しらぬがまもの

夕奥真田

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私と私たち

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およそ人の喉から出るとは思えぬ、獣の様な叫び声が屋敷を震わせる。

「いや~ん、スクレちゃんがお姉ちゃんのこと苛める~」

目前にまで迫った、鱗の大きな拳に、何処からか不意に現れた虹色の剣を突き刺し、事も無げに受け止めると、ペルメルは涙を流す子どもの真似をする。

そんな態とらしい行動が火に油を注いだらしく、再び叫び声を上げたスクレが別の拳を突き出そうと振りかぶる。

だが、その拳が放たれるよりも先に、彼女の顔面に別の拳が飛んでいた。

「ぐっ…!?」

人の形をした部分こそ華奢だが、背中に付いた四本の大きな手や、太腿から生えた蜘蛛の様な八本の足のせいで、全体像としてはとても大きく、重量感のあるスクレなのだが、その拳はそんなスクレの体を吹き飛ばし、屋敷に穴を開けさせた。

あまりの光景に、一般人のフーとオネが悲鳴を上げる。

しかし、例の姉弟たちは特に驚いた表情を見せることもなく、あっけらかんとしている。

「おぉふ…容赦ねぇなぁ…」

「や~ん、リウちゃんカッコいい~!後でお姉ちゃんがよしよししてあげるわね~、んふふ」

まるで、自分たちの行動がスクレを怒らせた原因だと分かっていないかの様に。

屋敷の二階の一室から、外へと放り出されたスクレは、陽の温かさで固まりつつあった泥に着地し、その真っ白な蜘蛛の足や異形の腕たちを汚しつつも、赤く腫れ上がった頬に手をやりながら、呆然とこちらを見つめていた。

何故自分がリウに殴られねばならないのか、スクレの困惑はその表情からすぐに読み取れた。

「な、何故だ、リウ…?こ、こいつらは主様を“殺した”張本人なのだぞ…?」

震える声を精一杯落ち着かせつつ、スクレは尋ねる。

リウとスクレの関係をまだ詳しく聞けてはいないが、傍から見ても、スクレがリウに信頼を寄せている、いや、依存しきっていることは十分に察せられた。

そんなリウからの突然の拒絶となれば、スクレの困惑も分からないではないかもしれない。

私も、プレシエンツァからあんなことをされたら…。

そんなスクレへの同情から、リウの拒絶に正当な理由を欲していた。

スクレを殴り飛ばしてまで、自身の“母親”殺しの記憶を語るペルメルを守った理由を。

だが、そんな希望はやはり、彼に抱くべきではなかった。

「くだらないことをするな。ガラクタ」

屋敷の外へ殴り飛ばしたスクレを見下ろしながら、リウは吐き捨てる様に告げる。

その瞬間、スクレの瞳から色が消えた。

そして、先ほど以上に大きな叫び声を上げたかと思うと、何か黒いものが、リウの目の前を過ぎ去る。

ころん、ころん、と室内に壁に跳ね返ったそれは、そこら辺に落ちている、ごく普通の石ころだ。

「だ、大丈…」

駆け寄ろうとするフーをリウは手を向けて制止する。

すると、次の瞬間、いくつもの石が外から飛んでくる。

まさに獣の様に歯を剥き出しにしたスクレがその背中の手を全て使って、手当たり次第に石を投げているのだ。

「トゥバンちゃん、オネちゃん、こっちこっち」

いつの間にか、穴があいた近くのベッドに寝かせいたアトゥを、プレシエンツァの眠る、反対側のベッドへ運んだらしいペルメルがこちらを手招きする。

いくら射角が取れないといっても、跳ね返った石が勢い良く飛んで来ないとも言えないため、仕方なくも、姿勢を低くしたままペルメルの元へと向かう。

「…如何するおつもりですか?彼女が貴女に怒り狂う理由は、まだ私にはいまいち理解出来ませんが、このままでは絶対によろしくありません」

「でも~…。私たち皆が“あの人”を襲ったのはほんとのことだし~…。やっぱり伝えなきゃ、駄目じゃない~?」

「伝え方の問題です」

視線を上に上げ、態とらしく考えたふりをするペルメルにきっぱりと告げる。

もちろん、ペルメルの全てを明かそうとしてくれる姿勢は、歓迎すべき事だ。

しかし、事の重大さを考慮すると、やはりただの一般人である二人に伝え、巻き込むべきではない。

それに、スクレが“あの人”とどれほどの関係なのかは知らないが、その終始ふざけた様子の語りでは、怒りを買うのも無理はない。

むしろ、これから明かされる秘密に関して、自身に関することがあれば、自分もスクレ同様に暴れ回る可能性もある。

故に、今の調子のままペルメルに語って欲しくはなかった。

「ん~、じゃあ、アルちゃん交代!」

「はぁ…。面倒くせぇ…が、まぁ、そのほうが良いだろうな。これ以上喧嘩なんぞ起こされたんじゃ、一番弱い奴の肩身が狭いんでね」

「喧嘩じゃありません~。スキンシップよ、スキンシップ~!」

「そのスキンシップのおかげで、年甲斐もなく泥遊びをさせられたんだがなぁ…」

やれやれと、アルは首筋を撫でる。

…泥遊びとは何のことだろうか?

