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第15話 名を持たぬ血 ― 禁忌の真実
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ルナが覚えている“家”は、いつも狭かった。
木壁の隙間から冬の風が入り込んで、
夜になると母と毛布一枚を分け合って眠った。
貧しい、けれど――息ができた。
母は夜が来ると、必ず出て行った。
この村の誰も知らないどこかへ。
帰るのは夜明け前。
帰ってくると、必ずルナの額に手を添えて言った。
「あなたは、誰にも“名前”を預けてはだめよ」
意味は分からなかった。
けれど、その声が少し震えているのに気づいていた。
母は、何かを恐れていた。
ある夜のこと。
母の袖口から、黒に近い赤が一滴だけ零れた。
火を灯したランプの上で、その色は“赤”ではなかった。
深い、深い――“闇色”だった。
「……痛い?」
ルナが触れそうになった瞬間、母は強く手首を押さえた。
「触れてはだめ。
これは、あなたのものと同じ色だから」
その言葉は、子どもの頭にはあまりに重かった。
だが、意味の一端だけは理解した。
“自分は、普通ではない”。
母の瞳には悲しさと、わずかな誇りが混じっていた。
「あなたの血は、世界を裏返す。
だから、名前で刻まれてはいけない。
名前は、血を“所有”する道具だから」
その理屈は今でも分からない。
けれど、母は本気だった。
だからルナは、生涯“自分の名”を軽々しく他人に預けることをしなかった。
その夜を境に、母の体は衰えはじめた。
春を待たずに、母は静かに息を引き取った。
(私は、何者なのだろう)
その問いを抱えたまま、ルナは村の外へ一人で出た。
胸の奥には、母の言葉だけが残っていた。
――名前は、縛りになる。
風の音が怖くなかった。
ただ、自分の足音だけが頼りだった。
夜明け前の光の色。
母がいつも帰ってきた時間の色。
そのとき、馬蹄が聞こえた。
馬が止まった。
光の騎士団の紋章が揺れた。
その中心にいた青年が、馬上からルナを見下ろした。
ラウルだった。
ただ――この人を見た瞬間、胸がひどく軽くなった。
母の遺した言葉が、理由もなく薄れていった。
「名は?」
短い問い。
ルナは答えられなかった。
母の声がまだ耳に残っていた。
ラウルはそれを責めず、ただ馬を降りて、膝を折って、目線を合わせた。
「名は、あとでいい」
その一言は、救いだった。
ルナは――一度だけ頷いた。
その瞬間、世界に“居場所”がひとつ生まれた。
ラウルは、何も聞かずに自分の外套をルナの肩にかけた。
そして、言った。
「君は剣が持てる」
その断定に、ルナの胸は跳ねた。
母ですら言わなかった言い方だった。
「訓練しろ。
国は、剣を持つ者を捨てない」
その日から。
ルナは剣で世界と繋がった。
管轄の訓練場で、ひたすら剣を振り、呼吸を整え、寝るように斬撃を繰り返した。
血のことも、母の言葉も、名前の呪いも――
剣の中に溶かし込んだ。
ラウルは父のようだった。
師のようだった。
ただ、ひとりの少女に「居場所」を与えた人だった。
初めて“騎士としての自分”が形を持ったのは、その頃だった。
(もしあの人が拾ってくれなければ、私は――)
その思考は、最後まで言葉にならない。
思考が終わる前に、ラウルの声が重ねられていた。
「剣は、君を守る。
名ではなく、剣が君の生を決める」
その教えを胸に、ルナは光の国の剣になった。
――だからこそ。
あの黒曜の城へ赴く命令を受けたとき、迷わなかった。
ラウルの声が、正しかったからだ。
(私は、剣だ。国のためだけに生きる)
それが揺らぐなんて、思ってもいなかった。
けれど――前世の縁という名の、もっと深い“呪い”を、まだ知らなかった。
