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崩れる歯車
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▽
「…来ませんね」
片腕にぴったりと抱きつくヴァンパイアの求愛を無視し、ヘルはぼんやりと告げる。
最後に黒龍が到着してから、それなりの時間が経っているのだが、獣の長はなかなかやって来ない。
無音における生理的耳鳴りを掻き消す、心地良い微かな夜風の音と感触に身を任せる内に、朦朧とし始めていた意識をなんとか奮い起こし、ぱきぱきと身体中を鳴らしながら立ち上がると、辺りを見渡す。
だが、月に照らされたなだらかな丘陵地帯に、それらしい影はない。
…困った長だね。
魔界に帰れば、こちらも従わなくてはならない獣の身だけに、あまり四の五の言いたくはないのだが、時間くらいは守ってもらいたいものだ。
せめて魔王がいる時くらいは。
「…失礼だが、獣の長は本当に来るのか?」
特に苛立つ様子もなく、落ち着いた声で黒龍が尋ねる。
誰も声こそ出さぬが、全員が頷いてみせる。
「…そうか。ならば、もう暫く待つとしよう。人間界に出て行った魔物たちの中で、彼の配下である者の比率は極めて高い。彼抜きで話は進められない」
…一体何を考えているのやら。
傲慢不遜、唯我独尊、殆どの竜たちに当てはまる筈の言葉が、竜の長である彼に当てはまらないとは、ひどく奇妙な感覚だ。
トゥバンの一件で心に大きな傷を負ったといえど、やはりまだその違和感に慣れない。
魔物という大きな括りで見るならば、彼も同じ魔物であり、同族と見ることも出来るが、魔界における食物連鎖の頂点に位置し、他の種族を蔑ろにしてきた彼ら竜族と仲良くしたいとは、正直、そう言えたものではない。
あまり良いことじゃないんだけどね…。
前魔王が勇者に敗れ、破壊された魔界の中でばらばらになった魔物たちを、今一度統率した魔王は、魔物同士の殺し合いを禁じ、相互に協力するよう命じた。
そして、意に反する者には、強烈な呪いをかけ、力づくにでも従わせていったのだ。
独善、暴虐的であると非難する魔物たちもいたが、結果として、魔物たちの結束力は高まり、種族毎の支配者を決定する長の決定や、人間界への進出にも成功した。
魔王の真意こそ計り知れないが、その胸奥には、常に全ての魔物の繁栄を願っているのだろう。
故に、過去の憎しみに囚われ、曇った瞳で同族である魔物を見るというのは、彼女の意に反するものに違いない。
…お手本くらい示さなきゃね。
さっ、離れた離れた、君たちはむず痒いから…。
体に付いた草や虫たちを振るい落とし、声も無い欠伸を噛み殺すと、また目を閉じ、両耳に神経を集中させる。
柔らかな夜風の音に耳鳴りを宥められた聴覚は、目には見えぬ、遠くの風景を瞼の裏に投影してくれる。
丘陵地帯には少ない木の葉が揺れる音や、炎の揺らめく微かな音に、どこかの街の子どもを寝かしつける様な囁き声。
風に乗って伝わるあらゆる風景を耳で感じながら、遅刻者を探していく。
あぁ…いた…。
「ん?フェンリル?」
喉元の傷の具合を確認しつつ、目的の場所へ“跳ぶ”準備をしていると、ヘルがこちらへ顔を向けてくる。
やっぱり、魔力の動きには敏感らしい。
ちょっと呼んでくる、そう伝えるため、小さく微笑むと、前方に飛び出す。
「…存外、随分久しぶりじゃな、フェンリル」
名も掘られぬ墓石の全てを見下ろす位置に、どっかりと腰を下ろし、身の丈に合わぬとても小さな瓢箪に口をつける、手入れの行き届かぬ茶色の髪と髭で顔を覆った、人にしてはあまりに大きな体つきの大男が、こちらには顔も向けず、その嗄れた声を掛けてきた。
だが、生憎こちらには、その声に返す言の葉はない。
「ふん、相変わらず無愛想な奴よ…。声を無くそうと、無くすまいとな」
「…」
「…まぁいい。それにしても、よく分かったものだな?こんな墓場に儂がいることが」
嘲る様な口調ではあるが、その言葉は微かな悲しみを帯びている。
確かに、盲点ではあった。
シエル王城の中庭、三年前の謀りの犠牲になった魔物たちを悼む、名も記されぬ墓所。
こんなすぐそばにいながら、夕焼け頃には、彼の存在に気がつかなかった。
ただ、負け惜しみにも等しいことを言うならば、彼が此処に居たのは、少しも意外ではなかった。
余計な混乱と責任、そして、罪悪感から逃れるため、長たちにすら、三年前の謀りの真相は教えてはいない。
この墓場のことは、あの一件と、十年以上前、血に酔った前シエル王と共に、他国に攻め入り、“彼ら”と戦ったが故に戦死した魔物たちの墓だと、それとなく伝えたに過ぎないのだ。
だが、慈悲深い彼ならば、此処へ来るのも頷けた。
「ふん…。まぁいい、ちょうど酒も終わったところ、そろそろ…」
小さな瓢箪を逆さまにし、残っていた大量の酒を土に供えると、小さく吐息を吐き出し、大男は立ち上がる。
そして、こちらに振り向くと、無数の傷の様に深く刻まれた、その皺だらけの顔を月光に照らした。
「風情ある月見酒じゃった…。礼を言うぞ」
名も無く、何も埋まらぬ墓に礼を告げる。
これが、獣の王、“ベヒモス”なのだ。
「待って…!ソル!もう寝ないと!」
「やだよ~!せっかくフェンリルがいないんだもん!今日くらい遅くまでおきるも~ん!」
ベヒモスと共にシエル城内に戻ろうとした時、すぐ近くの通路から、聞き覚えのある、そして、本来は聞こえてはならぬ、可愛らしい声が響いてくる。
…全く、また“彼女”を困らせているな。
もはや空気しか出ぬため息を吐き、通路の端へと隠れる。
たまには、驚かせてやっても、バチは当たらないだろう。
むしろ、保護者として、時には厳しくせねば。
声の主が通路を曲がってくるのを見計らい、肉球を目一杯広げた手で捕まえる。
「むぎゅっ!?」
よほど力を抜いていたか、或いは、俺がいないことがそれほど嬉しかったのか、どちらにしても、お得意の嗅覚が働いていなかったらしい。
情け無い声を上げた、やんちゃっ子は、驚いた様子でこちらの顔を見つめる。
「フェ、フェンリル…!?ど、どうしてここに…?」
真っ黒な獣耳と小さな顔をふるふると震わせる。
…まだ、怒っていないのにな。
複雑な想いに胸が少し締め付けられながらも、じっと、“ソル”を見つめる。
出会った頃より、体はずっと大きくなり、拙く、それはそれで愛らしかった舌足らずの言葉遣いも、かなりしっかりしたのは喜ぶべきことなのだが、最近は少し悪戯というか、そういったものが増えている気がする。
有り余る程に元気があるのは良いかもしれないが、“彼女”やその他の者たちに迷惑かけるべきではない。
そのことをよく教えなくちゃね。
「ソル…?あっ…。お帰りなさい、もう終わったのですか…?」
少し伸びてきた白髪を揺らしながら、ソルを追いかけて来た、寝巻き姿の“彼女”は小さく微笑む。
「いや、残念ながら、儂のせいでこれからじゃ」
「そぅ…。貴方は…?」
「儂は、ベヒモス。魔界では獣の長をしておる」
「獣の長…。つまり、フェンリルも統率している…?」
「ふん、長といっても、魔界での話に過ぎん。それに、こいつの場合、あのちびすけ共の力でも借りねば、指示など出来ん」
ちらりとこちらを見やり、ベヒモスは、ふん、と鼻を鳴らす。
言いたい放題だね…。
不満の表れからか、むっとした表情が自然と浮かぶ。
だが、そんな俺の顔に“彼女”はまた小さく笑った。
「ふふっ…。あっ、私はガルディエーヌ…。フェンリルの妻…。そして、この子はソル」
思い出した様に頭を下げ、ガルディエーヌは右手でソルの方を示す。
「ほぉ…。妻のガルディエーヌに、ソルか…。どれ…」
「ん~?」
ぽかぽかと力の籠らぬ、優しい手つきでこちらの手を叩くソルの頬に、ベヒモスは顔と同じ様に、皺だらけの手を当てがう。
見知らぬ男の、頭を包み込む程大きな手ではあるが、ソルは恐れることなく、その柔らかな温もりを頬で感じている。
「…そうか。お前が、ブラックドッグとミノタウロスの忘れ形見か」
「…パパとミノを知ってるの?」
「知っているとも。だが、お前さんは前を見て生きろ。振り返ってはならん」
「…うん」
長たる彼の言葉の真意に気づけているのか、そこまでは推し量れないが、ソルはじっとベヒモスの顔を見つめた後、静かに頷いた。
「遅刻した非礼を詫びよう」
全員を前に腰を下ろし、深々と頭を下げる。
だが、相手は獣の長、ベヒモス。
竜の長たる黒龍程でないにしても、適当な相槌を打つことは憚られた。
「構わん、ベヒモス。頭を上げるがいい」
折り畳み式の椅子に腰掛けた魔王が、目を閉じたまま告げる。
随分早い段階でやって来ただけに、彼女も少し疲れているのかもしれない。
まぁ、とにかく、これで役者は揃ったわけだし、無駄なお喋りは抜きにして、早々に会合を始めたいね…。
そんなことを心の中で願っていると、誰からともなく、現在の魔界や、自身に与えられた務めの進捗状況を報告し始めた。
▽
「「…と、いうことで、人間界の道具のお陰で、魔界の植物たちはすくすく育っています!」」
魔界と人間界での植生についての研究報告を終えた二龍松は、二人仲良く手を繋ぎながら腰を下ろす。
これで、長たちによる報告は全て完了した。
気にすべき報告はない。
むしろ、二龍松やクラーケンの報告によれば、人間界に来たおかげで、確実に魔界の植生などは復活させられている。
このまま上手く自然を回復させられれば、生態系が元に戻り、全ての魔物たちが魔界に帰る可能性は十分にあり得る。
…まぁ、今更全ての魔物たちに、魔界へ戻る意思があるとも言い切れないけど。
人間界に打ち解けた者や、人と友好的な関係を築いた者、そして、人と愛し合った者は尚更だろう。
しかし、そんな大衆的であり、且つ個人的過ぎる想いとは裏腹に、魔物の本懐を遂げるため、確実な一歩とまた踏み出したことを伝える朗報に、皆浮き足立ち、そわそわと喜びに身を震わせながら、隣に座る者に話しかけたり、地面を叩いたりしている。
そんな、皆が喜びを噛み締める中、一匹の魔物が体を持ち上げた。
「失礼、報告とは違うのだが、少々皆の耳に入れたいことがある。話も良いだろうか?」
黒龍だった。
大きな図体をゆっくりと起こし、まるで皆を威圧するかの様に、上空からこちらを見下ろす。
「黒龍、貴公はまだ何かあるのか?」
「えぇ、重要なことだと考えている事柄が一つ、二つ。それも、特に魔王様やその側近の者たちに聞きたいことが…」
「…許そう。言ってみるが良い」
「ありがとうございます。では、単刀直入ながら、貴方がたは“勇者”を引き入れているのか?」
俺を含む側近たちはもちろん、他の長たちの背にも、電流の様な緊張が駆け抜けた。
…何故、黒龍が“彼ら”のことを知っている?
顔はもちろん、目玉すら動かすことなく、その場から見えるヘルやナリたちの表情を伺うと、例の事情を知る者たちの顔には、自分と同じ疑問が浮かんでいるのが微かながらに分かった。
「…どういう意味ですか?」
努めて平静さを醸し出すヘルが聞き返す。
「貴方がたがこの人間界で、今の魔物たちの地位を築いたことは尊敬に値する。だが、その代償はかなりついたものだと私は思っている。そして、私はそこに疑問も感じているのだ」
「…」
「というのも、本来死ぬはずのなかった魔物たちがあまりに多く死んでいる。無論、人間でも殺せる、ひ弱な魔物は存在する。しかし、侵略戦争中の最前線や、魔物が住んでいた街二つを潰されるというのは、あまりにおかしな話だ」
怒りを込めず、あくまで冷静な口調で黒龍は告げる。
一瞬、娘のトゥバンを死なせた我々のことを皮肉っているだけなのかとも思ったが、どうやら違うらしい。
黒龍が言っているのは、フェンガリとソレイユの街のことだろう。
あの街は謂わば、各国がレイダット・アダマーという生贄を差し出したのと同様に、シエルが差し出した生贄だ。
潰されたのは、決しておかしな話ではない。
だが、それを知っているのはごく少数の者たちだけだ。
「それが一体どう、我々が勇者を引き入れていることに繋がるというのですか?」
「私の部下の調べによれば、その疑問の残る犠牲を生み出した二つの事柄が起きた時、そのどちらにおいても、とある者たちの姿が確認されたのだ」
「それは…?」
「白髪の者たちだ」
「…っ」
誰かが息を呑む音がした。
少なくとも、真実を知る者の誰かの。
まずいな、思った以上に調べられている…。
だが、観念して真実を教える訳には当然いかない。
平和の為とはいえ、他の者を犠牲にすることも厭わない、冷酷な魔王と知れれば、その信用は人間、魔物、双方地に堕ちる。
それだけでは無い、魔王の求心力が無くなれば、やっと固まりつつある人間界での基盤すら揺らぎ、各国が息を吹き返す可能性すらあるのだから。
ただ、今更誤魔化しが通用するとも思えない。
「侵略戦争時には、各国の同盟軍の中に、二つの街が潰された、コハブでの防衛戦の時にはコハブ自警団の中に、その姿が確認されている。そして、私は彼らこそ、“勇者”か、或いはそれに近しい何かなのではないかと考えている」
「その根拠は?」
「彼らのあの圧倒的な戦闘力に他ならない。侵略戦争時には、一時的とはいえ、こちらの侵略を停止させ、コハブ防衛戦においては途方も無い物量差を押し返した。そんなことが並大抵の、ただの人間に出来るとは思えない」
確かに黒龍の言う通り、彼らの力は異常だ。
全て謀とはいえ、ミノタウロスなどの屈強な魔物をねじ伏せる無数の騎士たち相手からコハブを守りきったことも、こちらの声を奪ったことも事実。
しかし、それらのことを加味した上で、“彼女”は彼らを引き入れたのだ。
「しかも、その内の一人がコハブの領主として魔王様、貴女に任命されているとのこと。…もう一度伺いますが、貴方がたは彼らを“勇者”と知ったうえで、我々魔物に協力させているのですか?」
「…」
長たちの視線が魔王や側近に集中する。
声を荒げず、穏やかな口調と目つきでこちらを睨んでくる黒龍とは違い、他の長たち目には静かな怒りと恐怖の色が浮かんでいる。
やはり、彼らにとって勇者とは、過去のものではないのだ。
多くの同胞を無慈悲に殺した、謂わば魔物の血が通う者にとって、永遠の仇。
そんな奴と共に築く平和など、己の感情と共に、魔物の血が許さぬということなのだろう。
…まぁ、普通そうなるよね。
態とらしく息を吐き出すと、魔王の方に顔を向ける。
言葉が無い自分には説明出来ないから。
責任の一端と見られたくなかったから。
彼らを守りたかったから。
そして、魔王の揺るがぬ言葉を信じたかったから。
「…彼らは“勇者”ではない」
縋る様な側近たちの視線と、そこから流れてくる長たちの視線を、涼しい顔で受け止めていた魔王が静かに告げる。
「…では、彼らは何者だというのですか?」
「私の知るところではない…。だが、少なくとも、勇者でないのは確かだ」
「何故その様に言い切れるのですか?」
「…私は過去に、本物の“勇者”を見たことがあるからだ」
「…」
「我が父、前魔王を見るも無残な姿に変えた勇者を、な」
憤怒に心を震わせることもなく、淡々と自身の過去を告げる魔王の言葉はひどく落ち着いている。
まるで、自分にはあまり関係がないかの様に。
「…貴公たちの中で本物の勇者と戦ったことのある者は?」
片腕を微かに挙げ、他の者に手を挙げるよう促す。
しかし、挙がった腕は一本。
小さな瓢箪を摘んだ大きな人の腕だけだった。
「…ベヒモス、貴公は勇者を見たことがあるのか?」
「えぇ、過去の戦いにおいて、貴女様と同じ者を…」
「…どう感じた?」
…不思議な質問だ。
どんな姿形だったかを問うならばともかく、主観的な感情を尋ねるとは一体どういうことだ…?
その真意を読もうと、密かに考えを巡らせていると、手に持った瓢箪をじっと見つめた後、ベヒモスは静かに答えた。
「…恐怖。それだけでしょうな」
「…そうか、貴公も同じか」
「はい、彼奴には勝てぬ、本能的にそう感じました。故に、恥も捨てて逃げ出し、儂は今、あまりに多くの亡骸の上に生きております…」
「…そうか」
獣の長たる、ベヒモスのあまりに赤裸々な告白に、魔王は責めはしなかった。
むしろ、どこか安堵し、逃げ出してでも生き延びたことを賢明な判断であったと褒めているかの様にすら感じる。
やはり、彼女にとって、誇りや名誉などというものは、さして価値あるものではないかもしれない。
そして、口振りから察するに、ベヒモスが感じた恐怖を、魔王自身も感じており、本物の“勇者”とは、最強の一角たる彼らをも恐怖させられるだけの実力と雰囲気を持っているということになる。
ともすると、実力が確かに異常といっても、彼らは本物の“勇者”ではないということだ。
これで何とか黒龍や他の長たちが納得してくれれば良いのだが…。
「…つまり、彼らは魔王様を恐怖させる者たち、つまり“勇者”ではないと?」
「その通りだ」
「…しかし、“勇者”でないとしても、魔物を殺せるだけの力量があるのは確か。やはり、彼らを野放しにすることは危険です」
「…結局、貴公は彼らをどうしたいのだ?」
黒龍に呆れるでもなく、彼らに肩入れするでもなく、あくまで中立的な立場を貫くつもりらしい魔王が椅子に座り直しながら尋ねる。
…結局はそこだ。
黒龍が彼らのことを何故知っているのかは置いておくとして、何故彼らのことをここまで敵視しているのか、いまいち分からない。
彼らとの戦いの中で娘のトゥバンが死んだことへの私怨だろうか。
それとも、もっと別の意志があるのだろうか。
「全ての魔物たちの平和と安全のために、殺す必要があると考えています」
…そうきたか。
確かに、彼らはそんじょそこらの魔物では束になっても敵わない。
故に、その力が、今後絶対に我々に牙を剥かないとは言い切れない。
それ故、黒龍の様に彼らを危険視する者も、側近の中にはいる。
しかし、だからこそ、プレシエンツァにコハブの領主となることを許し、その動向を常に監視出来るようにしたり、ガルディエーヌにシエル王城で共に暮らすよう提案し、納得させた。
彼らが牙を剥いたとしても、個別的に鎮圧出来るように。
そして、それらは全て、魔王による命令だ。
つまり、彼女は彼らを、信頼は別にして、“勇者”としてではなく、あくまで強大な力を持つ“人”として見ているということだ。
故に、黒龍の心配は不要だ。
…そう思っていた。
「…ならば、好きにするといい。もはや、不要の存在だ」
「「なっ…!?」」
声色の変わらぬ、魔王のあまりに非情な言葉に、スレイプニルやナルヴィが驚きの声をあげる。
元々、その明るく、軽い性格からか、彼らをそこまで敵対視していない彼らにとっては、あまりに急で、予想外の返答だったのだろう。
もっとも、それは彼らを危険視していたヘルやナリも同じらしく、目を大きく見開いている。
「ま、魔王様!あ奴らは共に魔物の世界を創り上げることを約束した、謂わば同士!斯様な鶴の一声には、拙者、賛同致しかねますぞ!」
「そ、そうです…!少なくとも、一度彼らの心の内を確かめるべきです…!」
「…無論、貴公らの意見も分かる、スレイプニル、ナルヴィ。だが、黒龍の抱く危惧の念もまた、決して的外れという訳ではない。それに、彼らは元々、魔界に残る長たちの穴を埋めるため、一時的ながらに重宝していたに過ぎん」
寒気すら感じる程、魔王は慈悲のないの言葉を続ける。
…彼らの力を当てにしていた者が言う言葉ではない。
こちらの侵略を一時的に止めた彼らの正体を、真っ先に“勇者”であると疑い、前シエル王に隠れて、各国と交渉、侵略戦争を停戦する代わりに、“勇者”製造を止めさせ、その施設ごと破壊するよう取り付けた程に、“勇者”という存在を恐れ、後に彼らが“勇者”でないと分かるや、ここまで利用してきたというのに。
裏切り者め…。
強さだけを求め、全盛期であった頃の自分から声を奪う程の力量を持つ、ガルとの子を望む、ひどく魔物らしい自分が、人の言う仁義とやらをとかく言う権利があるかは分からぬが、今の魔王の言葉には、怒りを覚えた。
だが、そんな彼らとの真実を知る俺たち側近を他所に、真実を知らぬ長たちの何人かが、魔王と黒龍の言葉に頷き、何人かが首を捻ねる。
「ふ~む、確かに…。その者たちが“勇者”であるかは分からぬが、魔物を殺せる危険人物というならば、犠牲も仕方なしとも思うが…」
「…右に同じ」
「ヨク、ワ、カラ、ナイ…」
「私はヘル様の判断に従いますわ」
「危ねぇ野郎はみ~んなぶっ殺せ!」
