【完結】前世で失った恋を、この世で。 ──黒曜の城で結ばれるふたりの夜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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第1話 殺すために嫁ぐ ― 黒曜の城へ

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 馬車が止まれば、私は“妻”になる。
 殺すために嫁ぐ。それなのに、
 彼の名を口にするたび、胸が痛む。
 理由もわからず、懐かしい気がした。

 馬車の窓を、朝靄が静かに流れていく。
 黒曜の城までは、もう遠くない。
 空気の温度が、明確に変わる。

 ルナ・エルトリアは、
 革手袋の指で窓枠を触れた。
 冷たい。
 この冷たさに負けないよう、
 胸の奥で決意を握りしめる。

(私は行く。国のために。
 あの男を殺すために)

 この任務は、名誉でも栄誉でもない。
 これは――処刑だ。
 ただ刃を振るう場所が敵国で、
 相手が将軍になっただけ。

 風が、馬車の側面を擦る。
 その音が、遠い戦場の呼吸に似ていた。

 光の王国アルクスは弱っている。
 敵国ヴァルド帝国に、
 一度でも隙を見せれば簡単に呑まれる。

 国を出る前、
 ラウルは視線を外さずに言った。

「お前ほど、適任はいない」
 
 その声は厳しく、それでいて
 どこか引っ込められた痛みを含んでいた。
 ルナは目の端に残る迷いを
 見なかったふりをした。 

 彼女は幼い頃から、
 そういう役割のために鍛えられてきた。

 剣と規律と忠誠。
 それがすべてなら、
 迷う理由はひとつもない。

(迷うべきではない)

 言い聞かせるように、
 心の底でゆっくり噛み締める。

 だが、馬車の揺れに合わせて
 喉の奥で、ふっと揺れる音がした。

 それは、言葉にするにはあまりにも小さく、
 しかし確かにそこに“揺れ”としてあった。

 馬車は丘を越える。
 霧が一瞬だけ薄れ、
 視界の端に――黒い塔の先端がのぞいた。

 吸い込まれるような黒。
 光さえ拒む色。

 黒曜石で築かれた城。
 闇の将軍が住まう場所。
 ここから先は、
 過去のルナではいられない。

(私は、ここで死ぬのかもしれない)

 思わず浮かんだ言葉をすぐに縫い消す。

(違う。私は“殺す”ために来た)

 自分の内側の不必要な揺れを
 言葉で静かに切っていく。
 それは、剣よりも難しい作業だった。

 馬車の影が黒曜城の外壁に近づくにつれ
 視界の色がゆっくりと単色になっていく。
 光は飲まれ、音は削られる。

 それでもルナの呼吸は整っていた。
 訓練された兵の呼吸。
 ただ一点に向けて研ぎ澄まされた戦の呼吸。

(私は、任務を遂行する)

 感情など、混ぜる余地はない。
 混ぜれば、足元をすくわれるだけだ。

 ――ただ、それでも。

 胸の奥のどこか深い場所で
 何かが、ほんの一瞬だけ、ざわりと揺れた。

(これは……恐れ?)

 そう思った瞬間、違う、とすぐに断ち切る。
 恐怖を語った時点で、
 それは“膝を折る”のと同義になる。
 騎士に、膝を折る権利はない。

 馬車は、速度を落とした。
 城門が、そこにある。
 馬車が完全に止まる。
 静寂が、世界を覆った。

 扉が開く音はしない。
 ただ、空気だけが、わずかに動いた。
 御者の声も、兵の声もない。
 降りるのは――自分の意志で。

 ルナは、片手で扉を押した。
 その重さは、ただの扉ではなかった。
 ひとつの国から、
 二度と戻れない場所へ渡る“境界”の重み。

 地へ足をつける。
 靴底に伝わる黒曜石の冷たさ。
 それは、魔術というより
 “記憶”の冷たさに思えた。

 正面の城門は、まだ閉ざされたまま。
 だが――閉ざされた扉ほど、入り口になる。

(ここで私は“妻”になる)

 その言葉が胸の奥に沈んだとき。
 視界の端で、小さな揺れが走った。
 門の上。
 黒衣の兵がふたり。
 槍を交差させるように、音もなく構える。

 そして――
 奥の闇から、ひとりの影が歩み出る。
 ゆるやかに、ゆっくりと。
 黒曜石の床に足音は生まれない。
 一歩ごとに、空気だけが揺れる。

 夜の名残をまとった、短い黒髪。
 そして――紅い瞳。
 ルナは、息を詰めた。
 その一瞬だけで、世界が変わると理解した。

 彼こそが、闇を統べる将軍――
 カイン・クロノス。
 その瞳は、まるで“待っていた”かのように
 ルナにまっすぐ向けられていた。

 初対面のはず。
 ただの政治の道具として送り出された、
 敵国の女騎士。
 本来なら、興味など抱く理由のない存在。
 なのに、その視線には“確信”があった。

(なぜ――そんな目で)

 胸の奥が一度だけ、かすかに震えた。
 ルナはそれを気のせいだとすぐに切り捨てる。

「アルクスの筆頭女騎士。ルナ・エルトリア」

 カインの声は、低く静かだった。
 それだけで、名を呼ばれた空気が揺れる。

「ここから先は、君は“妻”だ」

 その一行を否定する猶予も、
 抗う隙もない――
 完全な宣言だった。
 ルナはただ、ひとつだけ言葉を返す。

「私は――任務を遂行するだけ」

 カインは目を細めた。
 その目は、静かに“理解している”目だった。

「その任務が、私を殺すことであってもか?」

 ルナの喉が、一瞬止まる。
 なぜ“知っている”。
 なぜ、初対面で、そこまで。
 問いを発しようとした瞬間、
 カインは先に言った。

「ようやく――辿り着いた」

 その声は懐かしい誰かの声にも似ていた。

 ルナはまだ知らない。
 この男が、前世からずっと、
 ただ彼女ひとりだけを
 追い続けていたことを。

 黒曜の城の門が、静かに開いた。
 闇の国が、ふたりを飲み込む。
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