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33. 自分が患者にできる事
しおりを挟む「災難でしたねぇ。牛尾さん、昔からの常連さんで、院長とも懇意にしてるから。流石に今まで暴力は無かったんですけど、暴言とかセクハラは多くて困ってるんですよぉ」
「……すみません」
「神崎さんが謝る事ないですよ。私達も、まさか牛尾さんがあそこまでするとは予想もしてなくて。神崎さんなら大丈夫かぁって勝手に思っちゃったから。ごめんなさい」
井川は冷蔵庫からケーキに使われる保冷剤を取り出し、タオルに包んで渡してくれた。
この医院は業者や患者からの差し入れが毎日のようにあって、ここに就職してからはケーキなんて食べ飽きるくらいに口にした。
それに使われていた保冷剤が、今私の左頬の痛みを取ってくれている。
そもそもこんな差し入れだって、毎日のようにあるのは異常だと思う。それだけこの医院が、どこかに何らかの利益を生んでいるという事なのだろうか。
「すみません。少し冷やしたら、マスクでもして仕事に戻りますから」
「本当、かなり腫れちゃって痛そう。口の中も切れたんですよね? 神崎さんの綺麗な顔が台無しですよ、もう」
そう言って口を尖らせ、年齢よりも若く見せるポージングをとる井川の事は、やはり苦手なタイプで手放しで好きにはなれない。
私が井川を人間として苦手なタイプだとしても、看護師としてそうだとは限らない。早く退院したいと言葉にする寝たきり患者に、笑顔で声掛けをしている姿も幾度か見かけた。
あの寝たきり患者達はきっと、死ぬまでこの医院に居る事になるのだろう。ストレスや悲観で落ち着かない患者も多い。
弱音を吐く患者に井川が笑顔でそっと声掛けすると、それまで泣き声を上げたり愚痴を吐いていた患者はスッと落ち着く。
井川の対応に満足したのか、それ以降は「退院したい」という言葉を口にしなくなるのだった。
年老いて自分の未来がある程度予測出来る患者達は、「家に帰りたい」と口にする事が少なくない。
そういった患者の家族ほど見舞いには来ず、洗濯物もお金を払って医院任せだった。
孤独を感じた老齢の患者達は、「早く良くなって退院したい」という前向きな言葉では無く、「どうせなら家で死にたい」と口にする。
これまでもそんな姿を見る度に無力感に苛まれ、抜け出すのが困難な暗い場所にズリズリと引き摺り込まれるような感覚に陥った。
私のような看護師に出来る事は限られている。
だからそんな時には、カナちゃんの事や勇太の事を思い出すようにしている。
こんな理不尽な職場で働いているのはカナちゃんの為で、ごく一時的なものだと。姉に関する事実を掴んだらすぐに退職してやるんだと。
そうでなければすぐに気が滅入ってしまいそうだった。
転職してからというもの、保育園に迎えに行くとカナちゃんが待ち侘びていたように「いっちゃん!」と飛びついてくるのが嬉しい。
疲れた表情の私に気づくと、多くを聞かずにそっと近くに寄り添ってくれる勇太の温かさが幸福だった。
「これからは整形外科の病室は病棟の人間が回りますから、今後ヘルプに来ることがあっても神崎さんは内科の患者さんだけをお願いします」
仕事に戻ると、とっくに巡回を終えた大山に開口一番そう言われ、助っ人に上がってきた癖に問題を起こしてしまった事を心から申し訳なく思う。
「はい、申し訳ありません」
マスクで隠した頬も、口の中の切り傷もジンワリとした嫌な痛みを伴っている。
様々な感情が混じり合い、思わず目頭が熱くなったのを感じる。慌ててぎゅっと手を握り込み、自分の意識が心の痛みに向かわないように誤魔化した。
その後も病棟の仕事をしながら、頭の中は朝の出来事でいっぱいだった。
グルグルと同じ思考が出口を見失ったかのように回り続けている。けれどきちんと気持ちを切り替えなければならない。
入浴が出来ない高齢患者の身体を拭きながら、小さく痩せ細った身体に異常はないか目を走らせる。
先程清拭を終えた寝たきりの患者の身体には、ひどい褥瘡が出来ていた。
大山から教えられた処置を施したが、そのやり方はやはりというべきか、想像通り時代遅れのやり方の指示だった。
この医院だけ時が止まってしまっているのだろうかと錯覚する。
思考は少し離れた別の場所にありつつも、長年の癖のようなもので手早く丁寧に清拭を終えると、皺くちゃの笑顔で老齢の男性に声を掛けられた。
「どうも、気持ちが良かった。ありがとう」
「いえいえ。床ずれもないし皮膚の異常も無さそうですね」
屈託のない笑顔を向けられて、別事を考えながら仕事をしていた事が恥ずかしくなった。
しばらく帰る予定の無い患者にとっては、こういった少しの出来事さえ喜びを感じるきっかけになる。
処置に手を抜いたつもりは無いが、ついつい思考が明後日の方向に置き去りになっていた事を申し訳なく思う。
「アンタ、いつも来てくれる人じゃないけど新しい人?」
「普段は外来で勤務しています。今日は手伝いで」
「そうか。アンタみたいなのがいつもいてくれたらなぁ」
皺に囲まれた目元を伏せて、一気に口角が下がった患者には何か不安があるのだろうか。
「どうしてですか? 何か心配ごとでも?」
「ここの看護師さん……いや、やっぱりやめておこう。アンタに言っても仕方がない」
「何か困った事があるなら、いつでも知らせてくださいね」
そう言って布団から出た皺くちゃの手の甲と、枯れ枝のような指を優しく自分の手で包み込んだ。
温もりを渇望する患者は多い。『手当て』という言葉があるように、時にはこうして力付ける事も大切だと新人の時に高橋主任から教えられた。
「アンタの手、あったかいねぇ」
「そうですか?」
「うん。いつも指先が冷たいから、そうしてくれると気持ちがいい」
骨張った手は夏にも関わらずひんやりと冷たくて、体を拭くだけの清拭ではなくて浴槽にしっかりと浸かったらよほど喜ぶのだろうと考える。
「これからも、たまには病棟に上がってくる事もあるかい? いつか話を聞いて貰えるか?」
不安な事、心配事を誰かに相談したいと思うのは当然の事。けれど家族の見舞いが来ない限り、話を出来る相手は限られている。
患者の不安に耳を傾けるのも、看護師の仕事だ。
「いつ、とは分かりませんがあると思います。それに、何か話したい事があるなら仕事終わりにこちらへ寄りますよ。私はパートなのでお昼までの勤務なんです」
パート、という所でやはり驚いた顔をされた。
「アンタがパート? そうか、色々あるんだな。昨日の夜勤が師長だったから今はいない、か……。それなら仕事が終わったら、ここにまた来てくれるか?」
チラリとベッドに書かれたネームプレートを見る。名前の下の入院日を確認すれば、この詫間仙蔵という患者は二年前から入院している事が分かる。
もしかしたら悩みを聞くうちに、姉や自殺した同僚に関する事も聞けるかも知れない。
「分かりました。今日仕事終わりにこちらへ寄らせてもらいます」
「それも、他の看護師に見つからないようにしてくれ。昼休みの時間だったら病棟が手薄になるから、その時に」
そう顰めた声で伝えて来た齢八十を越えている詫間は、先程清拭をしていた時よりも声に張りが出て、急に若返って見えた。
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