【完結】前世で失った恋を、この世で。 ──黒曜の城で結ばれるふたりの夜

天音蝶子(あまねちょうこ)

文字の大きさ
13 / 27

第12話 前世の呼び声 ― 記憶が蘇るとき

しおりを挟む
 ――夜は、冷たい。

 どれほど呼吸を整えても胸の奥は熱く、逆に頬だけが冷えた。
 涙は静かに溢れたまま、乾く前にまた一粒ずつ零れた。

 泣くつもりはなかったのに。

 城を離れたはずの足は、半歩だけ前に出たところで止まってしまっていた。

(このまま――出ればいい)

 そう思っていた。

 思っていたのに、身体は動かない。
 胸の中心が、ぎゅ、と掴まれたまま、動けない。

 そのとき、背後から淡い声が落ちた。
 
「ここは風が当たります」 

 それだけ。慰めでも助言でもない。
 ルナは袖を直し、うなずく代わりに視線を落とした。

 セレスは薄い布を差し出す。
 受け取るかどうか、問わない手つき。 
 布は乾いていて、匂いがなかった。
 この城の物は皆、匂いを持たない。 

「目が少し赤い。冷えると痛む」

 観察が置かれる。評価はない。
 ルナは布を指先で折り、頬の跡をそっと押さえた。
 水の気配は、もう石に吸われている。 

「……見苦しいものを」

「見苦しくないよ」

 控えめな声。情を込めない軽さ。淡々とした事実確認。

「君は、初めて“誰かの言葉”で傷ついた。それだけだ」

 “誰か”。

 その二音が胸に刺さる。

 否定しようとした瞬間、セレスは静かに手を挙げ、その否定ごと封じた。

「ルナ。君は理解してないわけじゃない。認めていないだけだ」

 ルナは唇を噛んだ。

「私は――任務を」

「任務は、もう壊れた」

 セレスは淡々と言う。慰めではない。分析でもない。

 ただ、ルナの変化を“見た者”の言葉。

「君は、殺せる間は平然としていた。震えもしなかった。
 けれど……触れられて、揺れた」

 胸に落ちたその一行だけで呼吸が乱れた。

 セレスは目を伏せず、しかしルナを凝視もしないまま、
 まるで空気の密度を読むような静かな声音で続けた。

「カインは、君の涙を知れば怒るよ」

「……なぜ」

「怒る、というより――狂う、だね」

 淡い表現なのに、底に鋭い確信があった。

 ルナは喉の奥が小さく震えた。

 セレスが壁に背を預ける。

「カインは“前”に君を失った。だから、今度こそ絶対に手放さないだけだ」

 その“前”という言葉が、ひどく静かに心臓を掴んだ。

(前……?)

 理解を拒んだ。

 けれど、拒んでもその単語は奥へ刺さっていく。

 セレスは言い換えなかった。
 “前世”という直接の語を使わないまま、
 しかし意味だけを正確に置いていく。

「深い関係だった、と断言はしない。でも“願い”があった。カインにも、君にも」

 淡々。
 なのに、その一行だけが人の温度を纏っていた。

「そしてカインは、前では果たせなかった“願い”を、今世で果たそうとしている」

 拒めない。
 否定もできない。
 言葉が、静かに身体に染みていく。

 ――そのとき。

 石床に、ゆっくりと近づいてくる足音。

 セレスは言葉を閉じた。
 影の中へ溶け、気配ごと消えた。

 赤い瞳が、廊下の先にひとつ灯る。
 暗がりを裂くような、深い赤。

「……ルナ」

 呼ばれただけで、胸が軋んだ。

 カインは手を伸ばさない。
 ただ、数歩手前で足を止める。
 それだけで、空気が変わる。

「ここは寒い。戻る」

 理由も説明も言わない。
 ただ、その声音は――
 “ここからは離さない”と告げていた。

 ルナは何も返せなかった。
 返した瞬間、全てが確定する気がしたからだ。

 けれど、足だけは、ゆっくりと彼の方へ向いていた。

 歩幅を合わせるでもなく、寄り添うでもなく。
 ただ“隣に居る距離”で、ふたりはゆっくり歩いた。

 セレスの残した言葉が、胸の奥にまだ刺さったままだ。

(前に……?)

 否定したい。
 だが“理解”は、もう始まってしまっている。

 ――カインは、最初から知っていた。

 この城に来たルナを、一度も他人として扱わなかった理由。
 刃を向ける相手に、ためらいなく触れた理由。
 あの夜、髪に落ちた一滴の熱。

 全部、説明がついてしまう。

 騎士としての自分が崩れる。
 しかし逃げる先は、もう外にはない。

 外で生きるのではなく、
 この城で、彼の隣で――
 自分自身が揺れてしまっている。

(私は、戦場よりも、ここで……)

