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3章 紅炎の巫覡
22 炎姫
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視界に飛び込んできたのは、美しい赤色だった。
燃えるような赤。世界一の庭師が手掛けた最高級の薔薇よりも深く、久しく見ていない鮮やかさが花開く。
こちらを向いた彼女の瞳もまた深い赤色だった。
淡藤と紫水晶はどこかへ消え、身にまとう美しくもおぞましい黒いドレスを身にまとっているせいだろうか、彼女が別人のように見えた。
しかし、こちらを見る安堵と絶望と焦燥が入り混じった表情は彼女本人のもので。
後ろで息をのむ二人が言葉に詰まる中、セラフィは彼女の名前をはっきりと呼んだ。
「ソフィア!!」
***
強い光に視界がくらみ、鮮明になるまでに少しばかり時間がかかってしまう。
ソフィアの隣に浮かんでいた宝石から強い光が発せられたと察した瞬間に瞼を閉ざしていたため、セラフィはなんとか無事でいられた。
くらくらする視界の中、ちら、と何かが横切っていく。これは、火の粉か。
慎重に瞼を押し上げ、辺りの状況を確認する。
そこは一面の、炎の海だった。
何かが燃えているわけではない。玉座の間に飾られた白い絨毯も、タペストリーも、床も壁も何もかもが燃えているわけではないし、せっかくの白を汚す黒い煙が立ち込めているわけでもない。
しかし、空間をぐるりと囲むように炎の壁が聳え立っていた。
肌を焼くような熱気に、嫌でもこれが本物の――現実であると思い知らされる。
視線をつと上へ動かせば、玉座のある高台に立つ彼女の姿が映った。隣にいたはずの悪魔はどこかへ消えている。
彼女は無言のまま階段へ足をかける。
これもまた黒いヒールがかつーん、かつーんと硬質な音を響かせる。長い髪が優雅に揺れた。黒絹の長い裾が床を引きずる。
まるでウエディングドレスのようだな、と現実を認めたくない頭が囁いてくる。黒い花嫁。その手に持っているのは華やかなブーケではなく、黒一色に染まった細身の剣であったが。
衣装が黒いからか、大きく開いた胸元の白さが目を引く。
鎖骨の少しした辺り、まるで精霊のそれのように埋まった三つの宝石にも、もちろん。
彼女は顔を上げた。
そこにいつものクールながら優しい面影はなく、何の感情も感じられない“無”だけがそこにあった。
セラフィは彼女が手にした剣をこちらに向けてくるまで、ついに動けずにいた。
「……そんな」
彼女はソフィアではない。
――狂った炎姫だ。
「……セラフィ! 俺がなんとかする、だから彼女を引き付けてくれないか」
「なんとかって」
「彼女、多分操られてるんだろ? 前の俺みたいに。なら、俺が彼女の心に呼び掛けてみれば」
「いいや、少し違うと思う」
同じように動揺していたが、多少の落ち着きを取り戻したらしいセルペンスが頭を振る。
「ソフィアの心はイミタシアの代償によって徐々に弱りつつあった。そこを付け込まれたんじゃないかな。つまり――今の彼女には、呼びかけに応じる心すら死んでしまったんじゃないか」
セラフィの代償に気を取られていたが、ソフィアの代償もまた恐ろしいものだった。何も考えられない。喜怒哀楽、すべてなくして誰かにぶつけることもできなくて。
それでは、ただの空っぽの器ではないか。
「……いえ。まだ、まだ信じます。弱っているだけでまだ心が残っているかもしれない。まずは僕があの石を破壊します。殿下はその間、ソフィアへ呼び掛けてくださいませんか。セルペンスはそこにいて」
「分かった。俺はセラフィを信じる」
こくりと頷いてから、セラフィは大きく息を吸った。肺が燃えるかのような錯覚が、逃避したい思考を現実へと引き戻してくれる。
