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2章 誰が為の蛇
26 その星が輝くべき場所
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***
突然走り出したセルペンスがラルカを抱きしめるように腕に閉じ込めた瞬間、波紋が広がっていくように風が吹いた。その風に掻き消されるかのごとく、周りの瘴気が薄れていく。
同時に役目を終えた青い炎も消える。
異変に気がついた彼らが確認したときにはもう、セルペンスは意識を失っていた。長身に押しつぶされそうになっているラルカの顔は驚愕か羞恥によるものか定かではないが、熟れたリンゴのように真っ赤に染まっている。
シェキナたちが慌ててセルペンスを支え、大樹の麓に横たえれば、彼は穏やかな寝顔を浮かべている。胸が上下していることからただ眠っているだけのようだ。
その事にラルカがほっと胸をなで下ろす様を見てソフィアは笑む。
アングとのやりとりによって、セルペンスは漸く自分という存在を理解出来たのだろう。
ソフィアは一歩引いて涙を浮かべているラルカを見守った。
そこへ、セラフィが槍を手にしたまま近寄っていく。
「どうするべきだと思う?」
その問いの意味は分かっている。セラフィの血を呑ませるか否か、だ。
クロウの時は彼が大精霊アクアの血を取り込んだ事によってイミタシア化が進行した暴走だった。そのため、彼を鎮めるにはイミタシア化を解くセラフィの血が必須だったのだ。
しかし今回は違う。
今回の件は、セルペンスが蓄積し続けてきた瘴気が感情の暴走によって広がったことで起きたものだ。セラフィの血を取り込むことが直接の解決に繋がるわけではない。
「セルペンスの意志を聞くべきだと思うわ。今の彼ならきっと、彼自分にとって正しい選択ができる。そんな気がする」
「仰せのままに」
わざとらしくセラフィは笑み、視線をラルカの方へと向けた。
少女はセルペンスの傍らに座り、手にしていたヘアピンを彼の髪につけようと四苦八苦していた。納得できる位置につけることが出来ないらしく、頬を更に紅潮させながらムキになっている。その様子を弟アングとノアが彼女の両脇で固唾を呑んで見守り、向かいの位置でシェキナが苦笑していた。クロウはというと、大樹に背を預けて彼らをじっと見下ろしている。
数分の間、そんな状況が続いた。
曇天に覆われた空はやがて晴れ、星が美しい夜空が姿を見せる。そのうちの一つが存在を主張するかのごとく金色に輝いていた。セルペンスのヘアピンと似たような色だ、ソフィアは思う。
「……できた!」
ラルカの声に反応して視線を落とせば、眠るセルペンスの髪をあのヘアピンが綺麗に飾っていた。
よし、とラルカが額に浮かんだ汗を拭ったとき。
深碧の睫毛が震えた。
全員が固唾を呑んで見守る中、紫紺の瞳がゆっくりと顕わになる。僅かな間ぼんやりと焦点の合わなかった視線がやがてラルカを映し、ノアを映し、アングを映し――そして蕩けるような笑顔を浮かべた。
「ふぇぁ」
「ラルカ、変な声出てるよ」
今まで見たこともない表情を目の当たりにして上ずった声をあげるラルカをシェキナがくすくすと笑いながら小突く。
一気に和んだ空気の中身体を起こそうとするセルペンスを支えるのはノアとアングだ。涼しい風が吹く丘を見渡し、彼は穏やかな笑みを浮かべた。
「良かった。みんな無事だった」
「あ、あ、あ、あ、あのあの!」
あわあわと腕をあちらこちらへ動かしていたラルカ――挙動不審だ――は、意を決してセルペンスの袖を引く。彼の意識がこちらに向いたことで小さく悲鳴をあげつつ、少女は勇気を出して口を開いた。
「……前は、ごめんなさい」
「ラルカ……」
「私、貴方に酷いことを言ってしまいました。思い返せば貴方は私を私として見てくれていたのに。私を助けてくれたのは貴方であることは変わりないのに。やってはいけない方法で八つ当たりをしてしまいました。ごめんなさい」
伝えたかったことを少女は確かに声にする。
しがみつきながらも頭を下げる彼女を見て、セルペンスは緩く首を振った。
「良いんだ。真に謝るべきなのは俺だ、ラルカ。でもそれよりも先に――ありがとうを伝えないと」
ラルカは顔を上げる。
焦がれていた微笑みがそこにあった。今までと違う、本物の優しい笑顔だ。彼の本心からの笑みを見て、ラルカは自然に笑顔になる。
しかし、それもすぐに崩れることになる。
しがみついていた少女の華奢な身体を包み込む腕に、驚愕で固まってしまったからだ。温かい腕だ。気がつけば自分の顔のすぐ横に彼の顔が寄せられて、染みついた血の臭いと彼本来の香りが混ざり合ってラルカの鼻孔をくすぐった。
「ふぁ!?」
「ありがとう、俺のために頑張ってくれて。ありがとう、俺の大事なものを見つけてくれて」
自分が抱きしめられている事実に更に更に真っ赤になっていると、染み渡る感謝の言葉が耳元で囁かれる。
「はははは、はい」
ラルカは少し迷い、そして腕を彼の頼りない背に回した。
どきどきと心臓が煩かった。
二人を見ていたノアが便乗しようとするのをアングが首根っこを掴んで引き留める。
ぐえ、と情けない声を出したノアが半目で睨めば、アングはやれやれと肩をすくめた。
「おいおい、男たる者、空気を読まねばならんときもあるのだよ少年。こういう時は黙って見ているのが吉だ」
「えぇー? そういうもんなのか?」
「そうそう、そういうもんだよー」
シェキナからの援護射撃まで食らい、ノアは怪訝そうな顔をしながらも黙らざるを得ない。数歩離れた位置ではセラフィが遠慮なく笑っていたが、シェキナに睨まれてすぐに黙り込んだ。
ソフィアは肩をすくめるだけだ。
「ごめん、ありがとう、みんな……」
熱を帯び、嗚咽が混じっていくセルペンスの声。
確かな感情のこもった声だった。一行はそれを聞き、肩の力を抜く。
彼が人間として成長していくのはこれからだ。これから沢山の人々とやりとりをし、楽しい経験や辛い経験を重ねて人間になっていくのだ。ノアやラルカ、周りの仲間に支えられて漸く彼は前に進める。
ソフィアの目に浮かんだのは安堵と寂寥だ。
こうしてまた一人が救われ、未来へ一歩踏み出していく。
ソフィアは金色の星を見上げ、胸に到来する不安を掻き消そうと一つ深呼吸をしてみた。
これでいい。これでいいのだ。
どんな形であれ、みんなが前に進めるのであれば――後腐れなく彼らの元を離れることができるだろうから。
***
「ソフィア」
クローロン村の一角で彼女を呼び止めたのはセラフィだった。
狂乱していた村人たちは皆瘴気から解放されて我に返っていた。これからはこの村で新しい生活を作っていくことだろう。
今日は夜も遅いこともあり、ある民家に泊めてもらうことになったのだ。
「何かしら」
「セルペンス、今の状態でいるってさ」
セラフィが口にしたのはセルペンスが下した決断だ。
彼は念のため、と強引にベッドまで連れて行かれて寝たきり状態で監視されている。主にシェキナからだ。
苦笑いを浮かべつつセラフィからどうするか問われた彼は、穏やかに笑んで即答したという。
「治癒の力で誰かの助けになりたいのは変わらないってさ。それに、ケセラと同じ場所にいきたいって言っていたよ」
未来視をして散っていった彼女の元へ。彼ならば、人間として生き抜いた後に彼女の側に行くことができるだろう。
ソフィアは頷いた。
「そう、彼らしいわ」
彼は自らの結末を思い浮かべている。
それはいいことだ。
「ソフィアはどうする? 君は僕の血を飲もうと思う?」
ふいに飛び出た質問に、ソフィアは視線を逸らした。
血を飲まない選択をしたセルペンスを除き、生きているイミタシアの中でセラフィの血を飲んでいないのはソフィアだけだ。彼女だけが自分の未来を思い描けずにいる。
イミタシア化を解いたとしても、その先は不死の苦しみが待ち受けているだけだ。なら、代償である自我を全て失った上で――誰にも迷惑をかけないどこかで封じられた方がきっと良いだろう。誰かと子を成して死ねる身体になったとしても、子に呪いを継承させたくなかった。
答えることができない。ただ時間だけが過ぎていく。
そんなソフィアにセラフィはふっと微笑んで肩を叩く。
「焦らないで。君が答えを見つけたら教えてくれればそれで良いからさ」
「……ありがとう」
分かっていた。
悩んでいる時間はあまりない。そう遠くないうちに答えを見つけなければならない。
自分だけの最期を、どのように迎えるべきか。
ソフィアは微笑の裏で、震える心をただ飲み込んだ。
久遠のプロメッサ第二部二章 誰が為の蛇 完
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久遠のプロメッサ第二部三章 紅炎の巫覡
突然走り出したセルペンスがラルカを抱きしめるように腕に閉じ込めた瞬間、波紋が広がっていくように風が吹いた。その風に掻き消されるかのごとく、周りの瘴気が薄れていく。
同時に役目を終えた青い炎も消える。
異変に気がついた彼らが確認したときにはもう、セルペンスは意識を失っていた。長身に押しつぶされそうになっているラルカの顔は驚愕か羞恥によるものか定かではないが、熟れたリンゴのように真っ赤に染まっている。
シェキナたちが慌ててセルペンスを支え、大樹の麓に横たえれば、彼は穏やかな寝顔を浮かべている。胸が上下していることからただ眠っているだけのようだ。
その事にラルカがほっと胸をなで下ろす様を見てソフィアは笑む。
アングとのやりとりによって、セルペンスは漸く自分という存在を理解出来たのだろう。
ソフィアは一歩引いて涙を浮かべているラルカを見守った。
そこへ、セラフィが槍を手にしたまま近寄っていく。
「どうするべきだと思う?」
その問いの意味は分かっている。セラフィの血を呑ませるか否か、だ。
クロウの時は彼が大精霊アクアの血を取り込んだ事によってイミタシア化が進行した暴走だった。そのため、彼を鎮めるにはイミタシア化を解くセラフィの血が必須だったのだ。
しかし今回は違う。
今回の件は、セルペンスが蓄積し続けてきた瘴気が感情の暴走によって広がったことで起きたものだ。セラフィの血を取り込むことが直接の解決に繋がるわけではない。
「セルペンスの意志を聞くべきだと思うわ。今の彼ならきっと、彼自分にとって正しい選択ができる。そんな気がする」
「仰せのままに」
わざとらしくセラフィは笑み、視線をラルカの方へと向けた。
少女はセルペンスの傍らに座り、手にしていたヘアピンを彼の髪につけようと四苦八苦していた。納得できる位置につけることが出来ないらしく、頬を更に紅潮させながらムキになっている。その様子を弟アングとノアが彼女の両脇で固唾を呑んで見守り、向かいの位置でシェキナが苦笑していた。クロウはというと、大樹に背を預けて彼らをじっと見下ろしている。
数分の間、そんな状況が続いた。
曇天に覆われた空はやがて晴れ、星が美しい夜空が姿を見せる。そのうちの一つが存在を主張するかのごとく金色に輝いていた。セルペンスのヘアピンと似たような色だ、ソフィアは思う。
「……できた!」
ラルカの声に反応して視線を落とせば、眠るセルペンスの髪をあのヘアピンが綺麗に飾っていた。
よし、とラルカが額に浮かんだ汗を拭ったとき。
深碧の睫毛が震えた。
全員が固唾を呑んで見守る中、紫紺の瞳がゆっくりと顕わになる。僅かな間ぼんやりと焦点の合わなかった視線がやがてラルカを映し、ノアを映し、アングを映し――そして蕩けるような笑顔を浮かべた。
「ふぇぁ」
「ラルカ、変な声出てるよ」
今まで見たこともない表情を目の当たりにして上ずった声をあげるラルカをシェキナがくすくすと笑いながら小突く。
一気に和んだ空気の中身体を起こそうとするセルペンスを支えるのはノアとアングだ。涼しい風が吹く丘を見渡し、彼は穏やかな笑みを浮かべた。
「良かった。みんな無事だった」
「あ、あ、あ、あ、あのあの!」
あわあわと腕をあちらこちらへ動かしていたラルカ――挙動不審だ――は、意を決してセルペンスの袖を引く。彼の意識がこちらに向いたことで小さく悲鳴をあげつつ、少女は勇気を出して口を開いた。
「……前は、ごめんなさい」
「ラルカ……」
「私、貴方に酷いことを言ってしまいました。思い返せば貴方は私を私として見てくれていたのに。私を助けてくれたのは貴方であることは変わりないのに。やってはいけない方法で八つ当たりをしてしまいました。ごめんなさい」
伝えたかったことを少女は確かに声にする。
しがみつきながらも頭を下げる彼女を見て、セルペンスは緩く首を振った。
「良いんだ。真に謝るべきなのは俺だ、ラルカ。でもそれよりも先に――ありがとうを伝えないと」
ラルカは顔を上げる。
焦がれていた微笑みがそこにあった。今までと違う、本物の優しい笑顔だ。彼の本心からの笑みを見て、ラルカは自然に笑顔になる。
しかし、それもすぐに崩れることになる。
しがみついていた少女の華奢な身体を包み込む腕に、驚愕で固まってしまったからだ。温かい腕だ。気がつけば自分の顔のすぐ横に彼の顔が寄せられて、染みついた血の臭いと彼本来の香りが混ざり合ってラルカの鼻孔をくすぐった。
「ふぁ!?」
「ありがとう、俺のために頑張ってくれて。ありがとう、俺の大事なものを見つけてくれて」
自分が抱きしめられている事実に更に更に真っ赤になっていると、染み渡る感謝の言葉が耳元で囁かれる。
「はははは、はい」
ラルカは少し迷い、そして腕を彼の頼りない背に回した。
どきどきと心臓が煩かった。
二人を見ていたノアが便乗しようとするのをアングが首根っこを掴んで引き留める。
ぐえ、と情けない声を出したノアが半目で睨めば、アングはやれやれと肩をすくめた。
「おいおい、男たる者、空気を読まねばならんときもあるのだよ少年。こういう時は黙って見ているのが吉だ」
「えぇー? そういうもんなのか?」
「そうそう、そういうもんだよー」
シェキナからの援護射撃まで食らい、ノアは怪訝そうな顔をしながらも黙らざるを得ない。数歩離れた位置ではセラフィが遠慮なく笑っていたが、シェキナに睨まれてすぐに黙り込んだ。
ソフィアは肩をすくめるだけだ。
「ごめん、ありがとう、みんな……」
熱を帯び、嗚咽が混じっていくセルペンスの声。
確かな感情のこもった声だった。一行はそれを聞き、肩の力を抜く。
彼が人間として成長していくのはこれからだ。これから沢山の人々とやりとりをし、楽しい経験や辛い経験を重ねて人間になっていくのだ。ノアやラルカ、周りの仲間に支えられて漸く彼は前に進める。
ソフィアの目に浮かんだのは安堵と寂寥だ。
こうしてまた一人が救われ、未来へ一歩踏み出していく。
ソフィアは金色の星を見上げ、胸に到来する不安を掻き消そうと一つ深呼吸をしてみた。
これでいい。これでいいのだ。
どんな形であれ、みんなが前に進めるのであれば――後腐れなく彼らの元を離れることができるだろうから。
***
「ソフィア」
クローロン村の一角で彼女を呼び止めたのはセラフィだった。
狂乱していた村人たちは皆瘴気から解放されて我に返っていた。これからはこの村で新しい生活を作っていくことだろう。
今日は夜も遅いこともあり、ある民家に泊めてもらうことになったのだ。
「何かしら」
「セルペンス、今の状態でいるってさ」
セラフィが口にしたのはセルペンスが下した決断だ。
彼は念のため、と強引にベッドまで連れて行かれて寝たきり状態で監視されている。主にシェキナからだ。
苦笑いを浮かべつつセラフィからどうするか問われた彼は、穏やかに笑んで即答したという。
「治癒の力で誰かの助けになりたいのは変わらないってさ。それに、ケセラと同じ場所にいきたいって言っていたよ」
未来視をして散っていった彼女の元へ。彼ならば、人間として生き抜いた後に彼女の側に行くことができるだろう。
ソフィアは頷いた。
「そう、彼らしいわ」
彼は自らの結末を思い浮かべている。
それはいいことだ。
「ソフィアはどうする? 君は僕の血を飲もうと思う?」
ふいに飛び出た質問に、ソフィアは視線を逸らした。
血を飲まない選択をしたセルペンスを除き、生きているイミタシアの中でセラフィの血を飲んでいないのはソフィアだけだ。彼女だけが自分の未来を思い描けずにいる。
イミタシア化を解いたとしても、その先は不死の苦しみが待ち受けているだけだ。なら、代償である自我を全て失った上で――誰にも迷惑をかけないどこかで封じられた方がきっと良いだろう。誰かと子を成して死ねる身体になったとしても、子に呪いを継承させたくなかった。
答えることができない。ただ時間だけが過ぎていく。
そんなソフィアにセラフィはふっと微笑んで肩を叩く。
「焦らないで。君が答えを見つけたら教えてくれればそれで良いからさ」
「……ありがとう」
分かっていた。
悩んでいる時間はあまりない。そう遠くないうちに答えを見つけなければならない。
自分だけの最期を、どのように迎えるべきか。
ソフィアは微笑の裏で、震える心をただ飲み込んだ。
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