 胸の奥が、静かに震えた。

 カインの歩みが止まった。
 扉の前で、振り返らずに言う。

「今は、眠れ」

 淡い命令ではなく、ただの“願い”に近かった。
 その声音に、救いの気配すらあった。

 ルナは、唇を噛む。

「……私は、任務を」

「任務は、もう関係ない」

 カインは扉を押し開き、ルナの正面を見ないまま言った。

「君は、前にも泣いた」

 その一行で、呼吸が止まる。

 記憶ではない。
 しかし、胸が覚えている。

 ルナは、ふっと目を細める。

「前世の、私を……知っているのですか」

 問いではなく、確認だった。
 この夜、初めて、自分の声が震えた。

 カインは長い沈黙のあと、静かに一言だけ返した。

「ずっと、君だけを探していた」

 低く、穏やかで、残酷な言い方だった。
 それは愛でも執着でもなく、“事実”の口調。

 全てを理解している者の言い方だった。

 ルナは、言葉を返せなかった。
 返した瞬間、もう後戻りができないと分かるから。

 扉がゆっくり閉まる。

 閉じた扉の前で、ルナはひとつだけ息を吐いた。
 一滴だけ、涙が頬を落ちた。

 その涙は、昨日までの涙とは違う。

(私は……もう、戻れない)

 それは敗北ではなかった。
 まだ言葉にならない“何か”の始まりだった。

 ふたりの時間は、静かに、確実に、前世を結び直しはじめていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

村娘あがりの娼婦ですが、身請けされて幸せです

春月もも
恋愛
村を飛び出して王都に来たリリアは、いまは高級娼婦として生きている。 ここは通過点のはずだった。 誰かに選ばれて終わる物語なんて、わたしには関係ないと思っていたのに。 触れない客。 身体ではなく、わたしの話を聞きに来るだけの商人。 「君と話す時間を、金で買うのが嫌になった」 突然の身請け話。 値札のついた自分と向き合う三日間。 選ばれるのではなく選ぶと決めたとき、 通過点は終わりになる。 これは救いではなく対等な恋の話。

白い結婚は無理でした(涙)

詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。 明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。 白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。 小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。 現在、筆者は時間的かつ体力的にコメントなどの返信ができないため受け付けない設定にしています。 どうぞよろしくお願いいたします。

あの、初夜の延期はできますか?

木嶋うめ香
恋愛
「申し訳ないが、延期をお願いできないだろうか。その、いつまでとは今はいえないのだが」 私シュテフイーナ・バウワーは今日ギュスターヴ・エリンケスと結婚し、シュテフイーナ・エリンケスになった。 結婚祝の宴を終え、侍女とメイド達に準備された私は、ベッドの端に座り緊張しつつ夫のギュスターヴが来るのを待っていた。 けれど、夜も更け体が冷え切っても夫は寝室には姿を見せず、明け方朝告げ鶏が鳴く頃に漸く現れたと思ったら、私の前に跪き、彼は泣きそうな顔でそう言ったのだ。 「私と夫婦になるつもりが無いから永久に延期するということですか? それとも何か理由があり延期するだけでしょうか?」  なぜこの人私に求婚したのだろう。  困惑と悲しみを隠し尋ねる。  婚約期間は三ヶ月と短かったが、それでも頻繁に会っていたし、会えない時は手紙や花束が送られてきた。  関係は良好だと感じていたのは、私だけだったのだろうか。 ボツネタ供養の短編です。 十話程度で終わります。

前世の私は重い女だったので、今世は恋なんてしません。

ありま氷炎
恋愛
前世は余りにも夫が大好きで、愛が重すぎた。 だから捨てられた。 なので生まれ変わった今は、恋なんてするつもりはなかったのだけど……。

二十年以上無視してきた夫が、今さら文通を申し込んできました

小豆缶
恋愛
「お願いです。文通から始めてもらえませんか?」 二十年以上会話もなかった夫――この国の王が、ある日突然そう言ってきた。 第一王妃マリアは、公爵家出身の正妃。だが夫はかつて、寵愛する第三王妃の話のみを信じ、彼女を殴ったことがある。その事件が原因で、マリアは男性恐怖症が悪化して、夫と二人きりでは会話すらできなくなっていた。 それから二十年。 第三王妃はとある事故で亡くなり、夫は反省したらしい。だからといって――今さら夫婦関係をやり直したいと言われても遅すぎる。 なのに王は諦めない。毎日の手紙。花を一輪。夜食の差し入れ。 不器用すぎる求愛に振り回されるうち、マリアの中で止まっていた感情が少しずつ動き始める。 これは、冷えきった政略夫婦が「文通」からやり直す恋の話。 ※本作は「存在されていないことにされていた管理ギフトの少女王宮で真の家族に出会う」のスピンオフですが、単体で読めます。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

婚姻契約には愛情は含まれていません。 旦那様には愛人がいるのですから十分でしょう?

すもも
恋愛
伯爵令嬢エーファの最も嫌いなものは善人……そう思っていた。 人を救う事に生き甲斐を感じていた両親が、陥った罠によって借金まみれとなった我が家。 これでは領民が冬を越せない!! 善良で善人で、人に尽くすのが好きな両親は何の迷いもなくこう言った。 『エーファ、君の結婚が決まったんだよ!! 君が嫁ぐなら、お金をくれるそうだ!! 領民のために尽くすのは領主として当然の事。 多くの命が救えるなんて最高の幸福だろう。 それに公爵家に嫁げばお前も幸福になるに違いない。 これは全員が幸福になれる機会なんだ、当然嫁いでくれるよな?』 と……。 そして、夫となる男の屋敷にいたのは……三人の愛人だった。

処理中です...