銀の槍を強く握りしめ、目の前の相手を見据えた。
以前、ソフィアに助けられたことがある。
それはシアルワ城でのこと。操られたフェリクスの影響を受けたセラフィは意識を朦朧とさせながら仲間へ槍を向けた。
止められなかった自分を解放してくれたのが彼女だったのだ。本調子ではなかったとはいえ、実に鮮やかな剣捌きでセラフィに傷ひとつ付けることなく止めてみせたのだ。
今度は同じ事をセラフィがすれば良いだけ。
そう、それだけだ。
炎姫の足が地から浮く。
瞬時に迫る黒い閃光を受け止めて、力一杯押し返す。多分、炎姫が唯一叶わないのは純粋な力押し。予想通りに後退した乙女を追いかけるように踏み込み、黒剣を狙って槍を突き出す。
しかしそれも踊るように避けられ、それこそ薔薇のように髪が舞う。
次の攻撃が繰り出される前に今度は槍を凪いで距離を取った。
彼女の攻撃は剣を操るだけあって素早い。リーチの長い槍で戦うには、適度に距離を取った方が得策だ。特に、相手をなるべく傷つけたくないような時には。
黒と銀が何度も衝突しては火花を散らす。あまりにも、あまりにも隙がなかった。余計な思考がそぎ落とされたせいか、炎姫の剣戟は一切の無駄がない。いっそ美しいと言えるくらいの舞が、セラフィの心臓を的確に狙ってくる。
「頼む、ソフィア。頑張ってくれ……!」
彼女もきっと戦ってくれていると思うが、人間に神を押しのける力があるものか。
熱せられた冷や汗が額を伝う。
刹那、炎姫様との間に炎の壁が燃え上がる。一瞬怯んだ隙に目の前に黒剣の切っ先が。
「っ!」
ほぼ反射的に身を捻って避けるが、頬に熱が走る。
火の粉に混じって血の雫が飛び散った。
炎の壁を突き破って迫る彼女の、無感情な瞳が揺らいだように見えたのは気のせいだろうか。
揺らぎは隙。見逃すわけには行かない。
彼女の腕を掴み、無我夢中でひきよせる。槍を手放し空いたもう片方の手で胸元に埋まった宝石を掴んだ。つるりとした表面は掴むというには難しい構造をしている。しかし、そんなものを気にしている暇もなどなく。
炎姫様が拒絶するよりも早く、三つのうち、金赤色の宝石にヒビが入った。
残る石にも手を伸ばしたが、それより先に突き飛ばされる方が早かった。剣は手放していないのに、わざわざ手で。やはり彼女は死んでなどいないとセラフィの中で確信の火が灯る。
「ソフィア、起きてくれ……!」
「……」
「大丈夫だから……安心し、」
唐突な不快感。ごほ、とえずくと口の中に溢れる鉄の味。
揺らいでいた炎姫の顔に、明らかな感情が宿った。焦燥、悲嘆、そういった類いの顔だ。
「や……いや!! 見たくない!!」
「ソフィア」
「おいていかれたくない」
セラフィは悟る。
ソフィアの心は生きていた。しかし、同時に彼女の恐怖を呼び覚ましてしまったのだと。元々消えてしまいそうなほど弱っていたそれを、深く傷つけてしまったのだと。
何か言葉をかけようにも血が溢れるせいで「ひゅう」という変な空気の音しか出てこない。
いけない。このままだと、どこかにいるはずのレガリアが今度こそ彼女を殺してしまう。それだけは。
「……やっぱり動かないでいるの無理だ」
そこへ、しびれを切らしたフェリクスが歩み寄る。その手には旗を持ち、石榴石の瞳を輝かせながら炎姫を睨む。
セラフィは気がつく。主君の息はあがり、言葉を発するのも辛そうだ。
必死になって神子の力を使おうとしてくれていたのだな、とふと思った。常時無意識に力を使っているフェリクスだが、意図的に使うことにはまだ慣れていない。それに、彼女の心を動かすのは難しい。相当無理をしたのだろう。同じように近寄ってきていたセルペンスが治療をし始める中、セラフィは頭を垂れた。
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