Ω令息は、αの旦那様の溺愛をまだ知らない

仁茂田もに

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番外編

とある伯爵夫人の巣作り 1

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 ――足りない……。

 ぼんやりとした意識の中、ふとユーリスはそう思った。
 身体の奥に燻るような熱を感じて、自室の寝台の上で横になっていたときのことだった。

 十五歳で初めての発情期を迎えてから、もう十年以上もオメガ性と付き合ってきた。定期的に訪れる発情期の直前には胎の奥に熾火のような熱が灯る。それを合図に発情期の準備に入るのが、ユーリスの常だった。

 最近、ともにとるようになった朝食の席で、ギルベルトに発情期が近いことを伝えた。
 おそらく、今日明日中には来るだろうとアデルへ休みの言づけを頼めば、彼はこれから一週間の都合をつけて来ると言って仕事へと向かった。出来るだけ早く帰ってくる、と額に口づけられて、さらに熱が上がった気がしたのは気のせいではないだろう。

 長いこと不仲だと思っていた自分たち夫夫が、盛大にすれ違っていただけだと分かったのが先月のことだ。言葉を交わし、想いを伝えあうことで、ユーリスは自分がどれほどギルベルトのことを慕っているのかを伝えたし、ギルベルトがどれほど自分のことを愛しているのかを知ることが出来た。

 その結果、自分たちの距離はぐっと縮まり、ギルベルトはぎこちないながらもユーリスに触れてくるようになった。普段はその優しい指先が嬉しくて、胸が高鳴る。温かな眼差しや愛おしむような唇が、ただ好ましいだけだった。

 けれど、発情期の前に与えられるそれらは、まるで甘い毒のようにユーリスの心と身体を侵食するのだ。番を求めるオメガの身体は、その熱にひどく過敏に反応するのだと、このときユーリスは初めて知った。

 早く触れて欲しくて、早く身体を暴いて欲しくて身体は性急にその熱を上げていく。
 前兆を感じて本格的な発情期に入るのに短くても半日、いつもであれば一日ほどの猶予があった。しかし、気が付けば理性はどろどろに溶けていて、本格的な発情期が到来していた。
 そんな耐え難い疼きと熱にひとりで悶えているとき、ユーリスは思ったのだ。

 ――足りない、と。

 けれど、一体何が足りないというのだろうか。
 ここはユーリスの部屋で、発情期はいつもここで過ごす。この部屋で待っていれば、番は間違いなく自分を抱きにやって来るというのに。

 そう思うのに、どうしても何かが足りなくて落ち着かない。まるで心の中に大きな穴が開いてしまったようなのだ。その穴を埋める何かが欲しくて、ユーリスはふらりと上体を起こした。

 頬は上気し、熱に浮かされた瞳は蕩けそうなほどに潤んでいた。
 とてもじゃないが、このときのユーリスは人前に出られる格好ではなかった。しかし、それを判断する思考すらも情欲に侵され、どこかへ行ってしまうのが発情期なのだ。

 寝台から降りて、ユーリスは辺りを見渡した。そして、すぐにそれを理解する。

 ――ここじゃない。

 そう、ここではないのだ。
 ユーリスが求める「巣」はここではない。そもそもここには「材料」が何もない。
 重たい身体を引きずって、ユーリスは扉へと向かう。
 どこに行けばいいのかは分かっていた。

 ――あそこ。あそこなら、きっとたくさんある。

 ふらふらと歩きだしたユーリスを、止める者は誰もいなかった。

 愛しい愛しい番の、大好きな匂い。
 あの人が帰ってくる前に、ちゃんと立派な巣を作らないと。

 そう強く感じたのを最後に、ユーリスの意識はぶつりと途切れた。
 はっきりと覚醒したのは発情期が終わった後で、ユーリスは自分がやらかした恥ずかしい行為にひとりで悶える羽目になったのだった。




 ギルベルトが帰って来たとき、屋敷の中は騒然としていた。
 ローゼンシュタイン伯爵邸の本館。正面玄関から入れば、広々としたホールと二階に続く階段がある。翼を広げた鳥のように左右に広がる階段の下や上を、使用人たちがばたばたと走り回っているのだ。普段であれば静かすぎるくらいに落ち着いているローゼンシュタイン邸の使用人たちが、あろうことか主人の帰宅にも気づいていない有様だ。

 番であるユーリスの発情期が始まったと聞いて、急いで仕事を片付けてきたというのにこれはどういうことだろうか。

 眉を寄せて立つ主人の帰宅にいち早く気づいたのは、家令であるオットーだった。
 オットーはギルベルトが生まれる前から屋敷に勤める使用人で、最も信頼を寄せる使用人だった。

「ギルベルト様」
「何かあったのか?」
「それが……」

 オットーは困惑したように眉を寄せた。そして申し訳なさそうに口にしたのは、ユーリスがいなくなったということだった。

「いなくなった? ユーリスが?」
「はい。夕方、侍女が様子を見に参りましたところ、いつもお過ごしになっている別館の寝室にいらっしゃらなかったのです」

 これはユーリスには知らせていないことだったが、ローゼンシュタイン伯爵邸の周辺にはたびたび不審者が出没する。それは今も昔も変わらず可憐なユーリスを狙った変態どもで、酷いものでは屋敷に侵入しようとする者だって少なくはなかった。

 そのため、ギルベルトは屋敷全体。特にユーリスが過ごす別館には強固な魔法結界を張って、侵入者を防ぐとともにいち早い侵入者の確保が出来るようにしていた。

 使用人たちはそれを知っているから、普段は決してユーリスをひとりにはしないし、別館から離れることはない。しかし、発情期のときは別なのだ。他でもないユーリスが自らの淫らな姿を他人に見られることを嫌がって、侍女たちを遠ざけてしまう。

 それでも部屋の外からは見守ってはいたのだが、その一瞬の隙をついていなくなってしまったということだった。

 ――もしかしたら、誰かにかどわかされたのかもしれません。

 真っ青になって頭を下げるオットーはひどく焦っているようだった。

 その様子を見て、そうか、とギルベルトは思う。
 彼らには、この屋敷に満ちた濃密なフェロモンが分からないのだ。

 ユーリスが発情期を迎えたとき、ギルベルトが真っ先に足を運ぶのは別館だ。
 そこに番がいて、自分を求めていることをギルベルトの本能が知っているからだ。一分、一秒すら惜しくて、いつも帰宅したその足で彼の寝室に向かっていたのだ。
 けれど、今自分は本館にいる。おそらく、この匂いに導かれて自然と足がこちらを向いたのだろう。

「オットー」
「はい」

 ギルベルトが呼べば、オットーは焦燥を隠しきれない様子で返事をした。
 ベータの彼は「ギルベルト」のことはよく理解していても、「アルファ」のことはよく分からないらしい。本当に番が――それも発情期真っ最中の番がいなくなったとすれば、アルファは正気ではいられない。
 今、ギルベルトが落ち着き払っていられるのは、ユーリスがどこにいるか分かっているからだ。

「大丈夫だ。ユーリスはこの屋敷の中にいる」
「は、しかし、どこを探してもいらっしゃらなくて……」
「では、お前たちが探していないところにいるんだろう」

 彼らには分からなくても、ギルベルトには分かるのだ。
 誘われるようにそちらに向かえば、ようやく帰って来た番に反応するようにユーリスのフェロモンが濃く甘くなっていく。
 階段を上り、執務室の前を通り過ぎる。ユーリスはどうやらこの奥にいるらしい。

「ユーリス」

 呼びかけながら寝室の扉を開ける。
 いつもギルベルトがひとりで使っている寝室には、必要最低限の物しか置かれていない。

 寝台とその脇に置かれたサイドチェスト。それから小さな長椅子。代々の当主が使ってきたこの部屋の調度は、豪華であるが少しだけ古くさい。ギルベルトにとっては父親の部屋という感覚が強くて、どうにも私物を置く気にはなれない場所だった。

 けれど、今はそんな寝室に自らの番の匂いが溢れていた。
 整えられた寝台に、ユーリスはいなかった。その代わり、辺りに漂うフェロモンがユーリスの居場所を教えてくれる。
 寝室から続く、扉の奥。そこはギルベルト専用の衣裳部屋だ。


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