Ω令息は、αの旦那様の溺愛をまだ知らない

仁茂田もに

文字の大きさ
36 / 47
番外編

とある伯爵夫人の巣作り 1

しおりを挟む
 ――足りない……。

 ぼんやりとした意識の中、ふとユーリスはそう思った。
 身体の奥に燻るような熱を感じて、自室の寝台の上で横になっていたときのことだった。

 十五歳で初めての発情期を迎えてから、もう十年以上もオメガ性と付き合ってきた。定期的に訪れる発情期の直前には胎の奥に熾火のような熱が灯る。それを合図に発情期の準備に入るのが、ユーリスの常だった。

 最近、ともにとるようになった朝食の席で、ギルベルトに発情期が近いことを伝えた。
 おそらく、今日明日中には来るだろうとアデルへ休みの言づけを頼めば、彼はこれから一週間の都合をつけて来ると言って仕事へと向かった。出来るだけ早く帰ってくる、と額に口づけられて、さらに熱が上がった気がしたのは気のせいではないだろう。

 長いこと不仲だと思っていた自分たち夫夫が、盛大にすれ違っていただけだと分かったのが先月のことだ。言葉を交わし、想いを伝えあうことで、ユーリスは自分がどれほどギルベルトのことを慕っているのかを伝えたし、ギルベルトがどれほど自分のことを愛しているのかを知ることが出来た。

 その結果、自分たちの距離はぐっと縮まり、ギルベルトはぎこちないながらもユーリスに触れてくるようになった。普段はその優しい指先が嬉しくて、胸が高鳴る。温かな眼差しや愛おしむような唇が、ただ好ましいだけだった。

 けれど、発情期の前に与えられるそれらは、まるで甘い毒のようにユーリスの心と身体を侵食するのだ。番を求めるオメガの身体は、その熱にひどく過敏に反応するのだと、このときユーリスは初めて知った。

 早く触れて欲しくて、早く身体を暴いて欲しくて身体は性急にその熱を上げていく。
 前兆を感じて本格的な発情期に入るのに短くても半日、いつもであれば一日ほどの猶予があった。しかし、気が付けば理性はどろどろに溶けていて、本格的な発情期が到来していた。
 そんな耐え難い疼きと熱にひとりで悶えているとき、ユーリスは思ったのだ。

 ――足りない、と。

 けれど、一体何が足りないというのだろうか。
 ここはユーリスの部屋で、発情期はいつもここで過ごす。この部屋で待っていれば、番は間違いなく自分を抱きにやって来るというのに。

 そう思うのに、どうしても何かが足りなくて落ち着かない。まるで心の中に大きな穴が開いてしまったようなのだ。その穴を埋める何かが欲しくて、ユーリスはふらりと上体を起こした。

 頬は上気し、熱に浮かされた瞳は蕩けそうなほどに潤んでいた。
 とてもじゃないが、このときのユーリスは人前に出られる格好ではなかった。しかし、それを判断する思考すらも情欲に侵され、どこかへ行ってしまうのが発情期なのだ。

 寝台から降りて、ユーリスは辺りを見渡した。そして、すぐにそれを理解する。

 ――ここじゃない。

 そう、ここではないのだ。
 ユーリスが求める「巣」はここではない。そもそもここには「材料」が何もない。
 重たい身体を引きずって、ユーリスは扉へと向かう。
 どこに行けばいいのかは分かっていた。

 ――あそこ。あそこなら、きっとたくさんある。

 ふらふらと歩きだしたユーリスを、止める者は誰もいなかった。

 愛しい愛しい番の、大好きな匂い。
 あの人が帰ってくる前に、ちゃんと立派な巣を作らないと。

 そう強く感じたのを最後に、ユーリスの意識はぶつりと途切れた。
 はっきりと覚醒したのは発情期が終わった後で、ユーリスは自分がやらかした恥ずかしい行為にひとりで悶える羽目になったのだった。




