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魔物の長たち
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空に色の境界が出来始めた。
西に行く程に、仄かな色に照らされ、東に行く程に、柔らかな色に覆われている。
そして、次第に西から迫ってくるその柔らかな色は、東の色を飲み込んでいき、空の下の景色を闇の中へと落としていく。
だが、陽がその役目を果たし、自然なる草木に眠ることを強要しようとも、人は、その厚かましさと豪胆さで、闇を切り裂き、自然を切り裂き、この世界の頂点へと達したという。
自然という摂理の中で産まれながら、同じ自然を破壊する力を手に、底無しの強欲でもって繁殖する彼らに目をつけた前魔王の英断が正しかったのか、間違っていたのか、それは何とも言えない。
だが、魔物である自身からすれば、今現在は平穏が訪れたといっても良いだろう。
もっとも、そんな彼らに生み出されたと言われる“勇者”によって、故郷である魔界を悉く滅ぼされたことを根に持つ魔物たちは未だ数多く存在する。
特に、前魔王が存在していた時代には高位に位置していたと言われる、魔界の中に自分たちの縄張りを持っていた者たちだ。
彼らは魔界の中でも、圧倒的に種族数や個体数が少ない。
しかし、代わりに他の魔物たちとは一線を画す程の実力と能力を持っていた、
故に、彼らはその力によって前魔王から重用され、彼が進めていた人の世の支配に貢献したという。
だが、その結果が、今の我々が置かれた状況だ。
支配しようとしてきた人間たちと共に暮らし、少しずつでも魔界と魔物たちの再生に取り組まねばならない。
そして、そのために現在の魔王に連れられ、人の世に来て早十年以上。
やっとの思いで手に入れた平穏ではあるが、随分時間を費やした…。
多く犠牲も…。
部下というよりも、旧友と呼ぶに等しかったミノタウロスやブラックドッグたちの姿が脳裏にちらつく。
確かに、彼らをその手で殺したのはレイダット・アダマーだ。
だが、世界に平和を与えるためとはいえ、彼らが殺されるのを黙認し、剰え、その協力までしてきたのは、魔王とその部下である我々だ。
謀を計画、実行した“彼女”たちだけを責める訳にはいかない。
どんな大義名分があろうとも、他者の命と幸福を奪い、それを糧とすることは罪だ。
たとえそれが生きるためであったとしても。
故に、人も魔物もいずれはその罪を償い、死んでいく。
死なないのは、それをしない、能ある不死者たちくらいだろう。
西から吹いてくる微かに温められた風に、“彼女”曰く、良くなってきた毛並みを撫でられつつ、静かに体を起こす。
そろそろ行かなくては…。
眠るつもりもないのだが、長い間横になっていたせいか、微睡み始める体の誤解を、大きな欠伸と共に伸びで解いていく。
それにしても、厄介なことだ。
人にその姿を見せぬ為とはいえ、陽が隠れてから始めなくてはならないとは。
…彼らには、少しくらいこちらの生活と性分も考えて欲しい。
あまりに個人的な話ではあるが、こちらは何かしなくてはならないことがあると、頭の中がそのことで一杯になり、どこかそわそわして、他のことに集中出来なくなってしまう性質なのだ。
おかげで、今日は散々“ソル”に怒られてしまった。
ちゃんと話しを聞いていない、遊んでくれない、と可愛らしく頬ばかりを膨らませていた。
ぼんやりと虚空を見つめて過ごすことの多かった彼が、少しずつとはいえ、こちらに気を許し始めていることは嬉しいが、彼に文句を言われるのはやはり切ない。
…明日は“彼女”と共にちゃんと遊んであげよう。
眼下に広がる人の世界を軽く一望し、明日の三人でのお出かけ風景を頭の中に描きながら、テラスの手すりへと前足を掛ける。
そして、西から吹いてくる風に微かな温かみも感じぬことを肌身で感じると、勢いよくテラスから飛び出した。
身体中、特に四肢が引きちぎられてしまいそう程、途轍もない力で後ろへと引っ張られる違和感に耐え、四本足、全てが柔らかな地を踏み締めているのを確認すると、ゆっくり目を開ける。
目の前には、先ほど眼下に望んでいた城下街とは程遠い、月明かりに照らされる丘陵地帯が広がっていた。
テラスで感じたよりも、風は何割か冷たく、また空色も黒で統一されいるあたり、周囲に目印となる光源らしいもの見えぬが、ここはシエル王城よりも東なのだと分かる。
どうやら、“跳ぶ”ことには成功したようだ。
だが…。
ぴりぴりと微かに痛む喉元を引っ掻かぬよう気をつけながら、前足で摩る。
やはり、昔の様に多用は出来ないな、それに、長距離移動も避けた方が良い…。
喉元には、肉球ではなく、毛に覆われた前足の甲で触れたとしても違和感を感じる、大きな傷がある。
人の世で過ごす日常においては、もはや意識せずとも問題がない程度には回復しているのだが、こうして“跳ぶ”時には、負担が掛かるらしく、痛む時があるのだ。
久しぶりに感じる、むず痒さにも似た痛みを堪えつつ、一度辺りを見渡す。
揺り籠に眠る人の子を寝かしつける様に、風が草木を微かに揺らす、月下の丘陵地帯にはまだ誰もいない。
顔を高く上げ、目を凝らして見ても、やはりそれらしい動く影や気配は感じられなかった。
…“彼女”の言う通り、時計を持つべきだったかな?
野を駆け、山を駆け、糧となる魔物たちを食べて廻っていた頃に身につけた体内時計も、十年以上も放っておいては、やはり多少なりとも誤差が生じてきてしまうらしい。
仕方がない、あまり自分の為にお金を使うことは好きではないが、体内時計をしっかりと同期させるためにも、明日は時計を買ってくるとしよう。
そんなことを考えながら、ぼんやりと風に毛を靡かせていると、不意に背後から微かな気配を感じた。
「貴公はやはり早いな、フェンリル」
恐る恐る振り返ると、そこには、こんな丘陵地帯には似つかわしくない、闇に溶け込む様な黒の長い髪とドレスに身を包み、片手には不可思議な木製の何かを持つ魔王が立っていた。
相変わらず何の物音もなく現れる故、下の身分の者にはとっては心臓に悪い。
実際、あまりの恐怖に失神した魔物たちもいると聞く程だ。
更に厄介なのは、彼女自身、そのことをさして気にしておらず、こちらにも気にしないよう敢えて釘を刺すのだから、もはやいちゃもんのつけようもない。
「他の者たちはまだ来ないか…。なら、どれ、これを試してみるか…」
同様に辺りにまだ誰もいないことを確かめると、魔王は手に持っていた木製の何かを地面へと下ろし、その何かを慣れぬ手つきで弄り始める。
少し困った様子も見受けられるが、その顔には微かな笑みさえ浮かんでいる。
…また何かおかしな物を買ったらしい。
野山を駆けずり廻っていた文字通りの一匹狼に、自称を含めた高位な魔物たちの様式美など理解出来る訳もないが、不思議なことにそれは彼女もらしい。
