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3章 寂しがり屋のかみさま
4 後悔の森
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***
――いつも、後悔ばかりしていた。
あぁすれば、こうすればと何度も考えた。
過去には戻れない。苦い思いを解き放つ術はない。
そういう思い出がいくつもある彼女にとってこの場所は、二つ目の大きな後悔を思い出させた。
目が覚めると少し埃っぽさのあるベッドの上だった。
辺りを見渡せば見覚えのある景色が広がっている。素朴な木のテーブル。同じ材木の椅子。マグナロアから持ち込んだ木刀の数々。飾り気のない小さな部屋はかつてソフィアの私室として使っていた場所だった。最後に足を踏み入れたのは約一年前の話。床には薄く埃が積もり、足を付ければ靴の跡がくっきりと残る。
その苦く懐かしい場所にソフィアは飛ばされていた。
ふと見た鏡の中に髪の長い自分が映り込んでいる。泡藤色のそれを高く結い上げた自分が、憔悴しきった目でこちらを見ていた。
瞬いた次の瞬間には彼女の姿はもうない。鏡に映っているのは髪を短く切り、片目が赤く染まった今の自分。自分でも意外なことに冷静な顔をしているな、と思った。
「――大丈夫」
自らを奮い立たせると、ソフィアはまず立ち上がることから始める。身体についた埃を叩き落とし、軽く首を振って思考を切り替える。
状況がどうなっているか確かめなくては。
変わらず剣を所持していることを確認し、私室から出て玄関扉に向かう。木製の扉を開け放つと、森特有の湿ったにおいが鼻をくすぐる。夜の森の、土と水のにおい。
人数が少ないこの集落はただでさえ静かだが、今は誰もいないかのように静かだ。建てられた他の家の明かりはなく、人の気配すら感じられない。異様な空気に眉をひそめつつ歩みを進める。
最初に立ち寄った家は無人だ。
次に立ち寄った家も無人だ。
その次に立ち寄った家もまた、同様に。
呼びかけても反応はない。どうやら集落の人々は引き払ってしまったらしい。
それにしては埃があまり積もっていないように感じられたが。
一通り見て回り、住民が誰も彼もいなくなっていることを確認する。
ここには何をすべきなのか示すものはない。何故この森に飛ばされたのか分からないが、ひとまずさっさと出てしまった方が良いだろう。そう判断して、最後に立ち寄った家から出ようとした時。
森の中を歩く人影が在った。
こちらに背を向けてひたひたと遠ざかっていく。
その白い姿に見覚えのあったソフィアは表情を引き締めて後を追う。幸い、彼はゆったりと歩いているだけであるため走らずとも見失わずに済んだ。まさか、自分を誘っているとでも? と警戒心だけが昂ぶっていく。
数分歩いたか、というところで彼は立ち止まった。
やや開けた場所だ。夜空を覆う術式から降り注ぐ光が真っ直ぐ彼を照らし、白金の髪がそれに反射してあえかに煌めく。
なんとなく予感はしていたが、やはり復活を果たしていたようだ。
ソフィアが一歩踏み出せば、その髪が揺れて彼はこちらを振り向く。意外なことに微かに目を見開いたことからソフィアがここにいることを知らなかったらしい。いつもの全てを見透かしたような言動からかけ離れ、少し驚いた顔は初めて見るものだった。
「あぁ――なんと言うべきかな。えっと、久しぶり?」
それも一瞬のこと。すぐに薄い笑みを湛え直した彼――レガリアは軽く首を傾げる。
「どうしてここに?」
「さぁ? 私にも分からないわ。それにしても、ぼんやりしていたようだけれど?」
「ちょっとね、思った以上に靡いてくれなくてね」
何のことか一瞬分からなかったが、すぐに理解する。
