3 / 8
黒炎はまだ、名前を持たない
しおりを挟む
黒板にチョークが走る音が響いた。
「今日は、『暁誓騎士団』創設の歴史を扱う」
午前の魔法史の授業。教壇に立つのは、鋭い眼光を持つ中年教師――マクベインだった。
彼の手には分厚い古書、『黒炎録』。表紙には黒と金の刻印があり、年季の入った重厚な魔力が漂っていた。
「諸君らが目指す騎士団――それを築いたのが、この男だ」
マクベインがページを開くと、教室の前方に魔導映像が浮かぶ。
黒い炎をまとった男――ラグナス・ヴォルカノ。その姿が教室中に映し出された。
黒髪に赤いメッシュ、金色の瞳。
傷だらけの黒と赤のコートを纏い、焦土と化した戦場の中心に立っていた。
その右手には、黒く燻んだ指輪――そして、そこから展開された重厚なガントレットが輝いている。
血と炎の中、その男はただ静かに、敵軍を見下ろしていた。
「混沌の時代。魔族との戦争の中、黒炎の魔法を操り、体をボロボロにしながら戦い抜いた男だ。魔力量は規格外だった。だが、制御が困難で――戦うたびに、自分の体が崩れていった」
どよめきが教室を満たす。
「その代償の中でも彼は戦い抜き、仲間を護り、世界を救い、後に暁誓騎士団を創設した。現代の魔法体系の土台を築いた偉人だ」
バク・ノヴァリスは、教科書の挿絵に見入っていた。
ラグナスの黒い炎。その背に揺れるコート。傷だらけでも前を向いていた、あの眼差し。
(……黒炎……)
(あんな魔法を……俺も……)
ルームメイトのアキ・ソラリスが肘でバクの肩を軽く突いた。
「なあ……お前も、案外ああなれんじゃねえか?」
視線の先には、傷だらけのラグナスの挿絵。
「魔力、暴れてんのは一緒だろ?」
「うるさい。授業中よ」
静かに冷たい声が割って入った。
銀髪の少女、リナ・セレスト。Sランク評価の首席生徒だ。
「ラグナスは例外中の例外。彼の魔法は誇るべきものではない。暴走する魔力は、ただの危険因子に過ぎないわ」
マクベインが小さく頷く。
「その通りだ、セレスト。誤魔化してはいかん。確かにラグナスは制御不能の中で戦った。だが、現代ではSランク評価の魔導士が理想だ」
一斉にリナを見る周囲の視線。
リナは髪をかき上げて、それを当然と受け止めた。
「誤差が許される時代じゃないわ。魔法は、完璧であるべきよ」
言葉の鋭さに、バクは拳を握った。
(……それでも)
(あんな炎を……あんな戦い方を……)
≪興味を持ったか、バク≫
ネロの声が脳内に響く。
≪ラグナス。あれは、愚かで面白い男だった≫
(知ってるのか……!?)
≪当然だ。……ま、詳細は後でいい。だが、お前はああなれるか?≫
(なってやるさ)
≪ほう、言ったな。なら、せいぜい内臓を焼く覚悟で励むんだな≫
(……え、内臓? どういう意味だよそれ)
くだらない皮肉に、思わず苦笑する。けれど胸の奥では、何かが静かに熱を帯びていた。
教室の片隅、誰にも聞こえぬ声で交わされた、意思の火花。
それはまだ、形にも名にもなっていない。
だが確かに、その奥底で――何かが、動き始めていた。
午後。演習場。
バクは整列した列の最後尾に立っていた。
訓練場は見渡すかぎりの土の地面が広がり、空には魔力を遮る結界の光がゆらめいている。
昼の陽光の下、炸裂する魔法の余波が乾いた土を巻き上げ、焦げ跡があちこちに残っていた。
「今日の課題は、威力より制御だ。誰がいちばん繊細に火力を抑えられるかが勝負な」
指導に立つのは、演習担当のガク・ザラード。
ボサボサの髪に無精髭という軽薄な風貌の男だが、魔力制御の熟練者である。
「じゃあ、順番に撃っていくか。まぁ、ミスっても気にすんな。結界は頑丈だからな!あ、ただし術者本人は守られないから、そのつもりで」
「えっ」
「ちょ、それヤバくないっすか?」
笑い混じりのどよめきの中で、訓練が始まった。
水、雷、風、氷――それぞれが自分の得意属性で、的に向けて魔法を放っていく。
的に当てるだけではない。必要なのは、適切な出力と安定した発動。
リナ・セレストが完璧な氷槍で的を貫いた瞬間、拍手が自然と湧き起こる。
そして――
「次、バク・ノヴァリス!」
呼ばれた名に、空気が一瞬ざわめいた。
「また暴発するんじゃね?」
「昨日は奇跡だっただけかもな」
そんな声が耳に入っても、バクは歩みを止めなかった。
(わかってる。昨日のは運が良かった)
(今日は、制御してみせる)
≪条件確認。魔力総量、臨界寸前。身体への負荷、限界値を超過≫
(黙って支えろ。ネロ、お前の補助がなきゃ何もできねえんだ)
≪ああ、もちろん。壊れるかもしれないという警告だ≫
≪やるなら、本気でいけ。出力全開でいくぞ≫
バクは右手を前に突き出した。
「……黒炎――煉獄波(れんごくは)!」
かつて『黒炎録』に記された伝説の魔法。その名を借りて、バクは自らの炎にぶつけた。
演習場の空気が、焼け崩れた。
黒炎が唸りを上げ、一直線に標的へと突き進む。空間そのものが軋みを上げ、魔力の奔流が大地を裂いた。
次の瞬間――訓練用の標的が蒸発した。形を保つ暇もなく、粒子のように消え去る。
その背後にあった防音壁が、抉られた。石造りの防壁がもろくも崩れ、深く黒焦げたクレーターを刻む。半径数メートルにわたり、地面は溶け、熱で歪んだ瓦礫が突き刺さるように散乱していた。
