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第八章 孤独と再誕の童話
幕間 成立する予言(下)
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「――よし、準備できた!」
旅支度を終えたアレックスは自らに気合を入れる。
彼の足元ではウサギのペトラが「早く行こう!」と急かすように、ピョンピョン飛び跳ねていた。
「じゃあオレ、行ってくるよ!」
「え、今から行くの? もう真夜中だよ?」
ネコミミ少女のリップが尋ねると、少年は頷いて肯定する。
「うん、夜のうちに出発しないと間に合わないらしいからね。ソフィア姉ちゃんには、みんなから上手く言っておいて」
「おう……ってオイオイオイオイ、なに馬鹿なこと言ってんだ」
グランツが婚約者に何も言わず出て行こうとする王子を制止した。
「で、でも、もう夜中だし……」
「だからって、黙って出て行っていいわけないだろうが。いいか? お前も結婚するなら、こういう大事なことは事前にちゃんと話し合っとけ!」
既婚者グランツのその言葉には、痛切な実感がこもっていた。
「本当は、決める前に話し合うのが一番だったのでしょうけどねえ」
「でも良いこと言っているよ。ちゃんと大切にされてるんだって思えたら、どうしても嬉しくなっちゃうって」
研究が恋人なジーノは一般論を述べ、意外と乙女なリップは感心したように言う。
「さっすがグランツ! やっぱり七人もお嫁さんがいる一流冒険者は、経験値が違うね~!」
「うっせえぞ、リップ。てか、今は俺のことなんて、どうでもいいんだよ!」
ちなみにこの世界は一夫多妻制の地域が多いが、それでも庶民で嫁が七人というのはかなり多めだ。
しかし戦士グランツが好色家なのかと問われれば、決してそんなことはない。
彼女たちとは色々とトラブるがあった末、チームプレイで捕食されたのである。
若気の至りという言葉があるが、むしろ彼はその被害者だった。
とはいえ、今となっては昔の出来事。結果的にはグランツが責任を取る形で全員が幸せに収まったのだから問題はない。
ただ……もしこの話をとある魔獣が知ったなら、「お前はなろうの主人公かよ!」とか「リア充爆発しろ!」とか、そんな感じの罵倒を心の中で叫んだだろう。
閑話休題、今はアレックスの話である。
ソフィアの寝室を訪問すること。それをこの少年が遠慮する理由は大きく分けて三つあった。
一つ目は時間的に、彼女がすでに夢の中である可能性が高いこと。
これは単純にマナーの問題である。
二つ目は、思春期が始まったばかりで初心な少年にとって、憧れの人の寝室に侵入するのは気が引けたこと。
例えば“夜這い”なんて単語を思い浮かべようものなら、それだけで少年の顔は真っ赤に染まった。
そして単純な比率で言えば、この理由が一番大きかった。
しかし実はもう一つ、胸の奥で引っかかる小さな棘のような理由があった。
その棘に強いて言葉を当てはめるなら、罪悪感とでも呼ぶべきだろうか。
アレックスに躊躇させる三つめの理由。それは――。
「話しにくい理由は理解できるが、だからこそきちんと話しておくべきだろ」
「…………うん、そうだね」
こうして、なし崩し的にアレックスはソフィアの寝室へ向かったのである。
* * *
ソフィア・エリファス・レヴィオールは寝室のバルコニーで眠れない夜を過ごしていた。
冷たい夜風が絹糸のような白い髪を揺らす。
真珠のような甘い白のイブニングドレスに無地のストールを羽織る彼女は空を見上げる。
今や名実ともに聖女となった少女は、この静寂な世界に独り取り残されていた。
訪れる未来に竦んでしまう手足。
皮肉なことに彼女の内心とは違って雲一つない空。
冬の冷たく澄んだ空気と、無限に続く暗闇。そこに広がるは怖いぐらいに綺麗な星空。
眺めていると、まるで自分が放り出されたような、立っている足元がふわりと不確定になるような、そんな不安が押し寄せる。
