しらぬがまもの

夕奥真田

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暴く者

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…タフ、だね。

五感の内、二つを完璧に潰したのに、それでも生きていられる。

その上、まだ痛みに屈服しないなんて…。

やっぱり、“人間”ではないんだね…。

…正直、少し気持ちが楽になる。

人と同じ姿形をし、且つ人と変わらぬ生活をしていた者が、やはり彼らの“創造物”に過ぎなかったのだと、再確認出来た。

だが、同時に厄介なことにもなった。

これでは、“兄妹”たちのことを上手く聞き出せない。

…仕方がない、あまり使いたくはない手だけど。

“ねぇ…貴女の名前、オネちゃんで合ってる?”












ふぅ…。

手に持っていたペンをペン立てに仕舞い、背を椅子へと預けると、肺の中に残っていた空気を静かに吐き出す。

書類に目を通し、問題なければサインする。

たかが、それだけ。

されど、それ故。

固定され続けていた身体はそこらじゅうから軽快な悲鳴を上げ、肺と脳は新鮮な空気を欲する。

だが、集中力の糸が切れた時に襲ってくる、気怠さの波が椅子を立つ気力すら奪っていく。

仕方なく、見飽きた室内の風景を黒一色に染め上げると、身体中の先に力を込め、憂鬱な気怠さを徐々に抜く努力をするが、いつの間にか蓄積したらしいそれはなかなかに抜けていかない。

そうしてなかなか抜けぬ気怠さと、面白半分に闘い、目の前の現実から目を背けていると、不意に、扉の開く音が聞こえた。

「…窓をお開けしましょうか?」

「あぁ…。すまないが頼もう」

真っ黒の世界から聞こえる、凛とした声の女性の申し出をありがたく受け入れる。

すると、微かな足音がすたすたと背後へと回り、数秒もせぬ内に、涼しく、新鮮な空気が室内へと入って来た。

…また、見られてしまったな。

心地良い空気を吸い込み、苦笑する。

もはや、数え切れぬほど、こうした情け無い部分を、彼女に見せてしまっている。

彼女自身、このことをどう思っているのかは分からないが、正しいと言って良いかも分からぬ教育と、当てにすべきか悩む妹の価値観によれば、男たる者、女性の前では常にしっかりしておかねばならない、とのことらしい。

これを理想像として捉え、努力するか、或いは、砂上の楼閣として、そもそも不可能であると断じるかは各々の自由であるが、少なくとも、私は、この自覚出来る程に大きなプライドから、前者を支持している。

しかし、それ故、こうした時程、彼女と顔を合わせるのが辛い時はない…。

「…ありがとう」

「礼を言われるほどのことではありません。それより、もしお疲れが抜けないのなら、簡単なマッサージでも致しましょうか?」

「いや、そこまでしてもらう必要はない。それはまた別の機会にでも頼もう…」

「分かりました」

足音はまたすたすたと目の前へと戻る。

気怠さに恥ずかしさを加え、更に重くなった瞼を、忸怩たる思いで押し広げる。

そこには、相変わらず黒髪を後ろでまとめ、執事服に身を包んだトゥバンが、いつもと変わらぬ涼しげな表情で立っていた。

「…それで、何かあったのか?」

「シエル王から手紙が着きましたので、それを届けに。それと、少々気になることがありましたので、そのご報告を」

「…なるほど。シエル王からの手紙が先でも構わないかな?おそらく、大した話ではないはずだ」

「分かりました。こちらです」

後ろ手に持っていた手紙をトゥバンから受け取り、そっと広げる。

手紙には、数週間後、シエル王城においてパーティを催すことと、それにコハブの領主として参加して欲しいとのことが書かれおり、招待状も同封されていた。

…予想した通り、大した話ではなかった。

しかし、はてさて、今回は誰の提案なのやら…。

まだ酒を飲めない年齢であり、且つ、俗世の低俗な領主や貴族たちとは違い、こういった戯れにもさして興味のないシエル王がこんな盛大なパーティを自ら主催することを望むとは思えない。

