異界育ちの幻使い

yasunari311

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44話

湯けむりの向こう、静かな灯

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 ──静寂が、湯処を包んでいた。

 島民たちの視線が、いまもアヤトに注がれている。
 湯けむりの奥、その背には問いかけも戸惑いも、そして焦りすらあった。

 「……すまない。辛いことを話した。けど、隠すわけにもいかなかった」

 そう言って、アヤトは湯からそっと立ち上がる。
 肩から滴る湯を拭い、脱衣所へと戻っていった。

 誰も、彼を引き止めなかった。



 羽織を羽織り直すと、湯処の戸を開けて外へ出る。
 夜の空気がひんやりと肌を撫でた。

 少し離れたところに、ナギリの姿があった。
 湯処の灯を背に、静かに立っている。

 「──待たせたな」

 アヤトがそう言うと、ナギリは小さく首を横に振った。

 「いえ。風が気持ちよくて、ちょうどよい時間でした」
 
彼女の声は、どこまでも静かだった。

 「……けど、もっとゆっくり味わいたかったな。あの湯は、いい湯だった」

 ぽつりとこぼすアヤトの言葉に、ナギリのまぶたがわずかに揺れた。

 「また、いつでも」

 ──その返事が、妙に優しくて。

 アヤトは、ほんの少しだけ口元を緩めた。



 ふと、ナギリが一歩前に出て、静かに問いかけた。

 「──アヤト様、お食事はいかがでしょうか?」

 アヤトは少し目を細めた。

 「……風呂に入ってる間に、もう用意したのか?」

 「はい。湯に浸かられる前から、準備は始めておりました」

 その言いぶりに、少しだけ引っかかりを覚える。

 アヤトはしばらく黙ってナギリを見つめ──やがて、口の端を上げた。

 「……妙に用意がいいな。俺が来ること、分かってたのか?」

 ナギリは、静かに頷いた。

 「──予感、のようなものです。
  この島では、そういう力が、代々、受け継がれております」

 アヤトは「なるほどな」とひとつ呟き、首を回すようにして肩を軽くゆるめた。

 そのまま歩き出したアヤトに、ナギリがそっと並ぶ。

 「今宵の食卓には、島の野菜と、湖でとれた淡水魚を。──お酒も、少しだけ」

 「……それはありがたい。じゃあ、存分に味わわせてもらうとするか」

 地に足のついた暮らしの気配が、足音とともに近づいていた。



 二人の足音が、静かな路地に溶けていく。

 導かれた先は──島の外れにある、ひとつの離れだった。

 木造の平屋建て。人の気配はなく、灯りだけが温かく漏れていた。
 中に入ると、こぢんまりとした囲炉裏のある食卓がしつらえられていた。
 炊きたての白米の香り。湯気の立つ味噌椀。焼かれた淡水魚の脂が、香ばしく鼻をくすぐる。

 「……やけに落ち着くな」

 アヤトは静かに座し、湯飲みを手に取った。
 酒が入っているのか、やや甘く、米の香りが広がる。

 ナギリは彼の対面には座らず、少し距離を置いたところに控えていた。

 「この離れは、昔──おもてなし専用の席として使われていたそうです。
  今はほとんど使われていませんが……今日は、よろしければ」

 「なるほど。よくできてるな、ほんとに」

 箸を手に取りながら、アヤトは視線を少し上げた。

 「……俺の到着を、“予感”で察して、ここまで整えるってのは、簡単じゃない」

 「……血に、そういう気配があるのです。だから、私がここにいるのです」

 ナギリの声は穏やかだったが、その芯には確かな覚悟が宿っていた。

 アヤトはしばし黙って、その顔を見ていたが──やがてふっと、口元を緩めた。

 「だったら、しっかり味わっておかないとな。せっかくの気配りだ」

 そして、ひと口。白米の甘みが、確かに広がった。



 食事はゆっくりと進んだ。

 言葉は少なかったが、それがかえって心地よい余白になっていた。

 夜風が窓の隙間をすり抜け、遠くで虫の声が響いている。

 ──ああ、こういう夜も悪くない。

 ふと、アヤトの中に、そんな言葉が浮かんだ。

 戦いも、旅も、傷も、幻も──いっとき、脇に置いて。

 静かな時間に身を預けることが、これほど貴重だったとは。



 食事を終え、湯飲みの底に残った酒をゆっくりと呑み干す。

 そのとき、ナギリが静かに口を開いた。

 「……何も申し上げませんが、アヤト様の道が、険しいものであることは分かります。
  ですが……」

 少しだけ、言葉を切る。

 「こうして人が待っていた場所も、あるのだと──
  どうか、それを忘れぬように」

 アヤトは目を閉じ、ゆっくりと深く、息を吐いた。

 そして、わずかに頷いた。

 「……ああ。覚えておくさ」

  言いながら、アヤトは静かに立ち上がる。

 羽織を整えながら、ふと振り返った。

 「──そうだ。ひとつ、頼んでもいいか?」

 ナギリが顔を上げる。

 「なんでしょう」

 「その酒……ひと瓶、持たせてもらえないか? 師匠に土産でな」

 ナギリのまぶたがわずかに動き──やがて、微笑を浮かべた。

 「もちろん。お師匠様にふさわしい、香り高い一瓶を」

 アヤトも、少し口元を緩めて頷いた。

 「助かる」



 夜が深まっていく。
 ──酒を土産に、心も整った。あとは、帰るだけ。
 異界が、すぐそこにあった。

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