ここには二人以外の誰も存在しない以上、レガリアが靡かせようと対話する者は一人しかいない。ソフィアが対象でないならば、その一人は彼の裏側にいるだろうレイに限られる。わざわざ靡く、という言葉を選んでいる辺り存在を消そうとはしていないようだ。
ひとまず安堵する。
「まぁ、そうでしょうね。それにしても、ここの住民達はどこへ?」
「用済みだからお礼を兼ねて直々に消してあげたよ。生きていても邪魔だしね……。逃げた玩具が帰ってきたかと思えばそいつにいきなり殺されるんだ、あいつらの驚いた顔は傑作だったよ。あ、汚い血を浴びたくなかったから何も残さず消したよ。血の臭いも嗅がずに済むし、外観も汚さずに済むし一石二鳥だよね」
さらりと告げられた違和感の真実にソフィアは目を伏せる。彼らは被害者でもあり、レイを傷つけた加害者でもある。おまけに加害に気付くことの出来なかったソフィアがレガリアを真っ直ぐに非難することは憚られた。
故に無言をもって応える。
「ひとつだけ言っておく。僕はあの女の敗北を見届けるまではここにいるよ。せいぜい頑張れば良い、君も見守ってあげなよ」
「あら。のこのこ現れた私を見逃すってこと?」
「君に酷いことをした自覚はあるからね。これくらいはしてあげないと」
「……随分とお優しいことで」
レガリアは微笑むと天を指さす。
「あの女、これから僕の展開したアレを打ち壊すんだってさ。君も協力してあげたらどう?」
「あれが何なのかは分からないけど、良くないものなのね」
「そう。いずれ全ての生命から意志を奪う術式だよ。君が堕ちるのも時間の問題かもね」
「……大がかりね」
「テラとの契約だからね。それよりもあの女に伝えておいてくれる? 僕はここから逃げも隠れもしない。術式の破壊が成ったのならもう一度会おうって。成せばの話だけどさ」
それだけ言うとレガリアは近くの岩に腰掛ける。瞼を閉じてそれきり口を開かなくなってしまった。「ねぇ」と話しかけても黙り込んだまま。夜の風が二人の間を通り抜けていく。
これ以上何も得るものはないと、ソフィアはその場に背を向けた。
森を通り抜けてもなお夜は深いまま。
広い森も道さえ覚えてしまえば抜けるのも容易い。まだここで暮らしていた頃、マグナロアに向かうために何度も通ったのだ。完璧に覚えている。
ソフィアは降り注ぐ星のような煌めきを見上げる。
刹那の感傷が通り過ぎると同時に緩い風が吹き、淡い緑色の光が舞う。
一度瞼を閉じ、それから開くとそこには青漆の髪の大精霊とその腕に抱えられた金髪の少女が地上に降り立つところだった。
大精霊の姿を見て一瞬目を細めたソフィアだが、少女に飛びつかれてその緊張は一瞬にして剥がれることとなった。――その際、あの大精霊ビエントが大切そうに少女を抱えている上に飛び降りた勢いでよろめいている姿など、見たかったような見たくなかったような。
「ソフィア! 無事だった!」
「それはこちらのセリフよ、シャルロット。でもどうしてここに……」
「えっとね、説明しなきゃいけないことが多いんだけどね……」
「立ち話もなんだ、一度戻るぞ。せっかく神子を回収できたことだし、作戦でも立て直すぞ」
「それもそうだね」
シャルロットがソフィアの手を引く。
その自然な動作と笑顔にレガリアの顔が脳裏にチラついた。あの神が憎悪を隠そうともしない少女の、負ける気など一切ない力強い眼光が同時に優しさを伴ってソフィアを見上げる。
この子に勝って欲しいな、と心から思った。
そしてあの子を助けて欲しい、とも。
「そうだ、シャルロット。レガリアから伝言よ」
「え?」
「レガリアはこの森にいる。術式の破壊が成ったのならもう一度会おう……だそうよ」
「そう、ここにいるんだ」
シャルロットは翡翠の瞳を瞬かせると、決然と笑む。表情を一瞬たりとも曇らせず、ただ純粋に。