そんなことを疑問に思っていると、飛んでくる石を巧みに避けながら、外の様子を眺めていたリウにアルが声をかける。

「おい、リウ!悪いが、あいつを連れて来てくれ!話が進まない!」

「…」

「おい、嫌な顔すんな。ぶん殴ったのお前だろ」

絶えず飛んでくる石を避けつつ、リウはさも嫌そうな顔を向ける。

だが、アルの言う通り、彼女をあそこまで怒らせたのは、彼の一撃と最後の一言だろう。

それに、今更謝って許されるかも分からぬ形相ではあるが、ただの小石を、あれほどの威力でもって放てる彼女に近づけるのは、リウ一人だけだ。

早く行け、という指示を手で示すアルに、仕方ないとばかりにため息を吐くと、リウは穴から外へ飛び出す。

きょうだいを除いた三人で、窓の外の様子を心配気に見つめる。

外では自我を忘れたかの様に、魔物の唸り声と共に威嚇するスクレと、それを全く意に介さぬリウが立っている。

それにしても、何故スクレは、先ほどまでの理性を失い、その姿形に違わぬ、魔物らしさに飲まれてしまうのだろうか…?

自分は上手く魔物と人の姿を制御できているつもりだが、彼女は違うのだろうか。

ただ単に彼女の個体差か。

それとも、似た能力に見えるが、全く違う力なのだろうか。

自分と似た者を始めて見ただけに、彼女へは親近感の様なものが芽生えている。

だが、それ故に、彼女の特徴的部分を見ると、それは自分自身にも当てはまるのではないかと不安になってしまうのだ。

胸の奥深くで大きくなる不安を押し殺し、じっとスクレとリウの圧倒的なまでに力量の違う戦闘をを見つめていると、不意に温かなものが首周りに巻き付いてくる。

「トゥバンちゃん、ぎゅ~」

「…何か用ですか?ペルメル様」

「んもぉ~。冷たい言い草なんだから~。ぷぅ~」

回された手に自身の手を重ねながら、平静さを取り繕いつつ尋ねると、真横にやって来た継ぎ接ぎだらけの頬がつまらなそうに膨らむ。

こうしたセクハラ紛いの接触をペルメルから受けるのは、もちろんこれが初めてではないが、やはり、この彼女の何とも言えぬ抱擁力には、自然、甘えたくなってしまう。

それも、大切な人が傷つき倒れ、自分の知らないことを次々と明かされるなど、精神が不安定にされていては尚更だ。

「…御用が無いのなら、離して頂けると有り難いです。暑苦しいので」

「嫌よ!トゥバンちゃん良い匂いするんだもん!」

「…はぁ」

「んふふ~。そんなに怖がらなくても大丈夫よ~」

「…っ。べ、別に怖がってなど…」

「ほぉ~ら!普段のクールなトゥバンちゃんなら、そんな反応しないと思うわよ~?」

「あ、揚げ足を取らないでください…!」

ペルメルの顔を横目に睨みつける。

しかし、彼女はそんなこと気に留めず、回していた手を持ち上げ、優しく頭を撫でてくる。

…彼に似た優しい匂いのすることに、少し嫉妬してしまう。

「本当にどうするおつもりなのですか…?貴女様が言うように、本当に魔王に裏切られたとなれば、我々など…」

「そうねぇ。今の世論的に、魔王の一声があれば、世界中から狙われそうね~」

「何処かに身を隠す必要がありますね…」

「ん~。そんな所あるかしら…?空は竜や飛行出来るの魔物たちの鋭い目、海はヨルムンガンドの神経、陸は多過ぎる人と魔物、これら全部を掻い潜るのは、さすがに無理じゃないかしらねぇ~」

確かに、三年前の一件以来、竜族などの強力な魔物たちを含め、人間界に存在する魔物の数は爆発的に増えている。

そのせいもあってか、各国の軍事力は陰りを帯び始め、大衆たちも本能的ながらに、魔王の力に自ら膝をつき始めている。

結果として、現在では、魔王に逆らうこと自体が愚策であるとするのが一般論となり、魔王と友好関係を維持することを各国国民も支持している。

彼女言う通り、そんな世の中を、魔王の邪魔者と成り下がったやもしれぬ、私たちが何事もなく歩けるはずはない。

「では、一体どうすれば…?」

「…まぁ、それについてもスクレちゃんが戻って来てからにしましょ?お姉ちゃんに代わって、優秀な理系の弟ちゃんが講義してくれるから。ね?」

「おいおい、何かあったら守ってくれよ?スクレからはもちろん、次に怒り狂いそうな奴からも…」

ちらりとアルの視線がこちらの様子を伺う。

…どうやら、やはり私の知らぬことを彼らは知っているらしい。

…貴方の信頼しているのは、やはり彼らだけなのですか?

プレシエンツァ…。





「…それで、姉貴はどこまで話したっけ?」

傷らしい傷こそ無いが、あからさまに生気の無くなったスクレを連れて、何事も無かったかの様にリウが帰ってくると、アルは後頭部を掻きながら、のんびりと尋ねる。

「貴方がたの出自と、そこからの逃亡までです」

「あぁ、そうだったな。さんきゅ、トゥバン」

私に礼を言い、窓枠に腰掛けたアルの表情が、いつもとはまるで別人の様な真剣なものへと変わる。

「さっき姉貴が言った通り、俺たちはある人に、シエルと手を結んだ魔物たちを殲滅するための“勇者”として創られた。だから、普通の人間じゃない。…もっとも、一人を除いて、全て失敗作だがな」

微かな自嘲の笑みがアルに浮かぶ。

その話は前にプレシエンツァから聞いたことがある。

彼も、今のアルの様に自身を嘲る様に笑っていた。

「十年以上も前、前シエル王と魔物たちが各国から領土を取り返す戦争をふっかけて来た頃の話さ。各国は今と違って、国の威信をかけて、魔物たちの駆逐し、それまでのシエルとの関係を元に戻したいと本気で考えていた。だが、戦況が徐々に劣勢に回っていることに気がついた各国は、魔物たちを打ち破るための奇策をあらゆる者たちから求めた。そして、俺たちの“母親”はそれに協力したのさ」