それでも、このパーティを開催するにあたり、わざわざシエル王の名を使えるのは、この世において一人だけだ。

もっとも、もはやこの世界の実質的支配者と呼んでも過言ではない彼女自身も、この様な戯れには興味を示さない、ひどく高尚な性格の持ち主のはず。

ということは、このパーティは、また我々に“仕事”を頼みたいという合図なのだろう。

…アルが帰ってきたら、毒薬を製作してもらわねばならないな。

三年前に完遂したレイダット・アダマーの蹶起。

例の作戦の下準備として、この領地を広く活用するため、コハブの前領主を人知れず毒殺したのも、現在のシエル王が王位継承した後の宴の席だった。

一年間以上、前シエル王の死を病と偽り、隠し続けた上に、“名もなき”少年をシエル王に据えようとしていた、魔王や魔物たちの考えに反対する、当時の人間の領主や貴族たちを逆に利用させてもらったのだ。

彼らに近づき、魔王や現シエル王を支持する立場にあったコハブの前領主など、数人を暗殺することと引き換えに、次期コハブの領主として推薦するよう、約束させた。

結果として、私はコハブの領主として、それなりに自由に動け、例の作戦も無事に終了させることが出来た。

もっとも、このことは魔王たちも承認済みであり、彼女たちに反対していた他の領主たちも、この三年間で全て取り替えた。

それ故、今更パーティを開く理由は皆目見当もつかない。

だが、来いと言われれば、行かねばならない。

…領主とはやはり辛い立ち位置だ。

「シエル王はなんと?」

「パーティを開くから是非来て欲しい、とのことらしい。いやはや、次は一体何を御所望なのやら…」

「…単なるパーティ、という可能性は?」

「ふふっ、まぁ、それならそれで、踊りの一つでも踊れるよう練習しなくてはならないな…」

「…相手が私で宜しければ、いつでも大丈夫です」

美しさすら感じる、正しい姿勢を維持するトゥバンがぼそりと告げる。

だが、その目は溺れているかの様に、ぎこちない泳ぎを見せていた。

「…そうだな。それなら、君のドレスを新調する必要があるな」

「そ、そんな…。その様なことまでしていただく必要は…」

「遠慮はしないで貰いたい。…というより、たまには私にも君を労わせ、男として良い格好をさせて欲しいものだな」

「…ありがとうございます。領主様」

多少距離があっても、トゥバンのその色白の頬に赤みが浮かび上がるのが分かった。

この程度で、というと語弊があるかもしれないが、それでもこうも容易いことで、彼女が喜んでくれるのはありがたい。

何処かの妹の様に、無茶難題を突きつけては、その反応を見て楽しむという、変わった性格でないだけでも。

もっとも、彼女にはこんな事では、到底返せぬ程の感謝と敬意の念がある。

…そして、それに負けぬ程の後ろめたい思いも。

「…では、仕事は早々切り上げ、君のドレスを見に行くとしよう」

「は、はい…!あっ、そうでした、まだ後一つご報告が…」

「あぁ、そうだったな…。確か、気になることがあると言っていたな?」

微かに綻んだ表情を、いつもの引き締まった美しい顔へと戻し、トゥバンは静かに頷く。

「アル様と交流のある例の騎士、名前は確か、ビルゴと言いましたか…。彼に関することです」

「彼に…?」

あまりに予想だにしなかった名に、一瞬首をひねる。

ビルゴ…。

所詮、領主直属の騎士団に所属する一騎士に過ぎない身分ではあるが、弟のアルが唯一友人と呼んでいる男でもある。

ターイナ同様、知的探求心の強いあのアルが、魔物なら兎も角、人を気に入ることに当初はひどく驚いたものだ。

資料を確認しても、特筆すべき事はなく、強いて言うならば、良くも悪くもその聡明さにのみ目を掛けるに留まっていた彼が、何故アルの興味を惹いたのか、少ない手が掛かりを元に探ってみていたのだが、その答えは三年前、意外にもアトゥが教えてくれた。

