久遠のプロメッサ 第二部 誓約の九重奏

日ノ島 陽

文字の大きさ
87 / 89
3章 紅炎の巫覡

23 紅炎の巫覡

しおりを挟む
「おいていかないで……」

 縋るような呟きが透明な雫とともにこぼれ落ちた時、セラフィの脳裏にある予感が波紋となって浸透していく。
 自分の発作を見て動揺を顕わにした彼女。神子の呪い。このふたつを利用してしまおう。
 口の端からまだ流れる鮮血を拭うこともせず、顔を上げてソフィアを捉える。
 目の焦点が合っていない。このままでは、本当の意味で彼女の心が死んでしまいかねない。
 その前に“アレ”をやってしまえば、少なくとも強制的な心の死は避けられるかもしれない。しかし、それは逆に彼女の心を壊しかねない行為でもあった。
 逡巡。

 決意。
 セルペンスの治療の甲斐もあり、呼吸も楽になる。
 ふぅ、と深呼吸を一回。それでもなお熱い肺を感じつつ、セラフィは視線を落とす。真っ白な床に広がる赤色。命の証を目の当たりにして次第に鼓動が高まる。胸を穿つ音が一回一回うるさかった。

「セルペンス。ひとつ頼みがあるんだけど」
「なに?」
「代わりに謝っておいてくれないかな。多分、すごく怒られることするから」

 セラフィの傷を癒やしていた緑色の光が消えていく。

「怒られることって」
「これからのお楽しみ」

 誰に、とは言わなかった。
 虚をつかれて言葉を見失うセルペンスの、相変わらず細く骨張った肩を軽く叩いた。地面に転がっていた槍を拾い上げ、ゆっくりと立ち上がる。
 ふっと浮かべた笑みは静かなものだった。

「セラフィ」
「それじゃ、頼んだよ」
「……仕方のない奴」

 長い黒髪を高く結っていた紐を無造作にほどいて捨てた。熱気に舞い上がる前髪をかき上げて、それからセラフィは声を張る。

「陛下!!」
「……あ、セラフィ」
「お待たせいたしました。後はお任せを。あ、そうそう」

 それはまるで、「後でお茶でも持っていきますね」とでもいうような気軽さでセラフィは言う。

「貴方は貴方のなすべきことをどうか忘れないでください。――僕の、いえ、僕らの太陽」

 地面を蹴った。後ろでフェリクスが何かを言っている声が聞こえるが、もう聞く気はない。
 主君の話を無視するなど言語道断。しかし、大親友なのだ。この一回だけは許して欲しかった。そうでないと、揺らいでしまう気がしたから。
 ソフィアから炎姫へと戻りつつある彼女へ、容赦なく槍を叩き込む。
 先ほどは少し遠慮しがちだったが、もう容赦しない。
 再び感情を閉ざした赤色の瞳が槍の軌道を正確に捉え、後退する。そこへ、槍のリーチを利用して大きく身体を回転させた。真横に軌跡を描き迫る穂先。咄嗟に黒剣で防いだ場所から黒白の火花が飛び散る。
 炎姫は黒剣の柄を両手で掴み、ぐいと上へ持ち上げた。その勢いは女性とは思えぬほど強く、槍は上へと弾かれる。
 一歩踏み込まれる。
 のけぞった鼻の先を黒剣の切っ先がかすめた。ふわりと広がる黒髪の何本かが切れて宙を舞い散り、燃えて消える。
 勢いのまま炎姫の腕めがけて蹴り上げ、そのまま後方回転。着地とほぼ同時にもう一度横殴りに槍を振り回す。
 乱暴な戦い方だ。しかし、今度は手応えがある。

 飛び散る赤と、砕ける宝石。
 彼女の胸元に横一線の傷が走り、埋まっていた宝石を砕いたのだ。
 美しい白磁の肌を傷つけてしまった罪悪感とともに自然と笑みが浮かぶ。これで、あとは“アレ”をやれば良い。
 後でいくら謝っても許してもらえなさそうな、そんな“アレ”を。

 つと視線をあげれば、血の他にも赤色が散らばる様子が視界に映り込む。
 髪だ。炎姫の真っ赤な髪がざっくりと切れている。どうやら身を捻って攻撃を避けようとした時に、髪の一部まで切り落としてしまっていたらしい。腰まであった髪の、左側の一部は肩の下くらいにまで短くなっており、ざんばら髪のようになっている。
 せっかく綺麗に伸ばしていた髪だったのに。余計に罪悪感が心に沈み込む。

 痛みを感じていないのか、変わらぬ表情で体勢を立て直した炎姫は血に濡れた手で黒剣を持ち直し、もう一度迫る。

 その攻撃を、セラフィは避けなかった。

 真っ直ぐに突き出された黒剣が腹に沈む。痛いというよりは熱い。
 え、とどこかで誰かが声を漏らした。
 熱さでぶれる視線をどうにか彼女へ向けると、真っ赤な瞳が大きく見開かれる瞬間を写し取る。
 完全に動きが鈍った。
 この好機に、セラフィは槍を切っ先を彼女の薄い腹へと突き刺した。加減が出来たかは定かではない。
 ぐらり、と傾ぐ身体を追いかけて、赤い頭を手で包み込む。倒れる際にぶつかってしまわないように、自らの手を犠牲に衝撃から守ってやる。

 炎姫に覆い被さる形で頽れたセラフィは、体重が彼女にかかってしまわないよう上半身を起こす。
 黒剣の切っ先を背から生やしたまま、腹からはどくどくと命の証が流れ、彼女の腹の傷へと滴り落ちていた。
 セラフィの狙いはこれだった。
 炎姫の攻撃を自ら食らうことで、彼女の隙を再び生み出す。そして、彼女の身体へセラフィの血を流すために彼女も傷つける。
 炎姫は神子だ。それも、カルディナの唯一の直系だ。彼女以外に直系は存在しておらず、それはすなわち不死の呪いが発動していることと同義。
 ならば、彼女は致命傷を負っても死なない。
 ソフィアが忌み嫌っていた呪いと、彼女の本当の気持ち全てを踏みにじった最低最悪の作戦だった。なぜなら、セラフィには兄妹がおり不死の呪いは発動していない。黒剣は内臓にまでしっかり届き、最期に無理な動きをしたせいで傷が大きく広がってしまっていた。今はもう、意識を保つのも難しい。
 炎が揺れる中、二人の紅炎の巫覡が重なりあい、血を溶かす。

「なん、で」
「ごめん、ソフィア。痛いだろうけど、我慢して」

 彼女の腹に刺さった槍を引き抜いて投げ捨てる。長年の相棒だったが、もう使うことはない。
 けほ、と生理的な咳がこみ上げる。口から飛び出た血が、ソフィアの頬を汚した。

「ごめん。残酷な方法で君の願いを穢してしまったね。――こんな僕を、どうか許さないでいて」

 火の粉に混じり、金色の粒子がちらちらと瞬いた。血まみれの腕からそれらが発生しているのを見て、いよいよ限界が近づいていることが嫌でも分かる。
 元々限界だったのだ。
 発作だって、つい昨日来たばかりだった。このままでは一日おきどころか止まらなくなってしまっていたに違いない。そうだとしたら、息も出来ぬまま死ぬ。
 それでは彼女へ、皆へ思いを伝えることが出来ないではないか。そんなのは嫌だ。

 そう、これで良いのだ。
 わなわなと震えているソフィアの頬についた血を拭う。
 代わりに、白磁の肌に自分の血が跡になって残る。

「あいつを倒せなくて、ごめん。君の呪いを解けなくてごめん。何も力になってあげられなかった。助けるって言ったのに。約束、果たせなかった」
「ちが、う……」
「でも君は、幸せでいてほしい。誰も理不尽に苦しまなくても良い世界で、生きて欲しい。輝いてほしい」
「あ……」

 死ぬのは、本当は怖い。やりたいことも沢山あった。
 やっと再会できた兄妹たちと沢山触れ合いたかった。苦楽をともにした仲間たちの生活を感じていたかった。唯一と決めた主君と、その主君が選んだ人が作る未来を一緒に見ていたかった。
 そこまでは言えなかった。
 これはセラフィの自業自得だ。最悪で許されない行為をした罪人にその権利などない。そう思って、一時口を噤む。
 そして懺悔の代わりに、祈りを口にする。

「……君が、もう一度、ちゃんと笑えますように」



***



 発光していた彼の身体から、ふいに力が抜ける。
 しかし、真下にいたはずのソフィアは重さを感じることができなかった。
 互いの身体が触れ合う直前、霧散していくその身体。
 金色の光が彼という存在を連れ去ってしまう。命の輝きが、天高く消えていく。
 無我夢中で腕を伸ばした。助けたいと願ったその命の一欠片でも留められればと思った。
 ――それが叶うわけもなく。真っ赤に濡れた指先を、光はするりとすり抜けていく。哀しいくらいに、綺麗な光景だった。

「……いやだ」

 ひとつ、伝えなきゃいけないことがあったのに。
 人として当たり前の言葉。これまでずっと気にかけてもらっていた。助けてもらったのも事実だ。それに対する言葉を言うべきだった。

「いやだいやだいやだいやだいやだいやだ」

 口から溢れるのはそんな逃避する言葉だけで。
 神器も壊れ、イミタシアの代償も綺麗さっぱり消えた今、感情は残酷なほどに膨らみ続ける。自分が何を口走っているかも理解できないほどに、後悔と逃避と絶望と何もかもがぐちゃぐちゃに混ざり合った何かが喉の奥から絞り出された。