「「ぶっ殺せ~!」」
「…」
そんな長たちの様子から、大義名分を得たとばかりに、黒龍はどこか得意気に頷き、言葉を紡ぐ。
「ならば、すぐにでも事を起こすべきかと…。彼らに余計な時間を与えぬためにも」
「いや、少なくとも今夜中は待て。貴公が彼らを殺すのは構わないが、何も知らぬ市民の前で彼らを殺しては、魔物全体の印象が悪くなる。明日以降、あくまで、生け捕りにしたうえで、このシエル城に持ち帰るのだ。そうすれば、見世物の一つや二つも出来よう?」
「しかし…」
食い下がろうとする黒龍に魔王は静かに首を横に振る。
彼らを襲うことを止める気は無いようだが、どうやら黒龍の自由にさせる気は無いらしい。
おそらく、政治や情勢に関わるだけに慎重になっているのだろう。
しかし、彼らを襲わせるその真意までは推し量れず、長たちに真実を暴露することも出来ぬだけに、反論すること叶わずいると、魔王は小さく手を叩いた。
「話は終わりだ…。今宵は皆集まってくれたことに、心から感謝する。本来ならば再び魔界に戻り、長としての務めを果たしてもらうつもりだったが、貴公たちにも暫しの間、人間界に留まってもらう。そして、黒龍、貴公に彼らのことは任せよう」
手短にそれだけを告げると、誰の返事も聞かず、魔王はその椅子と共に姿を消した。
おそらく、シエル王城へと戻ったのだろう。
あまりに急な出来事に、側近はもちろん、長たちすら困惑の表情を浮かべている。
黒龍からの提言とはいえ、突然の追討命令に、本来ならば報告を済ませ次第、帰郷させるはずだった長たちを留まらせる命令。
場当たり的とも言える、かなり熟考性のない判断の様にも見えるが、一概に魔王を愚か者と断じることも出来ない故、余計にこちらが頭を捻らせなければならない。
…一体何を考えている?
だが、彼女の真意が分からずとも、今はしなくてはならないことがある。
彼らに関することや、突然の停留命令に困惑する側近と長たちを他所に、自身もシエル王城へと“跳んだ”。
「“コハブ、に、共に、行こ、う”…?どういう意味…?」
小さな紙切れに目を凝らし、俺が書いたぐちゃぐちゃな文字を何とか判読してくれたガルが、微かに眉間に皺を寄せる。
…こういう時、やはり声があれば良いと思ってしまう。
しかし、今はそんなことを憂いている場合でも、細かく説明をしている場合でもない。
自ら積極的に彼らを葬り去る気がないとしても、魔王のその真意が分からぬ今、ガルをこのシエル王城に留まらせる訳にはいかないのだ。
一刻も早く、ガルをプレシエンツァたちの元へ届けなくては。
彼らが揃えば、もはや手負いである俺では敵うはずはない。
もし追討の命が下ったとしても、少なくとも、愛する者をこの手で殺すことは避けられるはずだ。
…それに、たとえどんな魔王であろうとも、我々は魔物、従う他ないのだ。
そんな覚悟と諦めの混じり合う想いを胸に押し殺し、じっと、ガルの優しい瞳を見つめ、事態の重要性を感じ取らせる。
「分かった…。すぐに準備する、待って…」
ガルがこちらの頬に手を宛てがおうとした時、部屋に小さなノック音が響く。
…ちっ、もう来たのか。
何の気なしに扉を開けようとするガルを制し、部屋の奥へと追いやる。
そして、いつでも扉の外に立つ誰かへと飛び掛かれる様体勢を整えた後、そっと爪で鍵を開ける。
「…そう怖い顔をするな、馬鹿者」
ゆっくりと開いた扉の外に立っていたのは、意外にもベヒモスだった。
「準備を整えろ、すぐに発つことになる。その小僧も起こせ」
「一体何が…?」
「事情は追い追い説明する。今は黙って、フェンリルを信じろ」
開いたままであった扉を音も無く閉めると、ベヒモスは部屋にある窓を開け、外を見渡していく。
微かに肌寒い夜風が部屋の中の空気を入れ替えていく。
何故、ベヒモスがこちらの手伝いをするというのだろうか…?
この者も他の長たち同様、真実を知らなければ、彼らと深い関係がある訳でもない。
彼ら護る理由などどこにもないはず。
だというのに、何故…?
「…儂の胸中でも推し量っておるのか?」
窓から外の様子、それも特に空の見つめていたベヒモスが、こちらに顔も向けずに低い声で尋ねてくる。
「大したことではない…。黒龍の奴に好き勝手させたくない、それだけよ…」
「…」
自然、ガルと顔を見合わせていた。
もはや、彼女同様、俺自身、何がなんだか分からなくなってきているらしい。
魔王、黒龍、ベヒモス、彼らの真意がなんであるかを。
「信じられぬか?ふん、まぁいい…。お前がどう思おうとも、儂は貴様を見張り、護らねばならぬ立場…。そして、それはお前の家族も含まれる」
▽
“跳ぶ”ことで、ヘルや魔王たちに気配を気取られることを危惧し、背にソルを抱きかかえたガルとベヒモスを乗せ、コハブまで走る。
出来る限り、夜の内、或いは朝早くにはコハブまで到着しなくては。
そうでなくては、魔王の命令という大義名分を得た、黒龍たちが動き出し、空からの警戒が強まってしまう。
しかし、大きな戦闘もなく、のんびり過ごしてきたこの十年近い歳月は、体を徹底的に甘やかしたらしく、全くもって速度が出ないうえに、体力の消耗が激しい。
止まりこそしないが、目に見えて走る速度が落ちるたびに、ベヒモスからの手痛い激励を飛ばされつつ、逸る気持ちのみで走り続ける。
コハブへと向かうその間に、ベヒモスが事の経緯をガルに説明してくれていた。
ガルは腕の中で眠るソルの頭を撫でながら、黙ってほれを聞いていた。
もっとも、何故ベヒモスがやって来てくれたのかまでは語ってはくれなかった。
コハブに到着した頃には、日が完全に上ってしまっていた。
予定していた時間よりもかなり遅くなってしまったために、すぐにも街へと入り、人混みの中に隠れようと考えていたのだが、街の門を過ぎた瞬間、その異様な空気に気圧された。
空気が変に熱気だっているのだ。
緊張に張り詰めた空気とはまた違う、熱に浮かされたおかしな空気。
前シエル王が生きていた頃に似ている、嫌な空気だ…。
それに、本当に熱された物があるのか、焦げ臭い匂いまで漂っている。
だが、この空気の正体も気になるが、今はプレシエンツァにガルを届けるのが先決だ。
異様な目つきをした市民たちの目を避けるため、何となく、ガルにフードを深く被り直させ、街の中心にある領主の館を目指す。
「えっ…?」
大通りを避け、曲がりくねった路地を抜け、領主の館がやっと目に入った時、ガルが声を上げた。
それもそのはず、領主の館、それも領主たるプレシエンツァが執務室として使っていたと記憶している、二階部分が真っ黒に焼け焦げていた。
「一体何故…!?」
困惑するガルを横から支えながら、領主の館へと入るための門へと近づく。
門には人集りが出来ており、皆一様に門前に立つ騎士たちに詰め寄っている。
例の空気はここから発せられているようだ。
「ガル…」
離れぬよう手を繋いでいたソルが不安げにこちらを見上げる。
見知らぬ者の怒声や罵声に怯えているのだ。
「…これでは事情も容易には聞けんな」
「無理矢理にでも入る…?」
「ふん、人の業の深きこと…。その他者を重んじぬ心からこそ、争いの火種が生まれるというものよ…」
非難するというよりも、心底悲しがっている様な声色のベヒモスは、袖口から小さな葉を数枚取り出し、それを人集りへと放り投げる。
すると、人集りから聞こえていた言葉にも聞こえぬ雑音が次第に収まっていき、静かになった人々は、一人、また一人という様に、その場から離れていく。
そして、人集りが完全に無くなるのを待って、不思議そうに目を丸くしながらも、安堵の吐息を漏らす騎士たちへと声をかけた。
「失礼ながら、ここで火事か何かが起こったのか?」
「えっ…えぇ、急に領主様の部屋から出火したようでして」
「ふむ、だが、ただの火事にしては、先ほどの者や、街の者たちが殺気立っておるが?」
「あぁ…。それは…」
騎士たちは顔を見合わせた後、疲れた口調で、事の経緯を説明し始めた。
「今は火も消えて問題ないのですが、火元の調査をしていたところ、少々厄介な事が発見されてしまって…」
「なんだ?」
「実は、領主様の部屋から、三年前のレイダット・アダマーの蹶起や、フェンガリ、ソレイユの壊滅に関わる不審な文書が大量に発見されまして、どうやら、領主様がそれらを手引きしたらしいのです」
「…っ!」
ガルの体がびくりと跳ねる。
こちらも心臓を掴まれた様な気分だ。
「…火元を調査をしていたのはお前たちなのだろう?何故このことを一般に公開したのだ?」
「い、いえ、公開した記憶は無いのです…!騎士長も調べが済むまでは、このことを市民に伝えるべきでは無いと念押しされておりましたから…!しかし、どこからか情報が漏れたらしく、今の様な有様に…」
「あ、あの…!り、領主は…!領主は今どこに…!?」
後ろで話を聞いていたガルが、話の切れ目を見計らい、切羽詰まった様子で尋ねる。
だが、騎士たちはぐったりと首を横に振った。
「それが分からないのです。領主様の姿はその火事が起きた時から見えないようでして…。それ故、我々も正直困っているところなのです…」
「そ、そう…」
ガルの肩ががくりと落ちる。
彼女はプレシエンツァがいない事にショックを受けているのだろうが、事はそれ以上に重大だ。
大衆に真実が露呈した。
どこまで露呈したのか、詳しくは分からないが、少なくとも、騎士たちの話によれば、プレシエンツァが三年前の一件に加担していることはばれたらしい。
このままではそのプレシエンツァと魔王の関係まで暴かれる事になる。
そうなれば、ようやく手に入れた均衡がまた崩れ、世界をまた争いの渦に巻き込む事になってしまう。
…一度、このことを魔王に伝えに戻るべきか?