正確には彼の正体ではなく、アルが何故彼にこだわるのか、その理由を。

ペルメルやアトゥがレイダット・アダマーの創設にあたり、各国の人間たちを無作為に殺害し、魔物たちへ濡れ衣を着せるのと同時に、その膨らんだ人間たちの復讐心を微かな高揚感へと癒すため、シエルの魔物からも、晒し者とする犠牲者を密かに探していた。

そして、そんな魔物たちを集め、ペルメルたちへと引き渡していたのがアルだった。

多くの者たちは犠牲者として、アルの手で先に殺害され、その亡骸は無事に引き渡されていたようだが、アトゥによれば、その中で唯一、眼球を切り裂かれたのみで、死を免れた魔物がいたらしい。

それが、ビルゴの妻であるラミアだ。

何故アルが彼女のみを助けたのか、その理由は分からないが、今も欠かさず治療を行なっているあたり、おそらくはその因果で夫であるビルゴに対しても友好的な態度を取っているのだろう。

…今更ではあるが、正直感心すべきこととは言い難い。

彼女を救ったこと自体は、アトゥの連れ帰ったオネの一件もあり、アルのみを攻めることも出来ぬが、記憶への干渉や、呪いを彼女に施さなかったこと、そして、無知とはいえ、過度にビルゴに関わろうとする態度はあまり褒めることは出来ない。

三年前のフェンガリの調査の件では、アルの要望で、彼を同行させたが、事実関係を知っていれば、止めていただろう。

あれから十年程の月日が経っているとはいえ、何をきっかけにこちらの正体や策謀が露呈するとも限らない。

その上、資料を確認し、少なくも直接言葉を交わした限りでは、彼は生粋のシエル国民だ。

幼い時に苦しい生活を強いられたせいか、前シエル王同様に、他国を憎悪し、シエルと魔物による世界の征服が必要であると考えている様子も伺えた。

その上、頭の回転がかなり早いだけに、余計にたちが悪い。

無論、各国への憎悪に関しては、シエル国民であれば、彼に限ったことではないが、どちらにしても余計な関わりを持たぬ限り、我々は“目的”の為に動きやすく、彼らは無知な国民として幸せに生活できる。

