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第11話 涙を知る場所 ― 騎士の祈り
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夜の回廊は、ひどく静かだった。
黒曜の壁は、眠りも祈りも知らない。
ただ“意志”だけを閉じこめている石だ。
それゆえに、夜気の中で微かに呼吸しているように見える。
光ではなく、影だけを肥やして育つ城。
ルナは、歩いていた。
出口は分かっている。
階段を降りれば、城門の前庭だ。
門を押し開けば、もうそこは外の空気。
(出れば、私は戻れる)
任務の続きへ。
騎士としての自分へ。
刃と忠義と規律だけで生きた“以前の自分”へ。
だが、足が止まった。
石壁にもたれ、ゆっくり息を吸う。
その呼吸さえ、胸の内側で擦れて痛い。
(わかっている。私は出なければいけない)
この城は危険だ。
ここに居続ければ、任務は溶けてしまう。
刃より先に、揺れが来る。
感情という名の、騎士を殺す軟弱な波。
そんなものに飲まれてはいけない。
任務とは、感情を殺す作業だ。
しかし――喉の奥が熱くなる。
理由もなく。
唐突に。
胸の中心が、ひとつ、痛む。
涙は警告なしに落ちた。
ひと粒、石の床に音もなく落ちる。
声は出ない。
呼吸も乱れない。
ただ“水”だけが、落ちていく。
(なぜ、止めなかったのですか)
執務室で。
私が「行きます」と言ったとき。
あなたは、止めなかった。
「行ってもいい」
その一行で、終わった。
簡単に送り出された。
なのに胸の奥は、千々に乱れた。
止められたら、私は――もう二度と部屋から出られなかった。
止めなかったのは、許しだったのか。
それとも、自分を罰するための選択だったのか。
どちらでも苦しい。
涙が、ぽとり、ぽとりと落ちていく。
膝を抱えるように身体を縮めても、止まらない。
(私は……あなたを殺せなかった)
自身への告白だった。
任務の根を貫く宣誓に、静かな穴が空いた。
刃より先に、揺れが来る世界に、私は立っている。
騎士としての自分を、裏切った。
それは、確かな事実だ。
指先を見る。
短剣を握ろうとした手。
握れなかった手。
震えた手だ。
(もう戻れない)
声にはならない。
深い場所から生まれる思考だけが、自分を冷静に削っていく。
涙だけが、静かに落ちた。
石の床に涙の跡が、淡く残っていく。
乾けば消える痕跡。
誰にも見られず、誰にも触れられず、ただ石に吸い込まれて消える。
その一瞬限りの水の気配が、なぜこんなにも重いのか。
(私が泣く理由など、どこにもない)
そう思う。
そう思いたい。
任務はまだ終わっていない。
ここで涙を落とす資格は、本来どこにもない。
けれど――涙は止まらなかった。
膝を折って、床に指先をつく。
その指先が、微かに濡れている。
(私は、何に……泣いている?)
問いは宙に漂い、答えを持たない。
だが、胸の奥では、ひとつの輪郭だけが浮かんでいた。
あの男の声。
「私は、世界を信じられない」
拒絶ではなく、恐れだった。
外の世界に、私を晒すことを恐れている声だった。
支配ではなかった。
所有でもなかった。
ただ、脆い願いの形をしていた。
その気づきが、眼差しの奥をじわりと熱くした。
(私を……失うことを、怖れていた)
その一行を言葉にしてしまえば、何かが決壊する気がしたので、唇は噤むままだった。
廊下の端で、わずかに気配が揺れた。
振り返ると――そこに、セレスが立っていた。
夜明け前の光を受け、茶に近い黒の髪が淡く揺れる。
彼の瞳は、驚くほど静かだった。
セレスは歩み寄らず、ただ、距離を保ったまま口を開いた。
「泣けるようになったんですね」
その一文だけ。
慰めではない。
哀れみでもない。
ただ――現実の確認。
ルナは返す言葉を持たなかった。
セレスは続ける。
「カイン様は……あなたを“消費”しようとしていない。守っているんです。ずっと」
それは、淡い囁きのような声だった。
意味の説明ではなく、“真実”の形だけがそこにあった。
「だから、止めなかった」
ルナは、息を飲んだ。
「あなたが“自分の足”で、ここを出ていくことを……尊重したんです」
胸が、静かに軋む。
それは痛みではない。
揺らぎの奥に、初めて芽吹く“感情”の形だった。
セレスは、それ以上は何も言わなかった。
ただ一礼し、音を残さず去っていく。
残された静寂の中、ルナはゆっくり立ち上がる。
(私は……出る)
涙を拭わずに。
騎士としてではなく、一人の人間として。
これからの自分を“決める”ために。
黒曜の壁が、まだ夜を抱いている。
だが、廊下の端で、ほんの少しだけ空の色が変わっていた。
黎明の色だ。
この城を出れば、もう二度と戻れないかもしれない。