ちらりと、シエル王城が存在する方向に目をやる。
…いや、駄目だ。
もし、このことを伝えれば、いよいよ、彼らの口を塞がねばならない事態になってしまう。
魔王にこの事が伝わる前に、何とか事態を収束、或いは揉み消さなくては…。
しかし、一体どうやって…?
いや、そもそも、何故プレシエンツァは今ここにいない?
火事が起きたから避難したのか?
そんなはずはない。
執務室に重要な書類がある事は、彼が最も良く知っているはず。
たとえ火事となったとしても、彼ならば、屋敷ごと燃やしてでも、証拠となる様な物を消し去るだけの用心深さがある。
だとすると、この火事は彼の予期せぬ事態だったに違いない。
…まぁ、おそらくは“予知”の力を持つであろう彼に、予測出来ない事態というのが、おかしな話ではあるんだけどね。
しかし、今ここに彼がいないことから察するに、火事事態は偶発的に起きてしまったことなのかもしれない。
そして、その火事を調査していた騎士たちが、例の書類を偶然見つけてしまった、といったところだろうか。
厄介な事になった…。
ガルを安全な場所に届けに来たというのに、この街は既に安全とは言えなくなってしまった。
「どうする?領主は此処には居ない。他に当てはあるのか?」
騎士たちのこちらを訝しむ様な視線を気にも止めず、ベヒモスはこちらに尋ねてくる。
この男が本当にどこまで知っているのかが分からない。
魔界にいたとはいえ、ある程度人間界で起きた事は知っているはず。
普通の者たちならば、味方内の領主が、敵方と通じていたと知ったとあれば、先ほどの大衆たちと同じ様、裏切りを非難する姿勢を見せるというもの。
しかし、ベヒモスに焦りの色は見えない。
真実を知る者でもないというのに。
いや、それ故なのかもしれない。
プレシエンツァ、つまりは彼らと魔王の関係を知らないが故に、今の事の重大さを認識しきっていないのだろう。
…ならば、それを利用させてもらおう。
不安げなガルの頬に鼻先を寄せ、目でとある方向を示す。
もう一人、この街にはいるはずだ。
君の兄が。
「う、そ…」
扉の外れた診療所は、予想通り内部もひどく荒らされており、アル・ハイル・ミッテル、通称アルの私室には特に顕著だった。
書類や得体の知れない薬品、そして、何者かの血液が大量に散乱している。
「一体何が…」
ガルは呆然と部屋を見渡す。
火事といい、この部屋の荒れ具合といい、あからさまに彼らを狙っている。
黒龍たちだろうか…?
いや、彼らにしてはやり方が周到だ。
それに、早過ぎる。
プレシエンツァとアルの居所に関しては、確かに我々も知らされてはいるが、だからといって、こうも早く奇襲をかけられるとは思えない。
だが、事実、彼らの姿がここにないとなれば、もはや彼らの身に何か起こったと考えた方が良いのかもしれない。
しかし、一体誰が彼らを襲えるというのだ…。
あらゆる疑問が、泡の様に現れては消えを繰り返すために、何一つ解が見出せない。
その結果、思考が視界をぼやけさせ、聴覚を遠くしてしまったのか、暫しの間、ベヒモスがこちらを呼ぶ声に気がつかなかった。
「フェンリル…!やっと気がついたか、全く…。貴様、まだ鼻は利くな?」
苛立ったベヒモスの言葉に、慌てて頷くと、彼はそのまま床を指差す。
そこには、乾いてこそいるが、べったりと血の痕が広がっていた。
この血の匂いを追えということか。
血の痕自体はそれほど時が経ってないため、匂いを覚え、追跡することはそう難しいことではない。
もっとも、この血がプレシエンツァやアルのものである確証も無いのだが。
脳裏にそんな不安が一瞬通り過ぎつつも、鼻先を血の痕に近づけようとした時、玄関から微かな声が聞こえてきた。
「ご、ごめんください…。アルさん…?いらっしゃいませんか…?」
「アル先生~?」
聞き覚えのない、女性二人の声だ。
片方は幼げな声をしているが、声質自体は似通っているため、おそらくは親子だろう。
そして、アルのことを先生と呼んでいるあたり、彼の患者か。
ソルを除く、二人の顔をちらりと見やり、血の匂いだけ手早く覚えると、私室から診察室へと出る。
下手に隠れるよりも、こちらも患者と偽ってさっさと帰った方が無難だ。
「あっ…」
「あっ、おはようございます…」
玄関近くに立っていたのは、物静かそうなラミアの家族だった。
「うむ、おはよう。失礼だが、ここの主人が何処にいるか知っているか?」
母親の背中に隠れた子のことを気遣ってか、いつもよりも穏やかな口調でベヒモスが尋ねるも、母親のラミアは申し訳なさそうに首を振る。
「ごめんなさい、それが私にも分からないのです。かれこれ四日程戻っていない様なのですが…。それにしても、この部屋の有様は一体…?」
「信じられぬかもしれんが、我々が先ほど来た時にはこうなっていた。前からこうではないのか?」
「も、もちろんです…。昨日の夕方頃来た時にはこんな風には…」
「ふむ…。ところで、お前たちはここの患者か?」
「はい。目が少し不自由でして、そのための薬を処方して貰っているのですが…。うっかり、無くしてしまって…。それで、飲まずにいたら、また目が悪くなってきてしまったものですから、慌てて…」
「目…。目が悪いの…?」
何処かラミアの娘の様に、こちらの体に隠れていたガルがおずおずと尋ねる。
その声はどこか焦っているような印象を受けた。
「は、はい…。でも、悪いといっても、アルさんのおかげで、こうしておおよそ見える様になりましたから、もう十分ではあるんですけどね」
「…そぅ」
「で、では、アルさんも居ないようですので、私たちは帰ります。…あっ、でも、この事は騎士の方々に伝えた方が良いのでしょうか?」
不思議な質問をしてくる母親に向かって、反射的に頷こうとする頭を、何とか食い止める。
そんな事は言われるまでもなくそうするべきなのだが、彼もプレシエンツァ同様、何か魔王と繋がる情報を持っていないとは言い切れない。
ましてや、荒らされているといっても、館の様に火事になっていないために、資料はより残っている可能性すらある。
こちらとしては、伝えないでおいてくれるとありがたい。
しかし、それにしても、何故そんな事を尋ねるのだろうか?
そんな事を考えていると、自然な動きでガルが顔の横までやって来た。
「フェンリル…。私はここで何があったのか探す…。兄様たちをお願い…。あと、アルにあの子のことを伝えて…」
か細い囁き声は、手を繋ぐソルにさえ聞こえるか分からない程小さなものだったが、ガルの意思は伝わった。
しかし、ガルの言葉に首を横に振って答える。
…俺にとって一番大事なのは、自分の命やこの世の平和よりも、ガルなのだから。
ベヒモスがラミアの親子を適当に遇い、その姿が大通りに消えていくのを確認すると、微かな抵抗の意思を示すガルを無理矢理背中へと乗せ、先ほど覚えた血の匂いを頼りに屋根の上へと飛び乗る。
不思議なことに血の匂いは屋根の上を通り、街の外へと出て行っているのだ。
「あの山か…」
人の姿でも、その跳躍力は衰えないのか、ベヒモスも屋根へと登り、前方に微かに見える山々を指差す。
あれは確か、ハルと呼ばれた山々に囲まれた国であり、シエル領内ではないはず。
一体何故そんな方から、この血の匂いは漂うのだろうか…?
アル、或いはプレシエンツァはそんな方向にいるのだろうか…?
首を傾げ過ぎ、筋を痛めてしまいそうになるが、手掛かりのない今、ガルを安全な場所へ送るには、この血の匂いがプレシエンツァたちのものであると信じて、駆けるしかない。
ふぅ…。
これからまた駆けることに乗り気でない体から、ため息を吐き出させ、ゆっくりと体勢を整える。
こういうのは、スタートダッシュが、ん…?
ふと、顔を横に向ける。
「…どうかしたのか?のんびりしている暇はないのだぞ?」
なかなか走り出さないことに痺れを切らしたのか、いつの間にか、背に乗ったベヒモスが軽くこちらの横腹を叩く。
…気のせい、かな?