故に、無闇に関わるべきではないし、その必要もない。

しかし、そんな、疎ましいとも言える彼が気になる行動を取っているというのなら、アルに一生怨まれることも厭わぬ覚悟を持つべき必要があるのかもしれない。

「…はい。ここ最近、彼の行動が変であると、彼の妻とその友人が話しているの耳にしました」

「変とは…?」

「彼の妻の把握する範囲では、二週間ほど前から帰ってくるのが極端に遅くなり、過去に見たことがないほど精神的に疲弊し、常に殺気立っている、とのことです」

「…他の騎士たちは何と?」

「仕事こそ真面目にこなしているが、その態度は明らかに変であると、皆も口を揃えています」

「ふむ…。彼が何に殺気立っているかは分からないが、帰りが極端に遅いということは、彼は多忙なのか?」

「いえ、帰宅時間は他の騎士たちと大差ありません。自宅への帰宅が遅いのは、彼が街の酒場を巡り歩いているからです」

「酒場…」

…やはり、腑に落ちない。

それなりに大きな街だけに、酒場の数は多く、巡り歩くことも出来るだろうが、彼がそうまでして、浴びる程の酒を飲むとはどうにも考え辛い。

「…つまり、彼はそこで深夜まで酒を飲み歩いているということか?」

彼個人の性質的にその可能性はひどく低いと思いつつも、トゥバンの状況報告だけを参考に推察した結果を告げる。

しかし、トゥバンは静かに首を横に振った。

「いえ、ほとんどの酒場では彼はすぐに出てきます。彼は一つの酒場で長時間過ごしています」

「その酒場とは?」

「決まっていません。日によって留まる酒場は違います」

「なら、中での彼の様子は?」

「…申し訳ありません。店内に彼が入ったのを見計らい、後を追うのですが、どういう訳か、酒場中を探しても彼の姿が無いのです」

「…不可解だな」

今更ながらにトゥバンの目を疑うつもりはない。

彼女に見つけられないのなら、おそらく本当に彼の姿は消えているのだろう。

しかし、彼は騎士でこそあれ、魔法は使えぬ一般人のはず。

何故、その姿を消すことが出来る…?

トゥバンの尾行に気がつき、店の何処かに隠れているのか…?

「はい…。しかし、入った酒場の出入り口を見張っていると、彼は必ず日付が変わる頃に出てくるのです」

「酒場の中にいるのは確実だが、何故か彼の姿はない、か…」

何とも不可解な話だ。

家庭を第一に思い、酒豪ですらない彼が酒場を遅くまで巡り歩いていること…。

腰を落ち着ける酒場が決まっていないこと…。

そして、酒場から彼の姿が消えること…。

首を捻らす、あらゆる疑問点が存在する。

しかし、最も考えるべきは、彼の目的が何であるかということだろう。

話によれば、彼の態度がおかしくなったのは、二週間程前らしい。

その時私は何をしていただろうか?

相変わらずここで、退屈な仕事をしていたはず…。

…いや、一日だけシエル王城へ、トゥバンと共に向かった。

確か、魔王やシエル王と今後の課題について話し合い、そのついでとして、ガルディエーヌの様子を見に行ってきたのだ。

だが、それ以外の日は、今と変わらない状態だったと記憶している。

どちらにしても、こちらが彼に干渉したということではないのは確かだ。

だとすると、彼自身の身に何か起こったと考えるのが自然だ。

そして、その結果として、報告通りの行動を取っているということだろう。

では、その原因とは…?

「…解らないな」

「では、この件は如何致しましょう?もっと情報を集めるために、何かしらの手を打ちましょうか…?」

「…」

これが彼以外の者の行動ならば、単なるやけ酒や憂さ晴らしだと決めつけ、私は元より、トゥバンが歯牙にも掛けず、報告などあり得なかっただろう。

しかし、相手は弟の友人でこそあるが、相応に注意を払うべき、私から言わせれば、邪魔者に過ぎない。

放っておいて、事態が最善なものへと進むとは思えない。

ここはトゥバンの提案通り、こちら側から仕掛け、彼の目論見を暴くべきか。

「そうだな、騎士長にこのことを伝え、彼に見張りをつけるとしよう。また、この件はアルが帰還する前に片をつけさせてもらう」

「失礼ながら、それは、つまり…」

聡明なトゥバンの前では、如何に言葉を包めど、その真意は読み取られてしまうらしい。

「…彼の行動の真意が大したことでないことを祈ろう」

「…はい」

少し躊躇いながらも、トゥバンは小さくに頷いた。






コン、コン、コン…。





仕事を再開する気にもならず、頬杖を突き、ただぼんやりと、掻き乱された思考を整理していると、丁寧でこそあるが、変に力の入ったノック音が、窓の開いた室内をぱっと駆け抜けていく。

トゥバンと顔を見合わせ、静かに首を横に振る。

すると、また扉が三回叩かれる。

私の部屋への出入りは、トゥバンを除き、基本的には禁止している。

何故なら、この部屋には、事情を知る者以外には見せられぬ手紙や資料などが数多く存在するからだ。

そして、部屋への出入りを禁じていることは、この屋敷で生活する者たち全員が心得ている。

つまり、もし彼らが扉を叩くのだとしたら、それは切迫した状態以外にはあり得ない。

しかし、今のノック音はひどく落ち着いたものだ。

むしろ、変に力を入ってしまっていることを悟られぬよう、敢えてゆっくりと叩いている気さえする。

これだけでも、扉の前に立つ者が、もはやこの屋敷の者でないと露呈した。

また、“予定された客人”でないとしても、身分が告げられないあたり、トゥバン以外の召使いすら同行させていないことが伺える。

…何者だ?

トゥバンに扉を開けず、傍で警戒するよう合図し、意識を集中させる。

ほんの少し先を“予知”し、その正体を先に教えもらおう。










色の無くなった、来たる可能性のある未来において、再び鳴らされたノック音に返事をする。

すると、扉がゆっくりと開き、目の奥に明らかなる殺意を灯した“彼”が部屋へと入って来る。

そして、何も告げずに剣を抜くと、間髪入れずにこちらへと突っ込んで来た。










「入りたまえ」

驚きの表情をこちらへと向けるトゥバンをそっと遠ざけ、椅子から立ち上がる。

座っていては、彼の突きを上手く回避出来るか危うい。

それに、トゥバンに庇われては、威厳も面子もあったものではない。

扉が開くと、予知した通り、ビルゴが部屋へと入って来た。

だが、その目は先ほど見たものとは違い、殺意こそ秘めているが、その殺意に身も心も委ねることを躊躇う、戸惑いの想いも孕んでいる様だった。

「…これは、随分珍しい客人だな、ビルゴ君」

「…」

「ちょうど、君の話をしていたところでね。最近君の…」

「全て貴方たちがやったのか…!」

ふるふると体を震わせ、その手を腰に携えた剣へと置いたビルゴが、絞り出すに唸る。

…違う?

予知したはずの未来と全く違う。

「何のことか分からないな。話があるのなら、筋道を立てて…」

「あんたらが三年前のことを引き起こしたのかって聞いてるんだよ…!」

声を荒げつつ、ビルゴは鞘から剣を引き抜く。

…いや、どうやら、結果はやはり変わらないらしい。

…アル、君は一生私を怨むだろうな。

だが、それでも…!










「アドリブはやめて欲しかったかなぁ」










引き出しから、護身用の短剣を取り出そうとしていた手は、引き出しの取っ手すら上手く掴めず、目の前の景色は、一瞬ちかちかと眩しくなったかと思うと、一気にぼやけていき、体は極端に重くなる。

何が起きているのか分からなかった…。

目の前に立つビルゴは、中途半端に剣を構えたまま、ぼやけた視界でも分かる程、驚愕の表情を浮かべ、強烈な耳鳴りに襲われた聴覚であっても聞き取れる程、大きな声でトゥバンが私の名を呼んでいる。

それでも、私は、煮え滾る様に熱い胸を見るまで、自身の身に何が起きたのか、正確に理解することは出来なかった。

「なっ…」

異常なまでの熱を発する自身の胸を見ようと、視線を下げる。

すると、そこには何の障害も無いかの如く、自身の胸を貫く、すらりと細長い、赤く染まった刃があった。

胸を刃で貫かれたことを脳が認知すると、今までは焼け付く様な熱さだったものが、耐え難いまでの苦痛となって襲って来る。

「ぐっ…!」

歯を食いしばり、その痛みを押し殺すと、背後の刃の持ち主へと向けて、咄嗟に裏拳での攻撃を図る。

「…やっぱりタフだね。さすがはお兄ちゃんって、ところ?」

背後に立つ、黒髪を短く切った見知らぬ女は、裏拳での攻撃は難なく受け止めると、刃を更に深く突き刺してくる。

「ぐぅぅ…!」

「でも、心臓を貫かれちゃ、さすがに苦しいかな?」

胸の痛みがいや増したせいか、脳内は苦痛に囚われしまい、体はただひたすらにこの痛みから抜け出したいという、愚直なまでの本能を優先させ、近づいた背後の女へと向けて、肘打ちや蹴りを放つことしか出来なくなる。