ルナの過去は静かに閉じた。
今へと繋がる、見えない血の線を残したまま。
木壁の隙間から冬の風が入り込んで、
夜になると母と毛布一枚を分け合って眠った。
貧しい、けれど――息ができた。
母は夜が来ると、必ず出て行った。
この村の誰も知らないどこかへ。
帰るのは夜明け前。
帰ってくると、必ずルナの額に手を添えて言った。
「あなたは、誰にも“名前”を預けてはだめよ」
意味は分からなかった。
けれど、その声が少し震えているのに気づいていた。
母は、何かを恐れていた。
ある夜のこと。
母の袖口から、黒に近い赤が一滴だけ零れた。
火を灯したランプの上で、その色は“赤”ではなかった。
深い、深い――“闇色”だった。
「……痛い?」
ルナが触れそうになった瞬間、母は強く手首を押さえた。
「触れてはだめ。
これは、あなたのものと同じ色だから」
その言葉は、子どもの頭にはあまりに重かった。
だが、意味の一端だけは理解した。
“自分は、普通ではない”。
母の瞳には悲しさと、わずかな誇りが混じっていた。
「あなたの血は、世界を裏返す。
だから、名前で刻まれてはいけない。
名前は、血を“所有”する道具だから」
その理屈は今でも分からない。
けれど、母は本気だった。
だからルナは、生涯“自分の名”を軽々しく他人に預けることをしなかった。
その夜を境に、母の体は衰えはじめた。
春を待たずに、母は静かに息を引き取った。
(私は、何者なのだろう)
その問いを抱えたまま、ルナは村の外へ一人で出た。
胸の奥には、母の言葉だけが残っていた。
――名前は、縛りになる。
風の音が怖くなかった。
ただ、自分の足音だけが頼りだった。
夜明け前の光の色。
母がいつも帰ってきた時間の色。
そのとき、馬蹄が聞こえた。
馬が止まった。
光の騎士団の紋章が揺れた。
その中心にいた青年が、馬上からルナを見下ろした。
ラウルだった。
ただ――この人を見た瞬間、胸がひどく軽くなった。
母の遺した言葉が、理由もなく薄れていった。
「名は?」
短い問い。
ルナは答えられなかった。
母の声がまだ耳に残っていた。
ラウルはそれを責めず、ただ馬を降りて、膝を折って、目線を合わせた。
「名は、あとでいい」
その一言は、救いだった。
ルナは――一度だけ頷いた。
その瞬間、世界に“居場所”がひとつ生まれた。
ラウルは、何も聞かずに自分の外套をルナの肩にかけた。
そして、言った。
「君は剣が持てる」
その断定に、ルナの胸は跳ねた。
母ですら言わなかった言い方だった。
「訓練しろ。
国は、剣を持つ者を捨てない」
その日から。
ルナは剣で世界と繋がった。
管轄の訓練場で、ひたすら剣を振り、呼吸を整え、寝るように斬撃を繰り返した。
血のことも、母の言葉も、名前の呪いも――
剣の中に溶かし込んだ。
ラウルは父のようだった。
師のようだった。
ただ、ひとりの少女に「居場所」を与えた人だった。
初めて“騎士としての自分”が形を持ったのは、その頃だった。
(もしあの人が拾ってくれなければ、私は――)
その思考は、最後まで言葉にならない。
思考が終わる前に、ラウルの声が重ねられていた。
「剣は、君を守る。
名ではなく、剣が君の生を決める」
その教えを胸に、ルナは光の国の剣になった。
――だからこそ。
あの黒曜の城へ赴く命令を受けたとき、迷わなかった。
ラウルの声が、正しかったからだ。
(私は、剣だ。国のためだけに生きる)
それが揺らぐなんて、思ってもいなかった。
けれど――前世の縁という名の、もっと深い“呪い”を、まだ知らなかった。
ルナの過去は静かに閉じた。
今へと繋がる、見えない血の線を残したまま。
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