八年前は、急にこの世界が紅に染まった。
夜空を焦がして、巨大な火柱が景色を焼き払った。
だからかもしれない。
この静寂が嵐の前の静けさのように感じられて、とてもとても恐ろしいのだ。
――ほんの少し前までは、燃える暖炉の前で眠くなるまで、お話しするのが日課だった。
彼のおかげで夜の闇や、不安な明日に怯える必要はなかった。
しかし、その話し相手だった彼も、今となっては……。
その時、コンコンコンと、控えめなノックの音が転がった。
ハッと我に返るソフィア。
彼女はバルコニーから仄暗い室内へと戻り、扉の前まで歩み寄る。
「……どちら様でしょうか?」
こんな夜更けに誰だろう? そう思いながらドアノブに手をかけた。
「ソフィア姉ちゃん、起きてる?」
ドア越しに聞こえてきたのは、彼女を安心させるボーイソプラノだ。
そっと開くと、サファイア色の目が合った。その服装は今すぐにでも旅立てそうな完全装備である。
「アルくん? どうしたの」
「えっと……ごめん、寝てた? でもちょっと、大切な話があるんだ」
立ち話もなんなので、ソフィアはアレックスを寝室に招き入れた。
まだ幼さの残る子供とはいえ、夜の寝室に男子を招き入れるなんて、本来ならとんでもなく破廉恥な行為である。だが、彼女にとって少年は、まだまだ婚約者である以前に可愛い弟分なのかもしれない。
年齢もそうだが……なにしろ正面から抱き合えば、少年の頭がちょうど豊満な胸の中にすっぽり収まるくらいの身長差があるのだ。
むしろ、初めて女性の――しかもずっと好きだった“お姉ちゃん”の寝室に足を踏み入れたアレックスのほうが緊張でドギマギしていた。
部屋の中には最低限の家具しかない。ほんの少し前までこの部屋は、メアリス教国の誰かに使われていたためである。
もともとあった家具や調度品は、はっきり言ってセンスの悪い成金趣味だったので、全て持ち出してしまっていた。
最終的には売り払って今後の補填に割り当てる予定だが……あまり金額には期待できないだろう。
殺風景な部屋には、椅子すらもまだなかった。
そのため、ソフィアは自分のベッドにアレックスを座らせる。そして当然のように自分もその横に座った。
「寒くない? ごめんね。さっきまでバルコニーにいたから……」
ソフィアが謝るが、アレックスは内心それどころではない。
隣から感じる体温。
夜の静寂の中、上品で微かな息遣いの音。
魔石のランプがほんのりと照らす、滑らかな褐色の肌と、女性らしくも端正な容姿。
部屋の冷たい空気に混じって、ミルクかスズランの花のような優しく甘い香りが鼻腔を擽る。
別に密着しているわけではないし、それどころか互いに触れてすらいない。
二人の間にあるのは昔と何も変わらない距離感なのだが……しかし八年も経った今では、その近すぎる間合いの意味合いが大きく異なっていた。
「う、うん。オレは平気だよ」
アレックスは平静を装いながら答える。
ただ好意と羞恥心、そして興味と罪悪感からチラチラと向いては逸らされる目線が、明らかにソフィアの清楚なイブニングドレス姿を意識しないようにしてした。
「えーっと、どこから話すべきかな……実はさっき、星詠みの魔女様に会ったんだ」
「星詠み……たしか、予言をくださった魔女様、だったよね?」
ソフィアは彼女と直接の面識はない。アレックスから聞いた話を覚えていただけである。
「そうそう、その魔女様。それで……」
少年はそれを言葉にする前に、固唾を呑んだ。
「オレだけじゃ、駄目みたいなんだ。運命を変えないと、このままじゃ…………ソフィア姉ちゃんが死んじゃうって」
「……そうなんだ」
ソフィアはどこか悟ったような表情で相槌を打った。
愁いを帯びたアッシュグレーの瞳。
その横向きな瞳孔のせいで、彼女が何を見据えているかは計り知れない。
「でもね、その運命を変える方法があるんだって。だから……」
「その方法って……魔獣さんのこと、だよね?」
ソフィアに正解を言い当てられてしまい、アレックスは押し黙らざるを得なかった。