「それがあんたたち“勇者”の復活…」

「御伽噺みたいだろ?腹を抱えて笑って良いんだぜ?」

フーの言葉に、アルは両手を広げ、全員に笑うことを勧める。

しかし、部屋にはアルのせせら笑いだけが、小さく響くだけだった。

「…普通の人がどうして貴方たちの様な人を創れるんですか?」

せせら笑いも無くなり、外から聞こえる鳥や草木の鳴き声がうるさく感じ始めた頃、当然といえば当然の質問をオネが尋ねる。

先ほど、我々についてくるか、離れるかを尋ねられた時には、どちらとも判別出来ない返事をしていたが、今は眠るアトゥの手を静かに握っているあたり、彼女も覚悟を決めたのだろう。

「さぁな…。俺にはその理由は分からない。姉貴は?」

「知~らない!」

態とらしく肩を竦めるペルメル。

だが、アルを含め、全員が訝しげな目を向ける。

ここまで多くの隠し事をし、且つその首魁であるプレシエンツァさえも出し抜いたこともあるだけに、隠し事に関して、皆彼女に信用はおけないらしい。

「むっ…。なぁんで、そんな目で見るのよぉ~!お姉ちゃんだって知らない事の一つや二つありますよ~だ!ぷんぷん!」

そんな信用を取り返す気持ちもないのか、ペルメルは弁明することもなく、また態とらしく頬を膨らませ、そっぽを向いてしまう。

「…だ、そうだ。まぁ、俺たちを創ったこともそうだが、死なずにこんな場所まで逃げ込めたあたり、俺たち同様“おかしな”体質を持っていたんだろう」

「…っ」

色を無くした瞳に微かな怒りの色を戻し、今にもその首筋に飛びつかんばかりに、スクレは鋭い目つきでアルとペルメルを睨むつける。

だが、そんな彼女の目の前にすっと、リウの手が伸びる。

邪魔をするな、その手はそれだけを告げていた、

「話を進めるぞ?さっきも言ったが、俺たちは失敗作。当然、そんな失敗作たちに全魔物の進軍を止めるだけの力は無かった。それに、“本物の勇者”が出来上がった暁には、廃棄処分されるであろう噂は最初からあった。俺たちの“母親”はそんなことはないといつも言ってくれていたんだが、とある戦闘で左腕を無くした妹が、そのショックと、捨てられるかもしれないという恐怖から暴発…










“母親”を刺した」










口ぶりこそやや軽く聞こえるが、頻りに首に手をやるなど、アルはどこか落ち着かない。

彼にとっても、母親でもある“あの人”を傷つけてしまう結果となってしまったことに関して、ひどく負い目を感じているのだろう。

「その施設じゃあ、それなりに偉かった“母親”を故意でないとしても、大怪我をさせた俺たちは、すぐにそこから脱出することにした。苦しむ“母親”ことなんか、これっぽっちも心配もせずに。…力で優っていると言っても、“母親”からの廃棄宣告なんか受けたくなかったからな」

窓の外から吹き込む、草木の香りを孕ませた優しげな風に、その白髪を靡かせながら、消し去りたいであろう過去を、遠い目でアルは語り、姉であるペルメルはどこか懐かしそうに聞いている。

「邪魔する連中を殺しながら、施設から脱出するのはそこまで大変なことじゃなかった。“母親”をやっちまったからな、それ以下の連中なんか、そこらに落ちてる石ころを蹴るのと同じ感覚さ。ただ、このまま逃げたんじゃ、俺たちの脱走が各国の連中にすぐバレる。だから、ついでにその施設を焼き払った、跡形も残らない程に」

「えっ?じゃあ、その、“お母さん”はどうなったの?だって、さっきの話じゃ、この子の言ってる主様ってのと、あんたたちが言ってるのは同一人物だって…」

真剣に話を聞いていたフーが、スクレを指差しながら、鋭い質問をする。

ペルメルの先ほどの話では、確かにその様な事を言っていた。

そして、それを聞いた途端、スクレがペルメルに飛び掛かったのだ。

「申し訳ないが、当時は“母親”の安否なんて考えもしなかったさ。正直、俺は、妹の一突きを受けた段階で、死んだと思っていたくらいだからな。それに、施設に火まで付けた。生きてないと考えるのが普通だろ?」

「…そうね。リウちゃんの手を引いて必死に逃げる彼女の姿を見た私ですら、あれは幻なんだ、そう思っていたもの」

胸の内に溜まる、重くなった空気と感情を一気に吐き出す様に、深い吐息と共にペルメルは告げる。

「…だろうな。リウが生きていることは十分に信じられたが、“母親”が生きているなんて話は、誰も信じなかった。…その上、ガル本人もいたしな、深く議論なんか出来るわけもなかった」

彼の言うガルとは、彼らきょうだいの一人、隻腕のガルディエーヌのことだろう。

常に落ち着き払った彼女が、“あの人”を殺したというのは、俄かには信じ難いものであるが、頻りに顔を手で拭い、誰とも顔を合わせぬよう、顔を上下に動かすアルのひどく辛そうな姿を見ていると、嘘と断じることも出来そうにない。

「ただまぁ、スクレの言葉を信じるなら、おおかた、命辛々この屋敷まで逃げて来たんだろう。テールとの国境近くにあった屋敷から、ここまでなら、まぁ、逃げて逃げれないこともないはずだからな。そして、今度はこの屋敷でリウと暮らしつつ、スクレや何かの製作に手を貸したんだろうさ」