視界の端に、確かに、生気の感じられぬ、物憂げな顔の女が見えたと思ったのだが…。
「…来ませんね」
片腕にぴったりと抱きつくヴァンパイアの求愛を無視し、ヘルはぼんやりと告げる。
最後に黒龍が到着してから、それなりの時間が経っているのだが、獣の長はなかなかやって来ない。
無音における生理的耳鳴りを掻き消す、心地良い微かな夜風の音と感触に身を任せる内に、朦朧とし始めていた意識をなんとか奮い起こし、ぱきぱきと身体中を鳴らしながら立ち上がると、辺りを見渡す。
だが、月に照らされたなだらかな丘陵地帯に、それらしい影はない。
…困った長だね。
魔界に帰れば、こちらも従わなくてはならない獣の身だけに、あまり四の五の言いたくはないのだが、時間くらいは守ってもらいたいものだ。
せめて魔王がいる時くらいは。
「…失礼だが、獣の長は本当に来るのか?」
特に苛立つ様子もなく、落ち着いた声で黒龍が尋ねる。
誰も声こそ出さぬが、全員が頷いてみせる。
「…そうか。ならば、もう暫く待つとしよう。人間界に出て行った魔物たちの中で、彼の配下である者の比率は極めて高い。彼抜きで話は進められない」
…一体何を考えているのやら。
傲慢不遜、唯我独尊、殆どの竜たちに当てはまる筈の言葉が、竜の長である彼に当てはまらないとは、ひどく奇妙な感覚だ。
トゥバンの一件で心に大きな傷を負ったといえど、やはりまだその違和感に慣れない。
魔物という大きな括りで見るならば、彼も同じ魔物であり、同族と見ることも出来るが、魔界における食物連鎖の頂点に位置し、他の種族を蔑ろにしてきた彼ら竜族と仲良くしたいとは、正直、そう言えたものではない。
あまり良いことじゃないんだけどね…。
前魔王が勇者に敗れ、破壊された魔界の中でばらばらになった魔物たちを、今一度統率した魔王は、魔物同士の殺し合いを禁じ、相互に協力するよう命じた。
そして、意に反する者には、強烈な呪いをかけ、力づくにでも従わせていったのだ。
独善、暴虐的であると非難する魔物たちもいたが、結果として、魔物たちの結束力は高まり、種族毎の支配者を決定する長の決定や、人間界への進出にも成功した。
魔王の真意こそ計り知れないが、その胸奥には、常に全ての魔物の繁栄を願っているのだろう。
故に、過去の憎しみに囚われ、曇った瞳で同族である魔物を見るというのは、彼女の意に反するものに違いない。
…お手本くらい示さなきゃね。
さっ、離れた離れた、君たちはむず痒いから…。
体に付いた草や虫たちを振るい落とし、声も無い欠伸を噛み殺すと、また目を閉じ、両耳に神経を集中させる。
柔らかな夜風の音に耳鳴りを宥められた聴覚は、目には見えぬ、遠くの風景を瞼の裏に投影してくれる。
丘陵地帯には少ない木の葉が揺れる音や、炎の揺らめく微かな音に、どこかの街の子どもを寝かしつける様な囁き声。
風に乗って伝わるあらゆる風景を耳で感じながら、遅刻者を探していく。
あぁ…いた…。
「ん?フェンリル?」
喉元の傷の具合を確認しつつ、目的の場所へ“跳ぶ”準備をしていると、ヘルがこちらへ顔を向けてくる。
やっぱり、魔力の動きには敏感らしい。
ちょっと呼んでくる、そう伝えるため、小さく微笑むと、前方に飛び出す。
「…存外、随分久しぶりじゃな、フェンリル」
名も掘られぬ墓石の全てを見下ろす位置に、どっかりと腰を下ろし、身の丈に合わぬとても小さな瓢箪に口をつける、手入れの行き届かぬ茶色の髪と髭で顔を覆った、人にしてはあまりに大きな体つきの大男が、こちらには顔も向けず、その嗄れた声を掛けてきた。
だが、生憎こちらには、その声に返す言の葉はない。
「ふん、相変わらず無愛想な奴よ…。声を無くそうと、無くすまいとな」
「…」
「…まぁいい。それにしても、よく分かったものだな?こんな墓場に儂がいることが」
嘲る様な口調ではあるが、その言葉は微かな悲しみを帯びている。
確かに、盲点ではあった。
シエル王城の中庭、三年前の謀りの犠牲になった魔物たちを悼む、名も記されぬ墓所。
こんなすぐそばにいながら、夕焼け頃には、彼の存在に気がつかなかった。
ただ、負け惜しみにも等しいことを言うならば、彼が此処に居たのは、少しも意外ではなかった。
余計な混乱と責任、そして、罪悪感から逃れるため、長たちにすら、三年前の謀りの真相は教えてはいない。
この墓場のことは、あの一件と、十年以上前、血に酔った前シエル王と共に、他国に攻め入り、“彼ら”と戦ったが故に戦死した魔物たちの墓だと、それとなく伝えたに過ぎないのだ。
だが、慈悲深い彼ならば、此処へ来るのも頷けた。
「ふん…。まぁいい、ちょうど酒も終わったところ、そろそろ…」
小さな瓢箪を逆さまにし、残っていた大量の酒を土に供えると、小さく吐息を吐き出し、大男は立ち上がる。
そして、こちらに振り向くと、無数の傷の様に深く刻まれた、その皺だらけの顔を月光に照らした。
「風情ある月見酒じゃった…。礼を言うぞ」
名も無く、何も埋まらぬ墓に礼を告げる。
これが、獣の王、“ベヒモス”なのだ。
「待って…!ソル!もう寝ないと!」
「やだよ~!せっかくフェンリルがいないんだもん!今日くらい遅くまでおきるも~ん!」
ベヒモスと共にシエル城内に戻ろうとした時、すぐ近くの通路から、聞き覚えのある、そして、本来は聞こえてはならぬ、可愛らしい声が響いてくる。
…全く、また“彼女”を困らせているな。
もはや空気しか出ぬため息を吐き、通路の端へと隠れる。
たまには、驚かせてやっても、バチは当たらないだろう。
むしろ、保護者として、時には厳しくせねば。
声の主が通路を曲がってくるのを見計らい、肉球を目一杯広げた手で捕まえる。
「むぎゅっ!?」
よほど力を抜いていたか、或いは、俺がいないことがそれほど嬉しかったのか、どちらにしても、お得意の嗅覚が働いていなかったらしい。
情け無い声を上げた、やんちゃっ子は、驚いた様子でこちらの顔を見つめる。
「フェ、フェンリル…!?ど、どうしてここに…?」
真っ黒な獣耳と小さな顔をふるふると震わせる。
…まだ、怒っていないのにな。
複雑な想いに胸が少し締め付けられながらも、じっと、“ソル”を見つめる。
出会った頃より、体はずっと大きくなり、拙く、それはそれで愛らしかった舌足らずの言葉遣いも、かなりしっかりしたのは喜ぶべきことなのだが、最近は少し悪戯というか、そういったものが増えている気がする。
有り余る程に元気があるのは良いかもしれないが、“彼女”やその他の者たちに迷惑かけるべきではない。
そのことをよく教えなくちゃね。
「ソル…?あっ…。お帰りなさい、もう終わったのですか…?」
少し伸びてきた白髪を揺らしながら、ソルを追いかけて来た、寝巻き姿の“彼女”は小さく微笑む。
「いや、残念ながら、儂のせいでこれからじゃ」
「そぅ…。貴方は…?」
「儂は、ベヒモス。魔界では獣の長をしておる」
「獣の長…。つまり、フェンリルも統率している…?」
「ふん、長といっても、魔界での話に過ぎん。それに、こいつの場合、あのちびすけ共の力でも借りねば、指示など出来ん」
ちらりとこちらを見やり、ベヒモスは、ふん、と鼻を鳴らす。
言いたい放題だね…。
不満の表れからか、むっとした表情が自然と浮かぶ。
だが、そんな俺の顔に“彼女”はまた小さく笑った。
「ふふっ…。あっ、私はガルディエーヌ…。フェンリルの妻…。そして、この子はソル」
思い出した様に頭を下げ、ガルディエーヌは右手でソルの方を示す。
「ほぉ…。妻のガルディエーヌに、ソルか…。どれ…」
「ん~?」
ぽかぽかと力の籠らぬ、優しい手つきでこちらの手を叩くソルの頬に、ベヒモスは顔と同じ様に、皺だらけの手を当てがう。
見知らぬ男の、頭を包み込む程大きな手ではあるが、ソルは恐れることなく、その柔らかな温もりを頬で感じている。
「…そうか。お前が、ブラックドッグとミノタウロスの忘れ形見か」
「…パパとミノを知ってるの?」
「知っているとも。だが、お前さんは前を見て生きろ。振り返ってはならん」
「…うん」
長たる彼の言葉の真意に気づけているのか、そこまでは推し量れないが、ソルはじっとベヒモスの顔を見つめた後、静かに頷いた。
「遅刻した非礼を詫びよう」
全員を前に腰を下ろし、深々と頭を下げる。
だが、相手は獣の長、ベヒモス。
竜の長たる黒龍程でないにしても、適当な相槌を打つことは憚られた。
「構わん、ベヒモス。頭を上げるがいい」
折り畳み式の椅子に腰掛けた魔王が、目を閉じたまま告げる。
随分早い段階でやって来ただけに、彼女も少し疲れているのかもしれない。
まぁ、とにかく、これで役者は揃ったわけだし、無駄なお喋りは抜きにして、早々に会合を始めたいね…。
そんなことを心の中で願っていると、誰からともなく、現在の魔界や、自身に与えられた務めの進捗状況を報告し始めた。
▽
「「…と、いうことで、人間界の道具のお陰で、魔界の植物たちはすくすく育っています!」」
魔界と人間界での植生についての研究報告を終えた二龍松は、二人仲良く手を繋ぎながら腰を下ろす。
これで、長たちによる報告は全て完了した。
気にすべき報告はない。
むしろ、二龍松やクラーケンの報告によれば、人間界に来たおかげで、確実に魔界の植生などは復活させられている。
このまま上手く自然を回復させられれば、生態系が元に戻り、全ての魔物たちが魔界に帰る可能性は十分にあり得る。
…まぁ、今更全ての魔物たちに、魔界へ戻る意思があるとも言い切れないけど。
人間界に打ち解けた者や、人と友好的な関係を築いた者、そして、人と愛し合った者は尚更だろう。
しかし、そんな大衆的であり、且つ個人的過ぎる想いとは裏腹に、魔物の本懐を遂げるため、確実な一歩とまた踏み出したことを伝える朗報に、皆浮き足立ち、そわそわと喜びに身を震わせながら、隣に座る者に話しかけたり、地面を叩いたりしている。
そんな、皆が喜びを噛み締める中、一匹の魔物が体を持ち上げた。
「失礼、報告とは違うのだが、少々皆の耳に入れたいことがある。話も良いだろうか?」
黒龍だった。
大きな図体をゆっくりと起こし、まるで皆を威圧するかの様に、上空からこちらを見下ろす。
「黒龍、貴公はまだ何かあるのか?」
「えぇ、重要なことだと考えている事柄が一つ、二つ。それも、特に魔王様やその側近の者たちに聞きたいことが…」
「…許そう。言ってみるが良い」
「ありがとうございます。では、単刀直入ながら、貴方がたは“勇者”を引き入れているのか?」
俺を含む側近たちはもちろん、他の長たちの背にも、電流の様な緊張が駆け抜けた。
…何故、黒龍が“彼ら”のことを知っている?