その分、漲る闘志を張り詰めさせて。
「大丈夫、私は負けないから。レイと約束したもの。私たちはあの人に勝つよ。――もちろん、ソフィアも一緒だよ」
「えぇ、もちろん」
――いつも、後悔ばかりしていた。
あぁすれば、こうすればと何度も考えた。
過去には戻れない。苦い思いを解き放つ術はない。
そういう思い出がいくつもある彼女にとってこの場所は、二つ目の大きな後悔を思い出させた。
目が覚めると少し埃っぽさのあるベッドの上だった。
辺りを見渡せば見覚えのある景色が広がっている。素朴な木のテーブル。同じ材木の椅子。マグナロアから持ち込んだ木刀の数々。飾り気のない小さな部屋はかつてソフィアの私室として使っていた場所だった。最後に足を踏み入れたのは約一年前の話。床には薄く埃が積もり、足を付ければ靴の跡がくっきりと残る。
その苦く懐かしい場所にソフィアは飛ばされていた。
ふと見た鏡の中に髪の長い自分が映り込んでいる。泡藤色のそれを高く結い上げた自分が、憔悴しきった目でこちらを見ていた。
瞬いた次の瞬間には彼女の姿はもうない。鏡に映っているのは髪を短く切り、片目が赤く染まった今の自分。自分でも意外なことに冷静な顔をしているな、と思った。
「――大丈夫」
自らを奮い立たせると、ソフィアはまず立ち上がることから始める。身体についた埃を叩き落とし、軽く首を振って思考を切り替える。
状況がどうなっているか確かめなくては。
変わらず剣を所持していることを確認し、私室から出て玄関扉に向かう。木製の扉を開け放つと、森特有の湿ったにおいが鼻をくすぐる。夜の森の、土と水のにおい。
人数が少ないこの集落はただでさえ静かだが、今は誰もいないかのように静かだ。建てられた他の家の明かりはなく、人の気配すら感じられない。異様な空気に眉をひそめつつ歩みを進める。
最初に立ち寄った家は無人だ。
次に立ち寄った家も無人だ。
その次に立ち寄った家もまた、同様に。
呼びかけても反応はない。どうやら集落の人々は引き払ってしまったらしい。
それにしては埃があまり積もっていないように感じられたが。
一通り見て回り、住民が誰も彼もいなくなっていることを確認する。
ここには何をすべきなのか示すものはない。何故この森に飛ばされたのか分からないが、ひとまずさっさと出てしまった方が良いだろう。そう判断して、最後に立ち寄った家から出ようとした時。
森の中を歩く人影が在った。
こちらに背を向けてひたひたと遠ざかっていく。
その白い姿に見覚えのあったソフィアは表情を引き締めて後を追う。幸い、彼はゆったりと歩いているだけであるため走らずとも見失わずに済んだ。まさか、自分を誘っているとでも? と警戒心だけが昂ぶっていく。
数分歩いたか、というところで彼は立ち止まった。
やや開けた場所だ。夜空を覆う術式から降り注ぐ光が真っ直ぐ彼を照らし、白金の髪がそれに反射してあえかに煌めく。
なんとなく予感はしていたが、やはり復活を果たしていたようだ。
ソフィアが一歩踏み出せば、その髪が揺れて彼はこちらを振り向く。意外なことに微かに目を見開いたことからソフィアがここにいることを知らなかったらしい。いつもの全てを見透かしたような言動からかけ離れ、少し驚いた顔は初めて見るものだった。
「あぁ――なんと言うべきかな。えっと、久しぶり?」
それも一瞬のこと。すぐに薄い笑みを湛え直した彼――レガリアは軽く首を傾げる。
「どうしてここに?」
「さぁ? 私にも分からないわ。それにしても、ぼんやりしていたようだけれど?」
「ちょっとね、思った以上に靡いてくれなくてね」
何のことか一瞬分からなかったが、すぐに理解する。
ここには二人以外の誰も存在しない以上、レガリアが靡かせようと対話する者は一人しかいない。ソフィアが対象でないならば、その一人は彼の裏側にいるだろうレイに限られる。わざわざ靡く、という言葉を選んでいる辺り存在を消そうとはしていないようだ。
