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1章 記憶海の眠り姫

21 その指が届く先

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「……意気込んだは良いけど」

 冷や汗をかきながらクレーエが一言。

「何したら良いんだろう……」
「おでが頑張ってクロウさんを捕まえるだ! ……その後は?」

 二の腕の筋肉を強調して、それから首を傾げるコルボー。カーグは腕を組んでズレた眼鏡の位置を正した。

「全く。セラフィ殿から聞いたでしょう? 僕らの役割はクロウさんの足止めをすること。コルボーは捕まえることに専念してくれればよいのです。クレーエはリコの補佐を。僕は――まぁ、なんとか上手いこと動きますよ、多分」
「多分って情けないわね!!」

 適度な軽口は気持ちを落ち着かせるために充分な効果をもたらす。リコは微笑み、そしてふと何かを感じて後ろを振り返る。そうしなければならない、という強迫観念に近いそれに従う。
 後ろの壁には丁寧に彫り込まれた文章と記号のようなものが広がっている。その中に見えた単語は――海。

「海……」

 かつてこの地には海から来た民が訪れたという。リコはその事実について知らないが、その民が残した情報なのかもしれない。

(私に出来ること、見つけたかもしれない)

 リコは自分を囲むように立つ家族に向き直り、決意を胸に秘めて口を開く。

「ごめんね、みんな。私に考えがあるの。少しだけお願いしてもいいかな」
「「「当たり前!」」」

 口を揃えた三人の家族にリコは深い愛情と共に微笑んだ。


***


 黒鉄の拘束をいとも簡単に抜け出し、クロウは吠える。瘴気で形作られているらしい、漆黒の羽が彼の慟哭にも似た咆哮とともに散っては霧散していく。
 何かをしているらしいリコへ向けられた意識を逸らすためソフィアは駆けた。銀の刃を瘴気の翼に向かって一閃。敵意に反応したクロウは真っ赤な瞳にソフィアを捉えると、異常なほどの速さで両手を彼女に向かって突き出す。
 そこに形作られたのは、瘴気で編み込まれた――拳銃だ。クロウが手にしていた銃を模したものか。
 引き金が引かれる。しかしソフィアの方が一瞬速い。
 漆黒の瘴気の中を銀色の軌跡が直線を描き、ボロボロの片翼を切り落とす。放たれた瘴気の銃弾が淡藤の髪を掠め、数本散らしていく。
 切った、という感覚はほぼないに等しい。ソフィアはクロウの背後に着地し、彼の身長ほどもある翼が霧散する様を目にした。

「……だめか」

 しかし、切り落とした断面から濃い瘴気が溢れ、再び生え替わる翼。切り落としさえすれば驚異的なスピードを落とすことができるとソフィアは踏んだのだが、それは叶わぬ夢のようである。
 思わず舌打ちをしそうになったその瞬間、背後から銃声が轟いた。
 クロウがいるのはソフィアの目の前だ。銃は彼が持つ武器のはずである。驚愕と共に身を強張らせたその時、赤い服を靡かせてセラフィが瘴気の中を飛び込んでくる。

「どうやらこれを操って銃を作れるみたいだね。全方位警戒を怠らないようにしないと」
「助かったわ」
「どういたしまし……て!」

 忠告の合間にも形作られた銃を、今度は弾丸が放たれる前に槍で叩き落とす。先ほどソフィアを襲ったものもセラフィが運良く駆けつけて破壊してくれたのだ。
 笑みを礼に代えてソフィアは剣を強く握り直した。

(簡単には傷つけられないし、傷つけたくない。けれど長期戦もできないわね)

 クロウの心の声を何重にも重ねたものが絶え間なく聞こえる上、立っているだけでもチリチリと痛い。全方位からの攻撃があると分かった今、一瞬たりとも気を抜けない。それなのにこの場は、どうにも集中を続かせることが難しい。
 リコたちが何やらやっている様は察している。ソフィアとセラフィの役目は時間稼ぎだろう。
 血のような赤色が鈍い輝きを宿す。
 瞬間、ソフィアとセラフィはクロウを挟み込む形で移動を開始する。二人が立っていた場所は弾痕が残り、弾丸だった瘴気が消えていく。

「ソフィア!」
「えぇ!」

 先に攻撃を仕掛けたのはセラフィだ。姿勢を低くして槍を突き出したセラフィの呼びかけに短く応え、ソフィアは跳躍する。セラフィの馬鹿力に支えられた槍に足を掛けて飛び上がる。
 ソフィアを視線で追いかけようとしたクロウだが、踏み台としての役目を終えたばかりのセラフィがそれを許さない。煌めく槍の銀をクロウが見た瞬間、背後に回り込んでいたソフィアが身体を捻りながらの強烈な蹴りを一発その背に叩き込んだ。
 師匠であるレオナから万が一武器を失った場合の護身術の一環として教わった蹴り。クロウの身体が頑丈であることを祈りつつ、ソフィアは綺麗に着地をする。
 ぐら、とよろめいたクロウの両腕を互いに一本ずつ掴み、ソフィアとセラフィは空いた手で武器を彼の喉元に突きつける。
 彼の暴走は彼のせいではないと分かっている。罪悪感を抱きつつもその手を離すまいと力を込めた。
 そこへ、カラスの一声。

「二人とも! クロウさんをこっちへ!!」

 クレーエだ。彼女の高く澄んだ声は良く通る。
 ソフィアは気を抜かないまま視線だけ声の方に向けると、数メートル先ではカーグが床に円を描いていた。コルボーはその場にいない。リコは円の側で瞼を閉じて瞑想をしている。
 状況はよく分からないが、何か考えがあるのは明確だ。
 ソフィアとセラフィは頷き合い、彼らがいる方へとクロウを突き飛ばした。前へ倒れゆく傷だらけの背中に同時に腕を伸ばし、もう一押し。
 クロウは瘴気を纏いつつ円の中に入り込む。

「コルボォォォォォォォォ!!」

 クレーエが叫んだ瞬間、ミシ、と音がして――大量の水が天井から降ってきた。ソフィアが上を見上げると、コルボーが器用に管によじ登ってそのうちの一本を破壊した姿が映る。よく見れば壁の一部にあのガラスの管が這っており、彼は大した足場もないそこを鍛え抜かれた筋肉だけを利用して登ったらしい。
 大量の水がクロウを飲み込む。
 刹那、リコの両目が見開かれた。集中していたらしい彼女は両腕を広げた。
 天井から流れる水は、リコが想像しているのであろう動きでうねり始め、クロウを囲むように流れ、やがて球体となる。水で満たされた球体はスノードームのようであり、水槽のようでもあった。
 リコは小鳥が囀るように紡ぐ。

「私たちが訪れたのは、それはそれは美しい海でありました」

 姉が弟に向けておとぎ話を語るように、歌のように流れゆく言霊はこの場に居る全員の耳に心地よく響く。

 その先が見えないほどの大きな水たまりは、空の色を写し取ったかのようでありました。けれど空とは違い、太陽の光に白く輝いてもいました。不規則に訪れる波は赤子をあやすゆりかごのようであり、時には天から下される雷のようでもありました。
 彼は、素足で白い砂が透ける波へと足を踏み入れました。温かな海水と、少し生々しい匂いを孕んだ風が私たちを青い世界へと誘いました。

 リコが語れば語るほど、水球の中の様子が変わっていく。中は相変わらず水に満たされたままだが、リコが語る景色が映し出される。
 クロウはもがいていた手を止め、その景色を目の当たりにした。待ち望んでいた景色が目の前に広がっているのだ。本当の海を知らずとも、彼は伝説の通りの光景を海だと認識した。
 完全に沈黙した彼を見て微笑んだリコはソフィアに近寄り、両手を差し出した。そこには小さな木箱。

「リコ、これは……」
「ソフィア、それは貴女が持っていて。私はもう、大丈夫」

 クロウとの繋がりの証である宝物。この木箱には赤の宝石――神子の神器が収められている。儚く微笑んだリコに何も言えずソフィアはただ頷く。
 これから彼女がすることは代償に苦しんだ末に彼女が決めたこと。ソフィアに止める権利はない。――家族の夢を叶えるための作戦だ。

「そんな心配そうな顔をしないで。もう何も怖くないの。だって夢が叶うんだもの。……ありがとう。私たちを助けてくれて」

 そしてリコは集まっていたカラスの三人と並び、クロウの揺蕩う水球へと手を伸ばした。

 彼女たちの夢へ、四人分の指先が触れた。
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