「あぁ…主様…何故、何故…」

全身から力が抜けたのか、蜘蛛の様な脚や背中に付いた四本の異形な手を地へ広げつつ、伸ばされたリウの手にしがみつく様に、スクレはへたり込む。

なるほど、スクレもまた、彼らと同じ様に、“あの人”から創られた存在の様だ。

あくまで推測に過ぎないが、おそらく彼女は優しさに触れて過ごしたのだろう。

だが、それ故に、彼ら同様に、“あの人”の死を今一度考えることは、心の奥底にひた隠しにしてきた傷を抉ることに違いない。

ましてや、ここに“あの人”の姿がないということは、彼女は本物の“あの人”の死を目の当たりにしたのだろう。

それは、愛する人に致命傷とも言える傷を与えてしまった彼ら以上に苦しいものなのかもしれない。

「まっ、“母親”ことはこの際どっちでも良いさ。隣のの芝生が赤かろうが、青かろうが、気にせず自分の芝生の手入れでもしてりゃ、それなりの芝生が出来る」

一度軽く手を叩き、重くなった空気を取り払うと、アルは明るい笑顔を全員に向ける。

「そんなことよりも、お前たちに知っておいて貰いたいのは、今の世界を支配する魔王の基盤、もしくは、信用とでもいうべきもの、それを破壊する真実だろうな」

「真実…」

ぽつりと誰かが呟くのを聞き、アルは静かに頷く。

「姉貴が考えが完全一致するかは分からないが、俺から言わせれば、兄貴…あぁ、そこに転がってるオヤジだが、そいつをやられた時点で、魔王の裏切りは十分に考えられる」

「何故、ですか…?」

私は恐る恐る尋ねる。

ペルメルも言っていた憶測だが、まだ彼らには、プレシエンツァと私が襲われた時のことを説明していない。

だというのに、何故、魔王の裏切りが推測出来るのか、その理由を教えて欲しかった。

「俺たちきょうだいの中で誰が一番強いか、なんて下らないことを決めた試しはないんだが…」

「んふふ!アルちゃん、弱いもんね!」

「おいおい、結婚出来ない負け組みのリーダーの癖に、可愛い隊員へのセクハラ及びパワハラはやめてくれよ。勝ち組に移っちまうぞ?」

「あぁ~ん!待って!待ってぇ!今の取り消すから、結婚はお姉ちゃんが相手見つけるまで待ってぇ!」

慌てて膝をつくペルメルに、皆一歩後退する。

真剣な話を茶化すのは彼女の専売特許だというのに、いつも茶化しをかなぐり捨てたその必死さに、自身が結婚にそこまで執着するつもりもないこともあり、どこか不気味さを感じた。

「ん~、みんなでお姉ちゃんを苛めるんだ…!」

全員の顔、特に女性の顔を凝視しながら、ぐるりと見渡した後、ペルメルはプレシエンツァとアトゥの眠る大きなベッドに体を横たえ、不貞寝し始める。

よほど、結婚に関する話は彼女を追い詰めているのかもしれない。

「…まぁ、基本こんな感じだからな。喧嘩も…そんなになけりゃ、腕の試し合いだってない。でも、お互いにどれほどの力量かはよく知っている。…だから、プレシエンツァをやれる奴は、ただの人間でも、そこら辺にいる魔物でもねぇって、すぐ分かる」

「人でも魔物でもない…」

プレシエンツァの胸に、細長く、撓った剣を突き刺したあの女の顔を思い出す。

短く切った黒髪に、生気と力の入らぬ、ぼんやりとした表情。

口振りから、こちらのことをある程度知っているかの様に感じられたが、私の記憶の中に、あの女は何処にもいない。

似ている者さえ、心当たりはない。

しかし、あれは本当に魔物だったのだろうか…?

アルの言う通り、プレシエンツァがただの人間に負けるとは思えない。

たとえどんなに腕の立つ剣士や、汚い不意打ちであったとしても、彼の前では無力だからだ。

しかし、それは魔物であっても同じことではないのだろうか…?

現に、いくら本気になれぬとはいえ、私には彼を殺すことはおろか、傷一つつけることは出来ないだろう。

それに、あの女が魔物だったとは考えづらい。

姿形もそうだし、スクレからは感じる、人と魔物の入り混じった気配を、あの女から感じなかった気がする。

だが、そんな考えとは裏腹に、アルの話は進んでいく。

「三年前の一件以来、魔界から大勢の魔物共がやって来たおかげで、その数や種類は確実に増えてる。だが、俺が知る中で、魔王はもちろん、幹部連中に勝る魔物たちはおそらくいない」

「幹部連中って…?」

「魔王を支える直属の部下たちだ。死者たちの女王ヘル、大海の支配者ヨルムンガンド、神速の軍馬スレイプニル、捕縛の狼ナリとナルヴィ、そして、最強の獣フェンリル。どいつもこいつも食わせ者だが、プレシエンツァをやれる奴となりゃあ、怪しむべきは二匹だけだ」

「それは…?」

「「スレイプニルとフェリル」」

自然、アルとペルメルの声が重なる。

どうやら二人の考えは一致していたらしい。

…だが、私にはどうしても腑に落ちない。

「しかし、私やプレシエンツァ様、そして、おそらくはアトゥ様たちを襲ったのは、人の女の姿形をしていました。あれがフェンリルやスレイプニルの変身か何かだったとは思えません…」

「そうなのか?だが、幹部連中の中にも人の姿と魔物の姿を取る奴がいるだろ?」

「…ナルヴィですか」

シエル王城には入らず、外の城下町で待つよう、いつもプレシエンツァに言われているため、魔王はもちろん、幹部たちの姿を直接見たことはないが、その容姿や能力の特徴は、プレシエンツァからよく聞いている。

