もう死神を殺すこともできないのに

柴刈 煙

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 その夜、オーナーは俺に半分ほど残った煙草をくれた。でも、結局セックスはしてくれなかった。

 チョウチョの死体を運ぶついでに、彼は俺をマンションまで送ってくれた。おやすみ、って云う顔がやっぱり綺麗で、せめてキスだけでもって思ったけど。顔を近付けたら笑って、鼻先を擦りつけられただけだった。

「あとで電話する」
「じゃ、俺起きてるね」

 そう云ってオーナーの車を見送って、部屋に戻った。電話を待つのに、先にシャワーだけ済ませた。
 それから電話が来るまで、携帯に充電器を差し込んだまま動画を見て時間を潰した。一時間ちょっと経った頃にふと思い立って、音楽を聴きながらベランダで煙草に火を点けた。

 重たい白い煙が、曇った夜空に解ける。細く長く、吸った煙を吹き出している時、音楽が途切れて着信音が鳴った。
 画面をスライドして、もしもし、と応じる。

『起きてた?』

 夜中に電話してくる恋人みたいなオーナーの言葉に、頬が緩む。

「うん。オーナーは」
『蝶の処理を済ませたところだ』

 ざぶん、と、彼の言葉の最後を邪魔する音が聞こえた。俺は咥えていた煙草を口から離して訊ねる。

「ね、波の音が聞こえる」
『だろうね。海にいる』
「そっか。俺は、煙草吸ってるよ」

 カサ、と、蜘蛛が耳元まで上ってくる。本当にこいつは、分かり易く尻尾を振る。

「チョウチョ、海に投げたの?」
『いや。そっちは、業者に任せた』

 業者。なんかヤクザみたいな響きだ。

「じゃあなんで?」

 ふ、と吐息のようにオーナーが笑う。ぴり、と耳元の毒蜘蛛が痛む。ぞわりとした。その甘さが、急に不安に変わって、俺の中で膨らむ。

「オーナー、」
『大丈夫だよ。俺が、君の中から消えるだけだ』
「やだ。ねえ、ちょっと、止めてよ」
『他人の消失に嘆かないで。そもそも『俺』と君は知り合いですらなかった。君は、『俺』の名前さえ知らないだろう? 私の代わりは、ちゃんと用意しておいたから。明日からも、『小鳥居尊』は君の傍にいる』
「オーナーはアンタだけでしょ! 俺が好きになったのは、アンタの、その偽者で……」

 カッコいい大人で。狡い大人で。綺麗な大人で。女にだらしない大人で。
 でも、それは全部本物じゃなくって。実体のある虚像で、空洞で。
 その上で好きになった。そうやって騙されるのを、自分で選んだ。
 でも、いざ言葉にすると、凄く虚しい。ニセモノ。全部、俺の恋全部、ニセモノ。

『君は、誰に恋をしていたんだ?』

 笑いを含んだ声。何がおかしいの。なんで笑ってるの。俺のこと。
 騙された方が悪いって? 滑稽な奴って? なんだよ。だって。

「……だって、そんなにカッコいい、オーナーが悪いんじゃん」

 声が震えた。また、涙が出てきた。

『最期に、君の声が聞きたかったんだ。倫』

 首を振る。見えてないんだろうけど。その、とびきり甘い声に、反抗する。

「お願いオーナー。俺を置いてかないで」
『まさか。私はここで立ち止まるだけだ。私を置いて行くのは、君だ』
「それも一之瀬涼のためなの?」

 少し、オーナーは黙る。図星をつかれた時、やっぱり彼は黙る。

「……オーナーは、なんでそいつにこだわるの」
『彼が、私より先に死んだから』
「そんなの、オーナーには関係ないじゃん。家族でも、恋人でもないのに」
『でも、友達だ。俺は彼のために人を殺せる』
「俺のためにチョウチョを殺したでしょ。それでもまだ、俺より一之瀬涼の方が大事なの?」
『大事だよ。この敬愛は決して恋には負けない。だから、俺は今から死ぬんだ』

 はっきりと振られた気がした。もう、二度と手が届かないんだって思った。

「俺より可愛いの?」

 そこだけが彼から見て、一之瀬涼と俺が並んだところだ。
 電話の向こうで、彼が笑う。波にさらわれる甘い吐息で、そうだな、と呟く。

『やっぱり、君の方が可愛い。でもやっぱり、一之瀬涼の方が、どうしようもなく綺麗なんだ』

 ああ、ああ。そう。そっか。
 もう、その言葉も声にならなかった。溢れる涙が言葉を詰まらせる。

『君が思うほど、俺は綺麗じゃない。でもそれなりに私は君が好きだから、私で汚れないようにキスもセックスもしなかったし、人を殺させなかった。……でも、俺たちの友情がそれより強かっただけだ。そもそも何年も共にいた親友との愛情に、ぽっと出の恋が敵うわけないだろう? 俺は、恋愛よりも友愛に落ちたいだけだよ』

 勝てるわけなかったんだ。元々、俺には。だってこの人は、可愛いものよりも、綺麗なものを好むんだから。
 だから、一之瀬涼みたいに明確に、『愛してる』って云わないんだ。一度も。

『君は俺に騙されてはいけない。こちら側に来てはいけない。どうかそのまま、君は美しいままでいてくれ』

 空気が喉に詰まる。電話の向こうで、彼の革靴が地面を蹴った音がした。
 ごうって、早い空気の流れ。落下する音。それを聞きながら、待って、待って、とうわ言みたいに呟く。
 倫、と俺を呼ぶ、吐息を含んだ声が、俺の言葉を止める。

『……俺は悪い男だ。だから君を愛さないことが、君への最大限の愛なんだよ』

 落下。水に飛び込む音。微かに聞こえる泡の音。彼の体が沈む音。不意に、ぷつっと電話が切れる。





 ベランダの手すりにもたれて、俺は残りの煙草を吸った。妙に頭は冷静だった。
 ああ、悔しいな、って思った。別に、一之瀬涼に負けたことじゃない。いやそれもあるんだけど。

 煙みたいに。火のすぐ近くの揺らめきは見えるのに。上がるのをちゃんと目で追いかけて、縋っても。その形を覚えていたはずなのに。掠れて、空気に溶けるように消えていく。

 どうして。どうして。あんなに好きだったのに。死んだ途端、もうはっきり思い出せない。あの人の顔を。声を。匂いだけ、微かに煙草に染みて残っているけど。煙と俺の香水に紛れて、すぐに消えていってしまう。

 俺は口の端から煙草を外して、ベランダの床に押し付ける。それがちょうど立ったから、俺はしゃがみ込んで、両手を合わせた。
 これが、彼の墓石。残った煙が線香。南無阿弥陀仏。さようなら。

 その墓には、誰の名前も刻まれていない。


【終わり】
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