20 / 51
20話
湯に浮かぶ杯
しおりを挟む湯に浸かって間もなく、気配がひとつ、静かに近づいてきた。
「失礼いたします。熱燗と、おつまみを」
現れたのは、まだ若い仲居だった。
湯けむりの中でも姿勢を崩さず、丁寧に頭を下げる。
手には、木の盆。その上には、小ぶりな徳利とふたつの杯。
さらに──香ばしく炙られたえいひれと、小皿に盛られた焼き味噌が添えられていた。
仲居は岩の縁にそっと盆を置き、師匠──ヨモギへと深く一礼する。
「お口に合えば幸いです。……それでは、ごゆるりと」
そのまま、音も立てずに立ち去っていった。
湯気に包まれた空間に、酒の香りと、香ばしい肴の匂いが溶けていく。
「……師匠、さっき頼んでたのか?」
「頼まなくても、通じるのが良い宿よ。……贔屓にしてるの」
ヨモギの答えは、簡素で、それ以上の言葉を必要としなかった。
俺は徳利を手に取り、師匠のほうへと軽く片手を伸ばす。
「ほら。まずは、あんたからだろ」
「まあ……気が利くじゃない」
ヨモギが少しだけ身を起こし、湯の中で手を差し出す。
その指先が杯を受け取ると同時に、俺はゆっくりと酒を注いだ。
徳利の口から流れる細い一筋が、湯気にかすかに光って見えた。
「……こぼさないでね」
「わかってるって。昔とは違うんだ」
注ぎ終えると、師匠はほんの少し、杯をこちらへ傾けて見せた。
それだけで、なんだか少し──報われた気がした。
ちゃぽん……と、小さな音が湯面に響いた。
湯の中に浮かべた木の盆。その上に、丸い徳利とふたつの杯が揺れている。
ほのかに漂うのは、湯気と──湯の熱にあぶられた酒の香り。
「……温泉で熱燗なんて、贅沢すぎるな」
「この宿だからこそよ。湯も、酒も、扱いが丁寧」
ヨモギは、ゆったりとした動きで杯を手に取ると、ほんの少し唇を濡らした。
その仕草が、湯の香とひとつになって見えるのが、なんとも悔しい。
俺もひとつ手に取り、口をつける。
──やわらかな辛味。すっと身体に染みてくる。
「……うまい」
「でしょう?」
十三の尾が、湯の中でゆるやかに揺れていた。
さっきまでの静寂とは違う、まどろみのような空気が漂っている。
湯の中で、俺はふと、杯を見つめた。
「……あんたが、俺に技をくれなかったら──とっくに死んでた」
最初から、幻を纏ってた。
重ねて、集中して、限界まで張りつめた状態で──あの異形の大群に突っ込んだ。
「逃げる気はなかった。……ただ、あれがなけりゃ、押し潰されて終わってた」
牙も、腕も、触手も、何もかもが俺を喰らいに来てた。
幻装がなきゃ、ひと息で粉々にされてたと思う。
「教えられた通りの“形”じゃなかったけど……
でも、あんたが叩き込んでくれた“基礎”が、俺を動かしてた」
幻を制御できたのは、自分の力じゃない。
体に残ってたのは、昔、何度も何度も繰り返した“あんたの教え”だった。
「だから、今こうして湯に浸かれてる。──感謝してる。ほんとに」
感謝の言葉に、ヨモギは杯を傾けたまま、少しだけ目を細めた。
「……ふふ、らしくないわね。けど──聞かなかったことにはしないでおくわ」
そう言って、えいひれを一枚、箸でつまむ。
炙られた縁が、ほんの少し焦げて香ばしい。
「やっぱり、このえいひれ……いいわね。
塩気がほどよくて、湯の中でも酒の邪魔をしない」
続けて、焼き味噌も少し。湯気とともに香りが立つ。
「それに、今日の焼き味噌も当たり。こういうの、贔屓にしたくなるのよ」
「……いや、俺が注ぐからって、飲みすぎるなよ?」
「だいじょうぶ。あなたの注ぎは、まだ不器用だもの。追いつけるわ」
杯を指先でくるりと回しながら、ヨモギはくすりと笑った。
0
あなたにおすすめの小説
転生先はご近所さん?