「あぁ、それにヘルの奴の魔法はターイナを超えるレベルだ。他者の姿形を変えることくらい、なんてことないさ」

「…」

そう言われれば、確かにそんな気もするが…。

だが、しかし…。

「…トゥバンちゃんは、何か気になることでもあるの?」

ベッドに顔を埋めたまま、くぐもった声で尋ねてくれるペルメルに静かに頷いてみせる。

「私にはあれが魔物だったとは、どうしても思えないのです…。理由はその…上手く説明できませんが…」

「何で?あんただって魔物と人の姿を変えられるじゃない。見た目じゃ、そんなの分からないんじゃないの?」

特に悪意の無い、純粋な目をこちらへと向け、小首を傾げるフー。

…少々意外だった。

これまでプレシエンツァたち以外の誰かに、この能力のことを教えたことはなかった。

それは、アルやターイナなどに強く口止めされていたからというのもあるが、単純にこのことを他人に話す勇気がなかったからだ。

人にも、魔物にもなれる代わりに、どちらかにもなりきれぬ私は、半端者でしかない。

彼ら以外に、そんな自分を受け入れてくれる人間や魔物などいないとばかり思っていた。

だが、実際にこの能力のことを知った、ただの一般人たる彼女が、これ程までに嫌悪感を抱かないとは。

これも人と魔物の共存が進んだ現れと捉えるべきなのかもしれない。

「語弊があるかもしれませんが、私の場合は少し事情が違います。だから、参考にはなりません」

「ふ~ん…。でも、何でその幹部…だっけ?そいつらがこの人たちを襲ったからって、魔王があんたたちを裏切ったことになるの?あんたたちが失敗作とはいえ、勇者だから?」

「あぁ、そうか、そういえば、まだそこらへんの話を全くしてなかったな…」

掛けていた眼鏡を拭きながらも、じっとそれを見つめ、考え込んでいたアルは、思い出したように呟く。

例の襲撃者の件も大事なことではあるが、今はアルやペルメルが話したがっている、魔王の裏切りについての推測と、知っておくべき真実について聞く方が先だ。

逸れてしまった道筋を正すことに同意を求めるかの如く、アルはぐるりと全員を見渡す。

「さっきも言った通り、勇者の失敗作とはいえ、プレシエンツァの兄貴は強い。そんなプレシエンツァをやれるのは、おそらく魔王に従う幹部の中の二匹だけなんだが、そもそも何故奴らが俺たちに牙を剥く必要があるのか、次はその経緯を説明する。…殴り掛かりたくなったら、リウの方に行けよ?」

全員に大きな釘を最後に刺すと、また静かに真実の続きを話し始める。

「リウを含めず六人で施設を脱出した俺たちは、そのままシエル国内に逃げ込んだ。施設ごと関係者の口を蒸発させたとはいえ、いずれは露呈し、追跡されるのが目に見えていたからな。それなら敢えて敵国のシエルに潜り込んだ方が動きが取りやすい」

「えっ…?シエルに入っても何も言われなかったんですか…?その見た目で…?」

アルや眠るアトゥの方を見やりつつ、オネが目を丸くする。

それもそうだろう、人間の白髪など、年老いた者でもなければ、そうはいない。

急に街などに、それも複数人も現れれば、怪しまれるのが普通だろう。

「もちろん、フードやら兜やらで顔は隠していたさ。仮にもつい昨日までは殺し合っていた連中なんだからな。だが、案外懐に潜り込んでも、シエルの連中や魔物たちは何にも言わなかったぜ」

「お国柄なんでしょうね~。長い間他国に隷属して、苦しい生活を送ってきたものだから、どうしても外に対する姿勢は、排外的な敵対心剥き出しになっちゃうんでしょうけど~、逆に、その裏返しとして、身内や国内での結束力は強かったんでしょうね~」

ベッドへと寝転び、頬杖を突いた姿勢へと変えると、ペルメルはのんびりとした口調で告げる。

彼女の言いたいことは何となく理解出来る。

他国の国柄や国民性を知らないだけに、比較することは難しいが、それでもシエルの国民が他国民を異常なまでに恨んでいることは、日々の生活を通して感じる。

現に、三年前から魔物たちの移住こそ世界的に進んでいるが、シエル国内から他国へ移住する者はほとんどない。

逆に、他国から何らかの理由でシエルに移住して来た者たちは数ヶ月もしないうちに、その姿を消している。

コハブでの例を挙げれば、子どもに危害を加えられたとか、不当に商品の値段を吊り上げられたなどの事柄を理由に、移住者は早々にコハブの街を出て行った。

一個人、一家族の移動など、街の大きさからすれば、取るに足らない、微小なものであるが、今後の統治について考えると放っておくことが許される問題でもなく、プレシエンツァはよく頭を抱えながら、私に事の概要を調査するよう命じていた。

それというのも、本来そういった仕事をこなす騎士たち全員が生粋のシエル国民のためだ。

…言うまでもなく、連中の調査結果では、平等性が疑われる。

故に、私が調査していたのだ。

愛国心塗れの連中を登用することで、その意欲と活力で、多く困難な仕事を任せられると考えていたが、それが仇になった形だ。

調査の結果は、やはり愛国心という名の、憂さ晴らしに走った、元からコハブに住んでいるシエル国民によるものが全てだった。

火を見るよりも明らかだった調査結果ではあるが、調査の過程において、興味深い事実を知ることも出来た。

それは、シエル国民においても、その子どもたちは、さして他国民へ恨み辛みを抱いていないという実情だ。

他国から隷属させられていたことを身を持っては知らない、或いはその時代には生まれていなかった子どもたちが、移住者たちに辛く当たらないのは、実に理にかない、その理由は考えるまでもないことである。