≪出力異常。暴走率上昇中――バク、魔力の伝達を切れ!!≫
≪それ以上は、内側から壊れる!!≫
「っ……止まれ……!」
バクは両脚を踏ん張った。暴れる魔力を力任せに押さえ込み、右手に全神経を集中させる。制御を、意志でねじ伏せるように。
だが、黒炎は止まらない。
地面が軋み、結界が明滅する。魔力の余波が拡散し、辺り一帯が黒く焼け爛れていく。
「くそっ、止まれって……!」
血が滲む。口内に鉄の味が広がる。
抑えきれない。だが、それでも足を動かさない。
限界は、突然だった。
全身を駆け巡った灼熱の反動が、右腕から胸へと一気に駆け抜ける。
焼けつくような激痛が肺を貫き、バクは思わず膝をついた。
「――っがはっ!」
口から鮮血が噴き出す。
肺が、喉が、内臓そのものが灼けていくような痛み。
(くそ……まじで、内臓が焼けやがった……)
「きゃあっ!?」「やばい、逃げろ!!」
訓練場が一気に騒然となる。爆熱に煽られ、砂煙が視界を覆う。
「全員! さっさと後退しろ!!」
ガク・ザラードの怒声が響く。瞬時に彼が構えた指先から、厚い魔導障壁が張り巡らされた。
リナが前へ出る。氷の気配が、空気を瞬時に冷やす。
「――極零刃」
展開された氷剣が、黒炎の中心に突き刺さる。
だが、炎は止まらない。周囲を呑み、唸りを上げてなお広がる。
「……チッ」
リナが小さく舌打ちを漏らした。
その瞳に宿るのは、焦りではない。想定外を前にした計算の狂いに対する、冷たい苛立ちだった。
「水魔法使えるやつ!撃ちまくれッ!!」
さらに、ガクの怒声が演習場に響き渡る。
それに応じて、生徒たちが次々と魔力を解き放った。
青白い奔流が、うねる黒炎に容赦なく叩き込まれていく。
「こっちだ、下がれ!!」
アキが土の障壁を展開。近くにいた生徒たちをその背後へと庇うように動かす。
それでも黒炎は暴れ続ける。
バクはその中心で膝をついていた。
焦げた空気、焼ける視界、肺が焼けるような痛み。
(……俺の魔法が……こんなことに……)
全身が痛い。立てない。視界の端で、誰かが叫んでいる。
黒炎は徐々に勢いを失い、氷と水の連携でようやく沈静化していった。
魔導結界の光がゆっくりと消えていく。
リナが、息をつきながら呟く。
「制御不能の魔力……笑えないわね……」
バクは膝をついてる。
右腕が焼けるように痛む。口内に、鉄の味が広がる。
「っ……げほっ……!」
血を吐いた瞬間、胸に鈍い痛みが走った。
その場に崩れ落ちる。
(……届いた。でも……)
(このザマかよ……)
握った拳が、震えていた。
「バク君、大丈夫!?」
砂煙の中から走り寄ってきたのは、黒髪ボブの少女――ユナ・フィオーレだった。
その肩には、淡く光る白い蝶のような精霊〈ルミ〉が止まっている。
バクの顔色を見るや、ユナはすぐに叫んだ。
「ルミ、お願い!」
ルミが羽ばたく。
ふわりと広がる白光がバクを包み、熱を帯びた皮膚が冷まされていく。
無茶しすぎだよ……でも、さっきの黒炎、本当にすごかった……」
「怖かったけど……目を離せなかった。あんな魔法、初めて見たよ」
≪すごい?あれが?≫
ネロの声が呆れと皮肉にまみれて響く。
バクは地面に膝をついたまま、肩で荒く息をしていた。
吐き出された血が、制服に染みていく。
脳裏には、あの一瞬の光景が焼きついていた。
まっすぐに伸びた黒炎。標的を貫き、防音壁を抉った、初めての一撃。
だが、手応えはなかった。喜びもなかった。
ただ、遅れて襲う痛みと、響き続ける悲鳴、焼け焦げた臭いがあった。
「……俺の魔法が……」
口を開いたが、すぐに閉じる。
言葉が、悔しさに喉の奥で潰れた。
届いたのは事実だ。だがそれは魔法ではなかった。
誰かを救う力でも、誰かに誇れるものでもない。
ただの、破壊だった。
(……ちがう。これじゃ、違うんだ……)
その想いが、血の味とともに、奥歯の裏でにじんだ。
ガク・ザラードが、ゆっくりとバクに歩み寄る。
「……よくやった」
低く、静かな声が落ちた。
ガク・ザラードがバクの前に立ち、しばし無言でその姿を見下ろす。
「出力は相変わらずバカみたいに高い。けど――昨日より、ずっとマシだ。狙いも、意志もな」
血を吐き、肩で息をするバクが、顔を上げる。
「……せん、せ……す、すい……っ」
唇が震え、息が詰まり、言葉にならない。
「……倒れるまで撃つな、バカ」
ガクの指先が、軽くバクの額を叩いた。
それだけで、バクは一瞬、目を瞑った。
叱責ではない。ただ、命を懸けるにはまだ早いという――教師としての矜持だった。
そしてそのまま、リナの方へも一礼した。
「セレスト、補助ありがとな。お前のおかげで誰もケガせずに済んだ」
「当然のことをしたまでです」
リナは冷たく言い捨てると、バクに視線を戻す。
「魔力があっても、器がなければ暴走するだけ」
氷のような視線。その瞳に、怒りでも軽蔑でもなく――観察の色が宿っていた。
「……バク・ノヴァリス。あなたの魔力は異常値。それだけは確かよ」
そう言って、彼女は背を向ける。
(クソ……そんなこと、言われなくても……)
ユナが手を握ってくれた。
「すぐ保健室行こう。傷、まだ完全に治ってないから」
「……ああ。ありがとな」
≪――これが今のお前だ≫