フロイライン
ファンタジー
大学受験に失敗し、カノジョにフラれた俺は、ある事故に巻き込まれて死んでしまうが…
そんな俺に同情した神様が俺を転生させ、やり直すチャンスをくれた。
でも、並行世界で人々を救うつもりだった俺が転生した先は、近所に住む新婚の伊藤さんだった。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
クラス転移したら種族が変化してたけどとりあえず生きる
アルカス
ファンタジー
16歳になったばかりの高校2年の主人公。
でも、主人公は昔から体が弱くなかなか学校に通えなかった。
でも学校には、行っても俺に声をかけてくれる親友はいた。
その日も体の調子が良くなり、親友と久しぶりの学校に行きHRが終わり先生が出ていったとき、クラスが眩しい光に包まれた。
そして僕は一人、違う場所に飛ばされいた。
チート魔力を持ったせいで世界を束ねる管理者に目を付けられたが、巻き込まれたくないので金稼ぎします
桜桃-サクランボ-
ファンタジー
金さえあれば人生はどうにでもなる――そう信じている二十八歳の守銭奴、鏡谷知里。
交通事故で意識が朦朧とする中、目を覚ますと見知らぬ異世界で、目の前には見たことがないドラゴン。
そして、なぜか“チート魔力持ち”になっていた。
その莫大な魔力は、もともと自分が持っていた付与魔力に、封印されていた冒険者の魔力が重なってしまった結果らしい。
だが、それが不幸の始まりだった。
世界を恐怖で支配する集団――「世界を束ねる管理者」。
彼らに目をつけられてしまった知里は、巻き込まれたくないのに狙われる羽目になってしまう。
さらに、人を疑うことを知らない純粋すぎる二人と行動を共にすることになり、望んでもいないのに“冒険者”として動くことになってしまった。
金を稼ごうとすれば邪魔が入り、巻き込まれたくないのに事件に引きずられる。
面倒ごとから逃げたい守銭奴と、世界の頂点に立つ管理者。
本来交わらないはずの二つが、過去の冒険者の残した魔力によってぶつかり合う、異世界ファンタジー。
※小説家になろう・カクヨムでも更新中
※表紙:あニキさん
※ ※がタイトルにある話に挿絵アリ
※月、水、金、更新予定!
蒼き樹海の案内人
蒼月よる
ファンタジー
辺境の森で育った少年ユーリには、不思議な目がある。魔素の流れが光の粒として見えるのだ。
蒼の樹海——人を喰らう巨大な森に足を踏み入れた彼は、遺跡屋の青年カイと出会い、冒険者として歩み始める。樹海の奥に眠る遺跡、港街の裏に潜む陰謀、灰に覆われた滅びの国、そして首都に隠された世界の秘密。
仲間と共に世界を巡るうちに、ユーリは気づいていく。この世界の「魔法」も「神」も、すべてが何かの残骸なのではないか——と。
冒険・バトル・素材経済・食文化を軸に、ファンタジーの裏に潜むSF的真実へと辿り着く、全4巻の冒険ファンタジー。
この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。
・世界観・設定の管理補助
・プロット段階の壁打ち
・作者による執筆後の校正
【超速爆速レベルアップ】~俺だけ入れるダンジョンはゴールドメタルスライムの狩り場でした~
シオヤマ琴@『最強最速』発売中
ファンタジー
ダンジョンが出現し20年。
木崎賢吾、22歳は子どもの頃からダンジョンに憧れていた。
しかし、ダンジョンは最初に足を踏み入れた者の所有物となるため、もうこの世界にはどこを探しても未発見のダンジョンなどないと思われていた。
そんな矢先、バイト帰りに彼が目にしたものは――。
【自分だけのダンジョンを夢見ていた青年のレベリング冒険譚が今幕を開ける!】
壊獄の浄祓師
はといるか
ファンタジー
人の悪面から生まれ落ちた穢れしモノ「穢者」
それらに対抗する力、浄力を操り穢者を排除すべく戦う「浄祓師」。
普通の高校生活を送っていた坂宮幽斗はとある事件によって浄穢の戦いに巻き込まれてしまう。
守るべきものの為に幽斗は浄祓師として戦いに身を投じていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる