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1章 記憶海の眠り姫

15 夢想

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 三人でしばらく歩いていたその先にて。
 湿ったニオイと共にざざーん、ざざーん、と聞き慣れない音が僅かながら耳に届く。三人は顔を見合わせて、それから音の聞こえる方へと意識を集中させた。
 もうすぐ異変の中心部に着くのだろう。
 少し急ぎ足で、しかし慎重に歩みを再開する。


***


「こんな感じ……かなぁ」

 じゃりじゃりと足下で鳴る砂はその空間の床という床を埋め尽くしていた。白っぽいそれを飲み込み、そして吐き出すように一定の間隔で訪れる青い水を眺めながらリコは額の汗を拭う。
 ほんのひとときの離別を決意したリコは、連れてこられた先にいたルシオラという研究者に頼み込んでここまで連れてきて貰った。リコの――カラスの思い出の地であるここならば誰の目にも触れず海を再現することも出来ると考えたのだ。
 その結果、近くの小さな街に被害が及んでいることを彼女は知らない。

「ルシオラさんは海って知ってる?」
「いや。人間が大陸の中央に追いやられてから千年以上も経っていると聞く。国の外はどうなっているのかもよく分からない。不用意に旅立つ奴もいないだろう」
「やっぱり知らないんだね。……でもとてもロマンチックでもあるね。誰も知らないものを私たちは追い求めていたんだ」

 リコは知らない。
 海の近くは潮の香りがして、波は規則正しくなんてなくて、時々恐ろしいものだということを。様々な顔を持つ場所だということを。

「……ひとつ、頼みがある」
「なぁに?」

 ただ動いているだけの青い水を眺めつつリコはルシオラの問いを待つ。

「少しの間で良い。一件だけ家と、この人たちを再現してくれないか。別にしゃべらなくても構わないから」

 首に下がっていた金のロケットペンダントを外し、リコへと手渡す。ぱかりと蓋を開いたその中には小さな紙が収められている。ルシオラに視線で問いかければ無言の許可が下りてくる。
 それに従って畳まれた紙を丁寧に開いていくと――家族だろうか。五人分の人間が描かれた絵だった。描かれたものは決して上手な絵ではない。子供が描いたと思わしき、雑であり愛の籠もった絵だった。

「……絵が下手なのは気にするな。とにかく、大体で構わないから」

 気まずそうに顔を背けるルシオラを見てリコは察する。
 この絵は彼自身が描いたものである、と。

「うん、分かった」

 リコの力はイメージさえ固まればなんとか発動できるものだ。目の前に居るルシオラの顔を参考にしつつ、開いたノートに文章を走らせながら想像する。
 砂の上に光の粒子が現れ、集まっていく。やがてそれはごく小さな家を形作った。木製の、一部屋あるかどうかという建物。ルシオラは扉のノブに手を掛け、ゆっくりと開いた。

 柔らかな太陽光が差し込む一室――もちろん太陽光はリコが再現しただけの偽物だが――親子がそこに立っていた。
 黒髪の男性が、同じ髪色の幼い少年を肩車している。隣の椅子に腰掛けている白金の髪が美しい女性。彼女は生まれたばかりと思わしき赤ん坊をその腕に抱いている。隣に立つ長男らしき少年が母親の横に立ち、うさぎのぬいぐるみを手にしていた。

 たったそれだけの光景。
 ルシオラは呆然と立ち尽くして見つめていた。

「どう? これで大丈夫?」

 そっと後を追いかけてきたリコの声には、しばらくしてから答えることしか出来なかった。

「……あぁ。感謝す……おい。無事か?」

 心の中に燻る切望を抑え込み、ふつふつと煮えたぎる復讐心が表に出てきそうになる。が、家の壁にもたれかかって座り込むリコの姿を見て一度心を落ち着かせた。
 リコの顔には明らかな疲労が浮かんでいる。
 彼女の力は便利ではあっても万能ではない。広範囲で複数のものを長時間具現化することは難しいらしい。ルシオラが家族を見つめていた時間は長くはない。数分程度の時間であっても体力は大きく削られてしまう。
 ルシオラの研究者としての心が冷静に考え始める。
 どうにかしてこの力を強力にできないだろうか。

「ごめんなさい……疲れただけ。一旦解いてもいい?」
「構わない。悪かった」

 ルシオラが頷いた瞬間、家も家族も海も全てが霧散する。どこか美しさを感じる光景の中、もたれるものがなくなりよろめいた彼女の背を抱き留めて、支えてやる。

「お前が満足したなら、少し遺伝子を調べさせろ。拠点に戻ったら、になるが」
「うん。わがままに付き合って貰ったもの、血でもなんでも取って」

 わがままを言ったのはこちらだが、と言うよりも前に乱入してくる者がいた。
 背に殺気を感じ取り、ルシオラはリコの細身を抱き上げてその場から離れる。ルシオラの頭があった場所を男の脚がすり抜けていく。
 国に隠れて危険かつ人道に反する研究を続けてきたルシオラだ。命を狙われる可能性を考慮して護身術も暗殺術もある程度は身につけている。明晰な頭脳に反して身体能力に関する才能はシトロンほどなかったものの、大した問題ではない。
 鋭い舌打ちが一つ。
 ルシオラを襲ったのはクロウだ。万が一リコを傷つけてしまわないよう、銃は使っていない。

「リコ……!?」

 クロウが目にしたのはぐったりとしたリコの姿だ。
 リコが口を開く前にクロウの猛攻が始める。

「クロウ、聞いて」
「リコに何をしたっ」

 体術で迫るクロウから無言で避けつつルシオラは辺りに注意を張り巡らせる。刺客が彼一人とは限らない。むしろもっといるはずだ。不意打ちに気を付けなければ……と思った矢先のこと。

 ガシャン、とガラスが割れるような音が鳴り響き、ルシオラは素早くそちらへ視線を走らせる。上だ。上からガラスの雨と――大量の水が降り注ぐ。
 破片が目に入らぬよう、リコの頭を抱えつつ飛び退く。壁際まで後退するころには天井から床にひとつの滝ができあがっていた。
 天井に張り巡らされたガラス管が割られたことにはすぐに考えが及ぶ。その犯人は淡藤の髪を揺らしながらルシオラを睨み付けていた。

(彼女だけで天井まで届くのか?)

 少し広いこの部屋は人間三人が縦に並べてギリギリ届くがどうか、という高さを誇る。クロウがルシオラの襲撃担当なら、もう一人彼女の協力者がいるはずだ。

「――!!」

 背後からの悪寒。クロウの殺気よりは弱い、それでいてしっかりとした敵意に気がつくのが遅かった。ルシオラが動き出した直後、銀の槍が凪がれる様が視界に入る。咄嗟に構えた腕に太刀打ちが直撃する。
 手加減はされていたのだろう、骨がみしと嫌な音をたてるだけで済んだが自由にはもう扱えない。
 膝をついたルシオラに、同じ黒髪を持つセラフィが近づく。

「観念して、兄さん。あまり兄さんを傷つけたくはない」
「セラフィ……」

 なんとも複雑な表情を浮かべた弟を見上げ、一瞬あの幻想が蘇る。リコが見せた光景の中の彼はまだ無邪気で幼い少年だったが。
 ルシオラとて、復讐に走り続けるよりは弟や妹との穏やかな暮らしを望む。
 しかし、だからこそ。

「すまない、セラフィ」
「兄さん……」
「もう少しだけ待っていてくれ」

 眼鏡の奥の翡翠に湛えた悲しみはどこへやら、ルシオラは復讐鬼になろうと脳裏の幻想を掻き消す。
 今なんのためにここにいるのか。弟と妹から離反しているのか。
 すべては、両親の命を、そして弟や妹を苦しめる精霊を滅ぼすために。

「そこから動かないでくれ」

 ばさり、と白衣の裾を捲って内側に潜ませていた球体を二つ手に取る。警戒して距離を取ったセラフィに安堵の笑みを薄く浮かべ、ルシオラはそのうちのひとつを勢いよく地面に叩きつけた。

「な、なんだこれ……煙幕?」
「吸っても咽せるだけだ、安心しろ」

 そう残してルシオラはリコを抱えたまま下がり、もう一つの球体を今度は少し離れた位置に投げつける。
 バン、と破裂音。ピキ、と何かがひび割れる音。
 がらがらと崩れゆく壁にリコが「え」と戸惑いを隠せずにいる。ルシオラは気にせず開いた壁の向こうへと進んでいく。

「安心しろ、ここに関しては既に調査済みだ。この壁を少しばかり崩したところで構造的に問題はない」
「みんなが無事なら……」
「ただの煙幕だ、怪我もするまい。それよりも」

 足早に進みつつ告げられる言葉にリコはぱちくりと瞬く。

「この遺跡も見て回りたいんだろう?」
「……うん。思い出の場所だから」

 始まりの私の、とまでは言わない。せっかくルシオラが優しい提案をしてくれたのだ。リコはそれに有り難く乗らせて貰おう、と微笑んだ。後できちんとみんなにも謝らないと、とも思いつつ。

「優しい人だね、貴方は」
「……」

 こうして奇妙な関係を築きつつある二人は遺跡の奥へと消えていった。
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