 ギルベルトが帰って来たとき、屋敷の中は騒然としていた。
 ローゼンシュタイン伯爵邸の本館。正面玄関から入れば、広々としたホールと二階に続く階段がある。翼を広げた鳥のように左右に広がる階段の下や上を、使用人たちがばたばたと走り回っているのだ。普段であれば静かすぎるくらいに落ち着いているローゼンシュタイン邸の使用人たちが、あろうことか主人の帰宅にも気づいていない有様だ。

 番であるユーリスの発情期が始まったと聞いて、急いで仕事を片付けてきたというのにこれはどういうことだろうか。

 眉を寄せて立つ主人の帰宅にいち早く気づいたのは、家令であるオットーだった。
 オットーはギルベルトが生まれる前から屋敷に勤める使用人で、最も信頼を寄せる使用人だった。

「ギルベルト様」
「何かあったのか?」
「それが……」

 オットーは困惑したように眉を寄せた。そして申し訳なさそうに口にしたのは、ユーリスがいなくなったということだった。

「いなくなった? ユーリスが?」
「はい。夕方、侍女が様子を見に参りましたところ、いつもお過ごしになっている別館の寝室にいらっしゃらなかったのです」

 これはユーリスには知らせていないことだったが、ローゼンシュタイン伯爵邸の周辺にはたびたび不審者が出没する。それは今も昔も変わらず可憐なユーリスを狙った変態どもで、酷いものでは屋敷に侵入しようとする者だって少なくはなかった。

 そのため、ギルベルトは屋敷全体。特にユーリスが過ごす別館には強固な魔法結界を張って、侵入者を防ぐとともにいち早い侵入者の確保が出来るようにしていた。

 使用人たちはそれを知っているから、普段は決してユーリスをひとりにはしないし、別館から離れることはない。しかし、発情期のときは別なのだ。他でもないユーリスが自らの淫らな姿を他人に見られることを嫌がって、侍女たちを遠ざけてしまう。

 それでも部屋の外からは見守ってはいたのだが、その一瞬の隙をついていなくなってしまったということだった。

 ――もしかしたら、誰かにかどわかされたのかもしれません。

 真っ青になって頭を下げるオットーはひどく焦っているようだった。

 その様子を見て、そうか、とギルベルトは思う。
 彼らには、この屋敷に満ちた濃密なフェロモンが分からないのだ。

 ユーリスが発情期を迎えたとき、ギルベルトが真っ先に足を運ぶのは別館だ。
 そこに番がいて、自分を求めていることをギルベルトの本能が知っているからだ。一分、一秒すら惜しくて、いつも帰宅したその足で彼の寝室に向かっていたのだ。
 けれど、今自分は本館にいる。おそらく、この匂いに導かれて自然と足がこちらを向いたのだろう。

「オットー」
「はい」

 ギルベルトが呼べば、オットーは焦燥を隠しきれない様子で返事をした。
 ベータの彼は「ギルベルト」のことはよく理解していても、「アルファ」のことはよく分からないらしい。本当に番が――それも発情期真っ最中の番がいなくなったとすれば、アルファは正気ではいられない。
 今、ギルベルトが落ち着き払っていられるのは、ユーリスがどこにいるか分かっているからだ。

「大丈夫だ。ユーリスはこの屋敷の中にいる」
「は、しかし、どこを探してもいらっしゃらなくて……」
「では、お前たちが探していないところにいるんだろう」

 彼らには分からなくても、ギルベルトには分かるのだ。
 誘われるようにそちらに向かえば、ようやく帰って来た番に反応するようにユーリスのフェロモンが濃く甘くなっていく。
 階段を上り、執務室の前を通り過ぎる。ユーリスはどうやらこの奥にいるらしい。