血濡れた冬の魔獣の姿。
その恐ろしくも痛々しい記憶は、少女の中である種の負い目となっていた。
これこそが三つ目の理由。
少年はそれを知っていたから、彼女に運命を変える方法を告げに行くことを躊躇っていたのである。
少女の胸の内は複雑だった。
これから戦争を始めようというのに、大切な人たちに傷付いてほしくないと思う矛盾した気持ち。
その大切な人たちの中には、もちろんアレックスやディオン司祭、協力してくれる冒険者や連合国の兵士、そしてバフォメット族のみんなも含まれていて……。
国のため。大義のため。人々のため。最小限の犠牲で。
絶望と憎悪に染まった不死身の怪物は、その冷たく残酷な願いを叶えてくれたのだ。
見た目は恐ろしくても、不器用で優しかった彼。
あの魔獣だって、傷付いてほしくない“大切な存在”に含まれていたはずなのに――。
それなのに、敵の兵士も傷つけたくないなんて傲慢な思いを心の中には抱いていて。
そのくせ国を取り戻せたことに、みんなを助けられたことに喜びを抱いてしまった。
また彼が来てくれれば、次の戦争も犠牲が抑えられるだろう。
なぜなら、一番の犠牲になるのは彼だから。
それが国を率いる王女としては正しくて、全ての人々の幸福を願う聖女としても仕方がないと理解していて……でも人ならざる魔獣に絆された心が、それは間違っていると叫んでいる。
会いたいし、仲直りしたいし、お礼も言いたいし、謝らなければいけないし。
来てほしいけれど、来てほしくない。
だって、穢れなき冬の世界で生きることこそが、きっと彼の幸福なのだから――。
……でも、自分が助けを懇願すれば、おそらく彼は来てくれるだろう。
そんな確信めいた予感を抱く自分の身勝手さや浅ましさが、さらにソフィア自身を苦しめた。
――トントントントントントンッ!!
「キャッ!?」
重苦しい沈黙が空間を支配したタイミングで、今度は激しいノック? の音が響く。ソフィアが驚きのあまり、ベッドの上で座ったままピョンッと跳ねた。
「だ、だれなの!?」
返事はない。ただノックの音が執拗に繰り返される。強いて言えば、音の聞こえる位置が妙に低いような気がした。
ノックの主に心当たりのあるアレックスが警戒しながらドアを小さく開くと、その隙間から小さな影が滑り込んだ。
「あれ? ペトラちゃん!? どうしてここに?」
「クゥッ!!」
予想外の来客に驚きの声を上げつつも、顔を綻ばせるソフィア。アレックスはやっぱりかと、複雑な表情をした。
ウサギのペトラは再会を喜びながらソフィアにじゃれついたあと、今度はアレックスに跳びかかる。
「わあっ!? わかった、もう出発するから!」
どうやら彼女は旅立ちの催促に来たらしい。
手加減された跳び蹴りアタックを食らうアレックスはタジタジであった。
二人の仲が良い光景を見て、ソフィアは思わず笑みをこぼす。
そういえば、冬の城でもことあるごとに、ペトラが魔獣にじゃれついていたものだ。
もう二度と戻れない情景。その懐かしさにも似た感情が、彼女の中にある迷いの天秤を傾ける。
――魔獣さんに会いたい。
理性は小難しいことを色々と考えるが、心は素直にそう望んでいた。
もちろん戦ってくれなくてもいい。でも、このまま終わってしまうのは悲しすぎる。せめて自分が運命に殺されてしまう前に、お礼を言って、謝っておきたかった。
そしてできれば、アレックスや、自分以外のみんなを助けてくれればいいなと願った。
それと同じくらい強く、魔獣のやさしさが報われることを願った。
「……アルくん。さっきの話だけど……わたしからも、お願いしていいかな?」
ソフィアは決心したように、アレックスに呼び掛ける。
「魔獣さんに、よろしくね」
彼女は何か吹っ切れたように微笑んだ。
それはずっと誰かのために生きてきた彼女にとって、久々に自分のためだけの我儘だった。
「でも、無理はしなくていいの。そのときはわたし、運命を受け入れるから」
「……心配はいらないよ。絶対に来てもらうし、たぶん魔獣さんも来てくれる。ソフィア姉ちゃんのことも、きっと助けてくれるって!」
