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21話
ビールが飲みてぇ夜
しおりを挟む湯のぬくもりにほどよく酔った頃、俺はそっと湯から立ち上がった。
腹が減った。そろそろ、肴をつまみに本腰を入れたいところだ。
湯気越しに振り返ると、師匠はまだ湯に浸かったまま、
のんびりと腕を伸ばし、壁際の岩にもたれていた。
金の髪が湯にさらりと流れ、十三本の尾が湯面で揺れている。
ただそこにいるだけで、様になるのがずるい。
──ま、あの人は昔からそういう人だ。
「先に上がる。……あんたは、ゆっくりしてろよ」
「ええ。あとで追いつくわ」
湯に反射する灯りが、師匠の輪郭をやわらかく浮かび上がらせていた。
俺は髪を払い、ざっと体を拭いて、湯屋を後にする。
* * *
湯屋を出ると、夜気がひんやりと肌に心地よかった。
すぐ脇に設けられた休み処には、すでに料理が用意されていた。
木の膳に、香ばしい肴がいくつも並んでいる。
湯気を上げる鍋。湯葉のようにやわらかな豆腐がぐつぐつと音を立て、
炙った川魚の串焼きは、皮がこんがりと焦げて香ばしい。
山菜の胡麻和えや、出汁のきいた煮物も小鉢に整えられていた。
──これぞ、異界の“おもてなし”。
「……こりゃたまんねぇな」
思わず腹が鳴った。
だが、箸は伸ばさない。──先に手をつけるわけにはいかない。
湯上がりの髪をざっと拭きながら、膳の横でじっと師匠を待つ。
ほどなくして、背後にふわりと気配が近づいた。
「ずいぶん幸せそうな顔してるわね」
湯上がりの師匠が立っていた。
軽く髪をまとめ、肩に羽織をかけた姿は──相変わらず、絵になる。
「……来たか。もう、腹が鳴りっぱなしだったぞ」
「ふふ、よく我慢したわね。はい、座って」
促されてようやく、俺は師匠と並んで膳の前に座る。
「じゃ、あんたから先に。今日はご馳走になってんだからな」
「そう? じゃあ、遠慮なく」
師匠は手を合わせ、さらりと箸を取る。
その動作を見届けてから、ようやく俺も手を伸ばした。
最初に箸をつけたのは、炙った川魚の串焼き。
口に入れた瞬間、じゅわりと脂がひろがり、皮の香ばしさが鼻をくすぐる。
「──っく……うまっ」
気が抜ける。肩の力も、胃袋の奥も、ゆるゆるとほどけていく。
異界に戻って、ようやく本当に“人心地”ついた気がした。
「湯もいいが、こっちはこっちで……反則だろ、これは」
「この宿は料理も酒も、全部“心得てる”のよ。だから贔屓にしてるの」
そう言って、師匠も焼き味噌を酒で流し込む。
その所作があまりに自然で、少しだけ羨ましくなった。
串を平らげ、次に手を伸ばしたのは──胡麻和え。
山菜のほろ苦さと胡麻の香りが合わさり、口の中がふわりと和らぐ。
「……人間界の飯も、こうやってゆっくり食えた頃があったんだがな」
俺がぼそりと漏らすと、師匠がふっと笑った。
「懐かしい話ね。あんた、たしか商店街の屋台とか、好きだったわよね」
「そうそう。串カツと、コロッケと……あと、瓶のラムネ」
ふたりで思い出をつつくように、話を転がしていく。
でもその奥に、やはり拭えないものがあった。
「……けど、もう全部、形もなかった。
俺が通った場所は、どこも無人で……動いてる“何か”はいたけど、もう人とは言えなかった」
箸を止めることなく、俺は淡々と語る。
湯気が立ち上る鍋から、優しい香りが流れてくるのが、少しだけ救いだった。
「それでも、“人の暮らしの跡”ってのは残ってた。……だから、ちょっとだけ、探しちまったよ。誰かいないかって」
すると、師匠が酒の杯をくるりと回してから、そっと口を開く。
「……わたしと縁がある場所では、“気”が残っていたわ」
「気?」
「あんたの通らなかった土地かもしれないけど、完全に喰われた感じはなかったの。
うっすらとでも、息づく気配──生きてる者が、まだ、どこかで踏ん張ってるのかもしれないわ」
その声音は、希望を語っているようで、根拠を携えていた。
師匠が感じ取ったというなら、きっと──信じていい。
「……そっか。なら、まだ、やることはあるな」
焼き味噌に箸を伸ばす。香ばしさが、またひとつ、腹に染みていく。
「……にしても、ほんとにうまいな。まったく、この宿の贅沢さは反則だ」
「ふふ、でしょう?」
「……ビールが飲みてぇ」
師匠がくすっと笑った。
「まだ酔ってないの?」
「ちがうちがう。あのシュワッとしたやつが、串焼きと一緒に流し込めたら……最高だったなって思っただけだ」
「まったく……欲張りね、あんたは」
湯気の向こう、師匠の笑みがゆらゆらと溶けていく。
語り合いながら、肴をつつき、杯を交わす──
ようやく、心の底から“帰ってきた”気がした。
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