(……ああ。わかってる)
歩きながら、バクは自分の右手を見た。
まだ震えている。けれど、その手が確かに放った感触を、忘れはしない。
(これが、俺の現在他……)
保健室のベッドに寝かされたバクは、未だ火照る腕を冷却パックで冷やされながら天井を見上げていた。
≪ようやく落ち着いたか。……まったく、昨日まで暴発もせずに撃てていたのに、このザマだ≫
(昨日と今日じゃ、打ち方が違ったんだよ)
≪違うな。お前の意識が変わった。狙った。通した。制御しようとした。それが結果的に、出力を正面に集中させた。つまり――≫
(魔力の密度が上がった。体にかかる負荷も、跳ね上がった)
≪そういうことだ。魔力量に体が追いついていない。魔法は、ただ放つだけのものではないと知れ≫
「おーいバク、生きてるか?」
保健室のカーテンをめくって、アキ・ソラリスが顔を覗かせた。
「さっきの黒炎、結界まで焦げてたぞ。……無事か?」
「……なんとか。結界の心配かよ」
「いや、お前のだよ。マジで。……でも、すげぇな、あれ。威力だけはラグナス級だな!」
その後ろから、ひときわ静かな足音が近づいた。
「アキ。騒がしい。保健室の規則くらい守りなさい」
「お、おう……リナ……!」
リナ・セレストが、バクの横まで来て立った。目を伏せたまま、落ち着いた声で言う。
「バク・ノヴァリス。あれだけの魔力を持ちながら、なぜ今日まで暴発しかしてこなかったのか……理解しかねるわ」
「……俺も、分かってなかった。ただ強くなりたくて、力をぶっ放すことしか考えてなかった」
リナは数秒の沈黙のあと、意外な言葉を口にした。
「でも、今日の黒炎は違った。意志があった。方向性があった。それは間違いなく成長よ」
「……ただし、体が追いついていない。無理は禁物」
冷たいようでいて、的確な分析。それが彼女なりの気遣いだった。
アキが苦笑いを浮かべた。
「オレも今日は失敗したしな。ゴーレム拳が暴走して壁にめり込んだ」
「お前はいつもだろ……」
「それは言うな!」
三人の空気が、少しだけ柔らかくなったそのとき――バクの目がベッドの横の棚に止まった。
古びた表紙の本が一冊。『黒炎録』――授業で取り上げられた、あのラグナスの記録だった。
「……これ、誰が?」
「置いてあったわ。たぶん、ガク先生が持ってきたんだと思う」
リナが言う。
バクはゆっくりとその本を手に取った。ページをめくる。
そこに――血まみれのコートを翻し、戦場に立つ男の挿絵が描かれていた。
黒と赤のコート。黒煙を背負い、金色の瞳で前を睨む姿。
≪ラグナスか……久しぶりに見たな、その顔≫
ネロが呟く。
(お前、やっぱ知ってるのか)
≪ああ。……バカな男だったよ。力を削ってまで仲間を守り、血反吐を吐いても前に出続けた。お前と同じように、体をボロボロにしながらな≫
(……でも、騎士団を作った)
≪そうだ。暴走気味の魔力を、意志と仲間でねじ伏せた。それが、あの時代の希望だった≫
ページを閉じるバクの手に、力がこもる。
(俺も……なれるかな。ラグナスみたいに)
≪辿る気か? あいつと同じ、バカの道を≫
「ああ。……それしか、知らないから」
その返事に、ネロは何も返さなかった。
夜風が吹いていた。
学園の校庭は灯りを落とし、魔導灯もすでに沈黙している。代わりに、澄み切った月光が静かに地面を照らしていた。空気は冷たく張りつめていたが、そこにただ一人、火を灯そうとしている者がいた。
地面に置かれたロウソクの芯を睨みながら、バクは右手にひたすら魔力を込めていた。
派手な魔法はいらない。
ただ、小さな火種を――この芯に灯すだけ。それだけのはずだった。
……だが。
「っ……!」
指先に溜めた黒炎が、わずかに震え、弾けるように散った。
右手の内側から皮膚を引き裂くような痛みが走る。
「ッ……あ”ぐっ……!」
息が止まった。神経を焼くような痛みが、指先から手首まで突き抜ける。
膝が崩れ、呻きと共に右手を見た。赤黒く変色した皮膚から、焦げた匂いがわずかに立ちのぼる。
ひび割れた指先は、触れるだけで崩れそうだった。
焼けた右手をゆっくり握り込む。
指先は震えていたが、唇だけは強く結んだまま、声を絞り出す。
「……また、失敗か」
≪当然だ。出力を抑えきれていない。それ以前に、お前は灯す魔力を理解していない≫
ネロの声は相変わらず辛辣だったが、そこには明確な分析があった。
「理解してるさ。小さく、静かに――」
≪違うな。お前の魔力は、常に焼き尽くすことを欲している。止まれと言っても走る、走れと言えば爆ぜる。制御ではなく、意志を変えろ≫
「……意志?」
≪火を灯すのと、何かを燃やすのは別物だ。君がその違いを知らないうちは、ロウソクにすら火は点けられない≫
「……くそ……」
焦燥がにじむ。悔しさで喉が詰まる。
≪だが、出力の揺れは以前より安定していた。伝達のタイミングも改善している≫
バクは目を瞬いた。
≪褒めてるんだ。お前にしては上出来だ≫
「……やっぱりお前、性格悪ぃよな……」
≪知ってる。だが、甘やかすだけのAIよりマシだろう?≫
静かな風が吹き抜けた。
すすけたロウソクの芯だけが、微かに熱を帯びていた。
そのときだった。
「……やっぱり、来てた」
その声に、バクは肩をわずかに緊張させた。