それというのも、彼女は魔王というその身分にも関わらず、酒にも服にも、馬鹿騒ぎにも大した興味を示さず、それらとは正反対に、人が創り出した有益で実用的な変わった道具などを好む傾向があるのだ。
それ故か、不死たちの女王であるヘル曰く、貴族には理解し難い物を微々たる出費で買い集めているらしい。
時折、そのことを嘆く悲痛な声を聞いたことがある。
もっとも、俺を含め、お気楽なスレイプニル、なかなか顔を合わせられぬヨルムンガンド、そして、子ども心の無くならぬナリとナルヴィなどには、逆にヘルの言うことが理解出来ず、特に何も言わないせいか、彼女の収集癖は止まらないようだ。
今回もおそらくはその手の物なのだろうな…。
到着したヘルがまた頭を抱えるであろうことを、頭の片隅で予想しつつ、あーでもない、こーでもない、と独り言を呟きながら、懸命に木製の何かを弄る魔王の後ろ姿を見守る。
「…出来たな」
此処へ到着して十分程が経ち、月の位置がだんだんと南に登り始めた頃、魔王が満足気に呟く。
見ると、そこには、普段彼女が座っている椅子よりも、装飾などでは幾分か劣るものの、それでも、背中を思い切り預けられる大きな背もたれに、手を置くための肘掛けがある、木製の椅子が出来上がっていた。
「折り畳みの出来る椅子らしい。なかなか良い物だろう?」
完成した椅子に腰掛け、肘掛けの部分を撫でる魔王の言葉に、静かに頷く。
これほどの物ならば、今回はヘルも目を瞑ってくれるだろう。
こちらの肯定の答えに、満足したのか、目を閉じ、夜風に身を任せる魔王の隣へそっと移動する。
謁見の間でもないのに、魔王の目の前にいつまでも鎮座するのはどこか居心地が悪かった。
時はまだ夜を迎えたばかり、集まるべき者たちは未だ魔王以外来ない中、風は少し耳障りになってきた。
その夜風は無神経に喉元の傷を撫で、忘れかけていた疼きを思い起こさせる。
しかし、かといって引っ掻くことも出来ないため、もどかしい思いで、また喉元へと触れ、その疼きを宥める他ないのが辛い。
「…貴公の傷はまだ痛むのか?」
そんな様子を見ていたのか、隣に座る魔王が小さく尋ねる。
この傷を受けたのは、もはや十年以上も前のこと。
そんな古傷を未だに気にしているのだ、他者が不思議がるのも決して分からぬことではない。
だが、命こそ助かったが、“声”を奪っていった程の傷だ。
表面の上は醜い傷跡へ癒えていたとしても、それ以上の爪痕がないとは断言出来ない。
もっとも、だからといって、他者に、それも魔王に心配してもらう必要性はない。
目を細め、眉間に微かな皺を寄せる魔王に、首を横に振って見せる。
確かに声を失ったことは、人の世で暮らす日常において、不便さを感じることがひどく多い。
声が不要であった日などない、そう言い切っても過言ではない程に。
しかし、声を無くしたおかげで、得たものもある。
…“彼女”のような幸福を。
「…そうか、ならば良い。…フェンリル、貴公は今回の会合、如何様に見る?」
視線を再び前へと戻し、ぼんやりと先の景色を見つめながら、魔王はこちらが言葉を失っていることを、本当に理解しているのか疑いたくなる、解の難しい質問をぶつけてくる。
というのも、今回の会合は、いつもの幹部にシエル王を含めた、力と権力の決まりきった狭い世界ではないのだ。
三年前の謀りのおかげで、数多くの魔物たちがこの人の世に移り住んで来ることを許されたが、全ての魔物たちに許可が出た訳ではない。
人の世にあまりに適さぬ性質の者や、人の世に出る気の無い者、そして、そんな者たちを統べる各種族の長たち。
今回の出席者たちは皆、荒んだ魔界に留まることを命じられた、そんな各種族の長たちなのだ。
詳しい会合の内容こそまだ伝えられてはいないが、彼らが招集されることから察するに、遂に彼らを人の世に招く手筈が整ったのか、或いは、その逆か。
どちらにしても、また人の世と魔界のどちらかに影響を及ぼすであろう決定が下されることになるだろう。
しかし、おそらく魔王が尋ねている真意はそこではない。
彼女が危惧しているのは、今回の会合に出席する者たちの服従心だろう。
単純な力の関係であれば、魔王に敵う魔物など存在しないが、時に思い上がった野心を抱く者はいる。
魔界が危機に瀕し、他種族との生存競争や縄張り争いにかまけることの出来なくなった現在では、特にその傾向は顕著だと言える。
苦しい生活を強いられていることへの不満や、人の世に渡ることを許された者たちへの劣等感など、湧き上がってきてしまう鬱憤を晴らすことが出来ないせいだろう。
そして、そんな感情の矛先は必ず上を向いてしまうのだ。
しかし、そんな感情を抱く者たち全てを処断する訳にはいかない。
良くも悪くも、そういった感情さえ、体を動かす原動力となる。
それを心得てか、魔物たちのそんな気概を奮うため、自身にその気がないにしても、敢えて反逆心を煽る長もいるという噂だ。
それも責めることは出来ない。
人の世での基盤固めのためとはいえ、魔界のことを長たちに任せきりでいるのも事実。
しかし、その奥底に本物の敵愾心を燃やす長やその部下をこの人の世に招き入れ、くだらぬことをさせる訳にはいかない。
故に、魔王はそんな長たちの本心を見定めようとしているのだろう。
今回の会合に出席する長たちの数は八。
そんな中で最も危惧すべきなのは、あの長だろう。
奴は魔王程ではないにしても、本気で戦うとなれば他種族を一瞬にして滅ぼすことが出来るだけの力を持っている。
それだけならばまだ良いものを、知的であり、かなりの切れ者だというのだから、更に厄介だと言わざるを得ない。
これまでも魔王の意に反する意見、行動を取り続けてきた奴が、今回の会合中も黙っているとは思えないが、その影響力故省く訳にもいかないのだ。
“奴にだけは注意を払うべきかと…”
あらゆる物事に対して、敏感に反応し、無意識下に多くの感情や想いを生み出す心。
そんな中に不意に入ってきた柔らかな手は、こちらが伝えたいと思っている想いを、遠慮がちな手つきで抜き取っていく。
「…あぁ、そうだな。奴には注意するとしよう」
こちらの想いを受け取った魔王は静かに頷く。
言葉を失った時から、魔王とのコミュニケーションはこうして取っている。
話せない上に、文字すら上手く書けないこちらにとって、他者とのコミュニケーションはひどく難儀することが多いが、心の内を読める魔王とはさして苦労しない。
もっとも、だからといって、他の者とのコミュニケーションを面倒がっているという訳ではない。
彼らも、こちらの表情や仕草で大体のことを察してくれるのだから。
▽
強くなった夜風に流され、周りに浮いていた雲が消えると、月明かりが更に強くなる。
その後は会話も無く、目を閉じ、全員の到着を待っていると、鼓膜と鼻腔が微かな気配を感じ取った。
風を掻き分け、地面を蹴る音が近づいてくる。
…四足歩行に、似ているが微かに違う匂い。
彼らか。
初めてその気配を感じ取ってから、数十秒程が立つと、月の輝きにも負けぬ程、煌びやかではあるが、少し毛並みの悪さが目立つ金色の体毛を持つ狼と、その背中にくっつく、青紫色の髪をした少年が姿を現した。
そして、金色の狼が魔王の前へと来ると、少年は背から飛び降り、慌てて跪く。
「申し訳ございません、魔王様。貴女様よりも到着が遅くなってしまったこと、心よりお詫び申し上げます…!」
「いや、貴公が謝ることではない、ナリ。むしろ、すまないな、こんな時間に連れて来させてしまって…」
「とんでもございません。魔王様の命であれば、我々は何処へでも行きます」
跪き、垂れていた頭を更に下げるナリ。
しかし、そんな生真面目なナリとは打って変わり、金色の狼は眠たそうに大きな欠伸をしている。
そんな狼の態度が気に入らなかったのか、ナリは魔王に一言を告げて突然立ち上がると、狼の片頬を両手で引っ張り、抓る。
「ナルヴィ!なんですかその態度は!?会合のことを忘れ、寝入っていたあなたがそんな態度を取れると思っているのですか!?」
「ほ、ほへんったら!ひ、ひょっと、ねはったはへで…!」
狼となっても、やはり中身はナルヴィ。
兄に怒られ、何とも情け無い格好と声で謝罪する。
生真面目なナリが最初に、この集合場所にいなかったのは、どうやらナルヴィが会合を忘れて眠ってしまったからのようだ。
狼の姿から人の子どもと大差ない姿に戻ったナルヴィの金髪は、寝癖のせいかいつも以上にぼさぼさとなっている。
「くくっ、随分と賑やかですね?」
ナリのお叱りを受けるナルヴィの様子を見つめていると、聞き慣れた声がふっと地面から湧いてくる。
見ると、地面にぽっかりと黒い穴が開き、そこから少しずつヘルが顔を見せ始めていた。
「ヘルか…。シエル王はもう眠ったのか?」
「はい、一応身の回りの世話もフェヌアがいるので、おそらく大丈夫かと…」
大丈夫だと告げる割には、ヘルの面持ちはあまり優れない。
大方、フェヌアという召使いのことが気掛かりなのだろう。
三年前の各国の王による会談において、シエル王が連れ帰って来た他国の召使いらしいが、直々に連れ帰っただけあり、かなり気に入っているという話を耳にしたことがある。
それ故か、シエル王の養育係兼、後の妃となり、都合の良い地位を確立するよう命じられているヘルにとしては、彼女のことはあまり好ましく思っていないのだろう。
ましてや、彼女が一夜とはいえ、シエル王の世話をしている、それが気掛かりに違いない。
…まぁ、最近のヘルを見ていれば、命令以上の想いがあることくらい分かるけど。
欠伸とため息が交互に漏れる中、残るスレイプニルを待っていると、意外にも空気を蹴る蹄の音はすぐに聞こえてきた。
「おぉ!皆既に集まっておられたか!」
屈託のない笑顔を浮かべたスレイプニルが、夜空を駆けて来る。
珍しい…。
シエル王やヘルが愚痴り、自身も煮え湯、とまでは言わないが、思っているよりは冷たかった湯を飲まされた経験があるだけに、あの時刻完璧厳守主義のスレイプニルが約束の時刻よりも早くやって来るとは。
本人に悟られる心配もせず、ぼんやりと口を開けたまま、そんなことを考えていると、ふと、懐中時計を確認するナリと目があった。
ナリは手に持った懐中時計をこちらへと見せ、少し照れた笑みを浮かべる。
…この子凄いよ、さすがナルヴィのお兄ちゃん。
耳障りであった風の音を掻き消す、他の者たちの会話に耳を傾けていると、それとは別の話し声、また金属の触れ合う高い音が耳に届く。
音のする方へと顔を向けると、月光に照らされた丘陵地帯を、のんびりと歩く二つの影があった。
一つは、遠目でも分かる程、額に大きな二本の角を持ち、恐ろしげな表情を浮かべるも、身に纏う着物はひどく美しく、見る者全てを魅了する背の高い鬼。
もう一つは、土瓶と呼ばれる容器を頭に、身体は一つ一つ模様の違う割れた皿や土色の置物の様な物で構成され、背中には何とも間抜けな表情の大きな狸を担ぐ武者。
どうやら、こちらの胃を思いやってか、問題のない長たちからやって来てくれるらしい。
「いやはや、皆さまどーも、どーも!瀬戸大将並びに、真蛇。ただ今参上、致しました~!」
「…」
どこから声を出しているのか、土瓶頭に眼鏡をかけた瀬戸大将は片手を前に出し、片足立ちとなって、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。
…相変わらず、その空気の読めなさを武器として使ってくるね。
この如何にも陽気そうな者こそ、元は命を持たなかったが、諸条件により命と意思を持つことが出来た、ゴーレムやガーゴイルなど、物質的な魔物たちを統べる長。
瀬戸大将。
そして、そんな横の者には気にも留めず、深々と頭を下げる、恐ろしい鬼の面を付けるのが、ゴブリンやエルフなど人型に近い形の魔物たちを統べる長。
真蛇。
どちらも癖の強い長たちではあるが、前魔王時代には、その種族の弱さから不遇な扱いを受けていたせいもあってか、自分たちの立場を高くしてくれた現魔王への感謝の意を決して忘れず、深い忠誠を誓っている。
「ふふっ、よく来てくれた、瀬戸大将に真蛇。礼を言うぞ」
魔王は真蛇に倣ってか、椅子に座りながら頭を下げる。
「な~に、御礼なんてもんはいりやせんよ。こっちはこっちで、一日だけとはいえ、人間界を散策出来た訳ですから」
その戦利品とでも言いたいのか、瀬戸大将は背中に担ぐ狸をぺしぺしと叩き、真蛇は着物の袖から、小さな手鏡と紅板を取り出して見せる。
今回の会合が、彼ら長たちを人の世に連れて来るための決議だとしたら、二人は何の問題もなく通ることが出来るだろう。
魔王への簡単な挨拶を済ませると、瀬戸大将はヘル、スイプニルと、真蛇はナリとナルヴィたちとの話に花を咲かせ始める。
特別仲が良いという訳ではないが、それでも、久しぶりに会う魔界の魔物たちだからか、笑顔で話している。
二人が到着すると間もなく、次は大きな地鳴りが、次なる長たちの到着を予告した。
肉球の感触から、揺れがより大きい方向を探知し、その方角へと目を向ける。
そこには、身体中のあらゆる箇所に付いた目をぎょろぎょろと動かす、月を隠さんばかりに大きな巨人が、大きな桶の様な物を持って、こちらへとゆっくり歩いて来る。
巨人族の長、アルゴスだ。
アルゴスが次第に近づき、立つことが難しくなってくると、地響きの中に、微かな声が混じっていることに気がついた。
目を凝らすと、アルゴスの肩には三つの影があり、落ちることを恐怖しないのか、それらはこちらへと両手を振っている。
右肩に乗った二つの影は小さく、全く同じ手の振り方をしており、左肩に乗ったもう一つ影は二つのものよりも身長的にも、手の振り方的にも大きい。
アルゴスの肩に乗っている時点で、彼らも長であることは確定している。
あぁ、可愛いあの長たちか…。
その者たちが何者なのか分かった時には、左肩に乗った一つの影が無数に分裂し、ぱたぱたはためく黒い影となってこちらへと向かって来る。
