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44話
湯けむりの向こう、静かな灯
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──静寂が、湯処を包んでいた。
島民たちの視線が、いまもアヤトに注がれている。
湯けむりの奥、その背には問いかけも戸惑いも、そして焦りすらあった。
「……すまない。辛いことを話した。けど、隠すわけにもいかなかった」
そう言って、アヤトは湯からそっと立ち上がる。
肩から滴る湯を拭い、脱衣所へと戻っていった。
誰も、彼を引き止めなかった。
⸻
羽織を羽織り直すと、湯処の戸を開けて外へ出る。
夜の空気がひんやりと肌を撫でた。
少し離れたところに、ナギリの姿があった。
湯処の灯を背に、静かに立っている。
「──待たせたな」
アヤトがそう言うと、ナギリは小さく首を横に振った。
「いえ。風が気持ちよくて、ちょうどよい時間でした」
彼女の声は、どこまでも静かだった。
「……けど、もっとゆっくり味わいたかったな。あの湯は、いい湯だった」
ぽつりとこぼすアヤトの言葉に、ナギリのまぶたがわずかに揺れた。
「また、いつでも」
──その返事が、妙に優しくて。
アヤトは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
⸻
ふと、ナギリが一歩前に出て、静かに問いかけた。
「──アヤト様、お食事はいかがでしょうか?」
アヤトは少し目を細めた。
「……風呂に入ってる間に、もう用意したのか?」
「はい。湯に浸かられる前から、準備は始めておりました」
その言いぶりに、少しだけ引っかかりを覚える。
アヤトはしばらく黙ってナギリを見つめ──やがて、口の端を上げた。
「……妙に用意がいいな。俺が来ること、分かってたのか?」
ナギリは、静かに頷いた。
「──予感、のようなものです。
この島では、そういう力が、代々、受け継がれております」
アヤトは「なるほどな」とひとつ呟き、首を回すようにして肩を軽くゆるめた。
そのまま歩き出したアヤトに、ナギリがそっと並ぶ。
「今宵の食卓には、島の野菜と、湖でとれた淡水魚を。──お酒も、少しだけ」
「……それはありがたい。じゃあ、存分に味わわせてもらうとするか」
地に足のついた暮らしの気配が、足音とともに近づいていた。
⸻
二人の足音が、静かな路地に溶けていく。
導かれた先は──島の外れにある、ひとつの離れだった。
木造の平屋建て。人の気配はなく、灯りだけが温かく漏れていた。
中に入ると、こぢんまりとした囲炉裏のある食卓がしつらえられていた。
炊きたての白米の香り。湯気の立つ味噌椀。焼かれた淡水魚の脂が、香ばしく鼻をくすぐる。
「……やけに落ち着くな」
アヤトは静かに座し、湯飲みを手に取った。
酒が入っているのか、やや甘く、米の香りが広がる。
ナギリは彼の対面には座らず、少し距離を置いたところに控えていた。
「この離れは、昔──おもてなし専用の席として使われていたそうです。
今はほとんど使われていませんが……今日は、よろしければ」
「なるほど。よくできてるな、ほんとに」
箸を手に取りながら、アヤトは視線を少し上げた。
「……俺の到着を、“予感”で察して、ここまで整えるってのは、簡単じゃない」
「……血に、そういう気配があるのです。だから、私がここにいるのです」
ナギリの声は穏やかだったが、その芯には確かな覚悟が宿っていた。
アヤトはしばし黙って、その顔を見ていたが──やがてふっと、口元を緩めた。
「だったら、しっかり味わっておかないとな。せっかくの気配りだ」
そして、ひと口。白米の甘みが、確かに広がった。
⸻
食事はゆっくりと進んだ。
言葉は少なかったが、それがかえって心地よい余白になっていた。
夜風が窓の隙間をすり抜け、遠くで虫の声が響いている。
──ああ、こういう夜も悪くない。
ふと、アヤトの中に、そんな言葉が浮かんだ。
戦いも、旅も、傷も、幻も──いっとき、脇に置いて。
静かな時間に身を預けることが、これほど貴重だったとは。
⸻
食事を終え、湯飲みの底に残った酒をゆっくりと呑み干す。
そのとき、ナギリが静かに口を開いた。
「……何も申し上げませんが、アヤト様の道が、険しいものであることは分かります。
ですが……」
少しだけ、言葉を切る。
「こうして人が待っていた場所も、あるのだと──
どうか、それを忘れぬように」
アヤトは目を閉じ、ゆっくりと深く、息を吐いた。
そして、わずかに頷いた。
「……ああ。覚えておくさ」
言いながら、アヤトは静かに立ち上がる。
羽織を整えながら、ふと振り返った。
「──そうだ。ひとつ、頼んでもいいか?」
ナギリが顔を上げる。
「なんでしょう」
「その酒……ひと瓶、持たせてもらえないか? 師匠に土産でな」
ナギリのまぶたがわずかに動き──やがて、微笑を浮かべた。
「もちろん。お師匠様にふさわしい、香り高い一瓶を」
アヤトも、少し口元を緩めて頷いた。
「助かる」
⸻
夜が深まっていく。
──酒を土産に、心も整った。あとは、帰るだけ。
異界が、すぐそこにあった。
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