振り返ると、そこに立っていたのはユナ・フィオーレだった。
制服ではなく、紺色のパーカーにゆるめのパンツというラフな装い。
黒髪のボブは軽く整えられ、夜気にさらされた肌がほんのり白く浮かび上がって見える。
その胸元は、ゆったりした布越しにも輪郭がわかるほどに豊かだったが――
彼女自身は気にする様子もなく、ただ静かに歩み寄ってきた。
手には、白く揺らめく精霊《ルミ》が寄り添っている。
「ほんとに……無茶しすぎだよ、バク君」
そう言いながら、ユナは彼の隣にしゃがみ込んだ。
「治すね」
ルミがそっと浮き、バクの手元に光を落とす。体の奥に焼きついた痛みが、少しずつ和らいでいく。バクは俯いたまま、ただその光を受け入れた。
「……ありがとな」
その言葉に、ユナは微笑みながら、そっとバクの頬に指を伸ばし、
何も言わずに、軽くつついた。
「……いて!? なんだよ、いきなり」
「ん。ちょっとだけ。罰」
「罰……?」
「バク君、ちょっと顔怖い。考えすぎて、眉間にシワ寄ってるよ」
「……隠してるつもりだったんだけどな」
「ふふ。……でも、ちゃんと努力してるんだね。嬉しかった。さっきの演習も、怖かったけど……目を離せなかった」
バクは、黙ってロウソクを見つめたまま呟いた。
「……あの技。いまはまだ、ラグナスの借り物だ。けど、いつか俺の魔法として……」
ユナの表情が、やわらかくなる。
「うん。……その魔法、きっとまだ名前がないんだよ。だから、バク君が意味を与えてあげて」
「名前がない……」
「ラグナスさんも、最初は名前のない魔法を使ってたと思うよ。……守りたいものができて、初めてその魔法に意味が生まれたんじゃないかな」
ユナの言葉が、ゆっくりと胸の中に落ちてくる。
彼女の声、指先のぬくもり、そして何より――そばにいることが、バクの凍りかけた内心を静かに、優しく、溶かしていった。
「……なあ、ユナ」
「なに?」
「その……俺、まだどうしていいか分かんねぇけど、ちゃんと……前に進んでるよな?」
「うん。ゆっくりでも、ちゃんと進んでるよ」
そう言って、ユナは立ち上がった。
「……あ、それとね。炎の魔法のことなら、相談してみたらどうかな。ルームメイトの子、エマ・クルセアっていうんだけど。すごい子なんだ」
「エマ……?」
「ちょっと口は悪いけど、きっと力になってくれる。話してみて?」
バクは少し驚いたように彼女を見上げ、やがて頷いた。
「……わかった。ありがとな」
ユナは微笑みながら、ふわりと頷いた。
「うん。じゃあ、おやすみ」
軽く手を振り、夜の静けさの中へと歩き出す。
その背中を見送りながら、バクはそっと息を吐いた。
小さく、小さく。火を生み出すために。
(俺の魔法に、名前をつけるために)
その手のひらに、再び黒炎の気配が、ゆっくりと集まっていた。
「今日は、『暁誓騎士団』創設の歴史を扱う」
午前の魔法史の授業。教壇に立つのは、鋭い眼光を持つ中年教師――マクベインだった。
彼の手には分厚い古書、『黒炎録』。表紙には黒と金の刻印があり、年季の入った重厚な魔力が漂っていた。
「諸君らが目指す騎士団――それを築いたのが、この男だ」
マクベインがページを開くと、教室の前方に魔導映像が浮かぶ。
黒い炎をまとった男――ラグナス・ヴォルカノ。その姿が教室中に映し出された。
黒髪に赤いメッシュ、金色の瞳。
傷だらけの黒と赤のコートを纏い、焦土と化した戦場の中心に立っていた。
その右手には、黒く燻んだ指輪――そして、そこから展開された重厚なガントレットが輝いている。
血と炎の中、その男はただ静かに、敵軍を見下ろしていた。
「混沌の時代。魔族との戦争の中、黒炎の魔法を操り、体をボロボロにしながら戦い抜いた男だ。魔力量は規格外だった。だが、制御が困難で――戦うたびに、自分の体が崩れていった」
どよめきが教室を満たす。
「その代償の中でも彼は戦い抜き、仲間を護り、世界を救い、後に暁誓騎士団を創設した。現代の魔法体系の土台を築いた偉人だ」
バク・ノヴァリスは、教科書の挿絵に見入っていた。
ラグナスの黒い炎。その背に揺れるコート。傷だらけでも前を向いていた、あの眼差し。
(……黒炎……)
(あんな魔法を……俺も……)
ルームメイトのアキ・ソラリスが肘でバクの肩を軽く突いた。
「なあ……お前も、案外ああなれんじゃねえか?」
視線の先には、傷だらけのラグナスの挿絵。
「魔力、暴れてんのは一緒だろ?」
「うるさい。授業中よ」
静かに冷たい声が割って入った。
銀髪の少女、リナ・セレスト。Sランク評価の首席生徒だ。
「ラグナスは例外中の例外。彼の魔法は誇るべきものではない。暴走する魔力は、ただの危険因子に過ぎないわ」
マクベインが小さく頷く。
「その通りだ、セレスト。誤魔化してはいかん。確かにラグナスは制御不能の中で戦った。だが、現代ではSランク評価の魔導士が理想だ」
一斉にリナを見る周囲の視線。
リナは髪をかき上げて、それを当然と受け止めた。
「誤差が許される時代じゃないわ。魔法は、完璧であるべきよ」
言葉の鋭さに、バクは拳を握った。
(……それでも)
(あんな炎を……あんな戦い方を……)
≪興味を持ったか、バク≫
ネロの声が脳内に響く。
≪ラグナス。あれは、愚かで面白い男だった≫
(知ってるのか……!?)
≪当然だ。……ま、詳細は後でいい。だが、お前はああなれるか?≫
(なってやるさ)
≪ほう、言ったな。なら、せいぜい内臓を焼く覚悟で励むんだな≫
(……え、内臓? どういう意味だよそれ)
くだらない皮肉に、思わず苦笑する。けれど胸の奥では、何かが静かに熱を帯びていた。
教室の片隅、誰にも聞こえぬ声で交わされた、意思の火花。
それはまだ、形にも名にもなっていない。
だが確かに、その奥底で――何かが、動き始めていた。
午後。演習場。
バクは整列した列の最後尾に立っていた。
訓練場は見渡すかぎりの土の地面が広がり、空には魔力を遮る結界の光がゆらめいている。
昼の陽光の下、炸裂する魔法の余波が乾いた土を巻き上げ、焦げ跡があちこちに残っていた。
「今日の課題は、威力より制御だ。誰がいちばん繊細に火力を抑えられるかが勝負な」
指導に立つのは、演習担当のガク・ザラード。
ボサボサの髪に無精髭という軽薄な風貌の男だが、魔力制御の熟練者である。
「じゃあ、順番に撃っていくか。まぁ、ミスっても気にすんな。結界は頑丈だからな!あ、ただし術者本人は守られないから、そのつもりで」
「えっ」
「ちょ、それヤバくないっすか?」
笑い混じりのどよめきの中で、訓練が始まった。
水、雷、風、氷――それぞれが自分の得意属性で、的に向けて魔法を放っていく。
的に当てるだけではない。必要なのは、適切な出力と安定した発動。
リナ・セレストが完璧な氷槍で的を貫いた瞬間、拍手が自然と湧き起こる。
そして――
「次、バク・ノヴァリス!」
呼ばれた名に、空気が一瞬ざわめいた。
「また暴発するんじゃね?」
「昨日は奇跡だっただけかもな」
そんな声が耳に入っても、バクは歩みを止めなかった。
(わかってる。昨日のは運が良かった)
(今日は、制御してみせる)
≪条件確認。魔力総量、臨界寸前。身体への負荷、限界値を超過≫
(黙って支えろ。ネロ、お前の補助がなきゃ何もできねえんだ)
≪ああ、もちろん。壊れるかもしれないという警告だ≫
≪やるなら、本気でいけ。出力全開でいくぞ≫
バクは右手を前に突き出した。
「……黒炎――煉獄波(れんごくは)!」
かつて『黒炎録』に記された伝説の魔法。その名を借りて、バクは自らの炎にぶつけた。
演習場の空気が、焼け崩れた。
黒炎が唸りを上げ、一直線に標的へと突き進む。空間そのものが軋みを上げ、魔力の奔流が大地を裂いた。
次の瞬間――訓練用の標的が蒸発した。形を保つ暇もなく、粒子のように消え去る。
その背後にあった防音壁が、抉られた。石造りの防壁がもろくも崩れ、深く黒焦げたクレーターを刻む。半径数メートルにわたり、地面は溶け、熱で歪んだ瓦礫が突き刺さるように散乱していた。
≪出力異常。暴走率上昇中――バク、魔力の伝達を切れ!!≫
≪それ以上は、内側から壊れる!!≫
「っ……止まれ……!」
バクは両脚を踏ん張った。暴れる魔力を力任せに押さえ込み、右手に全神経を集中させる。制御を、意志でねじ伏せるように。
だが、黒炎は止まらない。
地面が軋み、結界が明滅する。魔力の余波が拡散し、辺り一帯が黒く焼け爛れていく。
「くそっ、止まれって……!」
血が滲む。口内に鉄の味が広がる。
抑えきれない。だが、それでも足を動かさない。
限界は、突然だった。
全身を駆け巡った灼熱の反動が、右腕から胸へと一気に駆け抜ける。
焼けつくような激痛が肺を貫き、バクは思わず膝をついた。
「――っがはっ!」
口から鮮血が噴き出す。
肺が、喉が、内臓そのものが灼けていくような痛み。
(くそ……まじで、内臓が焼けやがった……)
「きゃあっ!?」「やばい、逃げろ!!」
訓練場が一気に騒然となる。爆熱に煽られ、砂煙が視界を覆う。
「全員! さっさと後退しろ!!」
ガク・ザラードの怒声が響く。瞬時に彼が構えた指先から、厚い魔導障壁が張り巡らされた。
リナが前へ出る。氷の気配が、空気を瞬時に冷やす。
「――極零刃」
展開された氷剣が、黒炎の中心に突き刺さる。
だが、炎は止まらない。周囲を呑み、唸りを上げてなお広がる。
「……チッ」
リナが小さく舌打ちを漏らした。
その瞳に宿るのは、焦りではない。想定外を前にした計算の狂いに対する、冷たい苛立ちだった。
「水魔法使えるやつ!撃ちまくれッ!!」
さらに、ガクの怒声が演習場に響き渡る。
それに応じて、生徒たちが次々と魔力を解き放った。
青白い奔流が、うねる黒炎に容赦なく叩き込まれていく。
「こっちだ、下がれ!!」
アキが土の障壁を展開。近くにいた生徒たちをその背後へと庇うように動かす。
それでも黒炎は暴れ続ける。
バクはその中心で膝をついていた。
焦げた空気、焼ける視界、肺が焼けるような痛み。