「へ~ル~さ~ま~!」
無数の黒い影に見えていたそれらは小さな蝙蝠たちであり、彼らはヘルの前まで来ると、再び人の姿を形作り始める。
そして、豪華な装飾に彩られたドレスに身を包む金髪の女へと姿を変えると、ヘルの近くに立っていた瀬戸大将とスレイプニルを吹き飛ばす。
スレイプニルの馬具や瀬戸大将の鎧の甲高い音が辺りにこだまする。
だが、女はそんなことには気にも留めず、ヘルの両頬を包み込むと、自身の唇を寄せた。
吹き飛ばされた瀬戸大将は打たれた頬らしき部分を撫で、倒れ込んだスレイプニルはじたばたと踠き、真蛇はナリとナルヴィの目を慌てて隠す。
…ヘルが憂鬱そうだったのは、こちらが原因だったのかも。
彼女はヴァンパイア、不死の女王であるヘルの側近であり、ヘルがいなくなった魔界において、長として不死たちを統率している。
高貴を自称する魔物の典型例の様なところのある魔物だが、女王であるヘルには心酔してきっており、深い愛情、らしきものを示しているが、ヘル自体はあまり良い反応はしていない。
厄介な子どもに振り回される、母親の様な感じだろうか。
怒っても、注意しても、効き目があまりなく、逆にし過ぎれば、愚図つき始めるらしい。
性根から優しい彼女にとっては、かなり苦労するタイプだ。
そんな二人の口吸風景から目を逸らし、こちらへと近づくアルゴスへと再び目を向ける。
ある程度こちらへと近づいたアルゴスは手に持っていた桶の様な物をゆっくりと地面へ下ろす。
近くで見るとそれはかなり大きく、中に水が入っていたのか、下ろした時の衝撃で大量の水が溢れる。
大きな容器、水、アルゴス…。
あぁ、なるほど…。
桶の中身の察しがついたその瞬間、中から八本もの青色の触手が飛び出し、縁へと掴まると、本体が顔を出した。
…触手同様、相変わらず顔色の悪い顔だね。
「くはぁっ…!あぁ、くっそ…!アルゴスてめぇ!もっと大事に下ろせ!このタコ!水が無くなったらどうすんだっ!?」
真っ赤な目を釣り上げ、金切り声にも近い耳障りな声で叫ぶ魔物の名は、クラーケン。
ヴァンパイア同様、ヨルムンガンドの代わりとして、比較的平穏な海の魔物たちの統率を任されている魔物だ。
何故ヨルムンガンドが、ヴォジャノーイやセベクなど、優秀な他の候補者たちを退けてまで、彼を選んだのかは知らないが、そのせいで他の魔物たちに絡まられることが多くなったとのことらしい。
その結果、長を辞めたいという手紙が魔界から大量に届いていたと、三年前、久々にシエル王城で出会ったヨルムンガンドは笑っていた。
「おい!聞いてんのか…ぶわっぷはっ!?」
そんなクラーケンの金切り声を止めたのは、アルゴスの肩から飛び降りた二つの小さな影だった。
それらは勢いよくクラーケンの入っている桶へと飛び込み、大量の水飛沫を辺りへと飛び散らす。
「「気持ちいいね!」」
声質こそ微かに違うが、重なり合った愛らしい声が響く。
「おいー!?てめぇらはイカの話を聞けねぇのかぁ!?水が溢れるって言ってんだろ!?」
「「だって気持ち良さそうだったんだもん!」」
「うるせぇ!さっさと俺のパーソナルスペースから出やがれぇ!」
「「うわっ!」」
桶から出ていた触手は一度桶の中へと引っ込むと、今度は愛らしい着物姿の二人の子どもを摘んで出てくる。
「「不思議な感触!気持ち悪い!」」
「黙れぇ!?こっちだって少し気にしてんだ!ちったぁ、察しろくそガキども!」
きゃんきゃん叫びつつも、クラーケンの触手はゆっくりと地面へ子どもたちを下ろす。
「「二龍松、参りました!」」
触手に軽く手を振ると、同じ格好に、似た容姿の子どもたちはぺこりと頭を下げる。
彼らこそ、マンドラゴラやアルラウネなどの魔界の植物に近い魔物たちを統べる長、二龍松。
双子の様に姿形が似ており、その容姿こそ幼く、愛らしいが、魔界における植生に関しては、どの魔物よりも詳しく、故に、植物の魔物たちは二人に敵わず、自然と長の地位に上がった、恐ろしい魔物でもある。
これで残る長は二。
種族は、“獣”と“竜”だ。
陽が沈み、数時間が過ぎた。
草木を揺り籠の様に揺らしていた風すら寝静まったのか、鬱陶しかった風の音は無い。
しかし、最初こそ良く聞こえていた彼らの会話も、今や静かになってしまった。
その姿から想像に難く無く、ナリやナルヴィ、二龍松は、いつの間にやら真蛇の太腿に頭を乗せて愛らしい寝息を立てている。
そんな彼らを気遣ってか、スレイプニルと瀬戸大将、アルゴスは少し離れた所で、担いでいた狸を指差しながら小声で何かを話している。
ヘルとヴァンパイアに至っては、もはや他人の目など気にすることなく情交を続けている。
といっても、やる気があるのはヴァンパイアのみで、ヘルはぼんやりと夜空を見上げている。
残されたクラーケンは桶の中へと引っ込み、ぶつぶつと水の中で小言でも告げているのか、泡の破裂音が小さく聞こえてくる。
皆が“獣”と“竜”の長を待っていた。
良くも悪くも、彼ら抜きで会合は始められない。
理由はひどく簡単だ。
彼らの力は他の長や種族たちを抜きん出ている、たったそれだけ。
“竜”の長に関しては、前魔王に仕えていたこともあり、個体数や種類数こそ少ないが、その力は絶対的なものだ。
逆に“獣”の長は、そんな竜たちでさえ戦うことを躊躇う程、他種族の長を遥かに上回る数の魔物たちを、信頼という形でのみ統率している。
故に、“獣”の長を怒らせ、全ての獣の魔物を敵に回すことは、たとえ魔王であっても避けたいのだ。
…結果、こうして各々が文句も言えずに、のんびり彼らを待つ他ない。
雲が無くなり、煌々と輝く夜空の光と、微かながらに聞こえる水音を拒絶して、幾らかの時間が過ぎた時、毛の先に明らかな悪寒が走った。
…来た。
いつまでも営みを続ける二人を睨みつけ、その目合ひを止めると、全神経を耳へと集中させる。
遥か遠くではあるが、切り裂かれる風の悲鳴が聞こえ、その悲鳴はあからさまに近づいて来る。
「…来たか」
頬杖を突く魔王が気怠げに告げる。
その言葉に頷いてみせると、皆素早く動き出す。
…全く、恐ろしい奴だ。
未だ遥か遠方にいるにも関わらず、こちらの本能的な恐怖心を刺激してくるなんて。
“獣”の長が先に来てくれれば良かったが、やはりそこまでこちらにとって都合の良い世界はないらしい。
嵐の前の静けさの様に、耳を劈く様な、苦しい無音に世界が包まれる。
準備を整えた誰しもが空を見上げ、大きな一つの月と無数の星がせめぎ合う夜空に、奴の姿形を探す。
もはや、風の悲鳴は聞こえない。
つまり、近くにいることは間違いな…。
不意に、夜空の輝きの幾つかが消えた。
かと思うと、その周辺の光が次々に消えていく。
そして…。
「「「うわぁぁぁぁ!?」」」
アルゴスの時に感じたものよりも、遥かに大きい地鳴りが強風と共に襲い掛かる。
揺れる地にしがみつきたくなる程の振動と強風は、体の軽いナリたちを吹き飛ばし、クラーケンが入る桶をひっくり返そうとする。
まずい…!