その優しくて頼もしい言葉を、ソフィアはとても嬉しく思った。
アレックスの中で魔獣に対する信頼は意外と高い。
冬の王として変わり果てた姿を直接見てはいないが、魔獣がメアリス教徒を虐殺した事実は知っているし、その残された爪痕に至ってはきちんと把握している。
にもかかわらず、今の魔獣に会うことを、少年はちっとも怖がっていなかった。
初めて出会った時こそ剣……ではなく、弓と牙を交えたものの、その後はすぐ和解して食事の席を共にした。
もちろん一緒にお風呂にも入ったこともそうだし、ついでに他愛ない話なんかもした思い出がある。
魔獣とソフィアの仲が良い。これもかなり大きいだろう。
しかし何より大きかったのは、彼が別れの際にアレックスの名を呼んだこと。そして、その存在を認めてくれたことだった。
もともと人懐こい性格の少年にとっては、これら諸々の理由で十分だった。
割と勝手ながら、アレックスにとって魔獣は“友達”のカテゴリに組み込まれたのである。
彼は魔獣の凶行がソフィアのためだったことを理解している。
ことの次第によっては、闇に堕ちた魔獣を救うことすら厭わなかったはずだ。
もしかすると、冬の世界で魔獣が抱いていた孤独は――自己否定の呪いに囚われていた彼が、自分に見せていた幻影にすぎなかったのかもしれない。
「じゃあ、行ってくるよ!」
ソフィアの寝室から飛び出すように出て行くアレックスとペトラ。
こうして、レヴィオール王国の使者たちは冬の城へと旅立ったのであった。
* * *
それから約半月後。
星詠みの魔女は自分の縄張りである天文台に帰ってきていた。
夜明けの空が東雲色に染まっている。
そろそろ“使者”が冬の城へと到着する頃だろう。
彼女の試練を乗り越えた魔獣は、太陽の少年と再会する。
そして物語は次の章へと進むのだ。
「それにしても……ステラちゃん、フラれちゃいましたね」
彼女は呟いたが、その表情はたいして残念そうでもない。
「でも、運命に抗うヒトって、やっぱり素敵だと思いません?」
魔女は虚空に向かって問いかける。もちろん返事なんてないが、やり遂げた彼女は満足げだった。
大義のために己を捨て、未来のための礎となった名も無き人々。
あるいは、大を生かすための小さな犠牲だったり、何かを成し遂げるための生贄だったり。
しかし彼らのことなんて、大抵の人間は覚えていない。
酷い場合は彼らの無駄死にを嘲笑いすらして、彼らが残した世界を貪り尽くす――犠牲の恩恵を受けるのは、いつだって戦わなかった者たちだ。
誰でも一度は、そんな不条理を、理不尽な世界を憎むだろう。
そんな世界で生きる、弱い自分を憎むだろう。
だがかつて、その語られざる物語に思いを馳せ、憎しみを克服し、理想のために一歩を踏み出した者たちが居た。
星詠みの魔女はどこからか紙の束を取り出す。
そこに記されている詩は、彼女の星詠みと全く別の方法で導き出された未来の予言だ。
ただし、星詠みが“未来を識るための予言”だとするならば、その紙束に記されているのは“未来を変えるための予言”である。
――冬を纏う獣が、白亜の牢獄を抜け出す。
可憐な薔薇に背を向けて、咆哮を上げる時、空白の玉座が遂に埋まるだろう。
そして太陽を背に北風は、凍る世界を駆け抜ける。
聖女が祈祷る傍らで、吹雪は永久を祝福し、その代償として――。
「いよいよ、最後の章節です。全てを知る覚悟は、できていますか?」
成立目前の予言を口ずさんでみてから、感慨深げに彼女は言った。
――後の世で、“冬の王”と言えば凶暴かつ無慈悲な存在として描写されることが多い。
全ての命を憎んだとされる冬の王。
神々に反旗を翻した、恐ろしい怪物たちの一柱。
望まれなくても毎年律儀に訪れて、多くの命を奪っていく忌み嫌われた季節。
しかしごく稀に、彼が人間に対して友好的な存在であるかのごとく描かれることもある。
太陽の王子と聖女の物語は、その数少ない一例であった。
そして、とある名も無き詩人はその物語に、誰もが知ることになる洒落た題名を付けたのである。
――“北風と太陽の英雄譚”と。
旅支度を終えたアレックスは自らに気合を入れる。
彼の足元ではウサギのペトラが「早く行こう!」と急かすように、ピョンピョン飛び跳ねていた。
「じゃあオレ、行ってくるよ!」
「え、今から行くの? もう真夜中だよ?」
ネコミミ少女のリップが尋ねると、少年は頷いて肯定する。
「うん、夜のうちに出発しないと間に合わないらしいからね。ソフィア姉ちゃんには、みんなから上手く言っておいて」
「おう……ってオイオイオイオイ、なに馬鹿なこと言ってんだ」
グランツが婚約者に何も言わず出て行こうとする王子を制止した。
「で、でも、もう夜中だし……」
「だからって、黙って出て行っていいわけないだろうが。いいか? お前も結婚するなら、こういう大事なことは事前にちゃんと話し合っとけ!」
既婚者グランツのその言葉には、痛切な実感がこもっていた。
「本当は、決める前に話し合うのが一番だったのでしょうけどねえ」
「でも良いこと言っているよ。ちゃんと大切にされてるんだって思えたら、どうしても嬉しくなっちゃうって」
研究が恋人なジーノは一般論を述べ、意外と乙女なリップは感心したように言う。
「さっすがグランツ! やっぱり七人もお嫁さんがいる一流冒険者は、経験値が違うね~!」
「うっせえぞ、リップ。てか、今は俺のことなんて、どうでもいいんだよ!」
ちなみにこの世界は一夫多妻制の地域が多いが、それでも庶民で嫁が七人というのはかなり多めだ。
しかし戦士グランツが好色家なのかと問われれば、決してそんなことはない。
彼女たちとは色々とトラブるがあった末、チームプレイで捕食されたのである。
若気の至りという言葉があるが、むしろ彼はその被害者だった。
とはいえ、今となっては昔の出来事。結果的にはグランツが責任を取る形で全員が幸せに収まったのだから問題はない。
ただ……もしこの話をとある魔獣が知ったなら、「お前はなろうの主人公かよ!」とか「リア充爆発しろ!」とか、そんな感じの罵倒を心の中で叫んだだろう。
閑話休題、今はアレックスの話である。
ソフィアの寝室を訪問すること。それをこの少年が遠慮する理由は大きく分けて三つあった。
一つ目は時間的に、彼女がすでに夢の中である可能性が高いこと。
これは単純にマナーの問題である。
二つ目は、思春期が始まったばかりで初心な少年にとって、憧れの人の寝室に侵入するのは気が引けたこと。
例えば“夜這い”なんて単語を思い浮かべようものなら、それだけで少年の顔は真っ赤に染まった。
そして単純な比率で言えば、この理由が一番大きかった。
しかし実はもう一つ、胸の奥で引っかかる小さな棘のような理由があった。
その棘に強いて言葉を当てはめるなら、罪悪感とでも呼ぶべきだろうか。
アレックスに躊躇させる三つめの理由。それは――。
「話しにくい理由は理解できるが、だからこそきちんと話しておくべきだろ」
「…………うん、そうだね」
こうして、なし崩し的にアレックスはソフィアの寝室へ向かったのである。
* * *
ソフィア・エリファス・レヴィオールは寝室のバルコニーで眠れない夜を過ごしていた。
冷たい夜風が絹糸のような白い髪を揺らす。
真珠のような甘い白のイブニングドレスに無地のストールを羽織る彼女は空を見上げる。
今や名実ともに聖女となった少女は、この静寂な世界に独り取り残されていた。
訪れる未来に竦んでしまう手足。
皮肉なことに彼女の内心とは違って雲一つない空。
冬の冷たく澄んだ空気と、無限に続く暗闇。そこに広がるは怖いぐらいに綺麗な星空。
眺めていると、まるで自分が放り出されたような、立っている足元がふわりと不確定になるような、そんな不安が押し寄せる。
八年前は、急にこの世界が紅に染まった。
夜空を焦がして、巨大な火柱が景色を焼き払った。
だからかもしれない。
この静寂が嵐の前の静けさのように感じられて、とてもとても恐ろしいのだ。
――ほんの少し前までは、燃える暖炉の前で眠くなるまで、お話しするのが日課だった。
彼のおかげで夜の闇や、不安な明日に怯える必要はなかった。
しかし、その話し相手だった彼も、今となっては……。
その時、コンコンコンと、控えめなノックの音が転がった。
ハッと我に返るソフィア。
彼女はバルコニーから仄暗い室内へと戻り、扉の前まで歩み寄る。
「……どちら様でしょうか?」
こんな夜更けに誰だろう? そう思いながらドアノブに手をかけた。
「ソフィア姉ちゃん、起きてる?」
ドア越しに聞こえてきたのは、彼女を安心させるボーイソプラノだ。
そっと開くと、サファイア色の目が合った。その服装は今すぐにでも旅立てそうな完全装備である。
「アルくん? どうしたの」
「えっと……ごめん、寝てた? でもちょっと、大切な話があるんだ」
立ち話もなんなので、ソフィアはアレックスを寝室に招き入れた。
まだ幼さの残る子供とはいえ、夜の寝室に男子を招き入れるなんて、本来ならとんでもなく破廉恥な行為である。だが、彼女にとって少年は、まだまだ婚約者である以前に可愛い弟分なのかもしれない。
年齢もそうだが……なにしろ正面から抱き合えば、少年の頭がちょうど豊満な胸の中にすっぽり収まるくらいの身長差があるのだ。
むしろ、初めて女性の――しかもずっと好きだった“お姉ちゃん”の寝室に足を踏み入れたアレックスのほうが緊張でドギマギしていた。
部屋の中には最低限の家具しかない。ほんの少し前までこの部屋は、メアリス教国の誰かに使われていたためである。
もともとあった家具や調度品は、はっきり言ってセンスの悪い成金趣味だったので、全て持ち出してしまっていた。
最終的には売り払って今後の補填に割り当てる予定だが……あまり金額には期待できないだろう。
殺風景な部屋には、椅子すらもまだなかった。
そのため、ソフィアは自分のベッドにアレックスを座らせる。そして当然のように自分もその横に座った。
「寒くない? ごめんね。さっきまでバルコニーにいたから……」
ソフィアが謝るが、アレックスは内心それどころではない。
隣から感じる体温。
夜の静寂の中、上品で微かな息遣いの音。
魔石のランプがほんのりと照らす、滑らかな褐色の肌と、女性らしくも端正な容姿。
部屋の冷たい空気に混じって、ミルクかスズランの花のような優しく甘い香りが鼻腔を擽る。
別に密着しているわけではないし、それどころか互いに触れてすらいない。
二人の間にあるのは昔と何も変わらない距離感なのだが……しかし八年も経った今では、その近すぎる間合いの意味合いが大きく異なっていた。
「う、うん。オレは平気だよ」
アレックスは平静を装いながら答える。
ただ好意と羞恥心、そして興味と罪悪感からチラチラと向いては逸らされる目線が、明らかにソフィアの清楚なイブニングドレス姿を意識しないようにしてした。
「えーっと、どこから話すべきかな……実はさっき、星詠みの魔女様に会ったんだ」
「星詠み……たしか、予言をくださった魔女様、だったよね?」
ソフィアは彼女と直接の面識はない。アレックスから聞いた話を覚えていただけである。
「そうそう、その魔女様。それで……」
少年はそれを言葉にする前に、固唾を呑んだ。
「オレだけじゃ、駄目みたいなんだ。運命を変えないと、このままじゃ…………ソフィア姉ちゃんが死んじゃうって」
「……そうなんだ」
ソフィアはどこか悟ったような表情で相槌を打った。
愁いを帯びたアッシュグレーの瞳。
その横向きな瞳孔のせいで、彼女が何を見据えているかは計り知れない。
「でもね、その運命を変える方法があるんだって。だから……」
「その方法って……魔獣さんのこと、だよね?」
ソフィアに正解を言い当てられてしまい、アレックスは押し黙らざるを得なかった。
血濡れた冬の魔獣の姿。
その恐ろしくも痛々しい記憶は、少女の中である種の負い目となっていた。
これこそが三つ目の理由。
少年はそれを知っていたから、彼女に運命を変える方法を告げに行くことを躊躇っていたのである。
