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7. 恋人であり、唯一の理解者
しおりを挟む今日は久しぶりに勇太と一緒に外出している。デートといえる外出は本当に久しぶりの事だ。
病院の病棟看護師として正社員で働いていると、なかなか土日に休みは取りにくい。
私の職場では慣例的に既婚者が優先的に土日を休めるように配慮されるという事もあって、独身の私はなかなかその機会がなかった。
それに私の勤務表を姉が把握しているから、実家にカナちゃんの子守りで呼びつけられる事も多かったので尚更の事だ。
カナちゃんが生まれてから、私にとってはそんな日々が当然のようになっていた。
けれど今回はわざわざ職場に有給休暇を申請した。土曜日に夜勤明けで朝には帰宅、日曜日に有給休暇、月曜日は夜勤入りで夕方に出勤という豪華な週末を手に入れたのだった。
「なんか、伊織とこんなに長くゆっくり過ごせるのって久しぶりだね」
日曜日の街は家族連れやカップルが目立ち、自分もその中に混じって勇太と並んで歩いているという事だけでも何だか心が浮足立った。
随分長くこんな感覚を忘れていたような気がして、いかに長く恋人らしい事が出来ていなかったのかと勇太に申し訳ない気持ちになる。
「いつもごめん。本当はもっと勇太と出掛けたり、家事もきちんとしたいんだけど」
「そんな事言わない。伊織の仕事が不規則でも、同じところに帰るってだけでも全然気持ちが違うし。それに、カナちゃんの事は俺だって気にかけてる事なんだから。久しぶりってそういう意味じゃなくて、嬉しいなって単純に思っただけだよ」
実家で姪っ子の子守りをする為に随分と自分のプライベートな時間を犠牲にしてきた。いや、もしもカナちゃんという存在が居なくても、私は実家に何らかの犠牲を強いられただろう。
そしてそれは同時に、恋人である勇太にも負担も強いている。
こんな面倒な相手、いつ見切りを付けられてもおかしくはないのに、勇太はずっと私を支えてくれる。
「今日は勇太の誕生日祝いだもんね。よし、日頃の感謝を込めて大盤振る舞い! 勇太のしたい事、何でもしようよ」
いつの間にか、思考の海に溺れそうになった。危うく人の多い街中というのに涙が零れそうになったところで、誤魔化すようにわざと明るく言って笑った。
私の事を私自身よりも余程よく分かっている勇太は、それが涙を堪える方法なのだときっと分かっていただろう。
「じゃあまず手を繋いで欲しいかな。伊織があまり手を繋ぎたがらないのは知ってるけど、今日は俺の誕生日だし」
「え……」
「ほら、誕生日だからさ。何でもしてくれるって言ったよね?」
私は勇太を含めて人と手を繋ぐという事がほとんど無い。
仕事で患者さんの手を引く事はあっても、それは仕事だから出来るのだ。その理由もよく知っているはずの勇太が、今日は手を繋いで欲しいと言う。
最近ほとんど恋人らしい事が出来ていなかった事も負い目となって、私はそろそろと勇太の差し出した手を握る。胸が痛く苦しいほど強く脈打った。
「やった。伊織と手繋ぐの本当久しぶり」
私にとってはひどく勇気がいる行為だとしても、外で手を繋ぐという事が勇太にとって、そんなにも嬉しい行為なのだと改めて痛感する。
嬉しそうな横顔からは昔と変わらず、飾り気のない素直な感情が伝わってきた。いつもの事だけれど、勇太の言葉や態度は私への好意が分かりやすく伝わってくるから安心する。
この優しい恋人の為に、これからは時々自分から手を絡めて「勇太の事が大切だよ」と態度で伝えてみようかなどと考えてみたりした。
仕事からも実家からも解放されたこの貴重な休日。いつもならそんな風に照れくさい事をするのは私にとってひどく勇気がいる事だけれど、今日の私はとても浮ついていたのだ。
「勇太がそんなに喜ぶなら、これからは時々手を繋いでみようかな」
「えっ? いいの? それは嬉しいな」
そうは言っても今ひとつ勇気が足りなかった。ついつい失敗や拒絶を恐れて、独り言のようになる。情けないとは思うけれど、これはもう私に染みついた性分だろう。
けれど勇太は、そんな私の勇気を振り絞った言葉をしっかり拾ってくれる。むしろ、驚きと共に賞賛するような眼差しさえ向ける。
それは彼が私の性分を誰よりも理解している事の証拠であり、唯一の理解者である印だった。
こんなに幸せでいいのだろうか……と、この世界で散々使い古された言葉を何度思い浮かべたか分からない。
勇太と居ると、いつもはぼんやりとした私の存在が鮮やかな色彩を持って存在感を放つような気がするのだ。
