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甦り
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▽
“大丈夫さ、俺が傍にいるんだ”
“お母さん”を失った、それも自分たちの手で殺してしまった、そのあまりの悲しみと罪悪感に耐えきれず、一人涙を流す僕を、アルは何度も抱きしめてくれた。
僕より少しだけ背が大きいだけで、顔もひどく似ているというのに、その腕の中は、心に巣くっている嫌なものを浄化してくれる様な、とても優しい温もりがあったのを覚えている。
勿論最初は、“お母さん”を殺したにも関わらず、それを気にしないかの様に、明るく振舞えるアルの無神経さに、どこか腹立たしさを覚えたが、いつの間にか、腕に抱かれることも、その中で眠ることにも抵抗はなくなっていた。
僕の心は、その何処から来るかも分からぬ明るさに、助けられたのだ。
でも、それぞれがプレシエンツァお兄ちゃんの指示通り、一人で行動するようになってからは、心も体も成長したため、遠慮なく甘える様なことは無くなったが、逆に、その成長した心は過去の甘えを羞恥として捉えてしまうのか、アルの顔を見る度に、昔のことで勝手に赤面してしまい、それを隠す為に、つっけんどんな態度を取ってしまっていた。
それ故、事あるごとに、いがみ合っている様な関係になってしまったが、僕は心の底からアルのことが大好きだった。
だから……。
そんな大好きなアルの“首”だけの姿を見た時、僕の心は壊れた。
▽
「あ、主様……!?」
微かに鼓膜を震わせる誰かの声に意識を優しく引き上げられる。
いつの間にか抱えた膝に埋めていたゆっくりと顔を持ち上げると、扉の前に美味しそうな湯気を漂わせる料理が乗るお盆を抱えたリウと、確かスクレ、という名前の、まるで魔物の様な見た目をした少女が立っていた。
しかし、二人の視線はこちらではなく、目の前に置かれた容器の中、アルのものよりもひどく薄い赤色の液体に漬けられた“お母さん”に向いている。
「見てくれ、リウ!主様が!主様がいらっしゃる!」
「……」
驚きつつも、まるで子どもの様に嬉々としてはしゃぐスクレとは対照的に、リウはぼんやりと“お母さん”を見つめた後、特段の反応もなくこちらへと近寄り、その手に持ったお盆を差し出した。
「……ごはん?」
「……」
思った以上に、呂律のまわらぬの僕の声に、リウは黙って頷く。
リウが持ってきてくれた料理は香ばしい湯気を立ち上らせ、鼻腔を刺激するが、生憎、食欲はあまり湧いていなかったために、受け取る気にはなれなかった。
「そっか……。ありがと、そこ置いておいて……。ねぇ、リウは怪我してない……?」
「……していない」
当然おかしなことを聞く僕に、人を嫌悪をするかの様な、出迎えた時から全く変わらぬその表情をままにリウは答えてくれた。
プレシエンツァお兄ちゃんに、故意でないにしても、コハブにおいて皆を傷つけたと聞かされた時から、まるで後ろ指を指されている様な負い目を感じ、一体どういう態度で接すれば良いか分からなかった故に尋ねたことなのだが、リウの様子を見るに、傷つけてしまったのは、やはりペルメルお姉ちゃんたち三人だけらしい。
それを良かったというと、あの三人に対して申し訳が立たないのだが、少なくともリウや恐らく、他の皆には気負わずに接することが出来そうだった。
「なら……良かった……」
「……」
微かな眠気に未だ浸かる、重たい身体でお盆を受け取ると、リウは再び、容器に抱きつかんばかりにはしゃぐスクレのいる、“お母さん”の漬けられた容器の前に戻っていった。
……やっぱり、リウも“お母さん”が気になるよね。
三年前、ちらりとその顔を見ただけで、会話どころか、顔を合わせることもなくその姿を消したリウだが、彼のことはよく覚えている。
一番の末っ子でありながら、最も“お母さん”に、“勇者”と持て囃され、愛されていた男の子……。
でも、もういい。
“勇者”だろうが、なんだろうが、“お母さん”を甦らせ、褒められ、愛されるのはこの僕なのだから。
受け取った料理を机のに置くと、一度、凝り固まった硬い身体を起こすため、首や背筋を動かしがてら、実験室を見渡す。
豪華な装飾などはなく、僕が座る椅子と机に、被験者の身体などを解剖にする時に使う作業台を除けば、残るは薬品が大量に保管された棚と、主に赤色の液体に満たされ、アルや“お母さん”は勿論、人間か魔物かも見分けがつかぬ肉塊などが漬けこまれた、大小様々な容器と水槽が立ち並ぶきりの、階段を上がった先の、温もりや芸術性を感じる屋敷とは打って変わり、ひどく簡素な空間だ。
研究の時など、篭る時には篭るが、好き好んで居続けるにはあまり、適した場所とは言えない。
もっとも、研究中はそんなことも忘れてしまうが。
部屋中と、そして、アルの様子を軽く見て、何事も無いことを確認すると、受け取ったご飯には手をつけず、リウたちの元へと向かう。
すると、背中に生えた異形の手でお盆を抱えたスクレがこちらに鋭い視線をぶつけて来た。
「……ターイナ、と言ったか?これは一体どういうことだ?何故、“主様”が生きている?」
「生きてる……。いや、まだこの“お母さん”は生きていないよ……」
「……まだ?どういう意味だ?」
スクレは鋭い視線をそのままに眉を顰める。
……そうか、リウたちはまだ“お母さん”や計画の事を聞かされてはいないのか。
説明するのは面倒だけど、このまま屋敷に戻っても、ペルメルお姉ちゃんたちと顔を合わせるのは気まずいだけ。
それならば、彼らの相手をしていた方が幾分か気が楽だろう。
「この“お母さん”にはまだ命を吹き込んではいない……。まだ、記憶は元通りにする方法がないから……」
「記憶……?」
「そぅ、記憶……。腕や足、似ている人間たちの部位を掻き集めて、身体はそっくりに創り上げたし、魔物の血液なんかを使って命も吹き込める。けど、どうしても記憶が戻せないの……」
「……それは何故だ?」
「理由はまだ分からない……。でも、魔物の命を使って人を甦らせると、記憶を魔物に乗っ取られちゃうみたいなんだ……」
実際、トゥバンを除けば、フィリア、ツルカ、イッハ全員が生前の魔物の記憶を保持しており、呪いをかけなければ、その復讐心から共生など不可能な程であった。
もっとも、そのトゥバンですら、記憶の境界は曖昧だったあたり、唯一の成功例と呼んで良いかは分からない。
何故、人の記憶が残らず、魔物の記憶が発現してしまうのか、その理由は未だ判明していないが、恐らくは人の生命よりも、魔物の生命の方がその力が強く、人として甦っているというよりも、人の姿を取り込んだ魔物として甦っているという方が近いのだろう。
「乗っ取られる……」
「そぅ……。だから、このまま“お母さん”を甦らせても、それは“お母さん”によく似た人……いや、魔物になっちゃう……」
「だから、このままなのか……」
スクレは改めて容器の中で眠る“お母さん”を苦し気な表情で見つめるも、何かを決心した様に力強く頷くと、僕の方に顔を向けた。
「……ならば、我も手伝おう!どうすれば、記憶を取り戻せるのだ?」
「それが分からないの……。アルがその術を探していてくれたんだけど……」
「……だから、あの屋敷にいたのか」
腕を組み、その不機嫌そうな顔を“お母さん”に向けていたリウがぽつりと告げる。
「あの屋敷……?あの屋敷って?」
「……俺が幼い頃、こいつと、そしてこの“女”と過ごしたらしい屋敷だ」
「えっ……。スクレや“お母さん”と……?」
僕の言葉に、リウはこちらも向かずに頷く。
しかし、僕にはリウの言っていることが俄かには信じられなかった。
“お母さん”が生きていた……?
ガルお姉ちゃんがその胸を突き刺し、僕があの建物ごと焼き払ったのに……?
リウが生きているという話ならば、まだいくらでも信じることが出来、実際、そうであった。
何故なら、既にあの時には、リウの身体には大量の“命”が入っていたから。
でも、“お母さん”は僕たち皆を愛してくれた優しい“普通”の人だった。
生きているはずはないのだ……。
そして、だからこそ、僕たちはこうして魔王たちに今でも付き従っている。
人力では成し得ない、魔物の力を、怪しまれることなく利用し、愛する“お母さん”を甦らせる為に。
でも、“お母さん”がもし本当に生きていたのならば、僕やアルの研究は勿論、皆の努力はどうなるの……?
「う、嘘だよね……?そんなの……。だって、おかしいもん……。どうして“お母さん”が生きてるの……?だって、ガルお姉ちゃんが刺したんだよ……?血だって一杯出たんだよ……?それに、僕が焼いたんだよ……?トゥバンの基になったあの竜の頭部がすごく痛むくらい……?なのに生きてたの……?」
「タ、ターイナ……?」
「あっ……。ご、ごめん……」
スクレの心配そうな言葉が耳に届き、僕は慌てて口を噤む。
おかしいのは自分でも分かっていた。
本当は喜ぶべきことのはずなのに、本当は嬉しいことのはずなのに、本当は幸せなことのはずなのに。
何故か、心の奥底から溢れてくる想いは、頭で考えるものとは真逆のものばかりだった。
僕は“お母さん”が本当に好きなのかな……?
それとも……。
「そ、そういえばアルは大丈夫なのか?プレシエンツァやペルメルは何とかなるとは言っていたが……」
僕の様子を察してか、スクレは“お母さん”の入る水槽の前から、すぐ横の水槽の前へと移動する。
そこには“お母さん”が浮かぶ水槽の液体よりも、遥かに赤黒く、透明度の低い、様々な魔物の血液を混ぜ込んだ液体の中に沈んだアルの姿があった。
スクレが二人に何を聞かされたのかは知らないが、僕が目を覚まし、プレシエンツァお兄ちゃんに急かされるままに治療を始めた時には、ひどく危険な状態だったのは確かだろう。
でも、決して手遅れではなかった。
何故なら、“首”だけとなっても、アルは微かながらに生きていたから。
勿論、それは僕たちが“勇者”という異形の力を持って生まれ、ペルメルお姉ちゃんが最も嫌うところの、“人間”でないことを暗に示す事象ではあったが、そのことに気がついた、僕の心は、驚き、焦る搔き乱されていた思考とは裏腹に、狂気した。
大好きなアルが生きている。
大好きなアルを救える、と。
僕はすぐに、アルの身体となるがらくたを、実験室の全てを掻き回す勢いで探した。
というのも、魔物とは違い、フィリアたちの様な人間は部位を欠損させたりせず、実験に全身を丸々と使用してしまうため、部品などはなかなか集まらないのだ。
だが、そんな実験室の状況を見越してか、プレシエンツァお兄ちゃんは、傷ついてこそいるもののひどい欠損もない、見知らぬとある人間の亡骸を持ってきてくれていた。
今更ながらな欲を言えば、本当は元通りにするためにも、アル本人の身体が最も望ましいのだが、当時の僕はそれを嬉々として受け取り、すぐさま邪魔な首を切り落とすと、アルの首をその身体に縫い付けたのだ。
そして、今の状態に至る。
改めて見ると、大きな変化はないようだが、既に首筋にあったペルメルお姉ちゃんの様な継ぎ接ぎ痕は無くっているようだった。
ふぅ……。
二人に気付かれぬよう、小さく安堵の吐息を吐き出す。
恐らく、もうアルの“命”は助かるだろう。
しかし、肝心の記憶に関しては正直分からないところだ。
いくらアルが異常な力を有するといっても、今やその身体の殆どがただの人間のもの。
普通に考えるならば恐らく、魔物の生命力に負け、身体を保つことは出来ても、フィリアたちの様に記憶を塗り替えられてしまう可能性が高い。
……でも、今更何が出来ようか。
今はただ、信じるしかないのだ。
アルならばきっと魔物の生命力に負けずにいられる、と。
しかし、そんな僕の期待を逆撫でる様に、スクレは不安げな顔で、そっとアルの入る水槽を指差す。
「その……アルは本当に生きているのか……?我が見た時には、その、く……」
「大丈夫!絶対大丈夫なの!絶対……!アルなら……!」
「ターイナ……」
気がつくと、まるで気に入らない事そのものが地面にでも落ち、それを跡形もなく、木端微塵にするかの様に、力強く地団駄を踏みながら、スクレに向かって怒鳴っていた。
恐らく、アルよりも明らかに劣る、僕の治療能力を疑われたことと、アルが死んでしまうかもしれないという不安に腹がったのだろう。
……良くない事だ。
アトゥもいないのに、感情的になってはいけない。
感情に流され、その力を暴発させた結果、皆を傷つけ、迷惑をかけてしまったのだから。
「ご、ごめん……。怒鳴って……」
「い、いや、我の方こそ、済まなかった……。不躾な物言いだった……」
「……ん?」
互いに頭を下げる僕やスクレを余所に、リウは一人、アルの入った水槽へと一歩近づく。
「どうしたの?リウ?」
「……こいつ、苦しんでるぞ?」
「えっ……?」
目の前の水槽へと、その不機嫌そうな眉を更に寄せた顔を近づけるリウの指さす先を見ると、確かに水槽の中のアルが、先ほど落ち着いた様子とは打って変わって、苦し気に喉元を押さえている。
あっ……!
声を出す間もなく、僕は慌てて水槽の上へよじ登り、蓋を開けると、赤く濁った水槽の中へと手を突っ込んだ。
しかし、その手はアルの身体や頭を触れることは出来ても、上手くアルを引きずり出すことが出来ない。
思えば、水槽内に沈める時ならばともかく、実験体などを取り出す時はいつも、身長の大きなツルカに取り出してもらっていた。
だが、濁った液体の中で苦しみもがいているアルの姿が、微かながらとはいえ、なまじ見えてしまっているが故に、頭は余計に焦り、理解はしているものの、今すぐそのツルカを呼びに行くという勇気を奮い起こすことが出来ない。
「アル……!ア……」
「……どけ」
服が汚れることなど気にせず、必死で水槽の中へと手を伸ばし続けていると、いつの間にか隣へと登って来ていたリウが同様に片腕を突っ込む。
そして、すぐさまアルの腕を掴み、その勢いのままに身体を引き上げた。
「はぁ、はぁ……。あぁ……死ぬかと思った……!」
「あっ……アル……!」
水槽の上へと引き上げられたアルは苦しげな呼吸こそしているものの、決してその言葉通りに、死んでしまいそうな、力の弱い声ではなかった。
「アル!アル……!大丈夫!?痛かったり、苦しかったりしない!?」
「はぁ……あぁ……。けっほ……むせ返る感じの、この鉄の匂いで鼻と気分がまだ死にそうだがな……」
「アル……!」
「うをっ……!?」
水槽の上にへたり込み、荒い呼吸を落ち着かせるよう、ゆっくりと呼吸を繰り返す、血濡れたアルに抱きつく。
全体的に少しだけ大きくなり、匂いも少しだけ違うものの、この温もりはアルに間違いない。
「良かった!本当に良かったよぉ……!」
「ちょ……ターイナ、苦しい……。そして、そういう顔で、抱きつくな……。何ていうか、その……反応するから……」
「あっ!記憶は!?記憶はちゃんとある!?」
「今お前の名前がちゃんと呼べてるだろうが……」
何処か呆れる様な口調で告げるアルだったが、今の僕は腹を立てる以上に、無事にアルが甦ってくれたことが嬉しく、それを咎める気にはならなかった。
でも、小さな仕返しとして、その温かな身体にぴったりとくっつき、当分は離れてはやらなかった。
「さて……。ターイナ……よりも、リウたちに聞いた方が早いなきっと。俺はコハブからどうやって帰って来たんだ?」
その血塗れの身体を簡単に拭い、リウが持って来てくれた、近くに掛けられていたタオルや白衣を羽織ると、アルは膝の上に乗った僕の頭を優しく撫でながら、再び“お母さん”の眠る水槽近くに立つリウに当時のことを尋ねる。
「氷漬けの“首”だけで帰って来た」
「氷漬けの“首”……?ここまで転がって来たってことか?」
「……」
「悪かった……。冗談だから、そんな顔をするなよ、ぼけた俺が泣けてくる……。しかし、それだとすると、この身体は……」
自身の手足などの身体を眺めるアルに、僕は正直に告げる。
「ごめんね、アル……。よく分からないけど、ペルメルお姉ちゃんが持ち帰ってくれた人間の身体を使ったの……。本当はアル本人の身体が良かったんだけど、あのままじゃ、アルが本当に死んじゃうと思って……」
「いや、別にそれは良いんだが……。ん?」
何かに気がついたのか、アルは自分の身体を見回した後、実験室の片隅を注視する。
そこには、先ほど切り落とした男の首が、不思議とこちらを向くように氷水に浸かっていた。
「……アル?どうしたの?」
「……リウ、俺の“首”を持ち帰ったのは誰だ?」
「あの継ぎ接ぎ女だ」
リウの言葉を聞いた瞬間、周りの空気が冷えた。
後ろにいるのが、乗っている膝が、お腹に回された手が、アル以外には有り得ないというのに、まるで、別の人物が突然に入れ替わってしまっているのではないかとさえ、感じてしまう程に。
「その時、この身体も抱えていたか?」
「……あぁ」
「そうか……」
「どうしたの?アル?」
「いいや……何でもないさ……」
優しく頭を撫でるのを再開してくれるアルだが、その手は空気同様、何処か冷たい気がした。
それが何だが薄気味悪くて、頭に乗せられたアルの手を振り払う様に身体の向きを変え、僕はすぐに別の、もっとも重要な話題へと切り替えた。
「な、ならさ、あの件はどうなったの?」
「あの件?」
「……“お母さん”の記憶のこと」
「ああ、そのことか……。安心しろ、ちゃんとそれらしい手段は見つけたさ」
「ほんと!?」
「嘘なんか吐いても仕方ないだろ……。こんな研究さっさと終わらせたいんだからな……」
「……」
吐き捨てる様な、それでいて呆れる様に告げたアルの一言は、根底にある想いを正にそのまま吐露のしたようだった。
……アルは疲れているのだろうか?
“お母さん”を甦らせることに。
“大丈夫さ、俺が傍にいるんだ”
“お母さん”を失った、それも自分たちの手で殺してしまった、そのあまりの悲しみと罪悪感に耐えきれず、一人涙を流す僕を、アルは何度も抱きしめてくれた。
僕より少しだけ背が大きいだけで、顔もひどく似ているというのに、その腕の中は、心に巣くっている嫌なものを浄化してくれる様な、とても優しい温もりがあったのを覚えている。
勿論最初は、“お母さん”を殺したにも関わらず、それを気にしないかの様に、明るく振舞えるアルの無神経さに、どこか腹立たしさを覚えたが、いつの間にか、腕に抱かれることも、その中で眠ることにも抵抗はなくなっていた。
僕の心は、その何処から来るかも分からぬ明るさに、助けられたのだ。
でも、それぞれがプレシエンツァお兄ちゃんの指示通り、一人で行動するようになってからは、心も体も成長したため、遠慮なく甘える様なことは無くなったが、逆に、その成長した心は過去の甘えを羞恥として捉えてしまうのか、アルの顔を見る度に、昔のことで勝手に赤面してしまい、それを隠す為に、つっけんどんな態度を取ってしまっていた。
それ故、事あるごとに、いがみ合っている様な関係になってしまったが、僕は心の底からアルのことが大好きだった。
だから……。
そんな大好きなアルの“首”だけの姿を見た時、僕の心は壊れた。
▽
「あ、主様……!?」
微かに鼓膜を震わせる誰かの声に意識を優しく引き上げられる。
いつの間にか抱えた膝に埋めていたゆっくりと顔を持ち上げると、扉の前に美味しそうな湯気を漂わせる料理が乗るお盆を抱えたリウと、確かスクレ、という名前の、まるで魔物の様な見た目をした少女が立っていた。
しかし、二人の視線はこちらではなく、目の前に置かれた容器の中、アルのものよりもひどく薄い赤色の液体に漬けられた“お母さん”に向いている。
「見てくれ、リウ!主様が!主様がいらっしゃる!」
「……」
驚きつつも、まるで子どもの様に嬉々としてはしゃぐスクレとは対照的に、リウはぼんやりと“お母さん”を見つめた後、特段の反応もなくこちらへと近寄り、その手に持ったお盆を差し出した。
「……ごはん?」
「……」
思った以上に、呂律のまわらぬの僕の声に、リウは黙って頷く。
リウが持ってきてくれた料理は香ばしい湯気を立ち上らせ、鼻腔を刺激するが、生憎、食欲はあまり湧いていなかったために、受け取る気にはなれなかった。
「そっか……。ありがと、そこ置いておいて……。ねぇ、リウは怪我してない……?」
「……していない」
当然おかしなことを聞く僕に、人を嫌悪をするかの様な、出迎えた時から全く変わらぬその表情をままにリウは答えてくれた。
プレシエンツァお兄ちゃんに、故意でないにしても、コハブにおいて皆を傷つけたと聞かされた時から、まるで後ろ指を指されている様な負い目を感じ、一体どういう態度で接すれば良いか分からなかった故に尋ねたことなのだが、リウの様子を見るに、傷つけてしまったのは、やはりペルメルお姉ちゃんたち三人だけらしい。
それを良かったというと、あの三人に対して申し訳が立たないのだが、少なくともリウや恐らく、他の皆には気負わずに接することが出来そうだった。
「なら……良かった……」
「……」
微かな眠気に未だ浸かる、重たい身体でお盆を受け取ると、リウは再び、容器に抱きつかんばかりにはしゃぐスクレのいる、“お母さん”の漬けられた容器の前に戻っていった。
……やっぱり、リウも“お母さん”が気になるよね。
三年前、ちらりとその顔を見ただけで、会話どころか、顔を合わせることもなくその姿を消したリウだが、彼のことはよく覚えている。
一番の末っ子でありながら、最も“お母さん”に、“勇者”と持て囃され、愛されていた男の子……。
でも、もういい。
“勇者”だろうが、なんだろうが、“お母さん”を甦らせ、褒められ、愛されるのはこの僕なのだから。
受け取った料理を机のに置くと、一度、凝り固まった硬い身体を起こすため、首や背筋を動かしがてら、実験室を見渡す。
豪華な装飾などはなく、僕が座る椅子と机に、被験者の身体などを解剖にする時に使う作業台を除けば、残るは薬品が大量に保管された棚と、主に赤色の液体に満たされ、アルや“お母さん”は勿論、人間か魔物かも見分けがつかぬ肉塊などが漬けこまれた、大小様々な容器と水槽が立ち並ぶきりの、階段を上がった先の、温もりや芸術性を感じる屋敷とは打って変わり、ひどく簡素な空間だ。
研究の時など、篭る時には篭るが、好き好んで居続けるにはあまり、適した場所とは言えない。
もっとも、研究中はそんなことも忘れてしまうが。
部屋中と、そして、アルの様子を軽く見て、何事も無いことを確認すると、受け取ったご飯には手をつけず、リウたちの元へと向かう。
すると、背中に生えた異形の手でお盆を抱えたスクレがこちらに鋭い視線をぶつけて来た。
「……ターイナ、と言ったか?これは一体どういうことだ?何故、“主様”が生きている?」
「生きてる……。いや、まだこの“お母さん”は生きていないよ……」
「……まだ?どういう意味だ?」
スクレは鋭い視線をそのままに眉を顰める。
……そうか、リウたちはまだ“お母さん”や計画の事を聞かされてはいないのか。
説明するのは面倒だけど、このまま屋敷に戻っても、ペルメルお姉ちゃんたちと顔を合わせるのは気まずいだけ。
それならば、彼らの相手をしていた方が幾分か気が楽だろう。
「この“お母さん”にはまだ命を吹き込んではいない……。まだ、記憶は元通りにする方法がないから……」
「記憶……?」
「そぅ、記憶……。腕や足、似ている人間たちの部位を掻き集めて、身体はそっくりに創り上げたし、魔物の血液なんかを使って命も吹き込める。けど、どうしても記憶が戻せないの……」
「……それは何故だ?」
「理由はまだ分からない……。でも、魔物の命を使って人を甦らせると、記憶を魔物に乗っ取られちゃうみたいなんだ……」
実際、トゥバンを除けば、フィリア、ツルカ、イッハ全員が生前の魔物の記憶を保持しており、呪いをかけなければ、その復讐心から共生など不可能な程であった。
もっとも、そのトゥバンですら、記憶の境界は曖昧だったあたり、唯一の成功例と呼んで良いかは分からない。
何故、人の記憶が残らず、魔物の記憶が発現してしまうのか、その理由は未だ判明していないが、恐らくは人の生命よりも、魔物の生命の方がその力が強く、人として甦っているというよりも、人の姿を取り込んだ魔物として甦っているという方が近いのだろう。
「乗っ取られる……」
「そぅ……。だから、このまま“お母さん”を甦らせても、それは“お母さん”によく似た人……いや、魔物になっちゃう……」
「だから、このままなのか……」
スクレは改めて容器の中で眠る“お母さん”を苦し気な表情で見つめるも、何かを決心した様に力強く頷くと、僕の方に顔を向けた。
「……ならば、我も手伝おう!どうすれば、記憶を取り戻せるのだ?」
「それが分からないの……。アルがその術を探していてくれたんだけど……」
「……だから、あの屋敷にいたのか」
腕を組み、その不機嫌そうな顔を“お母さん”に向けていたリウがぽつりと告げる。
「あの屋敷……?あの屋敷って?」
「……俺が幼い頃、こいつと、そしてこの“女”と過ごしたらしい屋敷だ」
「えっ……。スクレや“お母さん”と……?」
僕の言葉に、リウはこちらも向かずに頷く。
しかし、僕にはリウの言っていることが俄かには信じられなかった。
“お母さん”が生きていた……?
ガルお姉ちゃんがその胸を突き刺し、僕があの建物ごと焼き払ったのに……?
リウが生きているという話ならば、まだいくらでも信じることが出来、実際、そうであった。
何故なら、既にあの時には、リウの身体には大量の“命”が入っていたから。
でも、“お母さん”は僕たち皆を愛してくれた優しい“普通”の人だった。
生きているはずはないのだ……。
そして、だからこそ、僕たちはこうして魔王たちに今でも付き従っている。
人力では成し得ない、魔物の力を、怪しまれることなく利用し、愛する“お母さん”を甦らせる為に。
でも、“お母さん”がもし本当に生きていたのならば、僕やアルの研究は勿論、皆の努力はどうなるの……?
「う、嘘だよね……?そんなの……。だって、おかしいもん……。どうして“お母さん”が生きてるの……?だって、ガルお姉ちゃんが刺したんだよ……?血だって一杯出たんだよ……?それに、僕が焼いたんだよ……?トゥバンの基になったあの竜の頭部がすごく痛むくらい……?なのに生きてたの……?」
「タ、ターイナ……?」
「あっ……。ご、ごめん……」
スクレの心配そうな言葉が耳に届き、僕は慌てて口を噤む。
おかしいのは自分でも分かっていた。
本当は喜ぶべきことのはずなのに、本当は嬉しいことのはずなのに、本当は幸せなことのはずなのに。
何故か、心の奥底から溢れてくる想いは、頭で考えるものとは真逆のものばかりだった。
僕は“お母さん”が本当に好きなのかな……?