しかし、そんな子どもたちが、移住者の子どもに危害を加えるというのはおかしな話だ。

容姿や外見に特徴があるのなら、その理由も分からなくはないが、その事例の子どもは、シエルの隣国でもあるテールの子どもだった。

テールの子どもと、シエルの子どもたちとさして違うところはない。

とするならば、子どもたちがその子をいじめる、根本的な原因は、やはり家族や周囲の大人による“主観的事実”の伝聞にあると推測された。

つまり、苦しかった事や悲しかった事を、過剰に大人が子どもたちに教えているということだ。

その結果、シエルの子どもたちの中にも、大人同様に、他国の子どもやその家族をいじめる、毛嫌いする者が現れるのだ。

無論、思想教育という面では、学校などの教育機関による影響も多少考えたが、その可能性はひどく低い。

何故なら、この様な他国民いびりが発生していることを知った時点で、街の教育機関には、すぐにプレシエンツァが圧力をかけ、既存の教科書などを改訂、過去のシエルと各国、そして魔物たちとの関係性を、客観的事実に即した形で、抽象的に執筆したものへと変更させたからだ。

もちろん、これはプレシエンツァの独断で進められたことだけに、おいおいは魔王や他の領主たちとも協議し、より適切な教科書などを製作しなくてならない。

二週間程前シエル王城を訪れた時には、その件も含めて、相談してきたとプレシエンツァは言っていた。

結局、現在のシエルでは、各国との溝を埋めるため、それほどまでに、荒んだ国民の感情に気を遣わなければならないのだ。

戦争が始まった時分のシエル国内となれば、これ以上だったのだろう。

…愚かなことだ、そうプレシエンツァが憎々しげに告げていた気持ちが今更ながらに理解出来た。

「…それで?シエルに入った後は何をしていたのですか?」

プレシエンツァが不意打ちを受けた要因ともなった、シエルの国民性を体現したかの様な、あの愚かなビルゴの顔が一瞬脳裏を過るも、それを軽く頭を振って振り払い、アルに話の続きを催促する。

「結局、怪しまれこそすれ、戦争の熱気で頭の蕩けた連中だ。一言で言えば、身を潜めたかった俺たちにとっちゃ、都合が良かったんでな。数ヶ月くらいは静かに戦争の行く末を傍観させてもらった」

「それはどれくらいの期間…?」

「確か、数ヶ月くらいだったんじゃないか?生憎日記はつけないんでね、詳しい日付は分からん。だが、少なくとも、魔物たちが前線から引き、前シエル王が侵略戦争を一度停止させた時くらいだな」

「そういえば、そんなことがあったわね…。急に両軍が前線から一歩引いた時よね?」

アルを指差しながら、思い出したかの様にフーは相槌を打つ。

実際の年齢は分からないが、かなり若い彼女ですら覚えているということは、それほどまでに、各国の一般市民にとっても驚きの事だったのだろう。

「あぁ、そっからは睨めっこの始まりだ。新聞用の小競り合いはやっても、お互いに大規模な頭数は出さなくなった。おかしな話だとは思っていたんだが、どうやらその時から、魔王と各国王の密約は出来上がってたらしい。もちろん、前シエル王を抜きにな」

「…前シエル王暗殺の一件ね」

「あ、暗殺…!?前シエル王は暗殺されていたの…!?でも、だ、誰に…!?」

「もちろん、魔王に、よ」

目を見開き、食い入る様に尋ねるフーに、ペルメルは穏やかな笑みを浮かべながら答える。

言っていることと、表情や体勢に差が開き過ぎ、何を言っているのか分からなかった。

前シエル王が魔王によって暗殺されていた…。

それは私も聞かされていない事実だった。

何故、魔王が味方であるはずの、前シエル王を、その手で殺す必要性があったのだろう。

もちろん、彼が魔物たちと友好関係を築いた理由は、他国から干渉や搾取を跳ね除け、強いシエルを築き上げるためであり、そのためならば、実の父親である前々王を殺害し、その玉座を簒奪する程の過激な愛国心と、計算高い一面を持った男であるとは聞いた。

しかし、前シエル王は、各国が対応を検討する中、独断で魔物たちとの友好関係を築くことを宣言した、謂わば魔王にとっては渡りに船となった人物のはず。

そんな彼を何故見限ったということだろうか…?

「何故魔王は前シエルを暗殺したのですか…?」

「おおかた、価値観と意見の不一致だろ」

「…離婚の原因みたいに言わないでよぉ。お姉ちゃん、そろそろほんとに泣くよ?」

「実際そうとしか言えないだろ?魔王にとっちゃ、シエルが世界を統べる必要性なんかこれっぽっちもない。あくまでこの世界で魔物が繁殖してくれればそれでいい。変にシエルに肩入れし過ぎて、強大な力を手に入れられたら、それは厄介でしかない」

「だから、各国との密約を結んだ…?」

「おそらくな。全シエル王とそれに近しい者たち全てを抹殺する代わりに、各国軍による侵略戦争を一時的に停止させたんだろ」

「そ、そんな話聞いたことない…」

驚きのあまりか、上手く声が出ず、掠れた様な声を発するフーを、アルは腹を抱えて笑う。

「そりゃあ、そうさ。他国に一泡吹かせられると息巻いているシエル国民はもちろん、少し前までは同じ人間とさえ扱ってこなかった連中に領土を取り返された挙句に、堂々と一時停戦なんか発表したら、他の国の連中だって、頭にくるさ。まだその時は、魔物の圧倒的な力を知らないんだからな」

「…」

アルの言葉に、フーは静かに下唇を噛む。

どうやら、彼女はそれなりに頭が回るらしい。

取って付けた様な、アルの皮肉に気づいている。

「まぁ、各国との密約がどんなものだったのか、俺たちも正確には知らないんだが、前シエル王とその子ども全員の腹に、でかい風穴が開いているのは見せてもらったからな。魔王が契約を履行していたのは確かさ」

「では、今のシエル王って誰なんですか…?王子たちも皆殺されたんですよね…?」

「ん?あぁ、今の奴か。…何処で“買った”奴かな?」

「買ってないわよぉ?そこら辺に落ちてたのを“拾った”だけよ?」

「…そうだったか?まぁ、“拾って”来た姉貴が言うなら、確かか」

“買った”…?