揺れる地を何とか蹴り、地面と水平に吹き飛ばされるナリたちを体や口を使って止め、クラーケンの桶はアルゴスに任せる。
四人を風下側へと回らせ、風除けとなって、この強風が収まるのを待つ。
実際どれほどの風が襲い掛かってきたかは分からないが、狂い始めている体内時計では永遠の様にも思えて仕方がなかった。
体毛の震える感覚が無くなるのを確かめ、静かに目を開く。
「野暮用を済ませていたせいか、遅くなってしまった。申し訳ない…」
そこには、如何なる光さえも意味を無くす、黒き鱗に覆われた、“竜”の長、黒龍が凛然と佇んでいた。
巨人であるアルゴスと同じ、或いはそれ以上の体格の黒龍は、ちらりと辺りの者たちへ目を配らせた後、魔王をじっと穏やかな目つきで見つめる。
敵意はない…が、それが逆に空恐ろしかった。
「それは構わん。だが、他の者に迷惑をかけるな」
穏やかで礼儀正しくも、決して腹を読ませぬ、固い口調で告げる黒龍に、あれほどの強風に煽られようとも、椅子から立ち上がることもなかったらしい魔王が釘を刺す。
「…他の者たちも済まなかった。急いでいたとはいえ、お前たちのことも考えずに突っ込んできたのは、浅はかなだった」
魔王へと頭を下げた後、数歩後ろへと退がり、全員が見える位置で再び頭を下げる。
だが、返事出来る者は誰一人いない。
ここにいる者たちは、奴の過去の姿を知っている。
恐ろしく、残忍で、狡猾な、正にその姿に等しい黒龍を。
故に、その様変わりから十年近い歳月が経ったとはいえ、今の奴を受け入れるのは、全ての魔物の王である魔王以外にはいないのだ。
…それにしても、直接顔を合わせるのはひどく久しぶりだ。
クエレブレやサラマンダーなど、人の世へ渡ることを許された、他の竜族から話程度は聞いていたが、まさかこれほどとは…。
いつも痛む喉元の傷ではなく、胸の奥がずきりと痛む。
それほどまでに、娘である、“トゥバン”が戦死したことが応えたのだろうか…。
空に色の境界が出来始めた。
西に行く程に、仄かな色に照らされ、東に行く程に、柔らかな色に覆われている。
そして、次第に西から迫ってくるその柔らかな色は、東の色を飲み込んでいき、空の下の景色を闇の中へと落としていく。
だが、陽がその役目を果たし、自然なる草木に眠ることを強要しようとも、人は、その厚かましさと豪胆さで、闇を切り裂き、自然を切り裂き、この世界の頂点へと達したという。
自然という摂理の中で産まれながら、同じ自然を破壊する力を手に、底無しの強欲でもって繁殖する彼らに目をつけた前魔王の英断が正しかったのか、間違っていたのか、それは何とも言えない。
だが、魔物である自身からすれば、今現在は平穏が訪れたといっても良いだろう。
もっとも、そんな彼らに生み出されたと言われる“勇者”によって、故郷である魔界を悉く滅ぼされたことを根に持つ魔物たちは未だ数多く存在する。
特に、前魔王が存在していた時代には高位に位置していたと言われる、魔界の中に自分たちの縄張りを持っていた者たちだ。
彼らは魔界の中でも、圧倒的に種族数や個体数が少ない。
しかし、代わりに他の魔物たちとは一線を画す程の実力と能力を持っていた、
故に、彼らはその力によって前魔王から重用され、彼が進めていた人の世の支配に貢献したという。
だが、その結果が、今の我々が置かれた状況だ。
支配しようとしてきた人間たちと共に暮らし、少しずつでも魔界と魔物たちの再生に取り組まねばならない。
そして、そのために現在の魔王に連れられ、人の世に来て早十年以上。
やっとの思いで手に入れた平穏ではあるが、随分時間を費やした…。
多く犠牲も…。
部下というよりも、旧友と呼ぶに等しかったミノタウロスやブラックドッグたちの姿が脳裏にちらつく。
確かに、彼らをその手で殺したのはレイダット・アダマーだ。
だが、世界に平和を与えるためとはいえ、彼らが殺されるのを黙認し、剰え、その協力までしてきたのは、魔王とその部下である我々だ。
謀を計画、実行した“彼女”たちだけを責める訳にはいかない。
どんな大義名分があろうとも、他者の命と幸福を奪い、それを糧とすることは罪だ。
たとえそれが生きるためであったとしても。
故に、人も魔物もいずれはその罪を償い、死んでいく。
死なないのは、それをしない、能ある不死者たちくらいだろう。
西から吹いてくる微かに温められた風に、“彼女”曰く、良くなってきた毛並みを撫でられつつ、静かに体を起こす。
そろそろ行かなくては…。
眠るつもりもないのだが、長い間横になっていたせいか、微睡み始める体の誤解を、大きな欠伸と共に伸びで解いていく。
それにしても、厄介なことだ。
人にその姿を見せぬ為とはいえ、陽が隠れてから始めなくてはならないとは。
…彼らには、少しくらいこちらの生活と性分も考えて欲しい。
あまりに個人的な話ではあるが、こちらは何かしなくてはならないことがあると、頭の中がそのことで一杯になり、どこかそわそわして、他のことに集中出来なくなってしまう性質なのだ。
おかげで、今日は散々“ソル”に怒られてしまった。
ちゃんと話しを聞いていない、遊んでくれない、と可愛らしく頬ばかりを膨らませていた。
ぼんやりと虚空を見つめて過ごすことの多かった彼が、少しずつとはいえ、こちらに気を許し始めていることは嬉しいが、彼に文句を言われるのはやはり切ない。
…明日は“彼女”と共にちゃんと遊んであげよう。
眼下に広がる人の世界を軽く一望し、明日の三人でのお出かけ風景を頭の中に描きながら、テラスの手すりへと前足を掛ける。
そして、西から吹いてくる風に微かな温かみも感じぬことを肌身で感じると、勢いよくテラスから飛び出した。
身体中、特に四肢が引きちぎられてしまいそう程、途轍もない力で後ろへと引っ張られる違和感に耐え、四本足、全てが柔らかな地を踏み締めているのを確認すると、ゆっくり目を開ける。
目の前には、先ほど眼下に望んでいた城下街とは程遠い、月明かりに照らされる丘陵地帯が広がっていた。
テラスで感じたよりも、風は何割か冷たく、また空色も黒で統一されいるあたり、周囲に目印となる光源らしいもの見えぬが、ここはシエル王城よりも東なのだと分かる。
どうやら、“跳ぶ”ことには成功したようだ。
だが…。
ぴりぴりと微かに痛む喉元を引っ掻かぬよう気をつけながら、前足で摩る。
やはり、昔の様に多用は出来ないな、それに、長距離移動も避けた方が良い…。
喉元には、肉球ではなく、毛に覆われた前足の甲で触れたとしても違和感を感じる、大きな傷がある。
人の世で過ごす日常においては、もはや意識せずとも問題がない程度には回復しているのだが、こうして“跳ぶ”時には、負担が掛かるらしく、痛む時があるのだ。
久しぶりに感じる、むず痒さにも似た痛みを堪えつつ、一度辺りを見渡す。
揺り籠に眠る人の子を寝かしつける様に、風が草木を微かに揺らす、月下の丘陵地帯にはまだ誰もいない。
顔を高く上げ、目を凝らして見ても、やはりそれらしい動く影や気配は感じられなかった。
…“彼女”の言う通り、時計を持つべきだったかな?
