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19話
湯煙の“顔”
しおりを挟む湯気がふわりと立ちのぼる、提灯の灯る坂の先──
ひっそりとした木造の宿が、まるで山の呼吸の一部のように静かに佇んでいた。
異界の奥、言葉少なな世界の片隅。
名を掲げることもないが、知る者は知る、特別な湯処。
アヤトは一歩、暖簾の前で足を止める。
「……妙に、落ち着くな。こういうの」
ほっと漏れた独り言に、隣の師匠がくすりと笑った。
「気に入ると思ったわ。さ、入りましょ」
暖簾をくぐると、木の香りと湯の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
その直後、宿の中からすっと現れたのは──
狐耳の女将だった。
和装の裾をすべらせ、しなやかに手を合わせて深く頭を下げる。
「──これはこれは……ヨモギ様。ようこそお越しくださいました」
驚きと敬意が入り混じった声音。そのどちらも、抑えきれずに滲んでいた。
「お部屋は、離れの特室をご用意しております。湯も、酒も、すぐに」
丁寧に並ぶ言葉の一つひとつが、なによりの歓迎の証だった。
思わず、アヤトは隣の師匠を見る。
──変わらない。いつも通り、穏やかな笑みを浮かべたまま。
だが、その存在がひとたび宿に足を踏み入れれば、空気そのものが変わる。
言葉はいらない。
この世界で、師匠を知らぬ者などいない。
ただ、そこに立っているだけで、誰もが“気づいてしまう”。
(……やっぱ、すげぇな)
口にするのは照れくさい。だから、心の中でだけ呟いた。
比べるつもりはない。けど──やっぱり、格が違う。
「ふふ、湯に案内してくださるかしら?」
「はっ、もちろんでございます」
女将がすっとひと礼し、静かな足取りで奥へと進む。
アヤトはその背を追いながら、背後から漂う湯の香りに、ようやく肩の力を抜いた。
「……ようやく、癒やされる時間か」
「ええ。しっぽりとね」
ふわりと、師匠の尾が背中を押す。
そのやさしい感触に身を任せながら、アヤトは静かに歩を進めた。
宿の奥、湯屋へと続く廊下は、提灯の灯りに照らされてほのかに湿り気を帯びている。
簀子の先にある脱衣所は、古い木の香りがする静かな空間だった。
俺は無造作に帯をほどき、衣を脱いでいく。
幻で曖昧にしていた装いも、ここでは意味を成さない。人目を気にする場所じゃないし、そもそも──
「……ふふ。変わってないわね、その癖」
振り返ると、師匠がすでに浴衣を脱ぎかけていた。
金色の髪がさらりとこぼれ、白い指先が静かに腰の帯をほどいていく。
その動きが、なんとも……悔しい。
無駄がない。媚びもない。
ただ、ひとつひとつの仕草が、湯屋の静けさと溶け合うように馴染んでいた。
「見惚れるのは勝手だけど、湯が冷めるわよ?」
「……いや、見惚れてねえし」
視線を逸らす。癪だった。
俺がやれば雑に見えるだけの所作が、あの人がやると“絵になる”。
師匠は笑みを浮かべたまま、脱ぎ捨てた衣を籠に入れ、するりと湯屋の奥へ消えていった。
ついていく俺の足取りは、ほんの少しだけ重たかった。
湯気が濃く、目の前の景色がゆらゆらと歪んでいる。
石造りの湯船。岩の隙間から流れ落ちる湯音。
そのどれもが、異界の自然と呼応するような穏やかさをまとっていた。
──湯に沈めば、すべてがほどけていく。
そういう場所だ、ここは。
師匠はすでに肩まで湯に浸かり、髪を解いていた。
長い髪が湯に流れ、尾のように漂っている。その奥で、十三本の尾もふわりと揺れた。
「ふう……」
小さく息を吐いた師匠が、こちらを振り向きもせずにぽつりと言う。
「ちゃんと、疲れは取っておかないと。……次に何が起きるか、分からないわよ」
「……あんたが言うと、不穏に聞こえるんだよな。まるで“知ってる”みたいに」
「さあ、どうかしら?」
気の抜けた返事だったが──
あの人の言葉は、冗談に聞こえないのが常だ。
湯は熱すぎず、ぬるすぎず。
体の芯から、じわじわと緊張を溶かしていく。
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