顔はもちろん、目玉すら動かすことなく、その場から見えるヘルやナリたちの表情を伺うと、例の事情を知る者たちの顔には、自分と同じ疑問が浮かんでいるのが微かながらに分かった。
「…どういう意味ですか?」
努めて平静さを醸し出すヘルが聞き返す。
「貴方がたがこの人間界で、今の魔物たちの地位を築いたことは尊敬に値する。だが、その代償はかなりついたものだと私は思っている。そして、私はそこに疑問も感じているのだ」
「…」
「というのも、本来死ぬはずのなかった魔物たちがあまりに多く死んでいる。無論、人間でも殺せる、ひ弱な魔物は存在する。しかし、侵略戦争中の最前線や、魔物が住んでいた街二つを潰されるというのは、あまりにおかしな話だ」
怒りを込めず、あくまで冷静な口調で黒龍は告げる。
一瞬、娘のトゥバンを死なせた我々のことを皮肉っているだけなのかとも思ったが、どうやら違うらしい。
黒龍が言っているのは、フェンガリとソレイユの街のことだろう。
あの街は謂わば、各国がレイダット・アダマーという生贄を差し出したのと同様に、シエルが差し出した生贄だ。
潰されたのは、決しておかしな話ではない。
だが、それを知っているのはごく少数の者たちだけだ。
「それが一体どう、我々が勇者を引き入れていることに繋がるというのですか?」
「私の部下の調べによれば、その疑問の残る犠牲を生み出した二つの事柄が起きた時、そのどちらにおいても、とある者たちの姿が確認されたのだ」
「それは…?」
「白髪の者たちだ」
「…っ」
誰かが息を呑む音がした。
少なくとも、真実を知る者の誰かの。
まずいな、思った以上に調べられている…。
だが、観念して真実を教える訳には当然いかない。
平和の為とはいえ、他の者を犠牲にすることも厭わない、冷酷な魔王と知れれば、その信用は人間、魔物、双方地に堕ちる。
それだけでは無い、魔王の求心力が無くなれば、やっと固まりつつある人間界での基盤すら揺らぎ、各国が息を吹き返す可能性すらあるのだから。
ただ、今更誤魔化しが通用するとも思えない。
「侵略戦争時には、各国の同盟軍の中に、二つの街が潰された、コハブでの防衛戦の時にはコハブ自警団の中に、その姿が確認されている。そして、私は彼らこそ、“勇者”か、或いはそれに近しい何かなのではないかと考えている」
「その根拠は?」
「彼らのあの圧倒的な戦闘力に他ならない。侵略戦争時には、一時的とはいえ、こちらの侵略を停止させ、コハブ防衛戦においては途方も無い物量差を押し返した。そんなことが並大抵の、ただの人間に出来るとは思えない」
確かに黒龍の言う通り、彼らの力は異常だ。
全て謀とはいえ、ミノタウロスなどの屈強な魔物をねじ伏せる無数の騎士たち相手からコハブを守りきったことも、こちらの声を奪ったことも事実。
しかし、それらのことを加味した上で、“彼女”は彼らを引き入れたのだ。
「しかも、その内の一人がコハブの領主として魔王様、貴女に任命されているとのこと。…もう一度伺いますが、貴方がたは彼らを“勇者”と知ったうえで、我々魔物に協力させているのですか?」
「…」
長たちの視線が魔王や側近に集中する。
声を荒げず、穏やかな口調と目つきでこちらを睨んでくる黒龍とは違い、他の長たち目には静かな怒りと恐怖の色が浮かんでいる。
やはり、彼らにとって勇者とは、過去のものではないのだ。
多くの同胞を無慈悲に殺した、謂わば魔物の血が通う者にとって、永遠の仇。
そんな奴と共に築く平和など、己の感情と共に、魔物の血が許さぬということなのだろう。
…まぁ、普通そうなるよね。
態とらしく息を吐き出すと、魔王の方に顔を向ける。
言葉が無い自分には説明出来ないから。
責任の一端と見られたくなかったから。
彼らを守りたかったから。
そして、魔王の揺るがぬ言葉を信じたかったから。
「…彼らは“勇者”ではない」
縋る様な側近たちの視線と、そこから流れてくる長たちの視線を、涼しい顔で受け止めていた魔王が静かに告げる。
「…では、彼らは何者だというのですか?」
「私の知るところではない…。だが、少なくとも、勇者でないのは確かだ」
「何故その様に言い切れるのですか?」
「…私は過去に、本物の“勇者”を見たことがあるからだ」
「…」
「我が父、前魔王を見るも無残な姿に変えた勇者を、な」
憤怒に心を震わせることもなく、淡々と自身の過去を告げる魔王の言葉はひどく落ち着いている。
まるで、自分にはあまり関係がないかの様に。
「…貴公たちの中で本物の勇者と戦ったことのある者は?」
片腕を微かに挙げ、他の者に手を挙げるよう促す。
しかし、挙がった腕は一本。
小さな瓢箪を摘んだ大きな人の腕だけだった。
「…ベヒモス、貴公は勇者を見たことがあるのか?」
「えぇ、過去の戦いにおいて、貴女様と同じ者を…」
「…どう感じた?」
…不思議な質問だ。
どんな姿形だったかを問うならばともかく、主観的な感情を尋ねるとは一体どういうことだ…?
その真意を読もうと、密かに考えを巡らせていると、手に持った瓢箪をじっと見つめた後、ベヒモスは静かに答えた。
「…恐怖。それだけでしょうな」
「…そうか、貴公も同じか」
「はい、彼奴には勝てぬ、本能的にそう感じました。故に、恥も捨てて逃げ出し、儂は今、あまりに多くの亡骸の上に生きております…」
「…そうか」
獣の長たる、ベヒモスのあまりに赤裸々な告白に、魔王は責めはしなかった。
むしろ、どこか安堵し、逃げ出してでも生き延びたことを賢明な判断であったと褒めているかの様にすら感じる。
やはり、彼女にとって、誇りや名誉などというものは、さして価値あるものではないかもしれない。
そして、口振りから察するに、ベヒモスが感じた恐怖を、魔王自身も感じており、本物の“勇者”とは、最強の一角たる彼らをも恐怖させられるだけの実力と雰囲気を持っているということになる。
ともすると、実力が確かに異常といっても、彼らは本物の“勇者”ではないということだ。
これで何とか黒龍や他の長たちが納得してくれれば良いのだが…。
「…つまり、彼らは魔王様を恐怖させる者たち、つまり“勇者”ではないと?」
「その通りだ」
「…しかし、“勇者”でないとしても、魔物を殺せるだけの力量があるのは確か。やはり、彼らを野放しにすることは危険です」
「…結局、貴公は彼らをどうしたいのだ?」
黒龍に呆れるでもなく、彼らに肩入れするでもなく、あくまで中立的な立場を貫くつもりらしい魔王が椅子に座り直しながら尋ねる。
…結局はそこだ。
黒龍が彼らのことを何故知っているのかは置いておくとして、何故彼らのことをここまで敵視しているのか、いまいち分からない。
彼らとの戦いの中で娘のトゥバンが死んだことへの私怨だろうか。
それとも、もっと別の意志があるのだろうか。
「全ての魔物たちの平和と安全のために、殺す必要があると考えています」
…そうきたか。
確かに、彼らはそんじょそこらの魔物では束になっても敵わない。
故に、その力が、今後絶対に我々に牙を剥かないとは言い切れない。
それ故、黒龍の様に彼らを危険視する者も、側近の中にはいる。
しかし、だからこそ、プレシエンツァにコハブの領主となることを許し、その動向を常に監視出来るようにしたり、ガルディエーヌにシエル王城で共に暮らすよう提案し、納得させた。
彼らが牙を剥いたとしても、個別的に鎮圧出来るように。
そして、それらは全て、魔王による命令だ。
つまり、彼女は彼らを、信頼は別にして、“勇者”としてではなく、あくまで強大な力を持つ“人”として見ているということだ。
故に、黒龍の心配は不要だ。
…そう思っていた。
「…ならば、好きにするといい。もはや、不要の存在だ」
「「なっ…!?」」
声色の変わらぬ、魔王のあまりに非情な言葉に、スレイプニルやナルヴィが驚きの声をあげる。
元々、その明るく、軽い性格からか、彼らをそこまで敵対視していない彼らにとっては、あまりに急で、予想外の返答だったのだろう。
もっとも、それは彼らを危険視していたヘルやナリも同じらしく、目を大きく見開いている。
「ま、魔王様!あ奴らは共に魔物の世界を創り上げることを約束した、謂わば同士!斯様な鶴の一声には、拙者、賛同致しかねますぞ!」
「そ、そうです…!少なくとも、一度彼らの心の内を確かめるべきです…!」
「…無論、貴公らの意見も分かる、スレイプニル、ナルヴィ。だが、黒龍の抱く危惧の念もまた、決して的外れという訳ではない。それに、彼らは元々、魔界に残る長たちの穴を埋めるため、一時的ながらに重宝していたに過ぎん」
寒気すら感じる程、魔王は慈悲のないの言葉を続ける。
…彼らの力を当てにしていた者が言う言葉ではない。
こちらの侵略を一時的に止めた彼らの正体を、真っ先に“勇者”であると疑い、前シエル王に隠れて、各国と交渉、侵略戦争を停戦する代わりに、“勇者”製造を止めさせ、その施設ごと破壊するよう取り付けた程に、“勇者”という存在を恐れ、後に彼らが“勇者”でないと分かるや、ここまで利用してきたというのに。
裏切り者め…。
強さだけを求め、全盛期であった頃の自分から声を奪う程の力量を持つ、ガルとの子を望む、ひどく魔物らしい自分が、人の言う仁義とやらをとかく言う権利があるかは分からぬが、今の魔王の言葉には、怒りを覚えた。
だが、そんな彼らとの真実を知る俺たち側近を他所に、真実を知らぬ長たちの何人かが、魔王と黒龍の言葉に頷き、何人かが首を捻ねる。
「ふ~む、確かに…。その者たちが“勇者”であるかは分からぬが、魔物を殺せる危険人物というならば、犠牲も仕方なしとも思うが…」
「…右に同じ」
「ヨク、ワ、カラ、ナイ…」
「私はヘル様の判断に従いますわ」
「危ねぇ野郎はみ~んなぶっ殺せ!」