(……俺の魔法が……こんなことに……)
全身が痛い。立てない。視界の端で、誰かが叫んでいる。
黒炎は徐々に勢いを失い、氷と水の連携でようやく沈静化していった。
魔導結界の光がゆっくりと消えていく。
リナが、息をつきながら呟く。
「制御不能の魔力……笑えないわね……」
バクは膝をついてる。
右腕が焼けるように痛む。口内に、鉄の味が広がる。
「っ……げほっ……!」
血を吐いた瞬間、胸に鈍い痛みが走った。
その場に崩れ落ちる。
(……届いた。でも……)
(このザマかよ……)
握った拳が、震えていた。
「バク君、大丈夫!?」
砂煙の中から走り寄ってきたのは、黒髪ボブの少女――ユナ・フィオーレだった。
その肩には、淡く光る白い蝶のような精霊〈ルミ〉が止まっている。
バクの顔色を見るや、ユナはすぐに叫んだ。
「ルミ、お願い!」
ルミが羽ばたく。
ふわりと広がる白光がバクを包み、熱を帯びた皮膚が冷まされていく。
無茶しすぎだよ……でも、さっきの黒炎、本当にすごかった……」
「怖かったけど……目を離せなかった。あんな魔法、初めて見たよ」
≪すごい?あれが?≫
ネロの声が呆れと皮肉にまみれて響く。
バクは地面に膝をついたまま、肩で荒く息をしていた。
吐き出された血が、制服に染みていく。
脳裏には、あの一瞬の光景が焼きついていた。
まっすぐに伸びた黒炎。標的を貫き、防音壁を抉った、初めての一撃。
だが、手応えはなかった。喜びもなかった。
ただ、遅れて襲う痛みと、響き続ける悲鳴、焼け焦げた臭いがあった。
「……俺の魔法が……」
口を開いたが、すぐに閉じる。
言葉が、悔しさに喉の奥で潰れた。
届いたのは事実だ。だがそれは魔法ではなかった。
誰かを救う力でも、誰かに誇れるものでもない。
ただの、破壊だった。
(……ちがう。これじゃ、違うんだ……)
その想いが、血の味とともに、奥歯の裏でにじんだ。
ガク・ザラードが、ゆっくりとバクに歩み寄る。
「……よくやった」
低く、静かな声が落ちた。
ガク・ザラードがバクの前に立ち、しばし無言でその姿を見下ろす。
「出力は相変わらずバカみたいに高い。けど――昨日より、ずっとマシだ。狙いも、意志もな」
血を吐き、肩で息をするバクが、顔を上げる。
「……せん、せ……す、すい……っ」
唇が震え、息が詰まり、言葉にならない。
「……倒れるまで撃つな、バカ」
ガクの指先が、軽くバクの額を叩いた。
それだけで、バクは一瞬、目を瞑った。
叱責ではない。ただ、命を懸けるにはまだ早いという――教師としての矜持だった。
そしてそのまま、リナの方へも一礼した。
「セレスト、補助ありがとな。お前のおかげで誰もケガせずに済んだ」
「当然のことをしたまでです」
リナは冷たく言い捨てると、バクに視線を戻す。
「魔力があっても、器がなければ暴走するだけ」
氷のような視線。その瞳に、怒りでも軽蔑でもなく――観察の色が宿っていた。
「……バク・ノヴァリス。あなたの魔力は異常値。それだけは確かよ」
そう言って、彼女は背を向ける。
(クソ……そんなこと、言われなくても……)
ユナが手を握ってくれた。
「すぐ保健室行こう。傷、まだ完全に治ってないから」
「……ああ。ありがとな」
≪――これが今のお前だ≫
(……ああ。わかってる)
歩きながら、バクは自分の右手を見た。
まだ震えている。けれど、その手が確かに放った感触を、忘れはしない。
(これが、俺の現在他……)
保健室のベッドに寝かされたバクは、未だ火照る腕を冷却パックで冷やされながら天井を見上げていた。
≪ようやく落ち着いたか。……まったく、昨日まで暴発もせずに撃てていたのに、このザマだ≫
(昨日と今日じゃ、打ち方が違ったんだよ)
≪違うな。お前の意識が変わった。狙った。通した。制御しようとした。それが結果的に、出力を正面に集中させた。つまり――≫
(魔力の密度が上がった。体にかかる負荷も、跳ね上がった)
≪そういうことだ。魔力量に体が追いついていない。魔法は、ただ放つだけのものではないと知れ≫
「おーいバク、生きてるか?」
保健室のカーテンをめくって、アキ・ソラリスが顔を覗かせた。
「さっきの黒炎、結界まで焦げてたぞ。……無事か?」
「……なんとか。結界の心配かよ」
「いや、お前のだよ。マジで。……でも、すげぇな、あれ。威力だけはラグナス級だな!」
その後ろから、ひときわ静かな足音が近づいた。
「アキ。騒がしい。保健室の規則くらい守りなさい」
「お、おう……リナ……!」
リナ・セレストが、バクの横まで来て立った。目を伏せたまま、落ち着いた声で言う。
「バク・ノヴァリス。あれだけの魔力を持ちながら、なぜ今日まで暴発しかしてこなかったのか……理解しかねるわ」