少女の胸の内は複雑だった。
これから戦争を始めようというのに、大切な人たちに傷付いてほしくないと思う矛盾した気持ち。
その大切な人たちの中には、もちろんアレックスやディオン司祭、協力してくれる冒険者や連合国の兵士、そしてバフォメット族のみんなも含まれていて……。
国のため。大義のため。人々のため。最小限の犠牲で。
絶望と憎悪に染まった不死身の怪物は、その冷たく残酷な願いを叶えてくれたのだ。
見た目は恐ろしくても、不器用で優しかった彼。
あの魔獣だって、傷付いてほしくない“大切な存在”に含まれていたはずなのに――。
それなのに、敵の兵士も傷つけたくないなんて傲慢な思いを心の中には抱いていて。
そのくせ国を取り戻せたことに、みんなを助けられたことに喜びを抱いてしまった。
また彼が来てくれれば、次の戦争も犠牲が抑えられるだろう。
なぜなら、一番の犠牲になるのは彼だから。
それが国を率いる王女としては正しくて、全ての人々の幸福を願う聖女としても仕方がないと理解していて……でも人ならざる魔獣に絆された心が、それは間違っていると叫んでいる。
会いたいし、仲直りしたいし、お礼も言いたいし、謝らなければいけないし。
来てほしいけれど、来てほしくない。
だって、穢れなき冬の世界で生きることこそが、きっと彼の幸福なのだから――。
……でも、自分が助けを懇願すれば、おそらく彼は来てくれるだろう。
そんな確信めいた予感を抱く自分の身勝手さや浅ましさが、さらにソフィア自身を苦しめた。
――トントントントントントンッ!!
「キャッ!?」
重苦しい沈黙が空間を支配したタイミングで、今度は激しいノック? の音が響く。ソフィアが驚きのあまり、ベッドの上で座ったままピョンッと跳ねた。
「だ、だれなの!?」
返事はない。ただノックの音が執拗に繰り返される。強いて言えば、音の聞こえる位置が妙に低いような気がした。
ノックの主に心当たりのあるアレックスが警戒しながらドアを小さく開くと、その隙間から小さな影が滑り込んだ。
「あれ? ペトラちゃん!? どうしてここに?」
「クゥッ!!」
予想外の来客に驚きの声を上げつつも、顔を綻ばせるソフィア。アレックスはやっぱりかと、複雑な表情をした。
ウサギのペトラは再会を喜びながらソフィアにじゃれついたあと、今度はアレックスに跳びかかる。
「わあっ!? わかった、もう出発するから!」
どうやら彼女は旅立ちの催促に来たらしい。
手加減された跳び蹴りアタックを食らうアレックスはタジタジであった。
二人の仲が良い光景を見て、ソフィアは思わず笑みをこぼす。
そういえば、冬の城でもことあるごとに、ペトラが魔獣にじゃれついていたものだ。
もう二度と戻れない情景。その懐かしさにも似た感情が、彼女の中にある迷いの天秤を傾ける。
――魔獣さんに会いたい。
理性は小難しいことを色々と考えるが、心は素直にそう望んでいた。
もちろん戦ってくれなくてもいい。でも、このまま終わってしまうのは悲しすぎる。せめて自分が運命に殺されてしまう前に、お礼を言って、謝っておきたかった。
そしてできれば、アレックスや、自分以外のみんなを助けてくれればいいなと願った。
それと同じくらい強く、魔獣のやさしさが報われることを願った。
「……アルくん。さっきの話だけど……わたしからも、お願いしていいかな?」
ソフィアは決心したように、アレックスに呼び掛ける。
「魔獣さんに、よろしくね」
彼女は何か吹っ切れたように微笑んだ。
それはずっと誰かのために生きてきた彼女にとって、久々に自分のためだけの我儘だった。
「でも、無理はしなくていいの。そのときはわたし、運命を受け入れるから」
「……心配はいらないよ。絶対に来てもらうし、たぶん魔獣さんも来てくれる。ソフィア姉ちゃんのことも、きっと助けてくれるって!」
その優しくて頼もしい言葉を、ソフィアはとても嬉しく思った。
アレックスの中で魔獣に対する信頼は意外と高い。