“拾った”…?

一瞬、何を言っているのか分からなかった。

シエル王を“買う”、“拾う”とはどういうことだ…?

それではまるで、“奴隷”や“孤児”の様ではないか。

「ま、待ってください…!どういう意味ですか…?“買う”、“拾う”?あの今のシエル王は、前シエル王のどこか遠い血筋の者という話では…?」

プレシエンツァから聞いていた話と違う。

彼は今のシエル王は、前シエル王の遠い親戚にあたる家から引き取って来たのだと告げていた。

故に、魔王は各地の領主から要らぬ後ろ指をさされており、逆にそれを利用して、自分はコハブの領主となったと語っていた。

…あれは嘘だったのだろうか?

私が質問することが意外だったのか、アルとペルメルは不思議そうに顔を見合わせ、最後に、横で眠るプレシエンツァの顔を見つめた。

そして、何か納得したように頷くと、アルは再びこちらに顔を向ける。

「そうか、トゥバンには伝えてなかったのか…。あのこと…」

「な、何のことですか…?」

「だから、その…。あぁ、全く…。伝えて良いのか、姉貴?」

「良いんじゃないかしら?右の頬と左の頬、両頬差し出すのはアルちゃんなんだし」

「…引っ叩かれたら、デュラハンにクラスチェンジだな」

倒していた身体を起こし、胡座をかいた体勢で、珍妙ポーズを取るペルメルにアルは深いため息を吐く。

二人の口振りから、伝えづらいことだということは理解出来る。

しかし、そんなことは今更だ。

共に暮らし、肌を重ね合いながらも、多くの真実を隠してきたプレシエンツァに対して、失望の念が無いと言えば嘘になる。

だが、それでも、私は彼を…プレシエンツァを…。

「はぁ…スクレみたいに怒るなよ?今のシエル王はそこら辺で拾った“孤児”の顔と記憶を弄っただけだ。そして、トゥバン、お前は…





それに付いてきた“おまけ”さ」





は…?

思考が止まる。

私が“おまけ”?

“孤児”の?

訳も分からぬ、規則性もない単語がぐるんぐるんと、何の解も見出さず、止まった思考の中をただ泳ぎ回っていると、突然、ぱちんという、高い音が濁った頭の中に響いた。

その瞬間、頭の中に散りばめられていた記憶の破片が急速に集まっていき、忘れてかけていた、嘔吐しそうな程の嫌悪感と寒気が全身を包み込んだ。





…耐えられる訳もなかった。





気がつくと、私はその場に倒れ込み、体内にあった物の全てを吐き出していた。

吐き出された吐瀉物の嫌な匂いが自身の鼻にも届き、犯すが、それ以上に酷い匂いが、体内から漏れ出しているような気がしてならなかった。

腐敗した食物の端くれ、雨と廃棄されたものが混ぜ合わさった水、真っ赤な血液に濡れた人間の臓物など、決して人らしい人が口にする物ではない、そんな忘れかけていたものたちの死臭が。