それとも……。
「そ、そういえばアルは大丈夫なのか?プレシエンツァやペルメルは何とかなるとは言っていたが……」
僕の様子を察してか、スクレは“お母さん”の入る水槽の前から、すぐ横の水槽の前へと移動する。
そこには“お母さん”が浮かぶ水槽の液体よりも、遥かに赤黒く、透明度の低い、様々な魔物の血液を混ぜ込んだ液体の中に沈んだアルの姿があった。
スクレが二人に何を聞かされたのかは知らないが、僕が目を覚まし、プレシエンツァお兄ちゃんに急かされるままに治療を始めた時には、ひどく危険な状態だったのは確かだろう。
でも、決して手遅れではなかった。
何故なら、“首”だけとなっても、アルは微かながらに生きていたから。
勿論、それは僕たちが“勇者”という異形の力を持って生まれ、ペルメルお姉ちゃんが最も嫌うところの、“人間”でないことを暗に示す事象ではあったが、そのことに気がついた、僕の心は、驚き、焦る搔き乱されていた思考とは裏腹に、狂気した。
大好きなアルが生きている。
大好きなアルを救える、と。
僕はすぐに、アルの身体となるがらくたを、実験室の全てを掻き回す勢いで探した。
というのも、魔物とは違い、フィリアたちの様な人間は部位を欠損させたりせず、実験に全身を丸々と使用してしまうため、部品などはなかなか集まらないのだ。
だが、そんな実験室の状況を見越してか、プレシエンツァお兄ちゃんは、傷ついてこそいるもののひどい欠損もない、見知らぬとある人間の亡骸を持ってきてくれていた。
今更ながらな欲を言えば、本当は元通りにするためにも、アル本人の身体が最も望ましいのだが、当時の僕はそれを嬉々として受け取り、すぐさま邪魔な首を切り落とすと、アルの首をその身体に縫い付けたのだ。
そして、今の状態に至る。
改めて見ると、大きな変化はないようだが、既に首筋にあったペルメルお姉ちゃんの様な継ぎ接ぎ痕は無くっているようだった。
ふぅ……。
二人に気付かれぬよう、小さく安堵の吐息を吐き出す。
恐らく、もうアルの“命”は助かるだろう。
しかし、肝心の記憶に関しては正直分からないところだ。
いくらアルが異常な力を有するといっても、今やその身体の殆どがただの人間のもの。
普通に考えるならば恐らく、魔物の生命力に負け、身体を保つことは出来ても、フィリアたちの様に記憶を塗り替えられてしまう可能性が高い。
……でも、今更何が出来ようか。
今はただ、信じるしかないのだ。
アルならばきっと魔物の生命力に負けずにいられる、と。
しかし、そんな僕の期待を逆撫でる様に、スクレは不安げな顔で、そっとアルの入る水槽を指差す。
「その……アルは本当に生きているのか……?我が見た時には、その、く……」
「大丈夫!絶対大丈夫なの!絶対……!アルなら……!」
「ターイナ……」
気がつくと、まるで気に入らない事そのものが地面にでも落ち、それを跡形もなく、木端微塵にするかの様に、力強く地団駄を踏みながら、スクレに向かって怒鳴っていた。
恐らく、アルよりも明らかに劣る、僕の治療能力を疑われたことと、アルが死んでしまうかもしれないという不安に腹がったのだろう。
……良くない事だ。
アトゥもいないのに、感情的になってはいけない。
感情に流され、その力を暴発させた結果、皆を傷つけ、迷惑をかけてしまったのだから。
「ご、ごめん……。怒鳴って……」
「い、いや、我の方こそ、済まなかった……。不躾な物言いだった……」
「……ん?」
互いに頭を下げる僕やスクレを余所に、リウは一人、アルの入った水槽へと一歩近づく。
「どうしたの?リウ?」
「……こいつ、苦しんでるぞ?」
「えっ……?」
目の前の水槽へと、その不機嫌そうな眉を更に寄せた顔を近づけるリウの指さす先を見ると、確かに水槽の中のアルが、先ほど落ち着いた様子とは打って変わって、苦し気に喉元を押さえている。
あっ……!
声を出す間もなく、僕は慌てて水槽の上へよじ登り、蓋を開けると、赤く濁った水槽の中へと手を突っ込んだ。
しかし、その手はアルの身体や頭を触れることは出来ても、上手くアルを引きずり出すことが出来ない。
思えば、水槽内に沈める時ならばともかく、実験体などを取り出す時はいつも、身長の大きなツルカに取り出してもらっていた。
だが、濁った液体の中で苦しみもがいているアルの姿が、微かながらとはいえ、なまじ見えてしまっているが故に、頭は余計に焦り、理解はしているものの、今すぐそのツルカを呼びに行くという勇気を奮い起こすことが出来ない。
「アル……!ア……」
「……どけ」
服が汚れることなど気にせず、必死で水槽の中へと手を伸ばし続けていると、いつの間にか隣へと登って来ていたリウが同様に片腕を突っ込む。
そして、すぐさまアルの腕を掴み、その勢いのままに身体を引き上げた。
「はぁ、はぁ……。あぁ……死ぬかと思った……!」
「あっ……アル……!」
水槽の上へと引き上げられたアルは苦しげな呼吸こそしているものの、決してその言葉通りに、死んでしまいそうな、力の弱い声ではなかった。
「アル!アル……!大丈夫!?痛かったり、苦しかったりしない!?」
「はぁ……あぁ……。けっほ……むせ返る感じの、この鉄の匂いで鼻と気分がまだ死にそうだがな……」
「アル……!」
「うをっ……!?」
水槽の上にへたり込み、荒い呼吸を落ち着かせるよう、ゆっくりと呼吸を繰り返す、血濡れたアルに抱きつく。
全体的に少しだけ大きくなり、匂いも少しだけ違うものの、この温もりはアルに間違いない。
「良かった!本当に良かったよぉ……!」
「ちょ……ターイナ、苦しい……。そして、そういう顔で、抱きつくな……。何ていうか、その……反応するから……」
「あっ!記憶は!?記憶はちゃんとある!?」
「今お前の名前がちゃんと呼べてるだろうが……」
何処か呆れる様な口調で告げるアルだったが、今の僕は腹を立てる以上に、無事にアルが甦ってくれたことが嬉しく、それを咎める気にはならなかった。
でも、小さな仕返しとして、その温かな身体にぴったりとくっつき、当分は離れてはやらなかった。
「さて……。ターイナ……よりも、リウたちに聞いた方が早いなきっと。俺はコハブからどうやって帰って来たんだ?」
その血塗れの身体を簡単に拭い、リウが持って来てくれた、近くに掛けられていたタオルや白衣を羽織ると、アルは膝の上に乗った僕の頭を優しく撫でながら、再び“お母さん”の眠る水槽近くに立つリウに当時のことを尋ねる。
「氷漬けの“首”だけで帰って来た」
「氷漬けの“首”……?ここまで転がって来たってことか?」
「……」
「悪かった……。冗談だから、そんな顔をするなよ、ぼけた俺が泣けてくる……。しかし、それだとすると、この身体は……」
自身の手足などの身体を眺めるアルに、僕は正直に告げる。
「ごめんね、アル……。よく分からないけど、ペルメルお姉ちゃんが持ち帰ってくれた人間の身体を使ったの……。本当はアル本人の身体が良かったんだけど、あのままじゃ、アルが本当に死んじゃうと思って……」
「いや、別にそれは良いんだが……。ん?」
何かに気がついたのか、アルは自分の身体を見回した後、実験室の片隅を注視する。
そこには、先ほど切り落とした男の首が、不思議とこちらを向くように氷水に浸かっていた。
「……アル?どうしたの?」
「……リウ、俺の“首”を持ち帰ったのは誰だ?」
「あの継ぎ接ぎ女だ」
リウの言葉を聞いた瞬間、周りの空気が冷えた。
後ろにいるのが、乗っている膝が、お腹に回された手が、アル以外には有り得ないというのに、まるで、別の人物が突然に入れ替わってしまっているのではないかとさえ、感じてしまう程に。
「その時、この身体も抱えていたか?」
「……あぁ」
「そうか……」
「どうしたの?アル?」
「いいや……何でもないさ……」
優しく頭を撫でるのを再開してくれるアルだが、その手は空気同様、何処か冷たい気がした。
それが何だが薄気味悪くて、頭に乗せられたアルの手を振り払う様に身体の向きを変え、僕はすぐに別の、もっとも重要な話題へと切り替えた。
「な、ならさ、あの件はどうなったの?」
「あの件?」
「……“お母さん”の記憶のこと」
「ああ、そのことか……。安心しろ、ちゃんとそれらしい手段は見つけたさ」
「ほんと!?」
「嘘なんか吐いても仕方ないだろ……。こんな研究さっさと終わらせたいんだからな……」
「……」
吐き捨てる様な、それでいて呆れる様に告げたアルの一言は、根底にある想いを正にそのまま吐露のしたようだった。
……アルは疲れているのだろうか?
“お母さん”を甦らせることに。
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