異界育ちの幻使い

yasunari311

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20話

湯に浮かぶ杯

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 湯に浸かって間もなく、気配がひとつ、静かに近づいてきた。

「失礼いたします。熱燗と、おつまみを」

 現れたのは、まだ若い仲居だった。
 湯けむりの中でも姿勢を崩さず、丁寧に頭を下げる。
 手には、木の盆。その上には、小ぶりな徳利とふたつの杯。
 さらに──香ばしく炙られたえいひれと、小皿に盛られた焼き味噌が添えられていた。

 仲居は岩の縁にそっと盆を置き、師匠──ヨモギへと深く一礼する。

「お口に合えば幸いです。……それでは、ごゆるりと」

 そのまま、音も立てずに立ち去っていった。

 湯気に包まれた空間に、酒の香りと、香ばしい肴の匂いが溶けていく。

「……師匠、さっき頼んでたのか?」

「頼まなくても、通じるのが良い宿よ。……贔屓にしてるの」

 ヨモギの答えは、簡素で、それ以上の言葉を必要としなかった。

 俺は徳利を手に取り、師匠のほうへと軽く片手を伸ばす。

「ほら。まずは、あんたからだろ」

「まあ……気が利くじゃない」

 ヨモギが少しだけ身を起こし、湯の中で手を差し出す。
 その指先が杯を受け取ると同時に、俺はゆっくりと酒を注いだ。

 徳利の口から流れる細い一筋が、湯気にかすかに光って見えた。

「……こぼさないでね」

「わかってるって。昔とは違うんだ」

 注ぎ終えると、師匠はほんの少し、杯をこちらへ傾けて見せた。
 それだけで、なんだか少し──報われた気がした。

 

 ちゃぽん……と、小さな音が湯面に響いた。

 湯の中に浮かべた木の盆。その上に、丸い徳利とふたつの杯が揺れている。
 ほのかに漂うのは、湯気と──湯の熱にあぶられた酒の香り。

「……温泉で熱燗なんて、贅沢すぎるな」

「この宿だからこそよ。湯も、酒も、扱いが丁寧」

 ヨモギは、ゆったりとした動きで杯を手に取ると、ほんの少し唇を濡らした。
 その仕草が、湯の香とひとつになって見えるのが、なんとも悔しい。

 俺もひとつ手に取り、口をつける。

 ──やわらかな辛味。すっと身体に染みてくる。

「……うまい」

「でしょう?」

 十三の尾が、湯の中でゆるやかに揺れていた。
 さっきまでの静寂とは違う、まどろみのような空気が漂っている。

 

 湯の中で、俺はふと、杯を見つめた。

「……あんたが、俺に技をくれなかったら──とっくに死んでた」

 最初から、幻を纏ってた。
 重ねて、集中して、限界まで張りつめた状態で──あの異形の大群に突っ込んだ。

「逃げる気はなかった。……ただ、あれがなけりゃ、押し潰されて終わってた」

 牙も、腕も、触手も、何もかもが俺を喰らいに来てた。
 幻装がなきゃ、ひと息で粉々にされてたと思う。

「教えられた通りの“形”じゃなかったけど……
 でも、あんたが叩き込んでくれた“基礎”が、俺を動かしてた」

 幻を制御できたのは、自分の力じゃない。
 体に残ってたのは、昔、何度も何度も繰り返した“あんたの教え”だった。

「だから、今こうして湯に浸かれてる。──感謝してる。ほんとに」

 

 感謝の言葉に、ヨモギは杯を傾けたまま、少しだけ目を細めた。

「……ふふ、らしくないわね。けど──聞かなかったことにはしないでおくわ」

 そう言って、えいひれを一枚、箸でつまむ。
 炙られた縁が、ほんの少し焦げて香ばしい。

「やっぱり、このえいひれ……いいわね。
 塩気がほどよくて、湯の中でも酒の邪魔をしない」

 続けて、焼き味噌も少し。湯気とともに香りが立つ。

「それに、今日の焼き味噌も当たり。こういうの、贔屓にしたくなるのよ」

「……いや、俺が注ぐからって、飲みすぎるなよ?」

「だいじょうぶ。あなたの注ぎは、まだ不器用だもの。追いつけるわ」

 杯を指先でくるりと回しながら、ヨモギはくすりと笑った。
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