「「ぶっ殺せ~!」」
「…」
そんな長たちの様子から、大義名分を得たとばかりに、黒龍はどこか得意気に頷き、言葉を紡ぐ。
「ならば、すぐにでも事を起こすべきかと…。彼らに余計な時間を与えぬためにも」
「いや、少なくとも今夜中は待て。貴公が彼らを殺すのは構わないが、何も知らぬ市民の前で彼らを殺しては、魔物全体の印象が悪くなる。明日以降、あくまで、生け捕りにしたうえで、このシエル城に持ち帰るのだ。そうすれば、見世物の一つや二つも出来よう?」
「しかし…」
食い下がろうとする黒龍に魔王は静かに首を横に振る。
彼らを襲うことを止める気は無いようだが、どうやら黒龍の自由にさせる気は無いらしい。
おそらく、政治や情勢に関わるだけに慎重になっているのだろう。
しかし、彼らを襲わせるその真意までは推し量れず、長たちに真実を暴露することも出来ぬだけに、反論すること叶わずいると、魔王は小さく手を叩いた。
「話は終わりだ…。今宵は皆集まってくれたことに、心から感謝する。本来ならば再び魔界に戻り、長としての務めを果たしてもらうつもりだったが、貴公たちにも暫しの間、人間界に留まってもらう。そして、黒龍、貴公に彼らのことは任せよう」
手短にそれだけを告げると、誰の返事も聞かず、魔王はその椅子と共に姿を消した。
おそらく、シエル王城へと戻ったのだろう。
あまりに急な出来事に、側近はもちろん、長たちすら困惑の表情を浮かべている。
黒龍からの提言とはいえ、突然の追討命令に、本来ならば報告を済ませ次第、帰郷させるはずだった長たちを留まらせる命令。
場当たり的とも言える、かなり熟考性のない判断の様にも見えるが、一概に魔王を愚か者と断じることも出来ない故、余計にこちらが頭を捻らせなければならない。
…一体何を考えている?
だが、彼女の真意が分からずとも、今はしなくてはならないことがある。
彼らに関することや、突然の停留命令に困惑する側近と長たちを他所に、自身もシエル王城へと“跳んだ”。
「“コハブ、に、共に、行こ、う”…?どういう意味…?」
小さな紙切れに目を凝らし、俺が書いたぐちゃぐちゃな文字を何とか判読してくれたガルが、微かに眉間に皺を寄せる。
…こういう時、やはり声があれば良いと思ってしまう。
しかし、今はそんなことを憂いている場合でも、細かく説明をしている場合でもない。
自ら積極的に彼らを葬り去る気がないとしても、魔王のその真意が分からぬ今、ガルをこのシエル王城に留まらせる訳にはいかないのだ。
一刻も早く、ガルをプレシエンツァたちの元へ届けなくては。
彼らが揃えば、もはや手負いである俺では敵うはずはない。
もし追討の命が下ったとしても、少なくとも、愛する者をこの手で殺すことは避けられるはずだ。
…それに、たとえどんな魔王であろうとも、我々は魔物、従う他ないのだ。
そんな覚悟と諦めの混じり合う想いを胸に押し殺し、じっと、ガルの優しい瞳を見つめ、事態の重要性を感じ取らせる。
「分かった…。すぐに準備する、待って…」
ガルがこちらの頬に手を宛てがおうとした時、部屋に小さなノック音が響く。
…ちっ、もう来たのか。
何の気なしに扉を開けようとするガルを制し、部屋の奥へと追いやる。
そして、いつでも扉の外に立つ誰かへと飛び掛かれる様体勢を整えた後、そっと爪で鍵を開ける。
「…そう怖い顔をするな、馬鹿者」
ゆっくりと開いた扉の外に立っていたのは、意外にもベヒモスだった。
「準備を整えろ、すぐに発つことになる。その小僧も起こせ」
「一体何が…?」
「事情は追い追い説明する。今は黙って、フェンリルを信じろ」
開いたままであった扉を音も無く閉めると、ベヒモスは部屋にある窓を開け、外を見渡していく。
微かに肌寒い夜風が部屋の中の空気を入れ替えていく。
何故、ベヒモスがこちらの手伝いをするというのだろうか…?
この者も他の長たち同様、真実を知らなければ、彼らと深い関係がある訳でもない。
彼ら護る理由などどこにもないはず。
だというのに、何故…?
「…儂の胸中でも推し量っておるのか?」
窓から外の様子、それも特に空の見つめていたベヒモスが、こちらに顔も向けずに低い声で尋ねてくる。
「大したことではない…。黒龍の奴に好き勝手させたくない、それだけよ…」
「…」
自然、ガルと顔を見合わせていた。
もはや、彼女同様、俺自身、何がなんだか分からなくなってきているらしい。
魔王、黒龍、ベヒモス、彼らの真意がなんであるかを。
「信じられぬか?ふん、まぁいい…。お前がどう思おうとも、儂は貴様を見張り、護らねばならぬ立場…。そして、それはお前の家族も含まれる」
▽
“跳ぶ”ことで、ヘルや魔王たちに気配を気取られることを危惧し、背にソルを抱きかかえたガルとベヒモスを乗せ、コハブまで走る。
出来る限り、夜の内、或いは朝早くにはコハブまで到着しなくては。
そうでなくては、魔王の命令という大義名分を得た、黒龍たちが動き出し、空からの警戒が強まってしまう。
しかし、大きな戦闘もなく、のんびり過ごしてきたこの十年近い歳月は、体を徹底的に甘やかしたらしく、全くもって速度が出ないうえに、体力の消耗が激しい。
止まりこそしないが、目に見えて走る速度が落ちるたびに、ベヒモスからの手痛い激励を飛ばされつつ、逸る気持ちのみで走り続ける。
コハブへと向かうその間に、ベヒモスが事の経緯をガルに説明してくれていた。
ガルは腕の中で眠るソルの頭を撫でながら、黙ってほれを聞いていた。
もっとも、何故ベヒモスがやって来てくれたのかまでは語ってはくれなかった。
コハブに到着した頃には、日が完全に上ってしまっていた。
予定していた時間よりもかなり遅くなってしまったために、すぐにも街へと入り、人混みの中に隠れようと考えていたのだが、街の門を過ぎた瞬間、その異様な空気に気圧された。
空気が変に熱気だっているのだ。
緊張に張り詰めた空気とはまた違う、熱に浮かされたおかしな空気。
前シエル王が生きていた頃に似ている、嫌な空気だ…。
それに、本当に熱された物があるのか、焦げ臭い匂いまで漂っている。
だが、この空気の正体も気になるが、今はプレシエンツァにガルを届けるのが先決だ。
異様な目つきをした市民たちの目を避けるため、何となく、ガルにフードを深く被り直させ、街の中心にある領主の館を目指す。
「えっ…?」
大通りを避け、曲がりくねった路地を抜け、領主の館がやっと目に入った時、ガルが声を上げた。
それもそのはず、領主の館、それも領主たるプレシエンツァが執務室として使っていたと記憶している、二階部分が真っ黒に焼け焦げていた。
「一体何故…!?」
困惑するガルを横から支えながら、領主の館へと入るための門へと近づく。
門には人集りが出来ており、皆一様に門前に立つ騎士たちに詰め寄っている。
例の空気はここから発せられているようだ。
「ガル…」
離れぬよう手を繋いでいたソルが不安げにこちらを見上げる。
見知らぬ者の怒声や罵声に怯えているのだ。
「…これでは事情も容易には聞けんな」
「無理矢理にでも入る…?」
「ふん、人の業の深きこと…。その他者を重んじぬ心からこそ、争いの火種が生まれるというものよ…」
非難するというよりも、心底悲しがっている様な声色のベヒモスは、袖口から小さな葉を数枚取り出し、それを人集りへと放り投げる。
すると、人集りから聞こえていた言葉にも聞こえぬ雑音が次第に収まっていき、静かになった人々は、一人、また一人という様に、その場から離れていく。
そして、人集りが完全に無くなるのを待って、不思議そうに目を丸くしながらも、安堵の吐息を漏らす騎士たちへと声をかけた。
「失礼ながら、ここで火事か何かが起こったのか?」
「えっ…えぇ、急に領主様の部屋から出火したようでして」
「ふむ、だが、ただの火事にしては、先ほどの者や、街の者たちが殺気立っておるが?」
「あぁ…。それは…」
騎士たちは顔を見合わせた後、疲れた口調で、事の経緯を説明し始めた。
「今は火も消えて問題ないのですが、火元の調査をしていたところ、少々厄介な事が発見されてしまって…」
「なんだ?」
「実は、領主様の部屋から、三年前のレイダット・アダマーの蹶起や、フェンガリ、ソレイユの壊滅に関わる不審な文書が大量に発見されまして、どうやら、領主様がそれらを手引きしたらしいのです」
「…っ!」
ガルの体がびくりと跳ねる。
こちらも心臓を掴まれた様な気分だ。
「…火元を調査をしていたのはお前たちなのだろう?何故このことを一般に公開したのだ?」
「い、いえ、公開した記憶は無いのです…!騎士長も調べが済むまでは、このことを市民に伝えるべきでは無いと念押しされておりましたから…!しかし、どこからか情報が漏れたらしく、今の様な有様に…」
「あ、あの…!り、領主は…!領主は今どこに…!?」
後ろで話を聞いていたガルが、話の切れ目を見計らい、切羽詰まった様子で尋ねる。
だが、騎士たちはぐったりと首を横に振った。
「それが分からないのです。領主様の姿はその火事が起きた時から見えないようでして…。それ故、我々も正直困っているところなのです…」
「そ、そう…」
ガルの肩ががくりと落ちる。
彼女はプレシエンツァがいない事にショックを受けているのだろうが、事はそれ以上に重大だ。
大衆に真実が露呈した。
どこまで露呈したのか、詳しくは分からないが、少なくとも、騎士たちの話によれば、プレシエンツァが三年前の一件に加担していることはばれたらしい。
このままではそのプレシエンツァと魔王の関係まで暴かれる事になる。
そうなれば、ようやく手に入れた均衡がまた崩れ、世界をまた争いの渦に巻き込む事になってしまう。
…一度、このことを魔王に伝えに戻るべきか?
ちらりと、シエル王城が存在する方向に目をやる。
…いや、駄目だ。
もし、このことを伝えれば、いよいよ、彼らの口を塞がねばならない事態になってしまう。
魔王にこの事が伝わる前に、何とか事態を収束、或いは揉み消さなくては…。
しかし、一体どうやって…?
いや、そもそも、何故プレシエンツァは今ここにいない?
火事が起きたから避難したのか?
そんなはずはない。
執務室に重要な書類がある事は、彼が最も良く知っているはず。
たとえ火事となったとしても、彼ならば、屋敷ごと燃やしてでも、証拠となる様な物を消し去るだけの用心深さがある。
だとすると、この火事は彼の予期せぬ事態だったに違いない。
…まぁ、おそらくは“予知”の力を持つであろう彼に、予測出来ない事態というのが、おかしな話ではあるんだけどね。
しかし、今ここに彼がいないことから察するに、火事事態は偶発的に起きてしまったことなのかもしれない。
そして、その火事を調査していた騎士たちが、例の書類を偶然見つけてしまった、といったところだろうか。
厄介な事になった…。
ガルを安全な場所に届けに来たというのに、この街は既に安全とは言えなくなってしまった。
「どうする?領主は此処には居ない。他に当てはあるのか?」
騎士たちのこちらを訝しむ様な視線を気にも止めず、ベヒモスはこちらに尋ねてくる。
この男が本当にどこまで知っているのかが分からない。
魔界にいたとはいえ、ある程度人間界で起きた事は知っているはず。
普通の者たちならば、味方内の領主が、敵方と通じていたと知ったとあれば、先ほどの大衆たちと同じ様、裏切りを非難する姿勢を見せるというもの。
しかし、ベヒモスに焦りの色は見えない。
真実を知る者でもないというのに。
いや、それ故なのかもしれない。
プレシエンツァ、つまりは彼らと魔王の関係を知らないが故に、今の事の重大さを認識しきっていないのだろう。
…ならば、それを利用させてもらおう。
不安げなガルの頬に鼻先を寄せ、目でとある方向を示す。
もう一人、この街にはいるはずだ。
君の兄が。
「う、そ…」
扉の外れた診療所は、予想通り内部もひどく荒らされており、アル・ハイル・ミッテル、通称アルの私室には特に顕著だった。
書類や得体の知れない薬品、そして、何者かの血液が大量に散乱している。
「一体何が…」
ガルは呆然と部屋を見渡す。
火事といい、この部屋の荒れ具合といい、あからさまに彼らを狙っている。
黒龍たちだろうか…?
いや、彼らにしてはやり方が周到だ。
それに、早過ぎる。
プレシエンツァとアルの居所に関しては、確かに我々も知らされてはいるが、だからといって、こうも早く奇襲をかけられるとは思えない。
だが、事実、彼らの姿がここにないとなれば、もはや彼らの身に何か起こったと考えた方が良いのかもしれない。
しかし、一体誰が彼らを襲えるというのだ…。
あらゆる疑問が、泡の様に現れては消えを繰り返すために、何一つ解が見出せない。
その結果、思考が視界をぼやけさせ、聴覚を遠くしてしまったのか、暫しの間、ベヒモスがこちらを呼ぶ声に気がつかなかった。
「フェンリル…!やっと気がついたか、全く…。貴様、まだ鼻は利くな?」
苛立ったベヒモスの言葉に、慌てて頷くと、彼はそのまま床を指差す。
そこには、乾いてこそいるが、べったりと血の痕が広がっていた。
この血の匂いを追えということか。
血の痕自体はそれほど時が経ってないため、匂いを覚え、追跡することはそう難しいことではない。
もっとも、この血がプレシエンツァやアルのものである確証も無いのだが。
脳裏にそんな不安が一瞬通り過ぎつつも、鼻先を血の痕に近づけようとした時、玄関から微かな声が聞こえてきた。
「ご、ごめんください…。アルさん…?いらっしゃいませんか…?」
「アル先生~?」
聞き覚えのない、女性二人の声だ。
片方は幼げな声をしているが、声質自体は似通っているため、おそらくは親子だろう。
そして、アルのことを先生と呼んでいるあたり、彼の患者か。
ソルを除く、二人の顔をちらりと見やり、血の匂いだけ手早く覚えると、私室から診察室へと出る。
下手に隠れるよりも、こちらも患者と偽ってさっさと帰った方が無難だ。
「あっ…」
「あっ、おはようございます…」
玄関近くに立っていたのは、物静かそうなラミアの家族だった。
「うむ、おはよう。失礼だが、ここの主人が何処にいるか知っているか?」
母親の背中に隠れた子のことを気遣ってか、いつもよりも穏やかな口調でベヒモスが尋ねるも、母親のラミアは申し訳なさそうに首を振る。
「ごめんなさい、それが私にも分からないのです。かれこれ四日程戻っていない様なのですが…。それにしても、この部屋の有様は一体…?」
「信じられぬかもしれんが、我々が先ほど来た時にはこうなっていた。前からこうではないのか?」
「も、もちろんです…。昨日の夕方頃来た時にはこんな風には…」
「ふむ…。ところで、お前たちはここの患者か?」
「はい。目が少し不自由でして、そのための薬を処方して貰っているのですが…。うっかり、無くしてしまって…。それで、飲まずにいたら、また目が悪くなってきてしまったものですから、慌てて…」
「目…。目が悪いの…?」
何処かラミアの娘の様に、こちらの体に隠れていたガルがおずおずと尋ねる。
その声はどこか焦っているような印象を受けた。
「は、はい…。でも、悪いといっても、アルさんのおかげで、こうしておおよそ見える様になりましたから、もう十分ではあるんですけどね」
「…そぅ」
「で、では、アルさんも居ないようですので、私たちは帰ります。…あっ、でも、この事は騎士の方々に伝えた方が良いのでしょうか?」
不思議な質問をしてくる母親に向かって、反射的に頷こうとする頭を、何とか食い止める。
そんな事は言われるまでもなくそうするべきなのだが、彼もプレシエンツァ同様、何か魔王と繋がる情報を持っていないとは言い切れない。
ましてや、荒らされているといっても、館の様に火事になっていないために、資料はより残っている可能性すらある。
こちらとしては、伝えないでおいてくれるとありがたい。
しかし、それにしても、何故そんな事を尋ねるのだろうか?
そんな事を考えていると、自然な動きでガルが顔の横までやって来た。
「フェンリル…。私はここで何があったのか探す…。兄様たちをお願い…。あと、アルにあの子のことを伝えて…」
か細い囁き声は、手を繋ぐソルにさえ聞こえるか分からない程小さなものだったが、ガルの意思は伝わった。
しかし、ガルの言葉に首を横に振って答える。
…俺にとって一番大事なのは、自分の命やこの世の平和よりも、ガルなのだから。
ベヒモスがラミアの親子を適当に遇い、その姿が大通りに消えていくのを確認すると、微かな抵抗の意思を示すガルを無理矢理背中へと乗せ、先ほど覚えた血の匂いを頼りに屋根の上へと飛び乗る。
不思議なことに血の匂いは屋根の上を通り、街の外へと出て行っているのだ。
「あの山か…」
人の姿でも、その跳躍力は衰えないのか、ベヒモスも屋根へと登り、前方に微かに見える山々を指差す。
あれは確か、ハルと呼ばれた山々に囲まれた国であり、シエル領内ではないはず。
一体何故そんな方から、この血の匂いは漂うのだろうか…?
アル、或いはプレシエンツァはそんな方向にいるのだろうか…?
首を傾げ過ぎ、筋を痛めてしまいそうになるが、手掛かりのない今、ガルを安全な場所へ送るには、この血の匂いがプレシエンツァたちのものであると信じて、駆けるしかない。
ふぅ…。
これからまた駆けることに乗り気でない体から、ため息を吐き出させ、ゆっくりと体勢を整える。
こういうのは、スタートダッシュが、ん…?
ふと、顔を横に向ける。
「…どうかしたのか?のんびりしている暇はないのだぞ?」
なかなか走り出さないことに痺れを切らしたのか、いつの間にか、背に乗ったベヒモスが軽くこちらの横腹を叩く。
…気のせい、かな?
視界の端に、確かに、生気の感じられぬ、物憂げな顔の女が見えたと思ったのだが…。
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