「ユーリス」

 呼びかけながら寝室の扉を開ける。
 いつもギルベルトがひとりで使っている寝室には、必要最低限の物しか置かれていない。

 寝台とその脇に置かれたサイドチェスト。それから小さな長椅子。代々の当主が使ってきたこの部屋の調度は、豪華であるが少しだけ古くさい。ギルベルトにとっては父親の部屋という感覚が強くて、どうにも私物を置く気にはなれない場所だった。

 けれど、今はそんな寝室に自らの番の匂いが溢れていた。
 整えられた寝台に、ユーリスはいなかった。その代わり、辺りに漂うフェロモンがユーリスの居場所を教えてくれる。
 寝室から続く、扉の奥。そこはギルベルト専用の衣裳部屋だ。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?

krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」 突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。 なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!? 全力すれ違いラブコメファンタジーBL! 支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

嫌われ魔術師の俺は元夫への恋心を消去する

SKYTRICK
BL
旧題:恋愛感情抹消魔法で元夫への恋を消去する ☆11/28完結しました。 ☆第11回BL小説大賞奨励賞受賞しました。ありがとうございます! 冷酷大元帥×元娼夫の忘れられた夫 ——「また俺を好きになるって言ったのに、嘘つき」 元娼夫で現魔術師であるエディことサラは五年ぶりに祖国・ファルンに帰国した。しかし暫しの帰郷を味わう間も無く、直後、ファルン王国軍の大元帥であるロイ・オークランスの使者が元帥命令を掲げてサラの元へやってくる。 ロイ・オークランスの名を知らぬ者は世界でもそうそういない。魔族の血を引くロイは人間から畏怖を大いに集めながらも、大将として国防戦争に打ち勝ち、たった二十九歳で大元帥として全軍のトップに立っている。 その元帥命令の内容というのは、五年前に最愛の妻を亡くしたロイを、魔族への本能的な恐怖を感じないサラが慰めろというものだった。 ロイは妻であるリネ・オークランスを亡くし、悲しみに苛まれている。あまりの辛さで『奥様』に関する記憶すら忘却してしまったらしい。半ば強引にロイの元へ連れていかれるサラは、彼に己を『サラ』と名乗る。だが、 ——「失せろ。お前のような娼夫など必要としていない」 噂通り冷酷なロイの口からは罵詈雑言が放たれた。ロイは穢らわしい娼夫を睨みつけ去ってしまう。使者らは最愛の妻を亡くしたロイを憐れむばかりで、まるでサラの様子を気にしていない。 誰も、サラこそが五年前に亡くなった『奥様』であり、最愛のその人であるとは気付いていないようだった。 しかし、最大の問題は元夫に存在を忘れられていることではない。 サラが未だにロイを愛しているという事実だ。 仕方なく、『恋愛感情抹消魔法』を己にかけることにするサラだが——…… ☆お読みくださりありがとうございます。良ければ感想などいただけるとパワーになります!

番解除した僕等の末路【完結済・短編】

藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。 番になって数日後、「番解除」された事を悟った。 「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。 けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。

結婚して5年、冷たい夫に離縁を申し立てたらみんなに止められています。

真田どんぐり
恋愛
ー5年前、ストレイ伯爵家の美しい令嬢、アルヴィラ・ストレイはアレンベル侯爵家の侯爵、ダリウス・アレンベルと結婚してアルヴィラ・アレンベルへとなった。 親同士に決められた政略結婚だったが、アルヴィラは旦那様とちゃんと愛し合ってやっていこうと決意していたのに……。 そんな決意を打ち砕くかのように旦那様の態度はずっと冷たかった。 (しかも私にだけ!!) 社交界に行っても、使用人の前でもどんな時でも冷たい態度を取られた私は周りの噂の恰好の的。 最初こそ我慢していたが、ある日、偶然旦那様とその幼馴染の不倫疑惑を耳にする。 (((こんな仕打ち、あんまりよーー!!))) 旦那様の態度にとうとう耐えられなくなった私は、ついに離縁を決意したーーーー。

あなたと過ごせた日々は幸せでした

蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。