「……俺も、分かってなかった。ただ強くなりたくて、力をぶっ放すことしか考えてなかった」
リナは数秒の沈黙のあと、意外な言葉を口にした。
「でも、今日の黒炎は違った。意志があった。方向性があった。それは間違いなく成長よ」
「……ただし、体が追いついていない。無理は禁物」
冷たいようでいて、的確な分析。それが彼女なりの気遣いだった。
アキが苦笑いを浮かべた。
「オレも今日は失敗したしな。ゴーレム拳が暴走して壁にめり込んだ」
「お前はいつもだろ……」
「それは言うな!」
三人の空気が、少しだけ柔らかくなったそのとき――バクの目がベッドの横の棚に止まった。
古びた表紙の本が一冊。『黒炎録』――授業で取り上げられた、あのラグナスの記録だった。
「……これ、誰が?」
「置いてあったわ。たぶん、ガク先生が持ってきたんだと思う」
リナが言う。
バクはゆっくりとその本を手に取った。ページをめくる。
そこに――血まみれのコートを翻し、戦場に立つ男の挿絵が描かれていた。
黒と赤のコート。黒煙を背負い、金色の瞳で前を睨む姿。
≪ラグナスか……久しぶりに見たな、その顔≫
ネロが呟く。
(お前、やっぱ知ってるのか)
≪ああ。……バカな男だったよ。力を削ってまで仲間を守り、血反吐を吐いても前に出続けた。お前と同じように、体をボロボロにしながらな≫
(……でも、騎士団を作った)
≪そうだ。暴走気味の魔力を、意志と仲間でねじ伏せた。それが、あの時代の希望だった≫
ページを閉じるバクの手に、力がこもる。
(俺も……なれるかな。ラグナスみたいに)
≪辿る気か? あいつと同じ、バカの道を≫
「ああ。……それしか、知らないから」
その返事に、ネロは何も返さなかった。
夜風が吹いていた。
学園の校庭は灯りを落とし、魔導灯もすでに沈黙している。代わりに、澄み切った月光が静かに地面を照らしていた。空気は冷たく張りつめていたが、そこにただ一人、火を灯そうとしている者がいた。
地面に置かれたロウソクの芯を睨みながら、バクは右手にひたすら魔力を込めていた。
派手な魔法はいらない。
ただ、小さな火種を――この芯に灯すだけ。それだけのはずだった。
……だが。
「っ……!」
指先に溜めた黒炎が、わずかに震え、弾けるように散った。
右手の内側から皮膚を引き裂くような痛みが走る。
「ッ……あ”ぐっ……!」
息が止まった。神経を焼くような痛みが、指先から手首まで突き抜ける。
膝が崩れ、呻きと共に右手を見た。赤黒く変色した皮膚から、焦げた匂いがわずかに立ちのぼる。
ひび割れた指先は、触れるだけで崩れそうだった。
焼けた右手をゆっくり握り込む。
指先は震えていたが、唇だけは強く結んだまま、声を絞り出す。
「……また、失敗か」
≪当然だ。出力を抑えきれていない。それ以前に、お前は灯す魔力を理解していない≫
ネロの声は相変わらず辛辣だったが、そこには明確な分析があった。
「理解してるさ。小さく、静かに――」
≪違うな。お前の魔力は、常に焼き尽くすことを欲している。止まれと言っても走る、走れと言えば爆ぜる。制御ではなく、意志を変えろ≫
「……意志?」
≪火を灯すのと、何かを燃やすのは別物だ。君がその違いを知らないうちは、ロウソクにすら火は点けられない≫
「……くそ……」
焦燥がにじむ。悔しさで喉が詰まる。
≪だが、出力の揺れは以前より安定していた。伝達のタイミングも改善している≫
バクは目を瞬いた。
≪褒めてるんだ。お前にしては上出来だ≫
「……やっぱりお前、性格悪ぃよな……」
≪知ってる。だが、甘やかすだけのAIよりマシだろう?≫
静かな風が吹き抜けた。
すすけたロウソクの芯だけが、微かに熱を帯びていた。
そのときだった。
「……やっぱり、来てた」
その声に、バクは肩をわずかに緊張させた。
振り返ると、そこに立っていたのはユナ・フィオーレだった。
制服ではなく、紺色のパーカーにゆるめのパンツというラフな装い。
黒髪のボブは軽く整えられ、夜気にさらされた肌がほんのり白く浮かび上がって見える。
その胸元は、ゆったりした布越しにも輪郭がわかるほどに豊かだったが――
彼女自身は気にする様子もなく、ただ静かに歩み寄ってきた。
手には、白く揺らめく精霊《ルミ》が寄り添っている。
「ほんとに……無茶しすぎだよ、バク君」
そう言いながら、ユナは彼の隣にしゃがみ込んだ。
「治すね」
ルミがそっと浮き、バクの手元に光を落とす。体の奥に焼きついた痛みが、少しずつ和らいでいく。バクは俯いたまま、ただその光を受け入れた。
「……ありがとな」
その言葉に、ユナは微笑みながら、そっとバクの頬に指を伸ばし、
何も言わずに、軽くつついた。
「……いて!? なんだよ、いきなり」