それでも、歩き出す。
涙を知った心で。
自分の足で。
自分の意志で。
黒曜の壁は、眠りも祈りも知らない。
ただ“意志”だけを閉じこめている石だ。
それゆえに、夜気の中で微かに呼吸しているように見える。
光ではなく、影だけを肥やして育つ城。
ルナは、歩いていた。
出口は分かっている。
階段を降りれば、城門の前庭だ。
門を押し開けば、もうそこは外の空気。
(出れば、私は戻れる)
任務の続きへ。
騎士としての自分へ。
刃と忠義と規律だけで生きた“以前の自分”へ。
だが、足が止まった。
石壁にもたれ、ゆっくり息を吸う。
その呼吸さえ、胸の内側で擦れて痛い。
(わかっている。私は出なければいけない)
この城は危険だ。
ここに居続ければ、任務は溶けてしまう。
刃より先に、揺れが来る。
感情という名の、騎士を殺す軟弱な波。
そんなものに飲まれてはいけない。
任務とは、感情を殺す作業だ。
しかし――喉の奥が熱くなる。
理由もなく。
唐突に。
胸の中心が、ひとつ、痛む。
涙は警告なしに落ちた。
ひと粒、石の床に音もなく落ちる。
声は出ない。
呼吸も乱れない。
ただ“水”だけが、落ちていく。
(なぜ、止めなかったのですか)
執務室で。
私が「行きます」と言ったとき。
あなたは、止めなかった。
「行ってもいい」
その一行で、終わった。
簡単に送り出された。
なのに胸の奥は、千々に乱れた。
止められたら、私は――もう二度と部屋から出られなかった。
止めなかったのは、許しだったのか。
それとも、自分を罰するための選択だったのか。
どちらでも苦しい。
涙が、ぽとり、ぽとりと落ちていく。
膝を抱えるように身体を縮めても、止まらない。
(私は……あなたを殺せなかった)
自身への告白だった。
任務の根を貫く宣誓に、静かな穴が空いた。
刃より先に、揺れが来る世界に、私は立っている。
騎士としての自分を、裏切った。
それは、確かな事実だ。
指先を見る。
短剣を握ろうとした手。
握れなかった手。
震えた手だ。
(もう戻れない)
声にはならない。
深い場所から生まれる思考だけが、自分を冷静に削っていく。
涙だけが、静かに落ちた。
石の床に涙の跡が、淡く残っていく。
乾けば消える痕跡。
誰にも見られず、誰にも触れられず、ただ石に吸い込まれて消える。
その一瞬限りの水の気配が、なぜこんなにも重いのか。
(私が泣く理由など、どこにもない)
そう思う。
そう思いたい。
任務はまだ終わっていない。
ここで涙を落とす資格は、本来どこにもない。
けれど――涙は止まらなかった。
膝を折って、床に指先をつく。
その指先が、微かに濡れている。
(私は、何に……泣いている?)
問いは宙に漂い、答えを持たない。
だが、胸の奥では、ひとつの輪郭だけが浮かんでいた。
あの男の声。
「私は、世界を信じられない」
拒絶ではなく、恐れだった。
外の世界に、私を晒すことを恐れている声だった。
支配ではなかった。
所有でもなかった。
ただ、脆い願いの形をしていた。
その気づきが、眼差しの奥をじわりと熱くした。
(私を……失うことを、怖れていた)
その一行を言葉にしてしまえば、何かが決壊する気がしたので、唇は噤むままだった。
廊下の端で、わずかに気配が揺れた。
振り返ると――そこに、セレスが立っていた。
夜明け前の光を受け、茶に近い黒の髪が淡く揺れる。
彼の瞳は、驚くほど静かだった。
セレスは歩み寄らず、ただ、距離を保ったまま口を開いた。
「泣けるようになったんですね」
その一文だけ。
慰めではない。
哀れみでもない。
ただ――現実の確認。
ルナは返す言葉を持たなかった。
セレスは続ける。
「カイン様は……あなたを“消費”しようとしていない。守っているんです。ずっと」
それは、淡い囁きのような声だった。
意味の説明ではなく、“真実”の形だけがそこにあった。
「だから、止めなかった」
ルナは、息を飲んだ。
「あなたが“自分の足”で、ここを出ていくことを……尊重したんです」
胸が、静かに軋む。
それは痛みではない。
揺らぎの奥に、初めて芽吹く“感情”の形だった。
セレスは、それ以上は何も言わなかった。
ただ一礼し、音を残さず去っていく。
残された静寂の中、ルナはゆっくり立ち上がる。
(私は……出る)
涙を拭わずに。
騎士としてではなく、一人の人間として。
これからの自分を“決める”ために。
黒曜の壁が、まだ夜を抱いている。
だが、廊下の端で、ほんの少しだけ空の色が変わっていた。
黎明の色だ。
この城を出れば、もう二度と戻れないかもしれない。
それでも、歩き出す。
涙を知った心で。
自分の足で。
自分の意志で。
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