ひとまず安堵する。
「まぁ、そうでしょうね。それにしても、ここの住民達はどこへ?」
「用済みだからお礼を兼ねて直々に消してあげたよ。生きていても邪魔だしね……。逃げた玩具が帰ってきたかと思えばそいつにいきなり殺されるんだ、あいつらの驚いた顔は傑作だったよ。あ、汚い血を浴びたくなかったから何も残さず消したよ。血の臭いも嗅がずに済むし、外観も汚さずに済むし一石二鳥だよね」
さらりと告げられた違和感の真実にソフィアは目を伏せる。彼らは被害者でもあり、レイを傷つけた加害者でもある。おまけに加害に気付くことの出来なかったソフィアがレガリアを真っ直ぐに非難することは憚られた。
故に無言をもって応える。
「ひとつだけ言っておく。僕はあの女の敗北を見届けるまではここにいるよ。せいぜい頑張れば良い、君も見守ってあげなよ」
「あら。のこのこ現れた私を見逃すってこと?」
「君に酷いことをした自覚はあるからね。これくらいはしてあげないと」
「……随分とお優しいことで」
レガリアは微笑むと天を指さす。
「あの女、これから僕の展開したアレを打ち壊すんだってさ。君も協力してあげたらどう?」
「あれが何なのかは分からないけど、良くないものなのね」
「そう。いずれ全ての生命から意志を奪う術式だよ。君が堕ちるのも時間の問題かもね」
「……大がかりね」
「テラとの契約だからね。それよりもあの女に伝えておいてくれる? 僕はここから逃げも隠れもしない。術式の破壊が成ったのならもう一度会おうって。成せばの話だけどさ」
それだけ言うとレガリアは近くの岩に腰掛ける。瞼を閉じてそれきり口を開かなくなってしまった。「ねぇ」と話しかけても黙り込んだまま。夜の風が二人の間を通り抜けていく。
これ以上何も得るものはないと、ソフィアはその場に背を向けた。
森を通り抜けてもなお夜は深いまま。
広い森も道さえ覚えてしまえば抜けるのも容易い。まだここで暮らしていた頃、マグナロアに向かうために何度も通ったのだ。完璧に覚えている。
ソフィアは降り注ぐ星のような煌めきを見上げる。
刹那の感傷が通り過ぎると同時に緩い風が吹き、淡い緑色の光が舞う。
一度瞼を閉じ、それから開くとそこには青漆の髪の大精霊とその腕に抱えられた金髪の少女が地上に降り立つところだった。
大精霊の姿を見て一瞬目を細めたソフィアだが、少女に飛びつかれてその緊張は一瞬にして剥がれることとなった。――その際、あの大精霊ビエントが大切そうに少女を抱えている上に飛び降りた勢いでよろめいている姿など、見たかったような見たくなかったような。
「ソフィア! 無事だった!」
「それはこちらのセリフよ、シャルロット。でもどうしてここに……」
「えっとね、説明しなきゃいけないことが多いんだけどね……」
「立ち話もなんだ、一度戻るぞ。せっかく神子を回収できたことだし、作戦でも立て直すぞ」
「それもそうだね」
シャルロットがソフィアの手を引く。
その自然な動作と笑顔にレガリアの顔が脳裏にチラついた。あの神が憎悪を隠そうともしない少女の、負ける気など一切ない力強い眼光が同時に優しさを伴ってソフィアを見上げる。
この子に勝って欲しいな、と心から思った。
そしてあの子を助けて欲しい、とも。
「そうだ、シャルロット。レガリアから伝言よ」
「え?」
「レガリアはこの森にいる。術式の破壊が成ったのならもう一度会おう……だそうよ」
「そう、ここにいるんだ」
シャルロットは翡翠の瞳を瞬かせると、決然と笑む。表情を一瞬たりとも曇らせず、ただ純粋に。
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