「あぁ、ああぁああぁぁああああぁ」

 血を流しすぎた身体は意識を保つことを許さない。
 このまま死ねればどんなに良かったことか。ソフィアは死んで逃げることが出来ない自分の運命を、これまでの人生の中で最も強く呪った。
 視界も心も意識も漆黒に沈んでいく中、どこか冷静な声が自分に語りかけた。夢で何度も見たもう一人の自分が、いつもの微笑みを消して無感情に唇を動かした。

『――あなたが、彼を殺したの』


***


 炎姫が意識を失うと同時に、物を燃やさぬ不可思議な炎は自然と鎮火していく。
 そしてまた、女王の家臣もまた役目を終えてくずおれた。けたたましい音をたてながらただの甲冑と化した物を怪訝に見下ろし、次いでイミタシアたちは顔を見合わせる。

 こうして神のゆりかごに、嫌な静寂が再び訪れた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました

いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。 子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。 「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」 冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。 しかし、マリエールには秘密があった。 ――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。 未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。 「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。 物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立! 数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。 さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。 一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて―― 「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」 これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、 ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー! ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

悪役令嬢になるのも面倒なので、冒険にでかけます

綾月百花   
ファンタジー
リリーには幼い頃に決められた王子の婚約者がいたが、その婚約者の誕生日パーティーで婚約者はミーネと入場し挨拶して歩きファーストダンスまで踊る始末。国王と王妃に謝られ、贈り物も準備されていると宥められるが、その贈り物のドレスまでミーネが着ていた。リリーは怒ってワインボトルを持ち、美しいドレスをワイン色に染め上げるが、ミーネもリリーのドレスの裾を踏みつけ、ワインボトルからボトボトと頭から濡らされた。相手は子爵令嬢、リリーは伯爵令嬢、位の違いに国王も黙ってはいられない。婚約者はそれでも、リリーの肩を持たず、リリーは国王に婚約破棄をして欲しいと直訴する。それ受け入れられ、リリーは清々した。婚約破棄が完全に決まった後、リリーは深夜に家を飛び出し笛を吹く。会いたかったビエントに会えた。過ごすうちもっと好きになる。必死で練習した飛行魔法とささやかな攻撃魔法を身につけ、リリーは今度は自分からビエントに会いに行こうと家出をして旅を始めた。旅の途中の魔物の森で魔物に襲われ、リリーは自分の未熟さに気付き、国営の騎士団に入り、魔物狩りを始めた。最終目的はダンジョンの攻略。悪役令嬢と魔物退治、ダンジョン攻略等を混ぜてみました。メインはリリーが王妃になるまでのシンデレラストーリーです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

【完結】奇跡のおくすり~追放された薬師、実は王家の隠し子でした~

いっぺいちゃん
ファンタジー
薬草と静かな生活をこよなく愛する少女、レイナ=リーフィア。 地味で目立たぬ薬師だった彼女は、ある日貴族の陰謀で“冤罪”を着せられ、王都の冒険者ギルドを追放されてしまう。 「――もう、草とだけ暮らせればいい」 絶望の果てにたどり着いた辺境の村で、レイナはひっそりと薬を作り始める。だが、彼女の薬はどんな難病さえ癒す“奇跡の薬”だった。 やがて重病の王子を治したことで、彼女の正体が王家の“隠し子”だと判明し、王都からの使者が訪れる―― 「あなたの薬に、国を救ってほしい」 導かれるように再び王都へと向かうレイナ。 医療改革を志し、“薬師局”を創設して仲間たちと共に奔走する日々が始まる。 薬草にしか心を開けなかった少女が、やがて王国の未来を変える―― これは、一人の“草オタク”薬師が紡ぐ、やさしくてまっすぐな奇跡の物語。 ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

誰からも食べられずに捨てられたおからクッキーは異世界転生して肥満令嬢を幸福へ導く!

ariya
ファンタジー
誰にも食べられずゴミ箱に捨てられた「おからクッキー」は、異世界で150kgの絶望令嬢・ロザリンドと出会う。 転生チートを武器に、88kgの減量を導く! 婚約破棄され「豚令嬢」と罵られたロザリンドは、 クッキーの叱咤と分裂で空腹を乗り越え、 薔薇のように美しく咲き変わる。 舞踏会での王太子へのスカッとする一撃、 父との涙の再会、 そして最後の別れ―― 「僕を食べてくれて、ありがとう」 捨てられた一枚が紡いだ、奇跡のダイエット革命! ※カクヨム・小説家になろうでも同時掲載中 ※表紙イラストはAIに作成していただきました。

短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜

美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?

処理中です...