野を駆け、山を駆け、糧となる魔物たちを食べて廻っていた頃に身につけた体内時計も、十年以上も放っておいては、やはり多少なりとも誤差が生じてきてしまうらしい。
仕方がない、あまり自分の為にお金を使うことは好きではないが、体内時計をしっかりと同期させるためにも、明日は時計を買ってくるとしよう。
そんなことを考えながら、ぼんやりと風に毛を靡かせていると、不意に背後から微かな気配を感じた。
「貴公はやはり早いな、フェンリル」
恐る恐る振り返ると、そこには、こんな丘陵地帯には似つかわしくない、闇に溶け込む様な黒の長い髪とドレスに身を包み、片手には不可思議な木製の何かを持つ魔王が立っていた。
相変わらず何の物音もなく現れる故、下の身分の者にはとっては心臓に悪い。
実際、あまりの恐怖に失神した魔物たちもいると聞く程だ。
更に厄介なのは、彼女自身、そのことをさして気にしておらず、こちらにも気にしないよう敢えて釘を刺すのだから、もはやいちゃもんのつけようもない。
「他の者たちはまだ来ないか…。なら、どれ、これを試してみるか…」
同様に辺りにまだ誰もいないことを確かめると、魔王は手に持っていた木製の何かを地面へと下ろし、その何かを慣れぬ手つきで弄り始める。
少し困った様子も見受けられるが、その顔には微かな笑みさえ浮かんでいる。
…また何かおかしな物を買ったらしい。
野山を駆けずり廻っていた文字通りの一匹狼に、自称を含めた高位な魔物たちの様式美など理解出来る訳もないが、不思議なことにそれは彼女もらしい。
それというのも、彼女は魔王というその身分にも関わらず、酒にも服にも、馬鹿騒ぎにも大した興味を示さず、それらとは正反対に、人が創り出した有益で実用的な変わった道具などを好む傾向があるのだ。
それ故か、不死たちの女王であるヘル曰く、貴族には理解し難い物を微々たる出費で買い集めているらしい。
時折、そのことを嘆く悲痛な声を聞いたことがある。
もっとも、俺を含め、お気楽なスレイプニル、なかなか顔を合わせられぬヨルムンガンド、そして、子ども心の無くならぬナリとナルヴィなどには、逆にヘルの言うことが理解出来ず、特に何も言わないせいか、彼女の収集癖は止まらないようだ。
今回もおそらくはその手の物なのだろうな…。
到着したヘルがまた頭を抱えるであろうことを、頭の片隅で予想しつつ、あーでもない、こーでもない、と独り言を呟きながら、懸命に木製の何かを弄る魔王の後ろ姿を見守る。
「…出来たな」
此処へ到着して十分程が経ち、月の位置がだんだんと南に登り始めた頃、魔王が満足気に呟く。
見ると、そこには、普段彼女が座っている椅子よりも、装飾などでは幾分か劣るものの、それでも、背中を思い切り預けられる大きな背もたれに、手を置くための肘掛けがある、木製の椅子が出来上がっていた。
「折り畳みの出来る椅子らしい。なかなか良い物だろう?」
完成した椅子に腰掛け、肘掛けの部分を撫でる魔王の言葉に、静かに頷く。
これほどの物ならば、今回はヘルも目を瞑ってくれるだろう。
こちらの肯定の答えに、満足したのか、目を閉じ、夜風に身を任せる魔王の隣へそっと移動する。
謁見の間でもないのに、魔王の目の前にいつまでも鎮座するのはどこか居心地が悪かった。
時はまだ夜を迎えたばかり、集まるべき者たちは未だ魔王以外来ない中、風は少し耳障りになってきた。
その夜風は無神経に喉元の傷を撫で、忘れかけていた疼きを思い起こさせる。
しかし、かといって引っ掻くことも出来ないため、もどかしい思いで、また喉元へと触れ、その疼きを宥める他ないのが辛い。
「…貴公の傷はまだ痛むのか?」
そんな様子を見ていたのか、隣に座る魔王が小さく尋ねる。
この傷を受けたのは、もはや十年以上も前のこと。
そんな古傷を未だに気にしているのだ、他者が不思議がるのも決して分からぬことではない。
だが、命こそ助かったが、“声”を奪っていった程の傷だ。
表面の上は醜い傷跡へ癒えていたとしても、それ以上の爪痕がないとは断言出来ない。
もっとも、だからといって、他者に、それも魔王に心配してもらう必要性はない。
目を細め、眉間に微かな皺を寄せる魔王に、首を横に振って見せる。
確かに声を失ったことは、人の世で暮らす日常において、不便さを感じることがひどく多い。
声が不要であった日などない、そう言い切っても過言ではない程に。
しかし、声を無くしたおかげで、得たものもある。
…“彼女”のような幸福を。
「…そうか、ならば良い。…フェンリル、貴公は今回の会合、如何様に見る?」
視線を再び前へと戻し、ぼんやりと先の景色を見つめながら、魔王はこちらが言葉を失っていることを、本当に理解しているのか疑いたくなる、解の難しい質問をぶつけてくる。
というのも、今回の会合は、いつもの幹部にシエル王を含めた、力と権力の決まりきった狭い世界ではないのだ。
三年前の謀りのおかげで、数多くの魔物たちがこの人の世に移り住んで来ることを許されたが、全ての魔物たちに許可が出た訳ではない。
人の世にあまりに適さぬ性質の者や、人の世に出る気の無い者、そして、そんな者たちを統べる各種族の長たち。
今回の出席者たちは皆、荒んだ魔界に留まることを命じられた、そんな各種族の長たちなのだ。
詳しい会合の内容こそまだ伝えられてはいないが、彼らが招集されることから察するに、遂に彼らを人の世に招く手筈が整ったのか、或いは、その逆か。
どちらにしても、また人の世と魔界のどちらかに影響を及ぼすであろう決定が下されることになるだろう。
しかし、おそらく魔王が尋ねている真意はそこではない。
彼女が危惧しているのは、今回の会合に出席する者たちの服従心だろう。
単純な力の関係であれば、魔王に敵う魔物など存在しないが、時に思い上がった野心を抱く者はいる。
魔界が危機に瀕し、他種族との生存競争や縄張り争いにかまけることの出来なくなった現在では、特にその傾向は顕著だと言える。
苦しい生活を強いられていることへの不満や、人の世に渡ることを許された者たちへの劣等感など、湧き上がってきてしまう鬱憤を晴らすことが出来ないせいだろう。
そして、そんな感情の矛先は必ず上を向いてしまうのだ。
しかし、そんな感情を抱く者たち全てを処断する訳にはいかない。
良くも悪くも、そういった感情さえ、体を動かす原動力となる。
それを心得てか、魔物たちのそんな気概を奮うため、自身にその気がないにしても、敢えて反逆心を煽る長もいるという噂だ。
それも責めることは出来ない。
人の世での基盤固めのためとはいえ、魔界のことを長たちに任せきりでいるのも事実。
しかし、その奥底に本物の敵愾心を燃やす長やその部下をこの人の世に招き入れ、くだらぬことをさせる訳にはいかない。
故に、魔王はそんな長たちの本心を見定めようとしているのだろう。
今回の会合に出席する長たちの数は八。
そんな中で最も危惧すべきなのは、あの長だろう。
奴は魔王程ではないにしても、本気で戦うとなれば他種族を一瞬にして滅ぼすことが出来るだけの力を持っている。
それだけならばまだ良いものを、知的であり、かなりの切れ者だというのだから、更に厄介だと言わざるを得ない。
これまでも魔王の意に反する意見、行動を取り続けてきた奴が、今回の会合中も黙っているとは思えないが、その影響力故省く訳にもいかないのだ。
“奴にだけは注意を払うべきかと…”
あらゆる物事に対して、敏感に反応し、無意識下に多くの感情や想いを生み出す心。
そんな中に不意に入ってきた柔らかな手は、こちらが伝えたいと思っている想いを、遠慮がちな手つきで抜き取っていく。
「…あぁ、そうだな。奴には注意するとしよう」
こちらの想いを受け取った魔王は静かに頷く。
言葉を失った時から、魔王とのコミュニケーションはこうして取っている。
話せない上に、文字すら上手く書けないこちらにとって、他者とのコミュニケーションはひどく難儀することが多いが、心の内を読める魔王とはさして苦労しない。
もっとも、だからといって、他の者とのコミュニケーションを面倒がっているという訳ではない。
彼らも、こちらの表情や仕草で大体のことを察してくれるのだから。
▽
強くなった夜風に流され、周りに浮いていた雲が消えると、月明かりが更に強くなる。
その後は会話も無く、目を閉じ、全員の到着を待っていると、鼓膜と鼻腔が微かな気配を感じ取った。
風を掻き分け、地面を蹴る音が近づいてくる。
…四足歩行に、似ているが微かに違う匂い。
彼らか。
初めてその気配を感じ取ってから、数十秒程が立つと、月の輝きにも負けぬ程、煌びやかではあるが、少し毛並みの悪さが目立つ金色の体毛を持つ狼と、その背中にくっつく、青紫色の髪をした少年が姿を現した。
そして、金色の狼が魔王の前へと来ると、少年は背から飛び降り、慌てて跪く。
「申し訳ございません、魔王様。貴女様よりも到着が遅くなってしまったこと、心よりお詫び申し上げます…!」
「いや、貴公が謝ることではない、ナリ。むしろ、すまないな、こんな時間に連れて来させてしまって…」
「とんでもございません。魔王様の命であれば、我々は何処へでも行きます」
跪き、垂れていた頭を更に下げるナリ。
しかし、そんな生真面目なナリとは打って変わり、金色の狼は眠たそうに大きな欠伸をしている。
そんな狼の態度が気に入らなかったのか、ナリは魔王に一言を告げて突然立ち上がると、狼の片頬を両手で引っ張り、抓る。
「ナルヴィ!なんですかその態度は!?会合のことを忘れ、寝入っていたあなたがそんな態度を取れると思っているのですか!?」
「ほ、ほへんったら!ひ、ひょっと、ねはったはへで…!」
狼となっても、やはり中身はナルヴィ。
兄に怒られ、何とも情け無い格好と声で謝罪する。
生真面目なナリが最初に、この集合場所にいなかったのは、どうやらナルヴィが会合を忘れて眠ってしまったからのようだ。
狼の姿から人の子どもと大差ない姿に戻ったナルヴィの金髪は、寝癖のせいかいつも以上にぼさぼさとなっている。
「くくっ、随分と賑やかですね?」
ナリのお叱りを受けるナルヴィの様子を見つめていると、聞き慣れた声がふっと地面から湧いてくる。
見ると、地面にぽっかりと黒い穴が開き、そこから少しずつヘルが顔を見せ始めていた。
「ヘルか…。シエル王はもう眠ったのか?」
「はい、一応身の回りの世話もフェヌアがいるので、おそらく大丈夫かと…」
大丈夫だと告げる割には、ヘルの面持ちはあまり優れない。
大方、フェヌアという召使いのことが気掛かりなのだろう。
三年前の各国の王による会談において、シエル王が連れ帰って来た他国の召使いらしいが、直々に連れ帰っただけあり、かなり気に入っているという話を耳にしたことがある。
それ故か、シエル王の養育係兼、後の妃となり、都合の良い地位を確立するよう命じられているヘルにとしては、彼女のことはあまり好ましく思っていないのだろう。
ましてや、彼女が一夜とはいえ、シエル王の世話をしている、それが気掛かりに違いない。
…まぁ、最近のヘルを見ていれば、命令以上の想いがあることくらい分かるけど。
欠伸とため息が交互に漏れる中、残るスレイプニルを待っていると、意外にも空気を蹴る蹄の音はすぐに聞こえてきた。
「おぉ!皆既に集まっておられたか!」
屈託のない笑顔を浮かべたスレイプニルが、夜空を駆けて来る。
珍しい…。
シエル王やヘルが愚痴り、自身も煮え湯、とまでは言わないが、思っているよりは冷たかった湯を飲まされた経験があるだけに、あの時刻完璧厳守主義のスレイプニルが約束の時刻よりも早くやって来るとは。
本人に悟られる心配もせず、ぼんやりと口を開けたまま、そんなことを考えていると、ふと、懐中時計を確認するナリと目があった。
ナリは手に持った懐中時計をこちらへと見せ、少し照れた笑みを浮かべる。
…この子凄いよ、さすがナルヴィのお兄ちゃん。
耳障りであった風の音を掻き消す、他の者たちの会話に耳を傾けていると、それとは別の話し声、また金属の触れ合う高い音が耳に届く。
音のする方へと顔を向けると、月光に照らされた丘陵地帯を、のんびりと歩く二つの影があった。
一つは、遠目でも分かる程、額に大きな二本の角を持ち、恐ろしげな表情を浮かべるも、身に纏う着物はひどく美しく、見る者全てを魅了する背の高い鬼。
もう一つは、土瓶と呼ばれる容器を頭に、身体は一つ一つ模様の違う割れた皿や土色の置物の様な物で構成され、背中には何とも間抜けな表情の大きな狸を担ぐ武者。
どうやら、こちらの胃を思いやってか、問題のない長たちからやって来てくれるらしい。
「いやはや、皆さまどーも、どーも!瀬戸大将並びに、真蛇。ただ今参上、致しました~!」
「…」
どこから声を出しているのか、土瓶頭に眼鏡をかけた瀬戸大将は片手を前に出し、片足立ちとなって、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。
…相変わらず、その空気の読めなさを武器として使ってくるね。
この如何にも陽気そうな者こそ、元は命を持たなかったが、諸条件により命と意思を持つことが出来た、ゴーレムやガーゴイルなど、物質的な魔物たちを統べる長。
瀬戸大将。
そして、そんな横の者には気にも留めず、深々と頭を下げる、恐ろしい鬼の面を付けるのが、ゴブリンやエルフなど人型に近い形の魔物たちを統べる長。
真蛇。
どちらも癖の強い長たちではあるが、前魔王時代には、その種族の弱さから不遇な扱いを受けていたせいもあってか、自分たちの立場を高くしてくれた現魔王への感謝の意を決して忘れず、深い忠誠を誓っている。
「ふふっ、よく来てくれた、瀬戸大将に真蛇。礼を言うぞ」
魔王は真蛇に倣ってか、椅子に座りながら頭を下げる。
「な~に、御礼なんてもんはいりやせんよ。こっちはこっちで、一日だけとはいえ、人間界を散策出来た訳ですから」
その戦利品とでも言いたいのか、瀬戸大将は背中に担ぐ狸をぺしぺしと叩き、真蛇は着物の袖から、小さな手鏡と紅板を取り出して見せる。
今回の会合が、彼ら長たちを人の世に連れて来るための決議だとしたら、二人は何の問題もなく通ることが出来るだろう。
魔王への簡単な挨拶を済ませると、瀬戸大将はヘル、スイプニルと、真蛇はナリとナルヴィたちとの話に花を咲かせ始める。
特別仲が良いという訳ではないが、それでも、久しぶりに会う魔界の魔物たちだからか、笑顔で話している。
二人が到着すると間もなく、次は大きな地鳴りが、次なる長たちの到着を予告した。
肉球の感触から、揺れがより大きい方向を探知し、その方角へと目を向ける。
そこには、身体中のあらゆる箇所に付いた目をぎょろぎょろと動かす、月を隠さんばかりに大きな巨人が、大きな桶の様な物を持って、こちらへとゆっくり歩いて来る。
巨人族の長、アルゴスだ。
アルゴスが次第に近づき、立つことが難しくなってくると、地響きの中に、微かな声が混じっていることに気がついた。
目を凝らすと、アルゴスの肩には三つの影があり、落ちることを恐怖しないのか、それらはこちらへと両手を振っている。
右肩に乗った二つの影は小さく、全く同じ手の振り方をしており、左肩に乗ったもう一つ影は二つのものよりも身長的にも、手の振り方的にも大きい。
アルゴスの肩に乗っている時点で、彼らも長であることは確定している。
あぁ、可愛いあの長たちか…。
その者たちが何者なのか分かった時には、左肩に乗った一つの影が無数に分裂し、ぱたぱたはためく黒い影となってこちらへと向かって来る。
「へ~ル~さ~ま~!」
無数の黒い影に見えていたそれらは小さな蝙蝠たちであり、彼らはヘルの前まで来ると、再び人の姿を形作り始める。
そして、豪華な装飾に彩られたドレスに身を包む金髪の女へと姿を変えると、ヘルの近くに立っていた瀬戸大将とスレイプニルを吹き飛ばす。