「プレシエンツァ…!」

「うわっ…。あぶな…」

ある種支えとなっていた刃が引き抜かれると、体は一気に重力に逆らう力を無くし、机へと突っ伏しそうになる。

だが、そんな体を白い何かが支え、窓際へと無理矢理引き寄せられる。

微かに残された力で顔を動かすと、両手のみを竜の形へと変えたトゥバンが歯を剥き出しにして、背後から側面へと回った女を睨みつけていた。

「不思議な手だね。貴女は人の姿が本物なの?それともその手が本物なの?」

「お前に教える理由はない…!」

「そんなこともない。君もそいつらの“被害者”なんだから…」

「被害者…?」

ぼんやりと生気のあまり感じられない顔に、微かな笑みを浮かべる女の言葉を、トゥバンは怪訝そうな表情で復唱する。

この女、まさか…。

「はぁ…はぁ…。トゥバン…!決めた通りにやれ…!」

「…っ!」

片手を目一杯に広げ、胸に空いた穴を埋めつつ、出せる精一杯の声で叫ぶ。

その声は何とかトゥバンに届いたらしく、彼女は大きく息を吸い込み、肺と頬を膨らませると、口から灼熱の火炎を部屋中へと撒き散らしていく。

そして、部屋の中が炎の包まれるのを確認し、私を抱きかかえたまま、窓から外へと飛び出す。

もしもの時は、こちらにとって都合の悪い証拠となる物を全て燃やし尽くし、逃亡するということを事前に決めてあった。

…まさか、そんな日が本当に来るとは、夢にも思わなかったが。

屋敷の二階、私の部屋から火の手が上がっていることに気がついたらしい市民たちが、ひどく慌て始めるのを横目に、トゥバンに肩を貸してもらいながら、ある場所を目指す。





「扉が…」

トゥバンの微かな呟きに、時折失いかける意識を奮い立たせ、何とか顔を持ち上げる。

視線の先には、目指していたアルの診療所の内部が少しだけ見えた。

おかしなことに玄関にあるはずの扉は、無理矢理外されたかの様に、奥へと倒れ込んでいる。

…またあの女の仕業か?

微かに動いた思考が危機感を覚えるが、瀕死の体をそんな危機感を振り払い、生を渇望するかの如く、前へ前へと進みたがる。

一瞬は躊躇った様子のトゥバンだったが、こちらが動こうとしていると分かると、また無言で体を支えながら、診療所内へと引きずって行ってくれた。

診療所の主である、アルは今、リウの“故郷”らしき場所へと向かわせているために不在だ。

しかし、予備の傷薬が何処に保管されているかは把握している。

急ぎこの傷を治療し、アトゥを迎えに行かなくてはならない。

不意打ちであったとはいえ、“予知”の世界にすら現れなかったとあっては、あの女が少なくとも普通の人間でないことは明白だ。

また、口ぶりからこちらの事情を、どの程度かは判断しかねるが、知っている様子もあった。

人と変わらぬ家庭を築いた弟を巻き込むことは、若干気が引けるが、こちらが狙われた以上、弟のアトゥが狙われないとは断言出来ない。

…すまないが、また力を貸してくれ。

ぽっかりと穴の空いた胸の内で、アトゥへ謝罪しつつ、予備の傷薬のある研究室へと向かう。





しかし、そこには既に先客がいた。





「き、君は…!」

そこらじゅうに紙や本が散乱した、お世辞にも褒められたものではないアルの研究室では、手を真っ赤に染めた褐色肌の少女が、その目から涙を流しながら部屋中を掻き回していた。

彼女のことは知っている。

アトゥの妻、オネだ。

「隊長が…!隊長がぁ…!」

こちらの声に気がついたのか、オネは今にも泣き崩れてしまいそうな程、嗚咽混じりの声を上げる。

部屋の片隅を見ると、そこには、確かにアトゥの姿があった。

「ア、アトゥ…!」

トゥバンの支えを離れ、倒れ込みそうになる体を何とか保ちつつ、膝立ちの姿勢となって、アトゥへと近づく。

体を揺すっても、ぴくりとも反応のない、項垂れる様にして、壁へと背を預けるアトゥの胸には、アトゥ自身が愛用していた短剣が深々と突き刺さっている。

やはりあの女の仕業か…!

「ちっ…!トゥバン…!例の傷薬を早く…!」

「はい…!」

トゥバンに傷薬を任せ、遠ざかる意識を、あの女への憤怒の念で保つと、こちらが来たことで、力が抜けてしまったのか、研究室の真ん中にへたり込むオネに声を掛ける。

「一体誰にやられた…!?黒い髪の女か!?」

「目が…。隊長の目と耳が…」

精神が相当に疲弊してしまっているのか、オネは顔をこそこちらへと向けるも、まともな返事をすることは出来ないようだった。

仕方なく、オネとの対話を諦め、うわ言の様に告げられる、アトゥの目と耳を確認する。

「…っ!?」

項垂れる頭を持ち上げられたアトゥの顔は、予想以上に悲惨なものだった。

両目があった部分には穴が開き、そこから溢れ出てきたであろう血涙が、頬から顎にかけてまで真っ赤な通り道を描いていた。

また、伸びた髪のせいでよく見えなかったが、耳からも血が溢れてかえり、もみあげ部分を赤く染め上げている。

「ありました!これを!」

薄紫色の得体の知れない液体が入った、二つの試験管を手にしたトゥバンが駆け寄って来る。

「これだけか…!?」

「他には見当たりませんでした!」

所詮は予備薬、多くの数を準備している筈もない故、仕方がない。

しかし、どうしたものか…?

見たところ、アトゥの傷は胸と目と耳。

人ならば、お釣りが来そうな程の致命傷だが、アトゥは微かながらの呼吸を繰り返している。

しかし、一刻も早く治療しなければ、死に至るのは自明の理だ。

もっとも、それはこちらの身も同じこと。

…それに比べ、傷薬は二つ。

治療出来るのは、アトゥの目と耳の傷を一つと考えても、二つの傷が限界、といったところか。

だが、全ての傷を治療しなければ、私とアトゥ、両方が確実に助かるとは断言出来ない。

となると、選択肢はどうあがいても二つだけ。

自身に傷薬を使い、アルの元へと到着するまで、アトゥの命が持つことに期待するか、或いはその逆か…。










「ふっ…。分かっているさ…“母さん”。私は、“勇者”であると同時に、彼らの兄でもあるのだからな…」










「トゥバン、後は…君に、任せる…」

二つ試験管を受け取り、それをアトゥの傷口へと流し込む。

すると、傷薬に満たされた傷跡は見る見る内に塞がっていき、アトゥの呼吸音が多少大きくなっていく。

弟の命が救われた事に安心したせいか、瞼は一気に重たくなり、膝立ちですら体を支えることが出来なくなる。

そして、顔や体が床へと激突する微かな振動を最後に、私は意識を手放した。
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黒木メイ
ファンタジー
世界に一人しかいないと言われている『勇者』。 その『勇者』は今、ワグナー王国にいるらしい。 曖昧なのには理由があった。 『勇者』だと思わしき少年、レンが頑なに「僕は勇者じゃない」と言っているからだ。 どんなに周りが勇者だと持て囃してもレンは認めようとしない。 ※小説家になろうにも随時転載中。 レンはただ、ある目的のついでに人々を助けただけだと言う。 それでも皆はレンが勇者だと思っていた。 突如日本という国から彼らが転移してくるまでは。 はたして、レンは本当に勇者ではないのか……。 ざまぁあり・友情あり・謎ありな作品です。 ※小説家になろう、カクヨム、ネオページにも掲載。

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