繋がれた勇太の手は私よりもがっちりとして男らしい。その手がぎゅっと握る力強さから、常に私に対して壊れ物を扱う様に優しい彼とのギャップを感じて、思わず熱のこもった視線を向けてしまった。
こちらへ向かって目を細め無邪気に笑う勇太には、私の劣情を気づかれてはいないだろう。
勇太との最初の出会いは病院。その時は健診を受けに来た患者と看護師という関係性だった。
ある日外来勤務の複数のスタッフにインフルエンザが流行ってしまって、急遽病棟から一人派遣される事になったのが私。慣れない外来業務に支障をきたさないようにと、私は外来患者の採血や注射をする担当になった。
「採血や注射で気分が悪くなったりした事はありませんか?」
お決まりの文句でそう尋ねた私に、ワイシャツの袖を捲って意気揚々と腕を出し、「大丈夫です!」と答えたのが勇太だった。しかし採血の途中で神経反射を起こし失神した勇太、実は注射が大の苦手だったと分かったのは次に偶然街で出会った時だった。
「あ……っ。あの時の看護師さんですよね?」
コーヒーの美味しいお気に入りの喫茶店は彼の行きつけでもあったらしく、何度かこの店で見かけたけれど看護師の制服と私服では雰囲気が少し違って見えたらしい。
同一人物かどうか確信が持てず、五回目に店で会った時に私がたまたま読んでいた医療系の本で確信したという。
「あの時は、大丈夫だなんて見栄を張っちゃってすみませんでした」
「いえ、若い方には割とよくある事ですから」
「何度かお会いしましたけど、ここのコーヒーがお好きなんですね。僕もなんです。最近はここで買った豆を自分で挽いたりして……」
お互いコーヒーが好きだという事から、店で会えば何となく同じ席に着いて話す関係になった。
そのうち美味しいコーヒーを飲むための器を二人で買いに行ったり、コーヒーを淹れる道具を選んだりしているうちに勇太から告白された。
「あの……、突然こんな事を言われてすごく驚くと思うんですけど。俺、神崎さんの事が好きなんです。仕事に真剣に向き合ってて、凛としてて。それなのに時々子どもっぽいところがあったりするところが」
私は勇太の事をコーヒー好きの趣味友達だとしか思っていなかったから、突然の告白に戸惑った。
そして考えたのちに「申し訳ないけど恋人として付き合う事はできない」と断った。当時別に好きな人がいた訳でも無いけれど、良き友だと思っていた勇太とそういう関係になる事は全く想像してもみなかったから。
「あはは……そう、ですよね……すみません。これからも友達としてだったら、俺と会って貰えますか?」
その頃の勇太は私にとって誰よりも信頼出来る相手になっていた。穏やかで優しい性格には何度も救われたし、一緒に気兼ねなくコーヒーを楽しめる癒しのような存在で。
そもそもそこまで自分の内側に引き入れた人間は今まで居なかったから、「もう会わない」という選択肢は考えられなかった。
「こういう時、何て言ったらいいのか分からないけど。宮部さんの存在は確かに私の中で、他の人とは違う特別なものです。一緒に居るのが当然というか、もう会わないという事は考えられないくらいには」
「えっ、それって『好き』って事じゃないんですか?」
目に見えて落ち込んだ顔をしていた勇太の顔がパッと明るくなったのが可笑しくて、そんな事が可笑しいと思える自分に驚いた。
「どうなんでしょう? これまで他人の事を『好き』だと感じた事がないんです。それ以上に自分の事が好きだと感じられません」
「どうして……、いつからですか?」
「物心がついた頃からです。大人になって分かったのは、人より劣等感が強いせいかも知れないという事で。常に姉と比べられて育った事や、家庭環境のせいもあるのだと思います」
これについて、誰にも話した事はなかった。
けれど勇気を出して真剣に気持ちを伝えてくれた勇太に、自分もきちんと答えないとと思った。
そんな風に思った事も初めてだったのを覚えている。
「そうなんですね。じゃあますます俺は神崎さんのそばで『好きだ』って分かってもらえるように頑張りたいです。俺のことだけじゃなくて、神崎さんが神崎さん自身を好きになってもらえるように頑張らせてください」
真剣な眼差しでそう口にしてから、「だから、返事はまだ保留にしといてくださいね」と続けた勇太に、私は胸にじわりと何か沁み渡るものを感じた。
本当はその頃既に勇太の事を好きだったんだと思うけれど、「好き」を知らない私はそれに気づけなかった。
それに関しては今でも悪いと思っている。
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