、いつのまにか椅子へと座る黒髪の女性と、その拳を包み込む様に両手で掴むアルが立っていた。

「怪我はないかい、可愛いメイドさん?」

「えっ、あっ、あぁ……」

彼女も何が起こったのかよく分からないらしく、たどたどしい返事をする。

「君の手に傷が出来てしまったらと思うと勿体無くてね」

「……」

「体は大事にしてくれ?なぁ、ビルゴ?」

優しく女性の手を叩くと、アルは立ち上がれないビルゴの元へと近寄る。

「貴方がやったんですか……?」

「あぁ、馬鹿にはこれが一番の薬なんでね」

にこやかに差し伸べられるアルの手をビルゴは渋々掴み、立ち上がる。

ビルゴがなんとか立ち上がると、アルはブラックドッグの方へと顔を向ける。

「マスター、悪いんだが、飯の時間をずらしても良いかい?」

「そ、それは別に構わないが……。何故だ?」

「風呂にでも入って気晴らしをしたくてね。……待てよ、ここって浴場はある?」

「あっ、それなら私が案内します……!」

カウンターの流し台に立っていた茶髪の女性が出入り口へと先回りする。

「礼を言うぜ。それで、マスターもう一個頼みがあるんだが、良いかい?」

「何だ?」

「マスターのおすすめでも何でも良いから、何かたくさんの料理を作っておいてくれないか?全く、俺のこいつも腹が立ってきてるんでね」

そう言って、アルがお腹を叩くと、そうだと言わんばかりに腹の虫が盛大に鳴いた。

「な、なるほど……。分かった、戻って来るのを見計らって何品か作っておこう。それでも足りなければ、その時に注文してくれ」

「さんきゅ。じゃあ、金はここに置いておくぜ」

ポーチの中から、じゃらじゃらと硬貨の入った袋を取り出し、それをテーブルへと置くと、アルはビルゴを引っ張る様にして、茶髪の女性と共に外へと出る。

外は店へと入った時以上に真っ暗となっており、灯り無しではまともに歩けそうにはなかった。

女性は出入り口へ近くに設置された燭台の中から、小さめの燭台を手に取って歩き出す。

「先ほどはすみませんでした……。危うくお客様に暴力を振るってしまうところでした」

「お気になさらず。元はと言えば、こっちが始めたことだ」

「それでも、私たちも謝らなくてはいけません。本当にごめんなさい……」

深々と頭を下げる女性の姿を見て、今更ながらにビルゴは、自分が愚かなことをしてしまったことを自覚させられた。

だが、謝る気は毛頭無い。

シエル出身ではないあの女性との一悶着。

それを引き起こしてしまい、店に迷惑をかけたことに対しては、負い目を感じている。

しかし、自分自身の主張が間違っているとは思っていない。

シエルと魔王はこの世界を、人と魔物が手を取り合って暮らす世界にすることを目指している。

だが、他国の連中は魔物たちの拡散に反対し、人間界で唯一魔物たちの基盤となっているこのシエルからも追い出そうとしている。

その理由はひどく単純だ。

シエルから魔物という強大な力を削ぎ、魔物たちがやって来る前の力関係へと立ち返らせ、再びシエルを隷属化させるためだ。

しかし、そんな大国の傲慢を許すわけにはいかない。

確かに、魔物の力を得た時、シエルは隣国テールやデゼールなどの領土を襲った。 

だが、それは元々シエルの領土だったものだ。

奪ったのではなく、取り返したものなのだ。

にも関わらず、他国の連中はまだそのことを引き合いに出して、シエルと魔物たちを責め立てている。

冗談ではない……!

事実を自分たちの都合の良いように解釈する大国も、そこに住む連中も許せはしなかった。

「……謝らない男はモテないぞ?」

女性が頭を下げるにも関わらず、なかなか自らの非を認めようとはしないビルゴに、アルは呆れる。

「……別に、もうモテなくても良いです」

「はぁ、愛妻家で結構だ。メイドさん、浴場がどのあたりにあるかを教えてくれ。後は…まぁ、何とか探すさ」

「……分かりました。この道を真っ直ぐ行けば、右手に見えるはずです。明かりが灯っていると思うのでそれを目印にしてください」

「どうも」

とぼとぼと力無く店へと戻って行く女性の後ろ姿に小さく手を振り、アルたちは真っ暗な道を進んで行く。

言われた通りに進んで行くと、確かに右手に明かりの灯った建物が見えてきた。

周囲にそれ以外の明かりがなく、灯っている明かりも微かなため、建物の全体像ははっきりとは分からないが、浴場の文字が描かれた扉の大きさを見るに、それなりの大きさだろう。

酒場に財布ごと置いてきてしまったアルの代わりに、番台へと二人分の料金を支払ったビルゴはさっさと脱衣所へと入って行く。

脱衣所には誰もおらず、籠にも衣服が入っていないため、おそらくは浴場も酒場同様に客がいないことが伺えた。

衣服を脱ぎ、貸し出されたタオルを持って浴室へと向かう。

「おぉ、貸切風呂だな……!」

「そうですね……」

感嘆の声を上げるアルとは裏腹に、ビルゴは素っ気ない返事を返して、一人浴槽の隅へと座る。

桶へと湯を汲む前に、浴槽へと手を入れる。

かなり熱い。

夜の闇に体温を奪われたのか、湯はひどく熱く感じられる。

無論、そんな湯を頭から被る勇気はなく、体を温め、湯に体を慣らす目的も兼ねて、先に手足などを洗うことに決めた。

客がいようといまいと、いつもと変わらず、はしゃぐこともなく風呂をそれなりに楽しむビルゴは真面目である。

しかし、彼は違った。

「あ~らよっと!」

浴室では不似合いな掛け声を耳にし、振り向こうとしたビルゴの背や後頭部を強烈な熱が襲いかかった。

「熱っ!?」

瀕死の虫の様にひっくり返り、急いで背中の熱を床へと逃す。

何をされたのかは、すぐに察しがついた。

大量の湯をぶつけられたのだ。

犯人など見当をつける必要もない。

例え今ここに他の客が大勢いたとしても、こんな馬鹿なことをやる馬鹿は一人しかいない。

「結構熱そうだな?なら、もう少し水を足すかな」

人に体感は熱湯にも等しい湯をぶつけておきながら、何食わぬ顔で水風呂の方へと歩いて行くアルの、その髪と負けぬほど白い後ろ姿が見える。

大方は湯の温度を測りたかったのだろうが、あまりにやり方が杜撰かつ、非人道的であることに怒りを覚えたビルゴは、何とか熱の痛みを堪えて立ち上がり、アルへと突進する。

目の前の水風呂へと突き落としてやろうと思ったからだ。

しかし、熱い湯をぶつけられた数分後、冷たい水風呂へと沈められていたのはビルゴだった。

「ふぅ~。だいぶ良い温度になったな?」

「……」

何度も水風呂と行き来した甲斐があり、浴槽の湯の温度は確かにちょうど良いものとなった。

しかし、この気持ち良さをこの男と共有したいとは全く思わない。

「あんまり怒るなよ。俺にも、そして、あのメイドさんにもな」

「別に彼女に怒っていた訳では……」

「分かってるよ。だが、誰だってあんな態度を取られりゃ、怒りたくもなるさ」

「…僕にだって怒りの感情はあります。それとも、僕は怒ってはいけないとでも?」

「……そうだ、と言ったら聞き入れてくれるか?」

「……いいえ」

「なら言わねぇよ。無駄だからな」

そう言うと、アルは欠伸をしながら、大きく伸びをした。

彼はいつもこんな感じだ。

自分の考えを告げることはあっても、それを強く押しつけたりすることはないし、他人の考えを否定することもない。

彼の優しさと呼んでも良いことだろう。

しかし、その優しさが時に不気味でもあった。

敢えて他人と対立することもなければ、進んで味方を作ろうともしない。

誰かと共にいることが人間らしいという訳ではないが、誰とも深く繋がろうとしない彼に、人間らしさを感じられない時がある。

今もそうだった。







浴場で汗や汚れを流すと、少し心が軽くなり、先ほどまでの怒りはまた眠りについた様だった。

涼しげな夜風に当たりながら、酒場へと戻ると、先ほど座っていたテーブルに大量の料理が並んでいた。

アルは飛び上がらんばかりに喜び、テーブルへと着くと同時に挨拶を済ませ、ガツガツと食べ始める。

その何ともみっともない食べ方を注意しようかとも思ったが、アルのその食べっぷりを見る茶髪の女性の嬉しそうな顔を見ると、そんな気は失せてしまった。

「やっぱり店の料理は美味いな……。家の貧相な飯とは違う」

「ふふっ、そんなこと言ってると、奥様に怒られてしまいますよ?」

「……怒ってくれる奴もいないからな」

「えっ、それって……」

「えぇ、そうです……」

女性は悲しげな表情を浮かべ、手で口元を押さえる。

……何を勘違いしたのだろう。

「怒ってくれるも何も、貴方結婚してないでしょ?」

「……」

「嘘ついて一体何になるんですか、全く……」

「……嘘なんか言ってないさ。貧相な飯も、怒る奴がいないのも。だから、こうして可愛いらしいメイドさんを口説いているんだろ?」

「はぁ……」

怒りを既に通り越し、呆れてしまっているが故に、注意する気さえも無くしてしまう。

「えっと、じゃあさっきの話は……?」

「嘘は言ってないにしても、貴女が考えた様なことではありません。どうか気にしないでください」

「そ、そうですか…てん。でも、もしお話が本当だったとしても、お客様のお嫁には行けません。だって……」

茶髪の女性はカウンターの方を向く。

アルとビルゴもつられてそちらを見やる。

カウンターではブラックドッグと黒髪の女性が未だ何か作業をしているのが見える。

しかし、それとは別に、カウンターの方から料理を乗せたお皿を持って、こちらへと近づいてくる小さな子どもの姿が目に入った。

「どーぞ」

テーブルまでやって来たその子は、料理を高く掲げる様にして差し出す。

「ありがとう。お手伝いしてるんだね、偉いね」

料理を受け取り、優しくその小さな頭を撫でるが、その子はビルゴの方ではなく、人妻を口説くことに失敗し、残念そうに項垂れるアルの方をじっと見つめていた。

「えっと、何かな……?」

不思議に思ったビルゴが尋ねるが、その子は一瞥もくれることなく、アルの方を見つめ続ける。

「……何だ?ママを口説くのは諦めたから安心しろよ」

視線に気がついたのか、アルも同様にその子の頭を撫でようと、手を伸ばす。

すると、その子はアルの手を掴み、おもむろに鼻を近づけた。

「やっぱり~!」

そして、数秒匂いを嗅ぐと、ぱっと明るい顔になり、アルの膝へと飛び乗った。

「こ、こら、ソル……!?」

慌てて女性がその子を引き離そうとするが、アルはそんな女性の手を握った。

「やっぱり、口説かせてください。俺、この子のパパになりたいです」

「何言ってんだ、お前」

敬語など忘れて、つい本音が出でしまうほど、ビルゴは嫌悪感を露わにする。

しかし、アルはそんなビルゴを気にすることなく、抱きつくその子を抱きしめ返した。

「この可愛さが分からないのか?可哀想な奴め。こんなに可愛いのに」

「んん~、りう~」

抱きしめられるのが嬉しいのか、その子もぱたぱたと黒色の尻尾を左右に振る。

そんな子どもの様子を見て、ビルゴはふと不安に思うことがあった。

この子に、自身の娘とは対照的な人懐っこさがあったからだ。

「……失礼ですが、この子は誰に対してもこんなに人懐っこいのですか?」

「いいえ、きっとお客様がこちらで泊まっている子に似ているからだと思います」

「似ている……」

自身の娘が特別人見知りではないことに安心したビルゴは改めてアルの姿を確認する。

一際は目を惹くその白髪が特徴的であるが、それ故に他の特徴を探すのに苦労してしまう。

そんな彼に似ていると言われると、やはりその宿泊している者も白髪なのだろうか。

一度見てみたいとは思いつつも、特段気にすることでもなかったために、ビルゴがそれ以上質問することはなかった。

「腹は満たされたか?」

黒髪の女性と共に食後の飲み物を持ってきたブラックドッグが少し疲れた様子で尋ねる。

それもそのはずで、ビルゴとアルの前には山の様に積み上げられた皿がそびえ立っていた。

それだけの料理を一気に作ったのだから、当然疲れもするはずだ。

これで他の客がいたら、食材が間に合ったのか分からない。

「あぁ、だいぶな」

未だ子どもを膝に抱えたまま答えるアルにブラックドッグは苦笑する。

これだけ食べておいてだいぶとは、一体どんな胃袋をしているのだろうか。

この男ならば例え相手が魔物であっても、大食い対決であれば勝ってしまうかもしれない。

そんなことを考えていると、食欲が満たされたおかげか、自然とビルゴの口から欠伸がもれる。

「ふあっ……」

「ふぁぁっ……」

欠伸が移ったらしく、アルに抱えられていた子どもも大きな欠伸をもらし、眠そうに目を擦る。

「良い子は寝る時間だな。ほら、ママと一緒に良い夢見て来いよ」

膨れたお腹を枕代わりに眠りそうになる子どもを抱き上げ、茶髪の女性へと手渡す。

茶髪の女性は小さく礼を言い、カウンター横の部屋へと入って行った。

「さて、純粋なお子様も消えたし、ここからは年齢制限無しの話でもしようか?」

相変わらず軽い口調ではあるが、自らこんなことを言い出すあたり、ブラックドッグたちに伝えることがあるのだろう。

「……先ほどの続きだが、貴方から見て、フェンガリの一件にレイダット・アダマーは関与と思うだろうか?」

敢えてブラックドッグがアルのみを指差したのは、先ほどのことを考慮してだろうが、何となく遣る瀬無い気持ちになる。

「そう考えたいね。だが、もし違ったらそれはそれで厄介だな」

「どういう意味だ?」

「レイダット・アダマーならある程度納得も出来るが、それ以外なら見当もつかない。それに……」

一度そこで言葉を切ると、アルは手を握りしめて見せた。

「犯人が何処のどいつだろうと、魔物を殺せる奴がいることに変わりはない」

「……」

ブラックドッグが一人息を飲むのが分かった。

神話になる程昔がどうであったか、詳しく知る術もあまりないが、勇者の伝説が残っているところを見ると、今も昔も、一般的な人間に強靭な魔物を殺す力はないのだと考えられる。

それほど魔物たちの力は圧倒的なのだ。

しかし、フェンガリが潰された今、魔物たちを殺すことが出来る者が存在するのは確かだ。

それは一体何者なのだろう。

伝説や神話の中の勇者が現れたとでも言うのだろうか。

それとも……。

「……つまり、調査をしても分かったことはそれだけということか?」

自身の命に危険が迫っていることに不安や焦り、憤りを感じたのか、ブラックドッグの言葉に棘が混じり始める。

「そんなことは……」

「そんなこともない。面白い物が見つかった。だが、それをあんたたちに見せたいとは思わないね」

言い返そうとしたビルゴを制し、アルは挑発する様に告げる。

「……何故だ?」

「確かに人じゃ魔物を殺すのは難しい。でも、同じ魔物ならどうだ?」

「なっ……!?」

アルを除くその場にいた全員が驚きの表情を浮かべる。

それだけ、考えつきもしないことだった。

「そ、そんな馬鹿な!同じ魔物を殺すなど!?」

「でも出来るだろ?」

「そ、それは……」

言い淀むブラックドッグの様子から察せられる。

殺せるのだ、魔物は魔物を。

困惑する者たちを見て、アルは一人笑う。

「まぁ、ヤッたヤらない、事実は別にしても、疑う余地がある、俺が言いたいのはそれだけさ。あんまり外ばっかり見てると、足すくわれるぜ?」

誰に対しての忠告なのか分からないが、ビルゴの胸にもアルの言葉は突き刺さった。

「さて、俺から伝えることはこれだけだ。他に何かある?」

「……」

アル以外の者たちは顔を見合わせるだけで、誰も口を開こうとはしなかった。

それに納得したのか、アルは立ち上がり、二階を指差す。

「なら、もう休もうぜ?ここ宿屋もやってるんだろ?」

「あぁ……分かった、少し待ってくれ。カウンターから帳簿を持ってくる、そこに名前を書いてくれ」

黒髪の女性共にブラックドッグは力無い足取りでカウンターへと歩いて行く。

そんな彼らの暗い後ろ姿を見つめながら、ビルゴは尋ねる。

「本気ですか……?」

「何が?」

「その、魔物がフェンガリを襲ったかもしれないという仮説……」

「根拠もないでたらめに決まってるだろ」

あっけらかんと答えるアルに、ビルゴは一瞬呆気に取られながらも、すぐに怒りを滲ませた。

「なら、何故そんなことを……!」

「何となくさ」

「何となくって……!そんな理由で人を不安にさせて良い訳ないじゃないですか!」

「じゃあ、犯人はレイダット・アダマーの連中に決めつけて、憎しみを煽るか?」

「……」

無論、そんなことをしたのでは、それこそ奴らと変わらない。

しかし、だからといって、無闇に不安を掻き立てる様なアルのやり方には納得し難かった。

「……少なくとも僕は、まだその方がましだと思います」

「そうかい。お前がそれで良いなら、それで良いさ。好きにやれよ」

また彼特有の話術で放り投げられたビルゴはそれ以上何かを言い返そうとはしなかった。

そんなことは無意味なのだと知っているからだ。

席を立ち、何食わぬ顔でカウンターへと歩いて行くアルの後ろ姿を見つめながら、ビルゴは静かに唇を噛んだ。







ベッドへと腰を下ろしても、心は何となく落ち着かなかった。

フェンガリの事や、その後のアルなどとのやり取りに何となく未だ苛立っている事もあるが、一番はやはり自身の置かれた状況がいまいち理解出来ないせいだろう。

何も知らされず、ただの操り人形の如く利用されるのが不快だった。

その癖、一般人のはずの同行者がある程度事情を知っているとなれば、その劣等感や遣る瀬無さはより強くなる。

あれだけ叫んでおきながら、心中ではフェンガリの事などさして興味のある事ではなかった。

彼が何を言おうとも、犯人はレイダット・アダマーの連中に決まっている。

そして、今どんなに奴らが抵抗したとしても、いずれ駆逐されるのだ。

今回の一件はその日を早めたに過ぎない。

問題はむしろ、この件をひた隠しにしようとする領主やそれよりも上の者たちの姿勢だ。

一般人に伝えないというのならまだ理解できるが、直属の騎士にさえ伝えず、特定の者には伝えるその意図が分からない。

調べる必要がある。

単純な好奇心からではない。

他国から冷遇され、苦しい時を生きてきたシエルの人々にとって、権力を持つ者ほど信用出来ないものもない。

それが今怪しい動きをしているのならば、それを暴くのは自明のことだ。

だが、どうやって……?

聞き出し易さを考慮するならば、この任務を直接言い渡して来た騎士長であるが、ソレイユに向かう道すがらでのアルの言葉を思い出すと、確かに彼が全てを知っているとは断言し辛い。

では、その騎士長に命令を与えたであろう、領主に尋ねるべきだろうか。

しかし、あの領主のことだ、アルにさえ言いくるめられてしまう自分など、いとも容易くはぐらかされてしまうはずだ。

ならば、他者を当てにすることは出来ない。

己の力で調べなくては。

フェンガリのことを隠したがるその真意、そして、医術師アル・ハイル・ミッテルの正体を。







決意を胸に眠りについたからか、ビルゴの眠りはひどく浅いものであった。

太陽が顔を出す少し前、幻想的な薄明かりに染まった街に一人佇んでいると、酒場の扉が開いた。

「あっ、おはようございます」

酒場から出てきたのは、真っ白な髪のアルだった。

アルはぎろりとビルゴの方に目だけを向けるが、挨拶の様なものは一切返さず、何処かへと歩いて行く。

もうコハブへと帰るのだと思っていたビルゴは、そんなアルの肩に手を乗せ、慌てて引き止める。

「ちょ、ちょっと、何処行くんですか?馬車はこっち……」

肩に乗せた手を乱暴に振り払われた瞬間、すぐ目の前に手の甲が迫ってきていた。

「…ぶっ!?」

避けることも、防ぐことも出来ず、顔面へと強烈な裏拳を食らったビルゴは真後ろへと吹き飛ぶ。

腰から下げた剣を抜く余裕など無いほど、顔面の痛みがひどく、倒れたまま顔を押さえる以外は何も出来そうになかった。

そんな痛みに悶えるビルゴに、侮蔑する様な表情を浮かべたまま鼻を鳴らすと、アルはそのまま歩き去って行った。

「……で、それが俺だと?」

内出血を起こしている箇所に薬を塗り込むアルが呆れた様子で尋ねる。

「……じゃあ、僕を殴ったのは貴方のそっくりさんだとでも?」

「……案外そんな奴もいるかもな。六、七人くらい」

「……どうしても認めないと?」

「認めると俺が完全に頭のおかしい奴だ。そうだろ?人のこと傷つけて、それを治療するなんて……」

それはそうかもしれないが、ビルゴはアルの言葉をそのまま信じる気にはならなかった。

それは昨夜の決意故だろう。

「……まぁ、傷薬もいただいてるので、もう文句をつけるわけいきませんが、二重人格の気があるなら、外には出ない方が良いと思いますよ」

「二重人格なのはお前の嫁さんだろ。……そういえば、目の具合は何か言ってたか?」

「調子が良いとは言ってましたが、家ではあまり目のことは触れない様にしていますから、僕には何とも言えません」

「そうかい……。まぁ、何かあったらすぐに言えよ。直せはするだろうが、なくなったら作ってはやれないからな」

「……はい」

薬の塗り終えたビルゴの額を強く押し、アルは荷台へと移る。

それからは会話という会話もなく、二人は登り始めた朝日に照らされながら、コハブへの道を馬車に揺られて行った。

半日も時間がかかることに懲り、早朝に出発したおかげで、コハブへと到着したのは、空に登る太陽が傾く少し前の昼過ぎであった。

「このまま館へ戻りますか?」

「その前に鍛冶屋に寄ろう。こいつらの鑑定をしてもらわないとな」

アルは荷台の片隅にまとめられた剣や盾などを叩く。

フェンガリの街を出たすぐの所で見つけた物であり、素人目には何の変哲もない装備にしか見えないが、確かに職人ならば何か分かるかもしれない。

領主の館へと進めていた馬車を、近くの鍛冶屋へと向きを変える。

ここからならば一番近いのはあのドワーフの鍛冶屋だろう。

人通りの少ない路地をゆっくりと進んで行くと、次第に鉄を打つ音が耳に届き始めた。

「お~い、親父!いるか~!」

店台とその奥に敷かれたござの上に、雑多に商品が置かれた、店というにはあまりな佇まいに、主人の商売人としての心構えを疑いたくもなるが、アルは気にせず店台を叩く。

「なんじゃい、お前かい……」

少し遅れて、やっと奥から出てきた、真っ白な白髭を蓄え、所々焦げたらしい跡のある服や手袋を身につけた小さな老人は、読心術など無くとも分かる程、露骨に嫌な顔を二人へと向ける。

人間の老人を小さくした見た目ではあるが、彼もまたドワーフという魔物だ。

「仕事の邪魔じゃ、さっさと帰れ」

「世間話がいらないのは助かるな。あんたみたいな患者はよくくだらない話をしたがるからな。こいつらについて教えてくれ」

「む……」

店台に乗っていた物を腕で退かし、馬車の荷台から持ってきた例の装備を並べる。

ドワーフはそれらを手に取り、訝しげな目つきで見つめる。

「……なんじゃ、これは?」

「何って、剣と盾と防具、あんたの専門分野だろ?」
「それくらい分かっとるわい、阿保が。儂が聞いとるのは、だから何だということじゃ」

「それを見て分かることを教えてくれよ。質とか、痛み具合とか」

鑑定を頼んでいるのであって、商品を買う客というわけでもないのに、何様かアルは店台へと腰掛ける。

同行者としても気持ちの良いものではない。

しかし、主人のドワーフはあまりそういうことに気を咎めないのか、注意することもなかった。

あるいは、アルの態度に慣れているのかもしれない。

「質……。ふぅむ……悪くはない、いや、かなり良いものじゃろうな」

「どれが?」

「全部じゃ。軽い上にかなり丈夫に出来とる。これだけの物を作るなら、熟練の職人はもちろん、良質な材料に、鍛冶場が必要じゃろうな」

「質が良いということは、これらの持ち主はかなり裕福という事ですよね?」

当然といえば当然のことをビルゴは尋ねる。

質の良い高価な装備を裕福でない者が手に入れられるはずもない。

貰う、あるいは正当な手段でないのなら、その限りではないだろうが。

「まぁ、そうじゃろうな。……じゃが、一体何じゃ?この剣と盾、それに防具は?」

切っ先の折れた剣、激しく損傷した盾、ひび割れた防具を睨みながら、ドワーフが首を傾げる。

素人目には、それぞれただ単に切っ先が折れ、損傷し、ひびが入っている様にしか見えない。

「何か気になる部分でもあるか?」

「あぁ……。さっきも言ったが、これらの質はかなり良いもんじゃ。じゃが、この剣も盾も防具も、こうも傷ついておる。一体何をどうしたら、こうも傷つく……?」

「……年季が入っているとかですか?」

「それはないじゃろうな。見たところ、これらの傷は全て強い圧力の様なものが加えられて出来たものじゃ。それに、これらが製作されたのはつい最近じゃろう」

「強い圧力……」

ビルゴの脳裏に昨夜の酒場での会話が蘇る。

魔物ならば魔物を殺すことができる。それだけの力を魔物たちは有している。

ならば、やはり、この装備に傷をつけたのも魔物なのだろうか。

「ふ~ん、なるほど。なら、その最近に作られた良い剣や防具にこれだけの傷を、人間が与えるってのは難しいのかい?」

「人間じゃと?」

何故そんな質問するのか、意図するところが読めないらしいドワーフは鋭い視線を装備からアルへと移す。
しかし、アルは組んでいた両手を解き、そんなドワーフへと両手を見せる。

隠し事はない、そういった意味で見せたのかもしれないが、ビルゴには、さっさと言え、そうドワーフに催促しているように見えて仕方なかった。

「……もし、これらを傷つけたのが人間ならば、そいつは相当の力の持ち主じゃろうな」

「……相当な力って、どれくらいですか?」

「正確には言えんが、魔物、それも力自慢の連中に匹敵する程じゃろう……。儂はそんな奴を見たことがないがな……」

「なるほどね……。さんきゅ、親父、よく分かったよ」

手短な礼を告げ、ドワーフやビルゴの手から装備を奪う様にして回収すると、アルは馬車の荷台へと飛び乗る。

「今度また何か器具を発注すると思うから、その時は頼む。ビルゴ、さっさと帰ろうぜ」

まだ聞くべきことがあるような気もしたが、ふん、と鼻を鳴らして奥へと帰っていくドワーフを呼び止める気にはならず、ビルゴはアルに従い、御者台へと乗り込んだ。

領主が暮らす館は、騎士たちが訓練や宿泊施設として利用している詰所が併設されているために、街の中で最も大きな面積を持っている。

その上、コハブの街の中心に建つために、街の何処からでもさして苦労せずに、館へ赴くことが出来る。

「じゃ、俺先行ってる」

「えっ、あっ……」

返事など待つ必要もなく、館の扉少し前に馬車が差し掛かった所で、アルは例の証拠品を持って、荷台から降りて行った。

彼が誰に報告しに行くのかを確認したかったが、馬車を厩舎に返さねばならないビルゴは仕方なく、一人騎士の詰所へと向かった。

厩舎で荷台を外し、長旅を共にした馬に十分な餌と水を与えてから、ビルゴは詰所へと顔を出した。

詰所には数人の騎士たちがいたが、彼に任務を与えた騎士長は不在のようだった、

その理由を聞きたい気持ちもあったが、先に行かせたアルのことも気になり、それは聞かずに領主への館へと向かった。

思えば、アルが館へと入って行ったということは、やはり彼に任務を与えたのは、領主だということだ。

疑念が確信へと変わっていくことに、小さい胸の高鳴りを感じつつ、館の扉を開く。

すると、扉の前に立っていた女性の召使いがビルゴに頭を下げた。

「ビルゴさんですね?領主様がお待ちです、こちらへ」

きっちりとした執事服を身に纏い、長めの黒髪を後ろで縛るその女性は、明らかに他の召使いとは空気感が違う。

館へと来たことは何度もあるが、この様な召使いを見かけた記憶はない。

普段は何の仕事をしているのだろうか。

そんな疑問こそ湧いたが、彼女について詮索する勇気までは湧いてこなかった。

女性のあれこれを聞くというのも無礼であるし、何より女性の鋭い目つきと威圧的な空気に気圧された。

一介の女性召使いに内心恐れを抱いていることを気取られない様、ビルゴが黙って頷くと、女性はさっと身を翻して歩いて行く。

手で示すこともなく歩いて行く女性に戸惑いつつ、ビルゴはその後を追った。

「失礼いたします。例の騎士を連れて参りました」

静かなノックと共に、女性は扉越しに告げる。

返事はなかった。

しかし、女性は特に驚くこともなければ、狼狽える様子もなく、平然と扉の前で待ち続ける。

自分よりも領主のことをよく知っているであろう女性が慌てないことから、領主がすぐに返事をすることは少ないのだと推測出来た。

静かに領主の返事を女性と共に待っていると、不意に扉が開いた。

「待たせてしまったかな?」

扉から顔を覗かせたのは、優しげでありながらも、どこか他者を軽視したかの様な、冷笑とも、微笑とも取れる表情を浮かべた、アルと同じ真っ白な髪を持つ壮年の男だった。

「掛けたまえ。……いや、きっともう腰掛けることには飽きたな。撤回しよう、楽な姿勢でいてくれて構わない」

領主は一人静かに笑い、食器棚から一つのティーカップを取り出すと、そこに茶色の液体を注いでいく。

既に香っていた優しげな紅茶の香りが、更に小綺麗な執務室を彩るのが感じられた。

しかし、そんな香りの余韻に浸れる程、ビルゴの心は落ち着いてはいない。

聞かねばならないことがある。

たとえはぐらかされたとしても、聞くこと自体に意味があるのだから。

「……そう睨まんでくれ。君の疑問に思っていることは、あの子から聞いている」

自然、力が入ってしまっていたのか、領主はまたその独特な笑みを向け、睨みつけるビルゴを宥めた。

「しかし、立場上、余計な事まで告げる訳にはいかない。君の聞きたい事だけに答えたい」

ソーサーへと乗せたティーカップを、扉前で微動だにしないビルゴへと渡し、領主は部屋の端に設置された、応接の為のテーブルへと着く。

「それで、何を聞きたい?」

微かに香る湯気を楽しむかの様に、テーブルへと置かれていた二つのカップの内、近いものを口元へと寄せた領主が臆する事なく尋ねる。

「……では、失礼ながら、領主様は今回のフェンガリでの一件を隠したいのですか?」

そもそも微塵も紅茶を飲む気のないビルゴは、カップを受け取ったままの姿勢で、もっとも領主自身の口で答えさせたい問いを尋ねる。

答えようと、答えまいと、それは領主の自由であるが、どちらにしても、くだらぬことを考えているのだとしたら、その首を絞めることになる。

納得できる答えなど返ってくるはずがない、そう予想していたビルゴに、暫しの間紅茶の香りを楽しんだ後、領主は静かに答えた。

「そう通りだ」

「何故ですか?」

「それが最善だと考えているからだ」

「何処が最善だと……!?」

このままフェンガリでの一件を蔑ろにすれば、再び同じ被害を受ける可能性が高いのは自明のこと。

それに気づかない程この領主が愚かではないことを確信しているだけに、やはりはぐらかされた気がして余計に腹が立った。

だが、そんなビルゴに領主は諭す様に告げる。

「現状、我が国も魔物たちも争いを望んではいない。その状況において、国境に最も近い街が制圧されたからといって、その周辺の街、つまりは同じく国境に近い街に魔物たちを派遣することを他国が黙っているはずはない」

「しかし、その街を制圧したのは……」

「確固たる証拠はない。それは君とあの子が最も知っているはずだ」

「……」
フェンガリの街を潰したのが、レイダット・アダマーの連中だという推測は変わらない。

しかし、その証拠となる様な物がないのも事実だ。

「犯人が分かれば非難することも出来るが、立場上、分からない内はどうすることもできない。そんな状態にも関わらず、世間にこのことを広めれば、余計な感情を煽るだけだ。だからこそ、隠したいと考えている」

「……なら、犯人が分かれば良いのですか?」

明確な憎悪と怨念を籠らせる目と、何者も映さず、虚空を見つめる様な目が向き合う。

「君が望んでいることを起こすかは、私が決めることではない」

何を望んでいるかは察しているのだろうが、結局は立場を活かした責任逃れな言い訳にしか聞こえない。

しかし、これ以上このことを追求することも出来ないのだと理解出来た。

「……そうですか。それなら、貴方が決めたことについて聞きます」

「それはありがたいな」

「先ほどの話では、貴方はフェンガリの事を隠したいと仰っていましたが、ならば何故、あのアル・ハイル・ミッテルという一市民の医術士には教えたのですか?」

「彼の力が必要だったからだ」

分かりやすく、単純な解だ。

しかし、それ故にビルゴはひどく苛立つ。

「そんな事くらいは分かります……!聞いているのは、騎士たちの中にも、薬や医術を専門にしている者たちがいるというのに、何故彼だったのかということです!」

「彼らでは力不足だからだ」

我慢の限界であった。

持っていたカップとソーサーを床へと叩きつける。

だが、カップやソーサーは、割れることもなければ、中の紅茶が溢れることもなかった。

硬い床の上に敷かれた絨毯がそれを防いだ訳ではない。

何処からか飛んできたクッションが意思を持ったかの様にそれらを乗せ、絨毯へと着地したからだった。

「……やれやれ、誰も紅茶を飲んではくれないな」

さして悲しがる様子もなく、むしろ、自嘲するかの様に領主は笑みを浮かべると、残っていた紅茶を飲み干し、ソーサーへとカップを戻した。

「誤解しないでくれ。君たちの全てがあの子に劣っているという訳ではない。戦闘となれば、おそらくは君たちの方が優れているだろう。しかし、遺体の状況などの調査となればあの子の方が優れている。それだけだ」

「……貴方は彼をよく知っているのですか?」

「ふっ、こんな場所での仕事だが、怪我や風邪くらいはするものだ」

「……そうですか。なら、あと一つだけ質問をよろしいですか?」

「君の気が済むまで構わない」

「何故、僕を同行させたのですか?」







「ただいま……」

もはや装備などを詰所へ置いてくる元気もなく、そのままの姿で自宅へと戻ったビルゴを、二人の魔物が迎えた。

「おかえりなさい」

「おかえり、パパ……!」

片目を包帯で覆う妻のラミアはビルゴの姿を見て、柔らかな微笑みを浮かべ、小さな娘のヴィエルジュはビルゴの足に絡みつき、抱っこをせがんだ。

人と魔物の混血といえど、やはりその力は年々、いや、日に日に強くなり、容易く人の力など抜き去りそうな勢いだ。

愛娘の抱っこを断る理由もなく、ビルゴは優しくヴィエルジュの頭を撫で、そっと抱き上げる。

体格が良い方ではないため、人より鍛えているつもりではあるが、鱗のせいか、下半身の蛇の部分まで持ち上げるとかなり重い。

娘の成長を肌で感じることに、本来父親であれば嬉しさと悲しさの両方を味わうはずなのだが、今日はそのどちらも感じる余裕がなかった。

「……どうかなさったんのですか?」

よほど浮かない表情になっていたのか、ビルゴの装備を脱がしていたラミアが心配げに尋ねる。

「……うぅん。何でもないよ、ちょっと疲れただけ」

「そうですよね。昨日は大変だったと聞きましたから」

「……誰から、聞いたの?」

「先ほど往診してくれたアルさんからです。何でも、急に夜勤になったと……」

そういうことになっているのか……。

領主からも他言無用であると口止めされたが、先に彼が口裏合わせに回っているとは思わなかった。

やはり、彼は領主と繋がっている。

それも、領主が言ったような、医術士と患者などという希薄な関係では到底ない。

ビルゴの胸に不安が込み上げてくる。

「目は大丈夫…!?変な感じはしない……!?」

「えっ……?はい、変な感じはしません。先ほどアルさんにも診てもらい、薬ももらいましたから、むしろ状態は良いと思います」

「アル先生ね、もうすこしすればママのもう片方の目も見えるようになるかも、だって!」

もう素直には喜べない。

彼の能力を疑っている訳ではない。

むしろ、彼自身を疑ってしまっている。

ラミアの失われた視力を取り戻してくれたのは紛れもなく彼だ。

だが、その彼があの領主と繋がっているとなれば、疑わずにはいられなかった。

もし、彼が妻の目に何かをしていたとしたら、そう考えるだけで、昨夜の決意は一気に揺らいだ。

今は何もしない方が良いのではないだろうか……?

彼があの後、妻の診察をしに来たのも、遠回しな脅しだったに違いない。

妻の視力、いや、下手をすれば家族の命全てを握っているのだと、教えるためだったのだろう。

「それは……良かったね……。ごめんね、ちょっと疲れたから、夕飯まで部屋で休んでいていいかな?」

「え~、一緒に遊ぼうよ……」

「そんな無理を言っちゃ駄目でしょ?パパは寝ないで疲れてるんだから、休ませてあげなさい」

抱きついたまま頬を膨らませるヴィエルジュをラミアは優しく引き離す。

「ゆっくり休んでください」

「うん……」

力無く頷き、ビルゴは自室へと向かった。
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