冬の王として変わり果てた姿を直接見てはいないが、魔獣がメアリス教徒を虐殺した事実は知っているし、その残された爪痕に至ってはきちんと把握している。
にもかかわらず、今の魔獣に会うことを、少年はちっとも怖がっていなかった。
初めて出会った時こそ剣……ではなく、弓と牙を交えたものの、その後はすぐ和解して食事の席を共にした。
もちろん一緒にお風呂にも入ったこともそうだし、ついでに他愛ない話なんかもした思い出がある。
魔獣とソフィアの仲が良い。これもかなり大きいだろう。
しかし何より大きかったのは、彼が別れの際にアレックスの名を呼んだこと。そして、その存在を認めてくれたことだった。
もともと人懐こい性格の少年にとっては、これら諸々の理由で十分だった。
割と勝手ながら、アレックスにとって魔獣は“友達”のカテゴリに組み込まれたのである。
彼は魔獣の凶行がソフィアのためだったことを理解している。
ことの次第によっては、闇に堕ちた魔獣を救うことすら厭わなかったはずだ。
もしかすると、冬の世界で魔獣が抱いていた孤独は――自己否定の呪いに囚われていた彼が、自分に見せていた幻影にすぎなかったのかもしれない。
「じゃあ、行ってくるよ!」
ソフィアの寝室から飛び出すように出て行くアレックスとペトラ。
こうして、レヴィオール王国の使者たちは冬の城へと旅立ったのであった。
* * *
それから約半月後。
星詠みの魔女は自分の縄張りである天文台に帰ってきていた。
夜明けの空が東雲色に染まっている。
そろそろ“使者”が冬の城へと到着する頃だろう。
彼女の試練を乗り越えた魔獣は、太陽の少年と再会する。
そして物語は次の章へと進むのだ。
「それにしても……ステラちゃん、フラれちゃいましたね」
彼女は呟いたが、その表情はたいして残念そうでもない。
「でも、運命に抗うヒトって、やっぱり素敵だと思いません?」
魔女は虚空に向かって問いかける。もちろん返事なんてないが、やり遂げた彼女は満足げだった。
大義のために己を捨て、未来のための礎となった名も無き人々。
あるいは、大を生かすための小さな犠牲だったり、何かを成し遂げるための生贄だったり。
しかし彼らのことなんて、大抵の人間は覚えていない。
酷い場合は彼らの無駄死にを嘲笑いすらして、彼らが残した世界を貪り尽くす――犠牲の恩恵を受けるのは、いつだって戦わなかった者たちだ。
誰でも一度は、そんな不条理を、理不尽な世界を憎むだろう。
そんな世界で生きる、弱い自分を憎むだろう。
だがかつて、その語られざる物語に思いを馳せ、憎しみを克服し、理想のために一歩を踏み出した者たちが居た。
星詠みの魔女はどこからか紙の束を取り出す。
そこに記されている詩は、彼女の星詠みと全く別の方法で導き出された未来の予言だ。
ただし、星詠みが“未来を識るための予言”だとするならば、その紙束に記されているのは“未来を変えるための予言”である。
――冬を纏う獣が、白亜の牢獄を抜け出す。
可憐な薔薇に背を向けて、咆哮を上げる時、空白の玉座が遂に埋まるだろう。
そして太陽を背に北風は、凍る世界を駆け抜ける。
聖女が祈祷る傍らで、吹雪は永久を祝福し、その代償として――。
「いよいよ、最後の章節です。全てを知る覚悟は、できていますか?」
成立目前の予言を口ずさんでみてから、感慨深げに彼女は言った。
――後の世で、“冬の王”と言えば凶暴かつ無慈悲な存在として描写されることが多い。
全ての命を憎んだとされる冬の王。
神々に反旗を翻した、恐ろしい怪物たちの一柱。
望まれなくても毎年律儀に訪れて、多くの命を奪っていく忌み嫌われた季節。
しかしごく稀に、彼が人間に対して友好的な存在であるかのごとく描かれることもある。
太陽の王子と聖女の物語は、その数少ない一例であった。
そして、とある名も無き詩人はその物語に、誰もが知ることになる洒落た題名を付けたのである。
――“北風と太陽の英雄譚”と。
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