「ん。ちょっとだけ。罰」
「罰……?」
「バク君、ちょっと顔怖い。考えすぎて、眉間にシワ寄ってるよ」
「……隠してるつもりだったんだけどな」
「ふふ。……でも、ちゃんと努力してるんだね。嬉しかった。さっきの演習も、怖かったけど……目を離せなかった」
バクは、黙ってロウソクを見つめたまま呟いた。
「……あの技。いまはまだ、ラグナスの借り物だ。けど、いつか俺の魔法として……」
ユナの表情が、やわらかくなる。
「うん。……その魔法、きっとまだ名前がないんだよ。だから、バク君が意味を与えてあげて」
「名前がない……」
「ラグナスさんも、最初は名前のない魔法を使ってたと思うよ。……守りたいものができて、初めてその魔法に意味が生まれたんじゃないかな」
ユナの言葉が、ゆっくりと胸の中に落ちてくる。
彼女の声、指先のぬくもり、そして何より――そばにいることが、バクの凍りかけた内心を静かに、優しく、溶かしていった。
「……なあ、ユナ」
「なに?」
「その……俺、まだどうしていいか分かんねぇけど、ちゃんと……前に進んでるよな?」
「うん。ゆっくりでも、ちゃんと進んでるよ」
そう言って、ユナは立ち上がった。
「……あ、それとね。炎の魔法のことなら、相談してみたらどうかな。ルームメイトの子、エマ・クルセアっていうんだけど。すごい子なんだ」
「エマ……?」
「ちょっと口は悪いけど、きっと力になってくれる。話してみて?」
バクは少し驚いたように彼女を見上げ、やがて頷いた。
「……わかった。ありがとな」
ユナは微笑みながら、ふわりと頷いた。
「うん。じゃあ、おやすみ」
軽く手を振り、夜の静けさの中へと歩き出す。
その背中を見送りながら、バクはそっと息を吐いた。
小さく、小さく。火を生み出すために。
(俺の魔法に、名前をつけるために)
その手のひらに、再び黒炎の気配が、ゆっくりと集まっていた。
0
あなたにおすすめの小説
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
思いを込めてあなたに贈る
あんど もあ
ファンタジー
ファナの母が亡くなった二ヶ月後に、父は新しい妻とその妻との間に生まれた赤ん坊を家に連れて来た。義母は、お前はもうこの家の後継者では無いと母から受け継いだ家宝のネックレスを奪うが、そのネックレスは……。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
伯爵家の三男に転生しました。風属性と回復属性で成り上がります
竹桜
ファンタジー
武田健人は、消防士として、風力発電所の事故に駆けつけ、救助活動をしている途中に、上から瓦礫が降ってきて、それに踏み潰されてしまった。次に、目が覚めると真っ白な空間にいた。そして、神と名乗る男が出てきて、ほとんど説明がないまま異世界転生をしてしまう。
転生してから、ステータスを見てみると、風属性と回復属性だけ適性が10もあった。この世界では、5が最大と言われていた。俺の異世界転生は、どうなってしまうんだ。
「雑草係」と追放された俺、スキル『草むしり』でドラゴンも魔王も引っこ抜く~極めた園芸スキルは、世界樹すら苗木扱いする神の力でした~
eringi
ファンタジー
「たかが雑草を抜くだけのスキルなんて、勇者パーティには不要だ!」
王立アカデミーを首席で卒業したものの、発現したスキルが『草むしり』だった少年・ノエル。
彼は幼馴染の勇者に見下され、パーティから追放されてしまう。
失意のノエルは、人里離れた「魔の森」で静かに暮らすことを決意する。
しかし彼は知らなかった。彼のスキル『草むしり』は、対象を「不要な雑草」と認識すれば、たとえドラゴンであろうと古代兵器であろうと、根こそぎ引っこ抜いて消滅させる即死チートだったのだ。
「あれ? この森の雑草、ずいぶん頑丈だな(ドラゴンを引っこ抜きながら)」
ノエルが庭の手入れをするだけで、Sランク魔物が次々と「除草」され、やがて森は伝説の聖域へと生まれ変わっていく。
その実力に惹かれ、森の精霊(美女)や、亡国の女騎士、魔王の娘までもが彼の「庭」に集まり、いつしかハーレム状態に。
一方、ノエルを追放した勇者たちは、ダンジョンの茨や毒草の処理ができずに進行不能となり、さらにはノエルが密かに「除草」していた強力な魔物たちに囲まれ、絶望の淵に立たされていた。
「ノエル! 戻ってきてくれ!」
「いや、いま家庭菜園が忙しいんで」
これは、ただ庭いじりをしているだけの少年が、無自覚に世界最強に至る物語。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる