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しおりを挟むキヨに案内されたのは、大邸宅の隅にひっそりとたたずむ小ぢんまりとした草堂だった。
茶室が備えつけられていることから察するに、水無瀬家の人間が、ひとりになりたい時の息抜きの場に使っていたのだろう。
紫乃が過ごした古川家の離れに比べると、だいぶ質素で狭かったが、逆にそれがしっくりきた。
キヨは相変わらず不愛想だったが、手際よく風呂を沸かし、着替えを置くと、あとで夕食を持ってくると言い残し母屋へ戻っていった。
何もすることのない紫乃は、せっかくだからと着替えを手に風呂場へ向かった。
歴史を感じる草堂とは違い、風呂場は真新しく、どうやら増設したばかりのようだ。
紫乃を迎えるためだろうか。
なんにせよ古川家では、母が亡くなって以降風呂につかる機会もなかったのでありがたい。
「……なんて気持ちいいのかしら……」
たっぷりと張られた湯の中に身を沈め、ほう、と溜め息を吐いた。
(……昔はよくお母さまと入ったわね)
元芸妓で妾の母が、古川家のみならず、周囲の人間からどんな風に思われていたか、今となっては紫乃にもよくわかる。
けれど、紫乃にとっては優しい母親だったし、母は芸妓という職業に誇りを持っていた。
花街一の芸妓と呼ばれた母は、まさに「芸の子」で、長年のお稽古で磨いた技芸は子どもの紫乃も見とれるほどに美しく、素晴らしいものだった。
父が望めば三味線や舞でもてなし、子どもの紫乃も交えてお座敷遊びなんかもよくやった。
父を愛していたのだとは思う。
けれど、母の一番は常に娘の紫乃だった。
毎日一緒にお風呂に入り、身体を洗ってくれた。
お湯が熱いとなかなか風呂につかりたがらない紫乃を、得意の小唄でうまく引き留めた。
風呂から上がれば全身を優しく拭いてくれ、「なんて綺麗なのかしら」と、紫乃の柔らかな黒髪を何度も丁寧に梳ってくれた。
もし、母が今も生きていれば、紫乃の人生はどのようなものになっていただろう。
そんな、考えても仕方のないことばかりが頭を過る。
なんだかんだで湯あたり寸前まで浸かっていた紫乃が部屋へ戻ると、そこには夕餉の膳の支度がしてあった。
しかし支度をしてくれたのであろうキヨの姿はそこにはない。
当然のことだが、自分は使用人からも歓迎されてはいないようだ。
それでもこうやって温かい食事を用意してもらえるのは素直にありがたい。
紫乃は膳の前に座り、手を合わせた。
「いただきます」
椀の蓋を取ると、湯気に乗ってお出汁と味噌の合わさった優しい香りが鼻腔に広がる。
具は豆腐とわかめだ。
ゆっくりと椀の縁に口をつけ、味噌汁を嚥下すると、身体の中心から末端に向かって、じんわり熱が広がっていくようだった。
(温かいお味噌汁なんて、飲むのはどれくらいぶりかしら)
古川家で出されていたのはいつも冷えて痛みかけの残り物で、冬はひと口飲んだだけでも凍えそうなくらい冷たかった。
それでも空腹には勝てず、震えながら少しずつ啜るようにして飲んだものだ。
次に、膳の大半を占める大きな皿にのったとんかつに箸を伸ばす。
実は、膳の中にその姿を見つけた時からずっと心が浮き立っていたのだ。
ひと口かじるとサクサクとした食感とともに、甘い脂が口の中で溶けだしてきて、紫乃は比喩でなく、ほっぺたが落ちそうだった。
父母と三人で食事をしていた頃は、こういった贅沢な食事がよく膳に上ったものだ。
また食べられる日が来るなんて、思ってもみなかった。
他にもふきと海老の炊き合わせ、漬物が添えてあり、紫乃は昼間の緊張もどこへやら、夢中で食べ続けた。
「お腹がはちきれそうだわ……」
目の前にはすっかり空になった皿が並んでいた。
紫乃はふと、この膳をどうすべきか疑問に思ったが、そこにちょうどよくキヨがやってきた。
「食後のお茶をお持ちしました」
手の上の盆にのせられた急須の口からは、ゆるゆると湯気が立ち上っていた。
こんなに手厚くもてなしてもらっては気が引ける。
この家の人たちは皆、紫乃がどんな風に育ってきたのか知っているのだろうか。
キヨは手際よく湯呑みにお茶を注いだ。
「なにかご不便なことはおありでしょうか」
「不便なんて。むしろこんなによくしていただいて、申し訳ありません」
「……いえ」
キヨは食べ終えた膳を持ち、また明日の朝来ると言って離れを出て行った。
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