吐き出されるものが唾や涎だけになっても、身体はその異臭に震え、尚も何かを吐き出そうと動く。

「…少しは落ち着いた?」

顔を上げず、荒い呼吸を少しずつ落ち着かせていると、そこで初めて、背中に温かな手が宛てがわれ、優しく撫でられていることに気がついた。

しかし、まだ振り返るだけの余力はなく、微かに頭を振って、その質問に答える。

すると、継ぎ接ぎだらけの手が目の前へと差し出された。

その手からは不思議なことに、ぼんやりした頭ですら、自然、美しいと思ってしまうほどの水が溢れ出ている。

「お口気持ち悪いでしょ?んふふ、ぐちゅぐちゅぺーして、きれいきれいしましょ?」

まるで幼児をあやす様な、優しげな声には、こちらを嘲る意図は全く感じられなかった。

むしろ、その言葉遣いは、思考と心が壊れかけた今の私にとって、ひどくありがたい気さえしてしまう。

ペルメルの言葉に従い、美しい水の溢れるその手に顔を近づけ、口周りや頬を洗っていく。

冷たくて、心地良い…。

床が水浸しになることなど忘れ、何度か口の中も洗うと、貪る様にペルメルの手に食らいついた。

喉を鳴らし、空っぽになった身体を満たす様に、腐り切った身体を洗い流す様に、止め処なく溢れる水を飲んでいく。

「はぁ…はぁ…」

「んふふ。だいぶ落ち着いたみたいね。良かったわぁ」

背中に添えられたペルメルの手を支えに、倒れ込んでいた身体を、膝立ちの体勢へと何とか起こす。

微かに残る息苦しさを深呼吸で対処しつつ、周囲を見渡す。

フーやオネ、そしてスクレはこちら寄り、心配そうに見つめていてくれた。

アルとリウは相変わらずの様子だ。

「ちょっ~と急過ぎたわねぇ…。ごめんなさい、トゥバンちゃん」

「はぁ…はぁ…。い、いえ…大丈夫です…」

「嘘付かなくてもいいの。苦しい時は苦しい、助けてって、言って良いんだから」

「…本当に大丈夫です」

「全くもぉ…。“二人”ともほんとに頑固で負けず嫌いなんだから…」

二人…。

あぁ、そうだ…。

“私たち”は二人なんだ…。

今はシエル王であるあの子の姉であり、魔物、黒龍の娘でもある。

そして、“私たち”はプレシエンツァたちの実験台となったのだ。

“あの人”を甦らせるための。

身体がある程度落ち着くのを待って、支えていてくれたペルメルの力を借りながら立ち上がると、蹌踉めきながら、ベッドへと向かって歩いて行く。

そして、すぐさまベッドから飛び降りたアルの横に眠る男を跨ぐ形で、見下ろす。

「プレシエンツァ…」

静かな寝息を立てる、愛する者の名を呼ぶ。

断片的な記憶の中で、“私たち”はこの男に二度殺された。

一度目は竜の時、二度目は人間の時。

とても痛かった、とても苦しかった…。

だが、それ以上に、“私たち”二人の命を弄んだことが憎かった…。

片腕を竜のものへと変え、大きく振り上げる。

もし、彼を殺し、アルやペルメルに殺されたとしても、もはや構わない。

“私たち”は彼さえ殺せれば、それで良いのだから。

鋭利な爪でその柔らかな肉を切り裂き、その命を刈り取るため、振り上げた手を思い切り振り下ろす。










「…もう少し横だったな」










「な…ぜ…」

「君が狙っているところくらいは分かっていたんだがな…。生憎、上手く身体が動かなかった…。ふっ、歳かな…。すまないな、上手く当たってやれなくて…」

片頬の肉が吹き飛んだプレシエンツァが小さく笑う。

当てるつもりなど、当てる勇気など端からなかった。

だって、彼を殺したい程憎む“私たち”がいる一方で、それを許したいと思う程愛している“私”がいるのだから。

なのに、彼は自ら当たろうと顔を寄せてきたのだ。

下手をすれば、死んでいたかもしれないというのに…。

確かに、彼に与えられたものは、嘘にまみれた記憶と過去だったかもしれない。

しかし、この十年間、共に過ごし、愛し合ったことは紛れもない事実なのだ。

殺され、利用された“私たち”がいる。

だが、愛し愛された“私”がいる。

だから、どうか彼を許すことを、許してほしい。

「おいおい、傷薬は少ないんだぜ?あんまり無茶しないでくれよ…」

「おはよ、いつから起きていたの?」

「大きな音が聞こえたあたりだな…」

力が抜け、腰を下ろしてしまった私を支えながら、プレシエンツァは起き上がる。

「割と最初っからじゃねぇか…。起きてるなら、あんたにこの大役を譲ってやったのに」

「ふっ、弟のせっかくの晴れ舞台だ、邪魔する訳にもいかないだろう?」

「この姉にしてこの兄ありだな…。全く…」

「ふふっ、優しい弟でありがたい限りだな…」

プレシエンツァは小さく微笑むが、その笑みはどこか苦しそうで、手は胸に宛てがっている。

やはり、まだ胸の傷が癒え切っていないのだろう。

「それで?話を聞いていながら止めなかったってことは、全ての真実を話すことに反対しない、そういう意味で捉えていいのかしらぁ?」

私が撒き散らしてしまった吐瀉物を、その便利な水の魔法で洗い流していたペルメルが、こちらを向かずに尋ねる。

やはり、この人はどこかプレシエンツァを嫌っている様な気がする。

大きな音というのは、おそらくリウがスクレを屋敷外に殴り飛ばした時のものだろう。

ともすると、あれからかなりの真実を話してしまった。

今更止めることは出来ないし、無意味だろう。

そう思い、そっとプレシエンツァの顔を見やると、彼は静かに微笑みながら頷いた。

「構わない、いずれは明かすべきことだ。信頼出来る者、知る権利のある者、そして、愛する者にはな」

「プレシエンツァ…様…」

「すまない、トゥバン。用心の為とはいえ、君にも多くの隠し事をしてしまった。本当に申し訳ない…」

「…全て聞かせてください」

可能な限り下げられたプレシエンツァの頭を優しく抱きしめる。

「きっと、全てを聞いても、“私たち”は貴方を殺せません。それだけ、“私”が貴方を愛していますから…」

「…ありがとう、トゥバン」

背中に回された手の温かさと、胸に抱いた頭から彼の熱を感じ、先ほどまで感じていた気持ち悪さが消えていく。

あぁ、そうだ…。

…竜の私を殺したのは彼だ。

…人の私を実験台にしたのは彼だ。

でも、それは、私を助けるため。

死にかけた私たちを一つにし、新しい私へと生まれ変わらせたのだ。

そう思おう。

彼を心の底から愛するために。

私の様に、私たちが彼を愛するために。

「愛しています…」

「…ありがとう。私も愛している」

頭をから手を離し、片腕を竜の腕のまま、プレシエンツァの胸に体を埋める。

他人の目など気にならなかった。

ただこうしたい、その想いでいっぱいだったから。










「…何か来たぞ」

「「えっ…?」」

全員がリウの方を見る。

彼はスクレが作った穴から屋敷の外をじっと見つめていた。

まるで、そこに何かがいるかの様に。

最もリウの近くにいたスクレが穴の外を確認する。

「な、なんだ…?あの化け物たちは…?」

恐れの権化とも呼べる姿形をしたスクレの体が竦み上がり、穴から手をかけたまま、動かなくなる。

何事かとアルやペルメルが窓に駆け寄り、外の様子を伺う。

すると、その表情は一気に強張り、ペルメルに関しては見たことのないほど、切迫したものへと変わった。

「フェンリルが来た…」
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