スレイプニルの馬具や瀬戸大将の鎧の甲高い音が辺りにこだまする。
だが、女はそんなことには気にも留めず、ヘルの両頬を包み込むと、自身の唇を寄せた。
吹き飛ばされた瀬戸大将は打たれた頬らしき部分を撫で、倒れ込んだスレイプニルはじたばたと踠き、真蛇はナリとナルヴィの目を慌てて隠す。
…ヘルが憂鬱そうだったのは、こちらが原因だったのかも。
彼女はヴァンパイア、不死の女王であるヘルの側近であり、ヘルがいなくなった魔界において、長として不死たちを統率している。
高貴を自称する魔物の典型例の様なところのある魔物だが、女王であるヘルには心酔してきっており、深い愛情、らしきものを示しているが、ヘル自体はあまり良い反応はしていない。
厄介な子どもに振り回される、母親の様な感じだろうか。
怒っても、注意しても、効き目があまりなく、逆にし過ぎれば、愚図つき始めるらしい。
性根から優しい彼女にとっては、かなり苦労するタイプだ。
そんな二人の口吸風景から目を逸らし、こちらへと近づくアルゴスへと再び目を向ける。
ある程度こちらへと近づいたアルゴスは手に持っていた桶の様な物をゆっくりと地面へ下ろす。
近くで見るとそれはかなり大きく、中に水が入っていたのか、下ろした時の衝撃で大量の水が溢れる。
大きな容器、水、アルゴス…。
あぁ、なるほど…。
桶の中身の察しがついたその瞬間、中から八本もの青色の触手が飛び出し、縁へと掴まると、本体が顔を出した。
…触手同様、相変わらず顔色の悪い顔だね。
「くはぁっ…!あぁ、くっそ…!アルゴスてめぇ!もっと大事に下ろせ!このタコ!水が無くなったらどうすんだっ!?」
真っ赤な目を釣り上げ、金切り声にも近い耳障りな声で叫ぶ魔物の名は、クラーケン。
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「おいー!?てめぇらはイカの話を聞けねぇのかぁ!?水が溢れるって言ってんだろ!?」
「「だって気持ち良さそうだったんだもん!」」
「うるせぇ!さっさと俺のパーソナルスペースから出やがれぇ!」
「「うわっ!」」
桶から出ていた触手は一度桶の中へと引っ込むと、今度は愛らしい着物姿の二人の子どもを摘んで出てくる。
「「不思議な感触!気持ち悪い!」」
「黙れぇ!?こっちだって少し気にしてんだ!ちったぁ、察しろくそガキども!」
きゃんきゃん叫びつつも、クラーケンの触手はゆっくりと地面へ子どもたちを下ろす。
「「二龍松、参りました!」」
触手に軽く手を振ると、同じ格好に、似た容姿の子どもたちはぺこりと頭を下げる。
彼らこそ、マンドラゴラやアルラウネなどの魔界の植物に近い魔物たちを統べる長、二龍松。
双子の様に姿形が似ており、その容姿こそ幼く、愛らしいが、魔界における植生に関しては、どの魔物よりも詳しく、故に、植物の魔物たちは二人に敵わず、自然と長の地位に上がった、恐ろしい魔物でもある。
これで残る長は二。
種族は、“獣”と“竜”だ。
陽が沈み、数時間が過ぎた。
草木を揺り籠の様に揺らしていた風すら寝静まったのか、鬱陶しかった風の音は無い。
しかし、最初こそ良く聞こえていた彼らの会話も、今や静かになってしまった。
その姿から想像に難く無く、ナリやナルヴィ、二龍松は、いつの間にやら真蛇の太腿に頭を乗せて愛らしい寝息を立てている。
そんな彼らを気遣ってか、スレイプニルと瀬戸大将、アルゴスは少し離れた所で、担いでいた狸を指差しながら小声で何かを話している。
ヘルとヴァンパイアに至っては、もはや他人の目など気にすることなく情交を続けている。
といっても、やる気があるのはヴァンパイアのみで、ヘルはぼんやりと夜空を見上げている。
残されたクラーケンは桶の中へと引っ込み、ぶつぶつと水の中で小言でも告げているのか、泡の破裂音が小さく聞こえてくる。
皆が“獣”と“竜”の長を待っていた。
良くも悪くも、彼ら抜きで会合は始められない。
理由はひどく簡単だ。
彼らの力は他の長や種族たちを抜きん出ている、たったそれだけ。
“竜”の長に関しては、前魔王に仕えていたこともあり、個体数や種類数こそ少ないが、その力は絶対的なものだ。
逆に“獣”の長は、そんな竜たちでさえ戦うことを躊躇う程、他種族の長を遥かに上回る数の魔物たちを、信頼という形でのみ統率している。
故に、“獣”の長を怒らせ、全ての獣の魔物を敵に回すことは、たとえ魔王であっても避けたいのだ。
…結果、こうして各々が文句も言えずに、のんびり彼らを待つ他ない。
雲が無くなり、煌々と輝く夜空の光と、微かながらに聞こえる水音を拒絶して、幾らかの時間が過ぎた時、毛の先に明らかな悪寒が走った。
…来た。
いつまでも営みを続ける二人を睨みつけ、その目合ひを止めると、全神経を耳へと集中させる。
遥か遠くではあるが、切り裂かれる風の悲鳴が聞こえ、その悲鳴はあからさまに近づいて来る。
「…来たか」
頬杖を突く魔王が気怠げに告げる。
その言葉に頷いてみせると、皆素早く動き出す。
…全く、恐ろしい奴だ。
未だ遥か遠方にいるにも関わらず、こちらの本能的な恐怖心を刺激してくるなんて。
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つまり、近くにいることは間違いな…。
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そして…。
「「「うわぁぁぁぁ!?」」」
アルゴスの時に感じたものよりも、遥かに大きい地鳴りが強風と共に襲い掛かる。
揺れる地にしがみつきたくなる程の振動と強風は、体の軽いナリたちを吹き飛ばし、クラーケンが入る桶をひっくり返そうとする。
まずい…!
揺れる地を何とか蹴り、地面と水平に吹き飛ばされるナリたちを体や口を使って止め、クラーケンの桶はアルゴスに任せる。
四人を風下側へと回らせ、風除けとなって、この強風が収まるのを待つ。
実際どれほどの風が襲い掛かってきたかは分からないが、狂い始めている体内時計では永遠の様にも思えて仕方がなかった。
体毛の震える感覚が無くなるのを確かめ、静かに目を開く。
「野暮用を済ませていたせいか、遅くなってしまった。申し訳ない…」
そこには、如何なる光さえも意味を無くす、黒き鱗に覆われた、“竜”の長、黒龍が凛然と佇んでいた。
巨人であるアルゴスと同じ、或いはそれ以上の体格の黒龍は、ちらりと辺りの者たちへ目を配らせた後、魔王をじっと穏やかな目つきで見つめる。
敵意はない…が、それが逆に空恐ろしかった。
「それは構わん。だが、他の者に迷惑をかけるな」
穏やかで礼儀正しくも、決して腹を読ませぬ、固い口調で告げる黒龍に、あれほどの強風に煽られようとも、椅子から立ち上がることもなかったらしい魔王が釘を刺す。
「…他の者たちも済まなかった。急いでいたとはいえ、お前たちのことも考えずに突っ込んできたのは、浅はかなだった」
魔王へと頭を下げた後、数歩後ろへと退がり、全員が見える位置で再び頭を下げる。
だが、返事出来る者は誰一人いない。
ここにいる者たちは、奴の過去の姿を知っている。
恐ろしく、残忍で、狡猾な、正にその姿に等しい黒龍を。
故に、その様変わりから十年近い歳月が経ったとはいえ、今の奴を受け入れるのは、全ての魔物の王である魔王以外にはいないのだ。
…それにしても、直接顔を合わせるのはひどく久しぶりだ。
クエレブレやサラマンダーなど、人の世へ渡ることを許された、他の竜族から話程度は聞いていたが、まさかこれほどとは…。
いつも痛む喉元の傷ではなく、胸の奥がずきりと痛む。
それほどまでに、娘である、“トゥバン”が戦死したことが応えたのだろうか…。
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